金色夜叉


前編



第一章

 未まだ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠さしこめて、真直ますぐに長く東より西に横よこたはれる大道だいどうは掃きたるやうに物の影を留とどめず、いと寂さびしくも往来ゆききの絶えたるに、例ならず繁しげき車輪くるまの輾きしりは、或あるひは忙せはしかりし、或あるひは飲過ぎし年賀の帰来かへりなるべく、疎まばらに寄する獅子太鼓ししだいこの遠響とほひびきは、はや今日に尽きぬる三箇日さんがにちを惜むが如く、その哀切あはれさに小ちひさき膓はらわたは断たたれぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌しるされたる日記を涜けがして、この黄昏たそがれより凩こがらしは戦出そよぎいでぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥なだむる者無きより、憤いかりをも増したるやうに飾竹かざりだけを吹靡ふきなびけつつ、乾からびたる葉を粗はしたなげに鳴して、吼ほえては走行はしりゆき、狂ひては引返し、揉もみに揉んで独ひとり散々に騒げり。微曇ほのぐもりし空はこれが為に眠ねむりを覚さまされたる気色けしきにて、銀梨子地ぎんなしぢの如く無数の星を顕あらはして、鋭く沍さえたる光は寒気かんきを発はなつかと想おもはしむるまでに、その薄明うすあかりに曝さらさるる夜の街ちまたは殆ほとんど氷らんとすなり。
 人この裏うちに立ちて寥々冥々りようりようめいめいたる四望の間に、争いかでか那なの世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重きゆうちようの天、八際はつさいの地、始めて混沌こんとんの境さかひを出いでたりといへども、万物未いまだ尽ことごとく化生かせいせず、風は試こころみに吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫ただみだりに邈ひろく横よこたはれるに過ぎざる哉かな。日の中うちは宛然さながら沸くが如く楽み、謳うたひ、酔ゑひ、戯たはむれ、歓よろこび、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚はかなくも夏果てし孑孑ぼうふりの形を歛をさめて、今将いまはた何処いづくに如何いかにして在るかを疑はざらんとするも難かたからずや。多時しばらく静なりし後のち、遙はるかに拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽たちまち一点の燈火ともしびは見え初そめしが、揺々ゆらゆらと町の尽頭はづれを横截よこぎりて失うせぬ。再び寒き風は寂さびしき星月夜を擅ほしいままに吹くのみなりけり。唯有とある小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間ひあはひの下水口より噴出ふきいづる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温ぬくもりの四方に溢あふるるとともに、垢臭あかくさき悪気の盛さかんに迸ほとばしるに遭あへる綱引の車あり。勢ひで角かどより曲り来にければ、避くべき遑無いとまなくてその中を駈抜かけぬけたり。「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後は語ことば絶えて、車は驀直ましぐらに走れり、紳士は二重外套にじゆうがいとうの袖そでを犇ひしと掻合かきあはせて、獺かはうその衿皮えりかはの内に耳より深く面おもてを埋うづめたり。灰色の毛皮の敷物の端はしを車の後に垂れて、横縞よこじまの華麗はなやかなる浮波織ふはおりの蔽膝ひざかけして、提灯ちようちんの徽章しるしはTの花文字を二個ふたつ組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭はづれを北に折れ、稍やや広き街とほりに出いでしを、僅わづかに走りて又西に入いり、その南側の半程なかほどに箕輪みのわと記しるしたる軒燈のきラムプを掲げて、剡竹そぎだけを飾れる門構もんがまへの内に挽入ひきいれたり。玄関の障子に燈影ひかげの映さしながら、格子こうしは鎖固さしかためたるを、車夫は打叩うちたたきて、
「頼む、頼む」
 奥の方かたなる響動どよみの劇はげしきに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪おとなひつつ、格子戸を連打つづけうちにすれば、やがて急足いそぎあしの音立てて人は出いで来きぬ。
 円髷まるわげに結ひたる四十ばかりの小ちひさく痩やせて色白き女の、茶微塵ちやみじんの糸織の小袖こそでに黒の奉書紬ほうしよつむぎの紋付の羽織着たるは、この家の内儀ないぎなるべし。彼の忙せはしげに格子を啓あくるを待ちて、紳士は優然と内に入いらんとせしが、土間の一面に充満みちみちたる履物はきものの杖つゑを立つべき地さへあらざるに遅ためらへるを、彼は虚すかさず勤篤まめやかに下立おりたちて、この敬ふべき賓まらうどの為に辛からくも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄こまげたのみは独ひとり障子の内に取入れられたり。

(一)の二

 箕輪みのわの奥は十畳の客間と八畳の中の間まとを打抜きて、広間の十個処じつかしよに真鍮しんちゆうの燭台しよくだいを据ゑ、五十目掛めかけの蝋燭ろうそくは沖の漁火いさりびの如く燃えたるに、間毎まごとの天井に白銅鍍ニッケルめつきの空気ラムプを点ともしたれば、四辺あたりは真昼より明あきらかに、人顔も眩まばゆきまでに耀かがやき遍わたれり。三十人に余んぬる若き男女なんによは二分ふたわかれに輪作りて、今を盛さかりと歌留多遊かるたあそびを為するなりけり。蝋燭の焔ほのほと炭火の熱と多人数たにんずの熱蒸いきれと混じたる一種の温気うんきは殆ほとんど凝りて動かざる一間の内を、莨たばこの煙けふりと燈火ともしびの油煙とは更たがひに縺もつれて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面おもては皆赤うなりて、白粉おしろいの薄剥うすはげたるあり、髪の解ほつれたるあり、衣きぬの乱次しどなく着頽きくづれたるあり。女は粧よそほひ飾りたれば、取乱したるが特ことに著るく見ゆるなり。男はシャツの腋わきの裂けたるも知らで胴衣ちよつきばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四よつまで紙にて結ゆひたるもあり。さしも息苦き温気うんきも、咽むせばさるる煙けふりの渦も、皆狂して知らざる如く、寧むしろ喜びて罵ののしり喚わめく声、笑頽わらひくづるる声、捩合ねぢあひ、踏破ふみしだく犇ひしめき、一斉に揚ぐる響動どよみなど、絶間無き騒動の中うちに狼藉ろうぜきとして戯たはむれ遊ぶ為体ていたらくは三綱五常さんこうごじようも糸瓜へちまの皮と地に塗まびれて、唯ただこれ修羅道しゆらどうを打覆ぶつくりかへしたるばかりなり。 海上風波の難に遭あへる時、若干そくばくの油を取りて航路に澆そそげば、浪なみは奇くしくも忽たちまち鎮しづまりて、船は九死を出いづべしとよ。今この如何いかにとも為すべからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王によおうあり。猛たけびに猛ぶ男たちの心もその人の前には和やはらぎて、終つひに崇拝せざるはあらず。女たちは皆猜そねみつつも畏おそれを懐いだけり。中の間なる団欒まどゐの柱側はしらわきに座を占めて、重おもげに戴いただける夜会結やかいむすびに淡紫うすむらさきのリボン飾かざりして、小豆鼠あづきねずみの縮緬ちりめんの羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を瞪みはりて、躬みづからは淑しとやかに引繕ひきつくろへる娘あり。粧飾つくりより相貌かほだちまで水際立みづぎはたちて、凡ただならず媚こびを含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普あまねく知られぬ。娘も数多あまた居たり。醜みにくきは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑とまどひせるかと覚おぼしきもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装みなりは宮より数等すとう立派なるは数多あまたあり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘まなむすめとて、最も不器量ふきりようを極きはめて遺憾いかんなしと見えたるが、最も綺羅きらを飾りて、その起肩いかりがたに紋御召もんおめしの三枚襲さんまいがさねを被かつぎて、帯は紫根しこんの七糸しちんに百合ゆりの折枝をりえだを縒金よりきんの盛上もりあげにしたる、人々これが為に目も眩くれ、心も消えて眉まゆを皺しわめぬ。この外種々さまざま色々の絢爛きらびやかなる中に立交たちまじらひては、宮の装よそほひは纔わづかに暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何いかなる美うつくしき染色そめいろをも奪ひて、彼の整へる面おもては如何なる麗うるはしき織物よりも文章あやありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽おほふ能あたはざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
 袋棚ふくろだなと障子との片隅かたすみに手炉てあぶりを囲みて、蜜柑みかんを剥むきつつ語かたらふ男の一個ひとりは、彼の横顔を恍惚ほれぼれと遙はるかに見入りたりしが、遂つひに思堪おもひたへざらんやうに呻うめき出いだせり。
「好いい、好い、全く好い! 馬士まごにも衣裳いしようと謂いふけれど、美うつくしいのは衣裳には及ばんね。物それ自みづからが美いのだもの、着物などはどうでも可いい、実は何も着てをらんでも可い」「裸体なら猶なほ結構だ!」
 この強き合槌あひづち撃つは、美術学校の学生なり。
 綱曳つなひきにて駈着かけつけし紳士は姑しばらく休息の後内儀に導かれて入来いりきたりつ。その後うしろには、今まで居間に潜みたりし主あるじの箕輪亮輔みのわりようすけも附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途せんどと激はげしき勝負の最中なれば、彼等の来きたれるに心着きしは稀まれなりけれど、片隅に物語れる二人は逸早いちはやく目を側そばめて紳士の風采ふうさいを視みたり。
 広間の燈影ひかげは入口に立てる三人みたりの姿を鮮あざやかに照せり。色白の小ちひさき内儀の口は疳かんの為に引歪ひきゆがみて、その夫の額際ひたひぎはより赭禿あかはげたる頭顱つむりは滑なめらかに光れり。妻は尋常ひとなみより小きに、夫は勝すぐれたる大兵だいひよう肥満にて、彼の常に心遣こころづかひありげの面色おももちなるに引替へて、生きながら布袋ほていを見る如き福相したり。
 紳士は年歯としのころ二十六七なるべく、長高たけたかく、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬ほほの辺あたりには薄紅うすくれなゐを帯びて、額厚く、口大きく、腮あぎとは左右に蔓はびこりて、面積の広き顔は稍やや正方形を成なせり。緩ゆるく波打てる髪を左の小鬢こびんより一文字に撫付なでつけて、少しは油を塗りたり。濃こからぬ口髭くちひげを生はやして、小ちひさからぬ鼻に金縁きんぶちの目鏡めがねを挾はさみ、五紋いつつもんの黒塩瀬くろしほぜの羽織に華紋織かもんおりの小袖こそでを裾長すそながに着做きなしたるが、六寸の七糸帯しちんおびに金鏈子きんぐさりを垂れつつ、大様おほやうに面おもてを挙げて座中を眴みまはしたる容かたちは、実げに光を発はなつらんやうに四辺あたりを払ひて見えぬ。この団欒まどゐの中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々びびしく装よそほひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
 例の二人の一個ひとりはさも憎さげに呟つぶやけり。
「可厭いやな奴!」
 唾つば吐くやうに言ひて学生はわざと面おもてを背そむけつ。
「お俊しゆんや、一寸ちよいと」と内儀は群集くんじゆの中よりその娘を手招きぬ。
 お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙あわただしく起ちて来きたれるが、顔好くはあらねど愛嬌あいきよう深く、いと善く父に肖にたり。高島田に結ゆひて、肉色縮緬にくいろちりめんの羽織に撮つまみたるほどの肩揚したり。顔を赧あかめつつ紳士の前に跪ひざまづきて、慇懃いんぎんに頭かしらを低さぐれば、彼は纔わづかに小腰を屈かがめしのみ。「どうぞ此方こちらへ」
 娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷うなづけり。母は歪ゆがめる口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
 お俊は再び頭かしらを低さげぬ。紳士は笑ゑみを含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
 主あるじの勧むる傍そばより、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内あないして、客間の床柱の前なる火鉢ひばち在る方かたに伴つれぬ。妻は其処そこまで介添かいぞへに附きたり。二人は家内かないの紳士を遇あつかふことの極きはめて鄭重ていちようなるを訝いぶかりて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱みのがさざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒まどゐの間を過ぎたりしが、無名指むめいしに輝ける物の凡ただならず強き光は燈火ともしびに照添てりそひて、殆ほとんど正ただしく見る能あたはざるまでに眼まなこを射られたるに呆あきれ惑へり。天上の最も明あきらかなる星は我手わがてに在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未いまだ曾かつて見ざりし大おほきさの金剛石ダイアモンドを飾れる黄金きんの指環を穿はめたるなり。
 お俊は骨牌かるたの席に復かへると侔ひとしく、密ひそかに隣の娘の膝ひざを衝つきて口早に咡ささやきぬ。彼は忙々いそがはしく顔を擡もたげて紳士の方かたを見たりしが、その人よりはその指に耀かがやく物の異常なるに駭おどろかされたる体ていにて、
「まあ、あの指環は! 一寸ちよいと、金剛石ダイアモンド?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
 お俊の説明を聞きて彼は漫そぞろに身毛みのけの弥立よだつを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
 鱓ごまめの目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳いくとせか念懸ねんがくれども未いまだ容易に許されざる娘の胸は、忽たちまち或事を思ひ浮べて攻皷せめつづみの如く轟とどろけり。彼は惘然ぼうぜんとして殆ど我を失へる間まに、電光の如く隣より伸来のびきたれる猿臂えんぴは鼻の前さきなる一枚の骨牌かるたを引攫ひきさらへば、
「あら、貴女あなたどうしたのよ」
 お俊は苛立いらだちて彼の横膝よこひざを続けさまに拊はたきぬ。
「可よくつてよ、可くつてよ、以来これからもう可くつてよ」
 彼は始めて空想の夢を覚さまして、及ばざる身みの分ぶんを諦あきらめたりけれども、一旦金剛石ダイアモンドの強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚めざましかりける手腕てなみの程も見る見る漸やうやく四途乱しどろになりて、彼は敢無あへなくもこの時よりお俊の為に頼み難がたなき味方となれり。 かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石ダイアモンド!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石⁇」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石⁇」
「可感すばらしい金剛石」
「可恐おそろしい光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
 瞬またたく間ひまに三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳うたへり。
 彼は人々の更互かたみがはりにおのれの方かたを眺ながむるを見て、その手に形好く葉巻シガアを持たせて、右手めてを袖口そでぐちに差入れ、少し懈たゆげに床柱に靠もたれて、目鏡の下より下界を見遍みわたすらんやうに目配めくばりしてゐたり。
 かかる目印ある人の名は誰たれしも問はであるべきにあらず、洩もれしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継とみやまただつぐとて、一代分限ぶげんながら下谷したや区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中うちにも富山重平じゆうへいの名は見出みいださるべし。
 宮の名の男の方かたに持囃もてはやさるる如く、富山と知れたる彼の名は直ただちに女の口々に誦ずんぜられぬ。あはれ一度ひとたびはこの紳士と組みて、世に愛めでたき宝石に咫尺しせきするの栄を得ばや、と彼等の心々こころごころに冀こひねがはざるは希まれなりき。人若もし彼に咫尺するの栄を得ば、啻ただにその目の類無たぐひなく楽たのしまさるるのみならで、その鼻までも菫花ヴァイオレットの多く齅かぐべからざる異香いきように薫くんぜらるるの幸さいはひを受くべきなり。
 男たちは自おのづから荒すさめられて、女の挙こぞりて金剛石ダイアモンドに心牽こころひかさるる気色けしきなるを、或あるひは妬ねたく、或は浅ましく、多少の興を冷さまさざるはあらざりけり。独ひとり宮のみは騒げる体ていも無くて、その清すずしき眼色まなざしはさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深たしなみふかく、心様こころざまも幽ゆかしく振舞へるを、崇拝者は益々懽よろこびて、我等の慕ひ参らする効かひはあるよ、偏ひとへにこの君を奉じて孤忠こちゆうを全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面つらの皮を引剥ひきむかん、と手薬煉てぐすね引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢いきほひはあたかも日月じつげつを並懸ならべかけたるやうなり。宮は誰たれと組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念けねんするところなりけるが、鬮くじの結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人みたりとともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数にんずはこの時合併して一いつの大おほいなる団欒まどゐに成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合となりあひに坐りければ、夜と昼との一時いちじに来にけんやうに皆狼狽うろたへ騒ぎて、忽たちまちその隣に自ら社会党と称となふる一組を出いだせり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則すなはち彼等は専もつぱら腕力を用ゐて或組の果報と安寧あんねいとを妨害せんと為るなり。又その前面むかひには一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組ろうぜきぐみと称し、右翼を蹂躙隊じゆうりんたいと称するも、実は金剛石の鼻柱を挫くじかんと大童おほわらはになれるに外ほかならざるなり。果せる哉かな、件くだんの組はこの勝負に蓬きたなき大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白はなしろみ、美き人は顔を赧あかめて、座にも堪たふべからざるばかりの面皮めんぴを欠かかされたり。この一番にて紳士の姿は不知いつか見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌たなぞこの玉を失へる心地ここちしたるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に怖おそれをなして、密ひそかに主あるじの居間に逃帰れるなりけり。 鬘かつらを被きたるやうに梳くしけづりたりし彼の髪は棕櫚箒しゆろぼうきの如く乱れて、環かんの隻かたかた捥もげたる羽織の紐ひもは、手長猿てながざるの月を捉とらへんとする状かたちして揺曳ぶらぶらと垂さがれり。主は見るよりさも慌あわてたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
 彼はやにはに煙管きせるを捨てて、忽ゆるがせにすべからざらんやうに急遽とつかはと身を起せり。
「ああ、酷ひどい目に遭あつた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切たちきれないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲ぶたれた」
 手の甲の血を吮すひつつ富山は不快なる面色おももちして設まうけの席に着きぬ。予かねて用意したれば、海老茶えびちやの紋縮緬もんちりめんの裀しとねの傍かたはらに七宝焼しちほうやきの小判形こばんがたの大手炉おほてあぶりを置きて、蒔絵まきゑの吸物膳すひものぜんをさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢をんなを呼び、大急おほいそぎに銚子と料理とを誂あつらへて、
「それはどうも飛でもない事を。外ほかに何処どこもお怪我けがはございませんでしたか」
「そんなに有られて耐たまるものかね」
 為せう事無さに主も苦笑にがわらひせり。
「唯今ただいま絆創膏ばんそうこうを差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々わざわざ御招おまねき申しまして甚はなはだ恐入りました。もう彼地あつちへは御出陣にならんが宜よろしうございます。何もございませんがここで何卒どうぞ御寛ごゆるり」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
 物は言はで打笑うちゑめる富山の腮あぎとは愈いよいよ展ひろがれり。早くもその意を得てや破顔はがんせる主あるじの目は、薄すすきの切疵きりきずの如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意ぎよいに召したのが、へえ?」
 富山は益ますます笑ゑみを湛ただへたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「何故なぜな」
「何故も無いものでございます。十目じゆうもくの見るところぢやございませんか」
 富山は頷うなづきつつ、
「さうだらうね」
「あれは宜よろしうございませう」
「一寸ちよいと好いね」
「まづその御意おつもりでお熱いところをお一盞ひとつ。不満家むづかしやの貴方あなたが一寸好いと有仰おつしやる位では、余程よつぽど尤物まれものと思はなければなりません。全く寡すくなうございます」
 倉皇あたふた入来いりきたれる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方こちらにお在いであそばしたのでございますか」
 彼は先の程より台所に詰つめきりて、中入なかいりの食物の指図さしづなどしてゐたるなりき。「酷ひどく負けて迯にげて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
 例の歪ゆがめる口を窄すぼめて内儀は空々そらぞらしく笑ひしが、忽たちまち彼の羽織の紐ひもの偏かたかた断ちぎれたるを見尤みとがめて、環かんの失せたりと知るより、慌あわて驚きて起たんとせり、如何いかにとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、宜よろしい」
「宜いではございません。純金きんでは大変でございます」
「なあに、可いいと言ふのに」と聞きも訖をはらで彼は広間の方かたへ出いでて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、大たいした事はございませんです」
「それはさうだらう。然しかし凡およそどんなものかね」
「旧もとは農商務省に勤めてをりましたが、唯今ただいまでは地所や家作かさくなどで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三しぎさわりゆうぞうと申して、直ぢき隣町となりちように居りまするが、極ごく手堅く小体こていに遣やつてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
 我われは顔がほに頤おとがひを掻撫かいなづれば、例の金剛石ダイアモンドは燦然きらりと光れり。
「それでも可いさ。然し嫁くれやうか、嗣子あととりぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢや窮こまるぢやないか」
「私わたくしは悉くはしい事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
 程無く内儀は環を捜得さがしえて帰来かへりきにけるが、誰たが悪戯いたづらとも知らで耳掻みみかきの如く引展ひきのばされたり。主は彼に向ひて宮の家内かないの様子を訊たづねけるに、知れる一遍ひととほりは語りけれど、娘は猶能なほよく知るらんを、後のちに招きて聴くべしとて、夫婦は頻しきりに觴さかづきを侑すすめけり。
 富山唯継の今宵ここに来きたりしは、年賀にあらず、骨牌遊かるたあそびにあらず、娘の多く聚あつまれるを機として、嫁選よめえらみせんとてなり。彼は一昨年をととしの冬英吉利イギリスより帰朝するや否や、八方に手分てわけして嫁を求めけれども、器量望のぞみの太甚はなはだしければ、二十余件の縁談皆意に称かなはで、今日が日までもなほその事に齷齪あくさくして已やまざるなり。当時取急ぎて普請せし芝しばの新宅は、未いまだ人の住着かざるに、はや日に黒くろみ、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩あつめては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。

第二章

 骨牌かるたの会は十二時に迨およびて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数にんずの三分の一強を失ひけれども、猶なほ飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼若もし疾とく還かへりたらんには、恐おそらく踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。 彼に心を寄せし輩やからは皆彼が夜深よふけの帰途かへりの程を気遣きづかひて、我願ねがはくは何処いづくまでも送らんと、絶したたか念おもひに念ひけれど、彼等の深切しんせつは無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石ダイアモンドに亜ついでは彼の挙動の目指めざされしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の外ほかは人目を牽ひくべき点も無く、彼は多く語らず、又は躁さわがず、始終慎つつましくしてゐたり。終までこの両個ふたりの同伴つれなりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々よそよそしさに過ぎたればなり。彼等の打連れて門かどを出いづるを見て、始めて失望せしもの寡すくなからず。
 宮は鳩羽鼠はとばねずみの頭巾ずきんを被かぶりて、濃浅黄地こいあさぎぢに白く中形ちゆうがた模様ある毛織のシォールを絡まとひ、学生は焦茶の外套オバコオトを着たるが、身を窄すぼめて吹来る凩こがらしを遣過やりすごしつつ、遅れし宮の辿着たどりつくを待ちて言出せり。
「宮みいさん、あの金剛石ダイアモンドの指環を穿はめてゐた奴はどうだい、可厭いやに気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれど衆みんながあの人を目の敵かたきにして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷ひどい目に遭あはされてよ」
「うむ、彼奴あいつが高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹よこつぱらを二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐へどが出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭いやだわ」
「芬々ぷんぷんと香水の匂にほひがして、金剛石ダイアモンドの金の指環を穿めて、殿様然たる服装なりをして、好いいに違無ちがひないさ」
 学生は嘲あざむが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組は鬮くじだから為方しかたが無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
 宮はシォールを揺上ゆりあげて鼻の半なかばまで掩隠おほひかくしつ。
「ああ寒い!」
 男は肩を峙そばだてて直ひたと彼に寄添へり。宮は猶なほ黙して歩めり。
「ああ寒い‼」
 宮はなほ答へず。
「ああ寒い!!!」
 彼はこの時始めて男の方かたを見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くて耐たまらんからその中へ一処いつしよに入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
「可笑をかしい、可厭だわ」
 男は逸早いちはやく彼の押へしシォールの片端かたはしを奪ひて、その中うちに身を容いれたり。宮みやは歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一かんいつさん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面むかふから人が来てよ」
 かかる戯たはむれを作なして憚はばからず、女も為すままに信まかせて咎とがめざる彼等の関繋かんけいは抑そもそも如何いかに。事情ありて十年来鴫沢に寄寓きぐうせるこの間貫一はざまかんいちは、此年ことしの夏大学に入いるを待ちて、宮が妻めあはせらるべき人なり。
第三章

 間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙よる所無くて養はるるなり。母は彼の幼いとけなかりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆なげきの中に父を葬るとともに、己おのれが前途の望をさへ葬らざる可べからざる不幸に遭あへり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦くるしき痩世帯やせじよたいなりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに先さきだちて食くらふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬はうむりすべき急、猶なほこれに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ幼をさなき者の如何いかにしてこれ等の急を救得すくひえしか。固もとより貫一が力の能あたふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個ひとつに引承ひきうけて万端の世話せしに因よるなり。孤児みなしごの父は隆三の恩人にて、彼は聊いささかその旧徳に報ゆるが為に、啻ただにその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着こころづけては貫一の月謝をさへ間まま支弁したり。かくて貧き父を亡うしなひし孤児みなしごは富める後見うしろみを得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時せいじを以もつて慊あきたらず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴あつぱれ人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
 亡なき人常に言ひけるは、苟いやしくも侍の家に生れながら、何の面目めんぼくありて我子貫一をも人に侮あなどらすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民しみんの上かみに立たしめん。貫一は不断にこの言ことばを以もて警いましめられ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以もて喞かこたれしなり。彼は言ものいふ遑いとまだに無くて暴にはかに歿みまかりけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
 されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰ひそかに疎うとまるる如き憂目うきめに遭あふにはあらざりき。憖なまじひ継子ままこなどに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許いかばかりか幸さいはひは多からんよ、と知る人は噂うはさし合へり。隆三夫婦は実げに彼を恩人の忘形見として疎おろそかならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸やうやくその心は出いで来きて、彼の高等中学校に入いりし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
 貫一は篤学のみならず、性質も直すぐに、行おこなひも正ただしかりければ、この人物を以つて学士の冠を戴いただかんには、誠に獲易えやすからざる婿なるべし、と夫婦は私ひそかに喜びたり。この身代しんだいを譲られたりとて、他姓たせいを冒をかして得謂えいはれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑いさぎよしと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽よろこびを懐いだきて、益ますます学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半なかばには過ぎざらん。彼は自らその色好いろよきを知ればなり。世間の女の誰たれか自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過すぐるに在り。謂いふ可くんば、宮は己おのれが美しさの幾何いかばかり値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔わづかに箇程かほどの資産を嗣つぎ、類多き学士風情ふぜいを夫に有たんは、決して彼が所望のぞみの絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤びせんより出いでし例ためし寡すくなからざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭いとひて、美き妾めかけに親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴ふうきを得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干そくばくを見たりしに、その容かたちの己おのれに如しかざるものの多きを見出みいだせり。剰あまつさへ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件ひとつ最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳としに起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸ドイツ人は彼の愛らしき袂たもとに艶書えんしよを投入れぬ。これ素もとより仇あだなる恋にはあらで、女夫めをとの契ちぎりを望みしなり。殆ほとんど同時に、院長の某なにがしは年四十を踰こえたるに、先年その妻を喪うしなひしをもて再び彼を娶めとらんとて、密ひそかに一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。 この時彼の小ちひさき胸は破れんとするばかり轟とどろけり。半なかばは曾かつて覚えざる可羞はづかしさの為に、半は遽にはかに大おほいなる希望のぞみの宿りたるが為に。彼はここに始めて己おのれの美しさの寡すくなくとも奏任以上の地位ある名流をその夫つまに値あたひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆かきを隣れる男子部だんじぶの諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
 若もしかのプロフェッサアに添はんか、或あるひは四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣つぐの比にはあらざらんをと、一旦抱いだける希望のぞみは年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己おのれを見出みいだして、玉の輿こしを舁かかせて迎に来きたるべき天縁の、必ず廻到めぐりいたらんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌きらへるにはあらず、彼と添はばさすがに楽たのしからんとは念おもへるなり。如此かくのごとく決定さだかにそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木ははきぎの好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。

第四章

 漆の如き闇やみの中うちに貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島むこうじまの八百松やおまつに新年会ありとて未いまだ還かへらざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来いりきにけるが、机の上なる書燈を点ともし了をはれる時、婢をんなは台十能に火を盛りたるを持来もちきたれり。宮はこれを火鉢ひばちに移して、
「さうして奥のお鉄瓶てつも持つて来ておくれ。ああ、もう彼方あちらは御寝おやすみになるのだから」
 久ひさしく人気ひとけの絶えたりし一間の寒さむさは、今俄にはかに人の温き肉を得たるを喜びて、直ただちに咬かまんとするが如く膚はだへに薄せまれり。宮は慌忙あわただしく火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚しよだなに飾れる時計を見たり。
 夜の闇くらく静なるに、燈ともしの光の独ひとり美き顔を照したる、限無く艶えんなり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢こずゑに月のうつろへるが如く、背後うしろの壁に映れる黒き影さへ香滴にほひこぼるるやうなり。
 金剛石ダイアモンドと光を争ひし目は惜気をしげも無く瞪みはりて時計の秒セコンドを刻むを打目戍うちまもれり。火に翳かざせる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬むらさきちりめんの半襟はんえりに韜つつまれたる彼の胸を想へ。その胸の中うちに彼は今如何いかなる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来かへりを待佗まちわぶるなりけり。
 一時ひとしきり又寒さむさの太甚はなはだしきを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面むかふなる貫一が裀しとねの上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。 若もしやと聞着けし車の音は漸やうやく近ちかづきて、益ますます轟とどろきて、竟つひに我門わがかどに停とどまりぬ。宮は疑無うたがひなしと思ひて起たんとする時、客はいと酔ゑひたる声して物言へり。貫一は生下戸きげこなれば嘗かつて酔ゑひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂なんなんとす。
 門かどの戸引啓ひきあけて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌ただあわててラムプを持ちて出いでぬ。台所より婢をんなも、出合いであへり。
 足の踏所ふみども覚束無おぼつかなげに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾うちかたむき、ハンカチイフに裹つつみたる折を左に挈さげて、山車だし人形のやうに揺々ゆらゆらと立てるは貫一なり。面おもては今にも破れぬべく紅くれなゐに熱して、舌の乾かわくに堪たへかねて連しきりに空唾からつばを吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産おみやげです。還かへつてこれを細君に遣おくる。何ぞ仁じんなるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了しまつた」
「あら、貫一かんいつさん、こんな所に寐ねちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
 仰様のけさまに倒れたる貫一の脚あしを掻抱かきいだきて、宮は辛からくもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽ひいてくれなければ僕には歩けませんよ」
 宮は婢をんなに燈ともしを把とらせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉よろめきつつ肩に縋すがりて遂つひに放さざりければ、宮はその身一つさへ危あやふきに、やうやう扶たすけて書斎に入いりぬ。
 裀しとねの上に舁下かきおろされし貫一は頽くづるる体たいを机に支へて、打仰うちあふぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷きんるの衣ころもを惜むなかれ。君に勧む、須すべからく少年の時を惜むべし。花有り折るに堪たへなば直ただちに折る須べし。花無きを待つて空むなしく枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮みいさん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦くるしいでせう」
「然矣しかり、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就ついては大おほいに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭いやよ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌きらひの癖に何故なぜそんなに飲んだの。誰に飲のまされたの。端山はやまさんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷ひどいわね、こんなに酔よはして。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮みいさん。謝しや、多謝たしや! 若もしそれが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊にぎりしめつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋しやべる男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆みんなが知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃しゆくはいだ祝盃だと、十も二十も一度に猪口ちよくを差されたのだ。祝盃などを受ける覚おぼえは無いと言つて、手を引籠ひつこめてゐたけれど、なかなか衆みんな聴かないぢやないか」
 宮は窃ひそかに笑ゑみを帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初かりそめにもああ云ふ美人と一所いつしよに居て寝食を倶ともにすると云ふのが既に可羨うらやましい。そこを祝すのだ。次には、君も男児をとこなら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪とられるやうな事があつたら、独ひとり間貫一一いつ個人の恥辱ばかりではない、我々朋友ほうゆう全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延ひいて高等中学の名折なをれにもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一いつにして結むすぶの神に祷いのつた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却かへつて神罰が有ると、弄謔からかひとは知れてゐるけれど、言草いひぐさが面白かつたから、片端かたつぱしから引受けて呷々ぐひぐひ遣付やつつけた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜よろしく願ひます」
「可厭いやよ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥いよいよ僕の男が立たない義わけだ」
「もう極きまつてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃翁をぢさんや姨をばさんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決けして無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡りようけんはどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余あんまりだわ」
 貫一は酔ゑひを支へかねて宮が膝ひざを枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬ほほに、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又寐ねちや……貫一さん、貫一さん」
 寔まことに愛の潔いさぎよき哉かな、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望のぞみは跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾あつめて、富も貴きも、乃至ないし有あらゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶とろかされて、彼は唯妙ただたへに香かうばしき甘露かんろの夢に酔ゑひて前後をも知らざるなりけり。
 諸もろもろの可忌いまはしき妄想もうぞうはこの夜の如く眼まなこを閉ぢて、この一間ひとまに彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明あきらかなる燈火ともしびの光の如きものありて、特ことに彼等をのみ照すやうに感ずるなり。

第五章

 或日箕輪みのわの内儀は思も懸けず訪来とひきたりぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩ほうばいにて常に往来ゆききしたりけれども、未いまだ家うちと家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識しらで過ぎたりしに、今は二人の往来おうらいも漸やうやく踈うとくなりけるに及びて、俄にはかにその母の来きたれるは、如何いかなる故ゆゑにか、と宮も両親ふたおやも怪あやしき事に念おもへり。 凡およそ三時間の後彼は帰行かへりゆきぬ。
 先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸おもひがけざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍めづらしき客来きやくらいのありしを知らず、宮もまた敢あへて告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少すこしく食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為せざりき。この間に両親ふたおやは幾度いくたびと無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
 彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因よしもあらねど、片時へんじもその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出みいださんは難かたき事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽にはかに光を失ひたるやうにて、振舞ふるまひなど別わけて力無く、笑ふさへいと打湿うちしめりたるを。
 宮が居間と謂いふまでにはあらねど、彼の箪笥たんす手道具等など置きたる小座敷あり。ここには火燵こたつの炉を切りて、用無き人の来ては迭かたみに冬籠ふゆごもりする所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦うめば琴ことをも弾ひくなり。彼が手玩てすさみと見ゆる狗子柳いのこやなぎのはや根を弛ゆるみ、真しんの打傾きたるが、鮟鱇切あんこうぎりの水に埃ほこりを浮べて小机の傍かたへに在り。庭に向へる肱懸窓ひぢかけまどの明あかるきに敷紙しきがみを披ひろげて、宮は膝ひざの上に紅絹もみの引解ひきときを載せたれど、針は持たで、懶ものうげに火燵に靠もたれたり。
 彼は少すこしく食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入いりて、深く物思ふなりけり。両親ふたおやは仔細しさいを知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為なすままに委まかせたり。
 この日貫一は授業始はじめの式のみにて早く帰来かへりきにけるが、下した座敷には誰たれも見えで、火燵こたつの間に宮の咳しはぶく声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄うかがひよりぬ。襖ふすまの僅わづかに啓あきたる隙ひまより差覗さしのぞけば、宮は火燵に倚よりて硝子ガラス障子を眺ながめては俯目ふしめになり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐ためいきつきて、忽たちまち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠みはるは、何をか思凝おもひこらすなるべし。人の窺うかがふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶くもんをその状かたちに顕あらはして憚はばからざるなり。
 貫一は異あやしみつつも息を潜めて、猶なほ彼の為せんやうを見んとしたり。宮は少時しばしありて火燵に入りけるが、遂つひに櫓やぐらに打俯うちふしぬ。
 柱に身を倚せて、斜ななめに内を窺ひつつ貫一は眉まゆを顰ひそめて思惑おもひまどへり。 彼は如何いかなる事ありてさばかり案じ煩わづらふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故ゆゑのあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
 かく又案じ煩へる彼の面おもても自おのづから俯うつむきぬ。問はずして知るべきにあらずと思定おもひさだめて、再び内を差覗さしのぞきけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時いつか落ちけむ、蒔絵まきゑの櫛くしの零こぼれたるも知らで。
 人の気勢けはひに驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍かたはらに在り。彼は慌あわてて思頽おもひくづをるる気色けしきを蔽おほはんとしたるが如し。
「ああ、吃驚びつくらした。何時いつ御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些ちつとも知らなかつた」
 宮はおのれの顔の頻しきりに眺めらるるを眩まばゆがりて、
「何をそんなに視みるの、可厭いや、私は」
 されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背うちそむきて、裁片畳きれたたふの内を撈かきさがせり。
「宮みいさん、お前さんどうしたの。ええ、何処どこか不快わるいのかい」
「何ともないのよ。何故なぜ?」
 かく言ひつつ益ますます急に撈かきさがせり。貫一は帽を冠かぶりたるまま火燵に片肱掛かたひぢかけて、斜ななめに彼の顔を見遣みやりつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直ぢきに疑深うたぐりぶかいの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然ぼんやり考へたり、太息ためいきを吐ついたりして鬱ふさいでゐるものか。僕は先之さつきから唐紙からかみの外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞きかしたつて可いぢやないか」
 宮は言ふところを知らず、纔わづかに膝の上なる紅絹もみを手弄てまさぐるのみ。
「病気なのかい」
 彼は僅わづかに頭かしらを掉ふりぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
 彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
 宮は唯胸の中うちを車輪くるまなどの廻めぐるやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐いつはりにも言ことばを出いだすべき術すべを知らざりき。彼は犯せる罪の終つひに秘つつむ能あたはざるを悟れる如き恐怖おそれの為に心慄こころをののけるなり。如何いかに答へんとさへ惑へるに、傍かたはらには貫一の益詰なじらんと待つよと思へば、身は搾しぼらるるやうに迫来せまりくる息の隙ひまを、得も謂いはれず冷ひややかなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
 貫一の声音こわねは漸やうやく苛立いらだちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚そぞろに言出いひいだせり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
 呆あきれたる貫一は瞬またたきもせで耳を傾かたぶけぬ。「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時いつ死んで了しまふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽たのしみな事もある代かはりに辛つらい事や、悲い事や、苦くるしい事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図ふつとさう思出おもひだしたら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭いやな心地こころもちになつて、自分でもどうか為したのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
 目を閉ぢて聴ききゐし貫一は徐しづかに眶まぶたを開くとともに眉まゆを顰ひそめて、
「それは病気だ!」
 宮は打萎うちしをれて頭かしらを垂れぬ。
「然しかし心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
 異あやしく沈みたるその声の寂しさを、如何いかに貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為せゐだ、脳でも不良わるいのだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固もとより世の中と云ふものはさう面白い義わけのものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆みんなが皆みんなそんな了簡りようけんを起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了しまふ。儚はかないのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切せめては楽たのしみを求めやうとして、究竟つまり我々が働いてゐるのだ。考へて鬱ふさいだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分いくらか面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽たのしみが無ければならない。一事ひとつかうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮みいさんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
 宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸ひそかに男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
 彼は笑ゑみを含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
 宮の肩頭かたさきを捉とりて貫一は此方こなたに引向けんとすれば、為なすままに彼は緩ゆるく身を廻めぐらしたれど、顔のみは可羞はぢがましく背そむけてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
 肩に懸けたる手をば放さで連しきりに揺ゆすらるるを、宮は銕くろがねの槌つちもて撃懲うちこらさるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷ひややかなる汗は又一時ひとしきり流出ながれいでぬ。
「これは怪けしからん!」
 宮は危あやぶみつつ彼の顔色を候うかがひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面おもては和やはらぎて一点の怒気だにあらず、寧むしろ唇頭くちもとには笑を包めるなり。
「僕などは一件ひとつ大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐たまらんの。一日が経たつて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵こしらへたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若もしこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死しようしを倶ともにするのだ。宮みいさん、可羨うらやましいだらう」
 宮は忽たちまち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪たへかねて打顫うちふるひしが、この心の中を覚さとられじと思へば、弱る力を励して、「可羨うらやましいわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒どうぞ」
「ええ悉皆みんな遣やつて了しまへ!」
 彼は外套オバコオトの衣兜かくしより一袋のボンボンを取出とりいだして火燵こたつの上に置けば、余力はずみに袋の口は弛ゆるみて、紅白の玉は珊々さらさらと乱出みだれいでぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

第六章

 その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶いちびんの水薬すいやくを与へられぬ。貫一は信まことに胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩おうのうとして憂うきに堪たへざらんやうなる彼の容体ようたいに幾許いくばくの変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋あひこくする苦痛は、益ますます募りて止やまざるなり。
 貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪あやしむべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼おそれぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面おもてを合すれば冷汗ひやあせも出づべき恐怖おそれを生ずるなり。彼の情有なさけある言ことばを聞けば、身をも斫きらるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根こころねを見ることを恐れたり。宮が心地勝すぐれずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生へいぜいに一層を加へたれば、彼は死を覓もとむれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪たふべからざる限に至りぬ。
 遂つひに彼はこの苦くるしみを両親に訴へしにやあらん、一日あるひ母と娘とは遽にはかに身支度して、忙々いそがはしく車に乗りて出でぬ。彼等は小ちひさからぬ一個ひとつの旅鞄たびかばんを携へたり。
 大風おほかぜの凪なぎたる迹あとに孤屋ひとつやの立てるが如く、侘わびしげに留守せる主あるじの隆三は独ひとり碁盤に向ひて碁経きけいを披ひらきゐたり。齢よはひはなほ六十に遠けれど、頭かしらは夥おびただしき白髪しらがにて、長く生ひたる髯ひげなども六分は白く、容かたちは痩やせたれど未いまだ老の衰おとろへも見えず、眉目温厚びもくおんこうにして頗すこぶる古井こせい波無きの風あり。
 やがて帰来かへりきにける貫一は二人の在らざるを怪みて主あるじに訊たづねぬ。彼は徐しづかに長き髯を撫なでて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日きのふ医者が湯治が良いと言うて切しきりに勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着おもひつきで、脚下あしもとから鳥の起たつやうな騒をして、十二時三十分の滊車きしやで。ああ、独ひとりで寂いところ、まあ茶でも淹いれやう」
 貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私わしもそんな塩梅あんばいで」
「然しかし、湯治は良いでございませう。幾日いくかほど逗留とうりゆうのお心算つもりで?」「まあどんなだか四五日と云ふので、些ほんの着のままで出掛けたのだが、なあに直ぢきに飽きて了しまうて、四五日も居られるものか、出で養生より内うち養生の方が楽だ。何か旨うまい物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
 貫一は着更きかへんとて書斎に還りぬ。宮の遺のこしたる筆の蹟あとなどあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便たよりあらんと思飜おもひかへせしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来かへりきたれるは、心の痩やするばかり美き俤おもかげに饑うゑて帰来れるなり。彼は空むなしく饑ゑたる心を抱いだきて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許いくら急いで出掛けたつて、何とか一言ひとことぐらゐ言遺いひおいて行いきさうなものぢやないか。一寸ちよつと其処そこへ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始はじめに話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日あした行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別わかれには顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
 女と云ふ者は一体男よりは情が濃こまやかであるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈まさかにあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々ばんばんそんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
 元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂いはゆる『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為せゐか知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向かたむきは有もつてゐたけれど、今のやうに太甚はなはだしくはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更なほさらでなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
 それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆ほとんど……殆どではない、全くだ、全く溺おぼれてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
 これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤あつくなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷ひどい話だ。これが互に愛してゐる間なかの仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為されると実に憎い。
 小説的かも知れんけれど、八犬伝はつけんでんの浜路はまじだ、信乃しのが明朝あしたは立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更よふけに逢あひに来る、あの情合じやうあひでなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処そこの娘と許嫁いひなづけ……似てゐる、似てゐる。
 然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉もまして、余り憎いな、そでない為方しかただ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣やらうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀かあいさうだ。
 自分は又神経質に過るから、思過おもひすごしを為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過おもひすごしであるか、あの人が情じようが薄いのかは一件ひとつの疑問だ。
 時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少いくらか自分を侮あなどつてゐるのではあるまいか。自分は此家ここの厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自おのづから主しゆうと家来と云ふやうな考が始終有つて、……否いや、それもあの人に能よく言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太ひどく慍おこられるのだ、一番それを慍るよ。勿論もちろんそんな様子の些少すこしでも見えた事は無い。自分の僻見ひがみに過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若もしもあの人の心にそんな根性が爪の垢あかほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘とりことはなつても、未まだ奴隷になる気は無い。或あるひはこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死こがれじにに死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措おくものか。 それは自分の僻見ひがみで、あの人に限つてはそんな心は微塵みじんも無いのだ。その点は自分も能よく知つてゐる。けれども情が濃こまやかでないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊うちこはすほどに熱しないのか。或あるひは熱し能あたはざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
 彼は意こころに満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾かつて解釈し得ざるなりけり。今日はや如何いかに解釈せんとすらん。

(六)の二

 翌日果して熱海より便たよりはありけれど、僅わづかに一枚の端書はがきをもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟しゆせきなり。貫一は読了よみをはると斉ひとしく片々きれきれに引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何いかにとも言解くなるべし。彼の親したしく言解いひとかば、如何に打腹立うちはらだちたりとも貫一の心の釈とけざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍いかりをも、恨をも、憂うれひをも忘るるなり。今は可懐なつかしき顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭あひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍いかりは野火の飽くこと知らで燎やくやうなり。
 この夕ゆふべ隆三は彼に食後の茶を薦すすめぬ。一人佗わびしければ留とどめて物語ものがたらはんとてなるべし。されども貫一の屈托顔くつたくがほして絶えず思の非あらぬ方かたに馳はする気色けしきなるを、
「お前どうぞ為しなすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。劇ひどく痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜よろしいのでございます」
「それぢや茶は可いくまい」
「頂戴ちようだいします」
 かかる浅ましき慍いかりを人に移さんは、甚はなはだ謂無いはれなき事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖なまじひ心を傷めんより、人に対して姑しばらく憂うさを忘るるに如しかじと思ひければ、彼は努めて寛くつろがんとしたれども、動ややもすれば心は空そらになりて、主あるじの語ことばを聞逸ききそらさむとす。
 今日文ふみの来て細々こまごまと優き事など書聯かきつらねたらば、如何いかに我は嬉うれしからん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易かへて、その楽たのしみは深かるべきを。さては出行いでゆきし恨も忘られて、二夜三夜ふたよみよは遠とほざかりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
 彼はその身の卒にはかに出行いでゆきしを、如何いかに本意無ほいなく我の思ふらんかは能よく知るべきに。それを知らば一筆ひとふで書きて、など我を慰めんとは為せざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐いとしと思へる人の何故なにゆゑにさは為せざるにやあらん。かくまでに情篤なさけあつからぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽たちまちその事を忘るべき吾われに復かへれり。「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
 笑ふにもあらず、顰ひそむにもあらず、稍やや自ら嘲あざむに似たる隆三の顔は、燈火ともしびに照されて、常には見ざる異あやしき相を顕あらはせるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
 彼は長き髯ひげを忙せはしく揉もみては、又頤おとがひの辺あたりより徐しづかに撫下なでおろして、先まづ打出うちいださん語ことばを案じたり。
「お前の一身上の事に就ついてだがの」
 纔わづかにかく言ひしのみにて、彼は又遅ためらひぬ、その髯ひげは虻あぶに苦しむ馬の尾のやうに揮ふるはれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
 貫一は遽にはかに敬はるる心地して自おのづと膝ひざを正せり。
「で、私わしもまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様おとつさんに対して恩返おんがへしも出来たやうな訳、就いてはお前も益ますます勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為させて、指折の人物に為したいと考へてゐるくらゐ、未まだ未だこれから両肌りようはだを脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
 これを聞きける貫一は鉄繩てつじようをもて縛いましめられたるやうに、身の重きに堪たへず、心の転うたた苦くるしきを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中うちに在りてその中に在ることを忘れんと為る平生へいぜいを省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父おやぢがどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措おきまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念おもつてをります。愚父の亡なくなりましたあの時に、此方こちらで引取つて戴いただかなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸さいはひなものは恐おそらく無いでございませう」
 彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己おのれを見て、その着たる衣きぬを見て、その坐れる裀しとねを見て、やがて美き宮と共にこの家の主ぬしとなるべきその身を思ひて、漫そぞろに涙を催せり。実げに七千円の粧奩そうれんを随へて、百万金も購あがなふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私わしも張合がある。就いては改めてお前に頼たのみがあるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
 彼はかく潔く答ふるに憚はばからざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言ことばを出いだす時は、多く能あたはざる事を強しふる例ためしなればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣やらうかと思つて」
 見るに堪たへざる貫一の驚愕おどろきをば、せめて乱さんと彼は慌忙あわただしく語ことばを次ぎぬ。
「これに就いては私も種々いろいろと考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了しまうての、お前はも少すこしの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴エウロッパへ留学して、全然すつかり仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」 汝なんぢの命を与へよと逼せまらるる事あらば、その時の人の思は如何いかなるべき! 可恐おそろしきまでに色を失へる貫一は空むなしく隆三の面おもてを打目戍うちまもるのみ。彼は太いたく困こうじたる体ていにて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換へんがへを為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
 待てども貫一の言ことばを出いださざれば、主あるじは寡すくなからず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家うちとお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大たいした事は無いがこの家は全然そつくりお前に譲るのだ、お前は矢張やはり私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
 約束をした宮をの、余所よそへ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処そこはお前が能よく承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴あつぱれの人物に成るのが第一の希望のぞみであらう。その志を遂とげさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然しかしこれは理窟りくつで、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼たのみが有ると言うたのはこの事だ。
 従来これまでもお前を世話した、後来これからも益世話をせうからなう、其処そこに免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
 貫一は戦をののく唇くちびるを咬緊くひしめつつ、故ことさら緩舒ゆるやかに出いだせる声音こわねは、怪あやしくも常に変れり。
「それぢや翁様をぢさんの御都合で、どうしても宮みいさんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断たつて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着とんちやくは無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
 得言はぬ貫一が胸には、理ことわりに似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰なじるべき事、罵ののしるべき、言破るべき事、辱はぢしむべき事の数々は沸わくが如く充満みちみちたれど、彼は神にも勝まされる恩人なり。理非を問はずその言ことばには逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬かみても、敢あへて言はじと覚悟せるなり。
 彼は又思へり。恩人は恩を枷かせに如此かくのごとく逼せまれども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何いかなる斧をのを以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情なさけは我が思ふままに濃こまやかならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也なりと、彼は可憐いとしき宮を思ひて、その父に対する慍いかりを和やはらげんと勉つとめたり。
 我は常に宮が情なさけの濃こまやかならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節ばんこんさくせつに遇あはずんば。
「嫁に遣ると有仰おつしやるのは、何方どちらへ御遣おつかはしになるのですか」「それは未まだ確しかとは極きまらんがの、下谷したやに富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
 それぞ箕輪の骨牌会かるたかいに三百円の金剛石ダイアモンドを炫ひけらかせし男にあらずやと、貫一は陰ひそかに嘲笑あざわらへり。されど又余りにその人の意外なるに駭おどろきて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟いやしくも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰たれかは恋ひざらん。独ひとり怪しとも怪きは隆三の意こころなる哉かな。我わが十年の約は軽々かろがろしく破るべきにあらず、猶なほ謂無いはれなきは、一人娘を出いだして嫁かせしめんとするなり。戯たはむるるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧むしろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇ちかかるべしと信じたりき。
 彼は競争者の金剛石ダイアモンドなるを聞きて、一度ひとたびは汚けがされ、辱はづかしめられたらんやうにも怒いかりを作なせしかど、既に勝負は分明ぶんめいにして、我は手を束つかねてこの弱敵の自ら僵たふるるを看みんと思へば、心稍やや落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
 この一言に隆三の面おもては熱くなりぬ。
「これに就いては私わしも大きに考へたのだ、何なにに為しろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然しかし、お前の後来こうらいに就ついても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若わかしと云ふもので、ここに可頼たのもしい親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧はづかしからん家格いへがらだ。気の毒な思をしてお前との約束を変易へんがへするのも、私たちが一人娘を他よそへ遣つて了ふのも、究竟つまりは銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
 それに、富山からは切たつての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家いつけのつもりで、決して鴫沢家を疎おろそかには為せまい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
 決して慾ではないが、良いい親類を持つと云ふものは、人で謂いへば取とりも直なほさず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家いつかの友達だ。
 お前がこれから世の中に出るにしても、大相たいそうな便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰たれの為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私わしも決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
 私の了簡りようけんはかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効としがひも無く事を好んで、何為なにしに若いものの不為ふためになれと思ふものかな。お前も能よく其処そこを考へて見てくれ。
 私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直すぐに洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番ひとつ奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少すこしのところを辛抱して、いつその事博士はかせになつて喜ばしてくれんか」 彼はさも思ひのままに説完ときおほせたる面色おももちして、寛ゆたかに髯ひげを撫なでてゐたり。
 貫一は彼の説進むに従ひて、漸やうやくその心事の火を覩みるより明あきらかなるを得たり。彼が千言万語の舌を弄ろうして倦うまざるは、畢竟ひつきよう利の一字を掩おほはんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢けがれたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或あるひは穢れたる念を起し、或は穢れたる行おこなひを為なすことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈あに穢れたるの最も大なる者ならずや。
 世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独ひとり汚けがれに染そみざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子みなしごを養へる志は、これを証して余あまりあるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷むごくも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯ただ一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐いとしき宮が事を思へるなり。
 我の愛か、死をもて脅おびやかすとも得て屈すべからず。宮が愛か、某なにがしの帝みかどの冠かむりを飾れると聞く世界無双ぶそうの大金剛石だいこんごうせきをもて購あがなはんとすとも、争いかでか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥おでいの中うちに輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱いだきて、この世の渾すべて穢れたるを忘れん。
 貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨うらめしとは思ひつつも、枉まげてさあらぬ体ていに聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮みいさんも知つてゐるのですか」
「薄々うすうすは知つてゐる」
「では未まだ宮みいさんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸ちよつと聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様おとつさんや御母様おつかさんの宜よろしいやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸やうやく得心がいつたのだ」
 断じて詐いつはりなるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳をどりぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私わしの今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉くはしい事は何いづれ又寛緩ゆつくり話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々いろいろ考へて置くが可いいの」
「はい」

第七章

 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸やうやく一月の半なかばを過ぎぬるに、梅林ばいりんの花は二千本の梢こずゑに咲乱れて、日に映うつろへる光は玲瓏れいろうとして人の面おもてを照し、路みちを埋うづむる幾斗いくとの清香せいこうは凝こりて掬むすぶに堪たへたり。梅の外ほかには一木いちぼく無く、処々ところどころの乱石の低く横よこたはるのみにて、地は坦たひらかに氈せんを鋪しきたるやうの芝生しばふの園の中うちを、玉の砕けて迸ほとばしり、練ねりぎぬの裂けて飜ひるがへる如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗うららかに霽はれたる空を攅さしてその頂いただきに方あたりて懶ものうげに懸かかれる雲は眠ねむるに似たり。習そよとの風もあらぬに花は頻しきりに散りぬ。散る時に軽かろく舞ふを鶯うぐひすは争ひて歌へり。 宮は母親と連立ちて入来いりきたりぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几しようぎを据ゑたる木この下もとを指して緩ゆるく歩めり。彼の病は未いまだ快からぬにや、薄仮粧うすげしやうしたる顔色も散りたる葩はなびらのやうに衰へて、足の運はこびも怠たゆげに、動ともすれば頭かしらの低たるるを、思出おもひいだしては努めて梢を眺ながむるなりけり。彼の常として物案ものあんじすれば必ず唇くちびるを咬かむなり。彼は今頻しきりに唇を咬みたりしが、
「御母おつかさん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転うつりぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発はじめにお前が適いきたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一かんいつさんの事が気になつて。御父おとつさんはもう貫一さんに話を為なすつたらうか、ねえ御母おつかさん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若もし適ゆくのなら、もう逢あはずに直ずつと行つて了しまひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿うるほへり。彼は忘れざるべし、その涙を拭ぬぐへるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適いきたいとお言ひなのだえ。さう何時いつまでも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経たてば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然しつかり極きめなくては可いけないよ。お前が可厭いやなものを無理にお出いでといふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可いいわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度たびに、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強しひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父とつさんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方あちらへ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合しあはせと云ふものだから、其処そこを考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切おもひきりが好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇あはずに行くなんて、それはお前却かへつて善くないから、矢張やつぱり逢つて、丁ちやんと話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来ゆきかよひをしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日あしたには御音信おたよりがあつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几しようぎに倚よりて、半なかばは聴き、半は思ひつつ、膝ひざに散来る葩はなびらを拾ひては、おのれの唇に代へて連しきりに咬砕かみくだきぬ。鶯うぐひすの声の絶間を流の音は咽むせびて止まず。
 宮は何心無く面おもてを挙あぐるとともに稍やや隔てたる木この間隠まがくれに男の漫行そぞろあるきする姿を認めたり。彼は忽たちまち眼まなこを着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮さへぎる隙ひまを縫ひつつ、姑しばらくその影を逐おひたりしが、遂つひに誰たれをや見出みいだしけん。慌忙あわただしく母親に咡ささやけり。彼は急に牀几を離れて五六歩いつあしむあし進行すすみゆきしが、彼方あなたよりも見付けて、逸早いちはやく呼びぬ。「其処そこに御出おいででしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉ひとしく、恐れたる風情ふぜいにて牀几の端はしに竦すくまりつ。
「はい、唯今ただいまし方がた参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶あいさつしつつ彼を迎へて立てり。宮は其方そなたを見向きもやらで、彼の急足いそぎあしに近ちかづく音を聞けり。
 母子おやこの前に顕あらはれたる若き紳士は、その誰たれなるやを説かずもあらなん。目覚めざましく大おほいなる金剛石ダイアモンドの指環を輝かせるよ。柄にぎりには緑色の玉ぎよくを獅子頭ししがしらに彫きざみて、象牙ぞうげの如く瑩潤つややかに白き杖つゑを携へたるが、その尾さきをもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処ここだといふのを聞いて追懸おつかけて来た訳です。熱いぢやないですか」
 宮はやうやう面おもてを向けて、さて淑しとやかに起ちて、恭うやうやしく礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨おごり高たかぶるを忘れざりき。その張りたる腮あぎとと、への字に結べる薄唇うすくちびると、尤異けやけき金縁きんぶちの目鏡めがねとは彼が尊大の風に尠すくなからざる光彩を添ふるや疑うたがひ無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真ほんに今日こんにちはお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
 母は牀几を払へば、宮は路みちを開きて傍かたはらに佇たたずめり。
「貴方あなたがたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方こちらの塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙せはしい体からだ、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌あすの朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所いつしよにお立ちなさらんか」
 彼は宮の顔を偸視ぬすみみつ。宮は物言はん気色けしきもなくて又母の答へぬ。
「はい、難有ありがたう存じます」
「それとも未まだ御在おいでですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難わけは無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家ゐなかやを造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩ゆつくり遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
 宮は笑ゑみを含みて言はざるを、母は傍かたはらより、
「これはもう遊ぶ事なら嫌きらひはございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後これから盛さかんにお遊あすびなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京さいきようでも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌おきらひですか、ははあ。船が平気だと、支那しなから亜米利加アメリカの方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山ゆさんに行あるいたところで知れたもの。どんなに贅沢ぜいたくを為たからと云つて」「御帰おかへりになつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下いでください、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全まるで為方しかたが無い! こんな若い野梅のうめ、薪まきのやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄すさましい。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走ごちそうを為ますよ。お宮さんは何が所好すきですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼は陰ひそかに宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞はづかしげに打笑うちゑめり。
「で、何日いつ御帰でありますか。明朝あした一所に御発足おたちにはなりませんか。此地こつちにさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有ありがたうございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内うちには音信たよりがございます筈はずで、その音信たよりを待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例の倨おごりて天を睨にらむやうに打仰うちあふぎて、杖の獅子頭ししがしらを撫廻なでまはしつつ、少時しばらく思案する体ていなりしが、やをら白羽二重しろはぶたへのハンカチイフを取出とりいだして、片手に一揮ひとふり揮ふるよと見れば鼻はなを拭ぬぐへり。菫花ヴァイオレットの香かをりを咽むせばさるるばかりに薫くんじ遍わたりぬ。
 宮も母もその鋭き匂にほひに驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿ついて、田圃たんぼの方を。私未まだ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程みちが有るから、貴方あなたは御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良わるいのだから散歩は極きはめて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
 彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有ありがたうございます。お前お供をお為しかい」
 宮の遅ためらふを見て、唯継は故ことさらに座を起たてり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循いんじゆんしてゐては可いけない」
 つと寄りて軽かろく宮の肩を拊うちぬ。宮は忽たちまち面おもてを紅あかめて、如何いかにとも為せん術すべを知らざらんやうに立惑たちまどひてゐたり。母の前をも憚はばからぬ男の馴々なれなれしさを、憎しとにはあらねど、己おのれの仂はしたなきやうに慙はづるなりけり。
 得も謂いはれぬその仇無あどなさの身に浸遍しみわたるに堪たへざる思は、漫そぞろに唯継の目の中うちに顕あらはれて異あやしき独笑ひとりゑみとなりぬ。この仇無あどなき娧いとしらしき、美き娘の柔やはらかき手を携へて、人無き野道の長閑のどかなるを語かたらひつつ行かば、如何いかばかり楽からんよと、彼ははや心も空そらになりて、「さあ、行つて見ませう。御母おつかさんから御許おゆるしが出たから可いではありませんか、ねえ、貴方あなた、宜よろしいでありませう」
 母は宮の猶羞なほはづるを見て、
「お前お出いでかい、どうお為しだえ」
「貴方、お出かいなどと有仰おつしやつちや可けません。お出なさいと命令を為なすつて下さい」
 宮も母も思はず笑へり。唯継も後おくれじと笑へり。
 又人の入来いりくる気勢けはひなるを宮は心着きて窺うかがひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙せはしく踏立つる足音なりき。
「ではお前まいお供をおしな」
「さあ、行きませう。直ぢき其処そこまででありますよ」
 宮は小ちひさき声して、
「御母おつかさんも一処に御出おいでなさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
 母親を伴ひては大いに風流ならず、頗すこぶる妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには却かへつて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切たつてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭いやだつたら直すぐに帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙だまされたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
 この時忙せはしげに聞えし靴音ははや止やみたり。人は出去いでさりしにあらで、七八間彼方あなたなる木蔭に足を停とどめて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方こなたの三人みたりは誰たれも知らず。彳たたずめる人は高等中学の制服の上に焦茶の外套オバコオトを着て、肩には古りたる象皮の学校鞄かばんを掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
 再び靴音は高く響きぬ。その驟にはかなると近きとに驚きて、三人みたりは始めて音する方かたを見遣みやりつ。
 花の散りかかる中を進来すすみきつつ学生は帽を取りて、
「姨をばさん、参りましたよ」
 母子おやこは動顛どうてんして殆ほとんど人心地ひとごこちを失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆あきれ果てたる目をば空むなしく瞪みはりて、少時しばしは石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽たちまち消えてこの土と成了なりをはらんことの、せめて心易こころやすさを思ひつつ、その淡白うすじろき唇くちびるを啖裂くひさかんとすばかりに咬かみて咬みて止やまざりき。
 想ふに彼等の驚愕おどろきと恐怖おそれとはその殺せし人の計らずも今生きて来きたれるに会へるが如きものならん。気も不覚そぞろなれば母は譫語うはごとのやうに言出いひいだせり。
「おや、お出いでなの」
 宮は些少わづかなりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀ねがへる如く、木蔭こかげに身を側そばめて、打過うちはずむ呼吸いきを人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩おほひて、見るは苦くるしけれども、見ざるも辛つらき貫一の顔を、俯ふしたる額越ひたひごしに窺うかがひては、又唯継の気色けしきをも気遣きづかへり。 唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾だいはらんありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客しよくかくの来きたれるよと、例の金剛石ダイアモンドの手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮あぎとを張れり。
 貫一は今回こたびの事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇ひしと言はん、今は姑しばらく色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮しづめて、苦くるしき笑顔ゑがほを作りてゐたり。
「宮みいさんの病気はどうでございます」
 宮は耐たまりかねて窃ひそかにハンカチイフを咬緊かみしめたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日内うちには帰らうと思つてね。お前さん能よく来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日あす明後日あさつてと休課やすみになつたものですから」
「おや、さうかい」
 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過あやまちて野中の古井ふるゐに落ちたる人の、沈みも果てず、上あがりも得為えせず、命の綱と危あやふくも取縋とりすがりたる草の根を、鼠ねずみの来きたりて噛かむに遭あふと云へる比喩たとへに最能いとよく似たり。如何いかに為べきかと或あるひは懼おそれ、或は惑ひたりしが、終つひにその免まぬがるまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚はなはだ勝手がましうございますが、私等どもはこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝あすは御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因よりましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷やめます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下いでくださいよ。宜よろしいですか、お宮さん、それでは後にきつとお出いでなさいよ。誠に今日は残念でありますな」
 彼は行かんとして、更に宮の傍そば近く寄来よりきて、
「貴方あなた、きつと後のちにお出いでなさいよ、ええ」
 貫一は瞬まばたきも為せで視みてゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為しかねつ。娘気の可羞はづかしさにかくあるとのみ思へる唯継は、益ますます寄添ひつつ、舌怠したたるきまでに語ことばを和やはらげて、
「宜よろしいですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
 貫一の眼まなこは燃ゆるが如き色を作なして、宮の横顔を睨着ねめつけたり。彼は懼おそれて傍目わきめをも転ふらざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独ひとり心を慄をののかせしが、猶なほ唯継の如何いかなることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許いかばかりの幸さいはひなりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容いれず、唯饜あくまでも娧いとしき宮に心を遺のこして行けり。
 その後影うしろかげを透とほすばかりに目戍まもれる貫一は我を忘れて姑しばらく佇たたずめり。両個ふたりはその心を測りかねて、言ことばも出いでず、息をさへ凝して、空むなしく早瀬の音の聒かしましきを聴くのみなりけり。 やがて此方こなたを向きたる貫一は、尋常ただならず激して血の色を失へる面上おもてに、多からんとすれども能あたはずと見ゆる微少わづかの笑ゑみを漏して、
「宮みいさん、今の奴やつはこの間の骨牌かるたに来てゐた金剛石ダイアモンドだね」
 宮は俯うつむきて唇を咬みぬ。母は聞かざる為まねして、折しも啼なける鶯うぐひすの木この間まを窺うかがへり。貫一はこの体ていを見て更に嗤笑あざわらひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障きざな奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面つらは!」
「貫一さん」母は卒にはかに呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁をぢさんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口あつこうなどを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥くたびれだらうから、お湯にでも入つて、さうして未まだ御午餐おひる前なのでせう」
「いえ、滊車きしやの中で鮨すしを食べました」
 三人みたりは倶ともに歩始あゆみはじめぬ。貫一は外套オバコオトの肩を払はれて、後うしろを捻向ねぢむけば宮と面おもてを合せたり。
「其処そこに花が粘ついてゐたから取つたのよ」
「それは難有ありがたう!!!」

第八章

 打霞うちかすみたる空ながら、月の色の匂滴にほひこぼるるやうにして、微白ほのじろき海は縹渺ひようびようとして限を知らず、譬たとへば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠ねむげに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙しようようせるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯ただ胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
 五歩六歩いつあしむあし行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍かんにんして下さい」
「何も今更謝あやまることは無いよ。一体今度の事は翁をぢさん姨をばさんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可いいのだから」
「…………」
「此地こつちへ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡りようけんのあるべき筈はずは無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間なかで、知れきつた話だ。
 昨夜ゆふべ翁さんから悉くはしく話があつて、その上に頼むといふ御言おことばだ」
 差含さしぐむ涙に彼の声は顫ふるひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体からだは火水ひみづの中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
 さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣やるとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児みなしごでも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
 貫一は蹈留ふみとどまりて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣きづかはしげにその顔を差覗さしのぞきぬ。
「堪忍して下さいよ、皆みんな私が……どうぞ堪忍して下さい」
 貫一の手に縋すがりて、忽たちまちその肩に面おもてを推当おしあつると見れば、彼も泣音なくねを洩もらすなりけり。波は漾々ようようとして遠く烟けむり、月は朧おぼろに一湾の真砂まさごを照して、空も汀みぎはも淡白うすじろき中に、立尽せる二人の姿は墨の滴したたりたるやうの影を作れり。「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁をぢさんが僕を説いて、お前さんの方は姨をばさんが説得しやうと云ふので、無理に此処ここへ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々はいはいと言つて聞いてゐたけれど、宮みいさんは幾多いくらでも剛情を張つて差支さしつかへ無いのだ。どうあつても可厭いやだとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了しまふのだ。僕が傍そばに居ると智慧ちゑを付けて邪魔を為すると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計はかりごとだなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜ゆふべは夜一夜よつぴて寐ねはしない、そんな事は万々ばんばん有るまいけれど、種々いろいろ言はれる為に可厭いやと言はれない義理になつて、若もしや承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家うちは学校へ出る積つもりで、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処どこに在る‼ 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知し……知……知らなかつた」
 宮は可悲かなしさと可懼おそろしさに襲はれて少すこしく声さへ立てて泣きぬ。
 憤いかりを抑おさふる貫一の呼吸は漸やうやく乱れたり。
「宮みいさん、お前は好くも僕を欺いたね」
 宮は覚えず慄をののけり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余あんまり邪推が過ぎるわ、余り酷ひどいわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
 泣入る宮を尻目に挂かけて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為せんよ。
 お前が得心せんものなら、此地ここへ来るに就いて僕に一言いちごんも言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来よこすが可いぢやないか。出抜だしぬいて家を出るばかりか、何の便たよりも為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈てはずになつてゐたのだ。或あるひは一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦かんぷだよ。姦通かんつうしたも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余あんまりだわ、余りだわ」
 彼は正体も無く泣頽なきくづれつつ、寄らんとするを貫一は突退つきのけて、
「操みさをを破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時いつ私が操を破つて?」
「幾許いくら大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻さいが操を破る傍そばに付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴れきとした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所よその男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処どこに在る?」
「さう言はれて了しまふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等わたしたちが此地こつちに来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
 宮はその唇くちびるに釘くぎ打たれたるやうに再び言ことばは出いでざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過あやまちを悔い、罪を詫わびて、その身は未おろか命までも己おのれの欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰こころひそかに望みたりしならん。如何いかにぞや、彼は露ばかりもさせる気色けしきは無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変こころがはりを、貫一はなかなか信まことしからず覚ゆるまでに呆あきれたり。 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛いとをしみし人は芥あくたの如く我を悪にくめるよ。恨は彼の骨に徹し、憤いかりは彼の胸を劈つんざきて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖くらひて、この熱膓ねつちようを冷さまさんとも思へり。忽たちまち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪えたへずして尻居に僵たふれたり。
 宮は見るより驚く遑いとまもあらず、諸共もろともに砂に塗まびれて掻抱かきいだけば、閉ぢたる眼まなこより乱落はふりおつる涙に浸れる灰色の頬ほほを、月の光は悲しげに彷徨さまよひて、迫れる息は凄すさましく波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後うしろより取縋とりすがり、抱緊いだきしめ、撼動ゆりうごかして、戦をののく声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇ねんごろに拭ぬぐひたり。
「吁ああ、宮みいさんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年さらいねんの今月今夜……十年後のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
 宮は挫ひしぐばかりに貫一に取着きて、物狂ものぐるはしう咽入むせびいりぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚なかの中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余あんまり言難いひにくい事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言たつたひとこといひたいのは、私は貴方あなたの事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰ゆくかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少すこし辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽うろたへてくだらんことを言ふな。食ふに窮こまつて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰ゆくのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処そこの一人娘ぢやないか、さうして婿まで極きまつてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰ゆかなければならんのだ。天下にこれくらゐ理わけの解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰ゆくべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰ゆかうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件ふたつの外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要いらない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余あんまりだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財かねがあるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
 翁をぢさん姨をばさんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方ほうは幾許いくらもある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊ぶちこはして了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適いつて見る気は有るのかい」 貫一の眼まなこはその全身の力を聚あつめて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍うちまもれり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息ためいきしたり。
「宜よろしい、もう宜い。お前の心は能く解つた」
 今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按うちあんじつつも、彼は乱るる胸を寛ゆるうせんが為に、強しひて目を放ちて海の方かたを眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍かたはらに在らずして、六七間後あとなる波打際なみうちぎはに面おもてを掩おほひて泣けるなり。
 可悩なやましげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、淼々びようびようたる海の端はしの白く頽くづれて波と打寄せたる、艶えんに哀あはれを尽せる風情ふぜいに、貫一は憤いかりをも恨をも忘れて、少時しばしは画を看みる如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
 彼は頭かしらを低たれて足の向ふままに汀みぎはの方かたへ進行きしが、泣く泣く歩来あゆみきたれる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些ちつとも泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
 殆ほとんど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財かねなのだね。如何いかに何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相あいそうは尽きないかい。
 好いい出世をして、さぞ栄耀えようも出来て、お前はそれで可からうけれど、財かねに見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂いはうか、口惜くちをしいと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺さしころして――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺こらへてお前を人に奪とられるのを手出しも為せずに見てゐる僕の心地こころもちは、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他ひとはどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候ゐさふらふでも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾をとこめかけになつた覚おぼえは無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物なぐさみものにしたのだね。平生へいぜいお前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意つもりで、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽たのしみも無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
 それは無論金力の点では、僕と富山とは比較くらべものにはならない。彼方あつちは屈指の財産家、僕は固もとより一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財かねで買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
 己おのれの身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有もつてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧むしろ害になり易やすい、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
 然し財かねといふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝すぐれた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚ひどい事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然ふつと気の変つたのも、或あるひは無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎とがめない、但ただもう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂いふことを。 雀すずめが米を食ふのは僅わづか十粒とつぶか二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒ひもじい思を為せるやうな、そんな意気地いくぢの無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
 貫一は雫しづくする涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁ゆく、それは立派な生活をして、栄耀えようも出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招よばれて行く人もあれば、自分の妻子つまこを車に載せて、それを自分が挽ひいて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁ゆけば、家内も多ければ人出入ひとでいりも、劇はげしし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷いためながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽たのしみに生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費つかへるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼よるで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財かねが有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外おもてに三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似まねをして、妻は些ほんの床の置物にされて、謂いはば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦くるしみばかりで楽たのしみは無いと謂つて可い。お前の嫁ゆく唯継だつて、固もとより所望のぞみでお前を迎もらふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財かねが有るから好きな真似も出来る、他ほかの楽たのしみに気が移つて、直ぢきにお前の恋は冷さまされて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地こころもちを考へて御覧、あの富山の財産がその苦くるしみを拯すくふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽たのしみかい、満足かい。
 僕が人にお前を奪とられる無念は謂いふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変こころがはりをした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀かあいさうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
 僕に飽きて富山に惚ほれてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過あやまつてゐる、それは実に過あやまつてゐる、愛情の無い結婚は究竟つまり自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別ふんべつ一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便ふびんだと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直しなおしてくれないか。
 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨うらやましいとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛かはゆくは思はんのかい」
 彼は危あやふきを拯すくはんとする如く犇ひしと宮に取着きて匂滴にほひこぼるる頸元えりもとに沸にゆる涙を濺そそぎつつ、蘆あしの枯葉の風に揉もまるるやうに身を顫ふるはせり。宮も離れじと抱緊いだきしめて諸共もろともに顫ひつつ、貫一が臂ひぢを咬かみて咽泣むせびなきに泣けり。「嗚呼ああ、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方あつちへ嫁いつたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
 木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然いよいよお前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓はらわたの腐つた女! 姦婦かんぷ‼」
 その声とともに貫一は脚あしを挙げて宮の弱腰をはたと踢けたり。地響して横様よこさまに転まろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為えせず弱々よわよわと僵たふれたるを、なほ憎さげに見遣みやりつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹いつぴきはな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了しまふのだ。学問も何ももう廃やめだ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖くらつて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面つらを好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁をぢさん姨をばさんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細しさいあつて貫一はこのまま長の御暇おいとまを致しますから、随分お達者で御機嫌ごきげんよろしう……宮みいさん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若もし貫一はどうしたとお訊たづねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方ゆくへ知れずになつて了つたと……」
 宮はやにはに蹶起はねおきて、立たんと為れば脚の痛いたみに脆もろくも倒れて効無かひなきを、漸やうやく這寄はひよりて貫一の脚に縋付すがりつき、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方あなたこれから何ど……何処どこへ行くのよ」
 貫一はさすがに驚けり、宮が衣きぬの披はだけて雪ゆき可羞はづかしく露あらはせる膝頭ひざがしらは、夥おびただしく血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我けがをしたか」
 寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有あればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭いやよ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛けとばすぞ」
「蹴られても可いわ」
 貫一は力を極きはめて振断ふりちぎれば、宮は無残に伏転ふしまろびぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行いそぎゆきたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷いたみに幾度いくたびか仆たふれんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺いひのこした事がある」
 遂つひに倒れし宮は再び起たつべき力も失せて、唯声を頼たのみに彼の名を呼ぶのみ。漸やうやく朧おぼろになれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶みもだえして猶なほ呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂いただきに立てるは、此方こなたを目戍まもれるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙はるかに来りぬ。
「宮みいさん!」
「あ、あ、あ、貫一かんいつさん!」
 首を延べて眴みまはせども、目を瞪みはりて眺むれども、声せし後のちは黒き影の掻消かきけす如く失うせて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。 宮は再び恋こひしき貫一の名を呼びたりき。



中編



第一章

 新橋停車場しんばしステエションの大時計は四時を過すぐること二分余よ、東海道行の列車は既に客車の扉とびらを鎖さして、機関車に烟けふりを噴ふかせつつ、三十余輛よりようを聯つらねて蜿蜒えんえんとして横よこたはりたるが、真承まうけの秋の日影に夕栄ゆふばえして、窓々の硝子ガラスは燃えんとすばかりに耀かがやけり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚わめくを余所よそに、大蹈歩だいとうほの寛々かんかんたる老欧羅巴エウロッパ人は麦酒樽ビイルだるを窃ぬすみたるやうに腹突出つきいだして、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘ゑひがさの柄えに橙オレンジ色のリボンを飾りたるを小脇こわきにせると推並おしならび、おのれが乗物の顔して急ぐ気色けしきも無く過すぐる後より、蚤取眼のみとりまなこになりて遅れじと所体頽しよたいくづして駈来かけくる女房の、嵩高かさだかなる風呂敷包を抱いだくが上に、四歳よつほどの子を背負ひたるが、何処どこの扉も鎖したるに狼狽うろたふるを、車掌に強曳しよぴかれて漸やうやく安堵あんどせる間まも無く、青洟垂あをばなたらせる女の子を率ゐて、五十余あまりの老夫おやぢのこれも戸惑とまどひして往ゆきつ復もどりつせし揚句あげく、駅夫に曳ひかれて室内に押入れられ、如何いかなる罪やあらげなく閉たてらるる扉に袂たもとを介はさまれて、もしもしと救すくひを呼ぶなど、未いまだ都を離れざるにはや旅の哀あはれを見るべし。
 五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅かたすみに円居まどゐして、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装いでたちにて、紋付の袷羽織あはせはおりを着たるもあれば、精縷セルの背広なるもあり、袴はかま着けたるが一人、大島紬おほしまつむぎの長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別せんべつの瓶びん、凾はこなどを網棚あみだなの上に片附けて、その手を摩払すりはらひつつ窓より首を出いだして、停車場ステエションの方かたをば、求むるものありげに望見のぞみみたりしが、やがて藍あゐの如き晩霽ばんせいの空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟あまかす」
 黒餅こくもちに立沢瀉たちおもだかの黒紬くろつむぎの羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩もらせり。甘糟と呼れたるは、茶柳条ちやじまの仙台平せんだいひらの袴を着けたる、この中にて独ひとり頬鬚ほほひげの厳いかめしきを蓄たくはふる紳士なり。 甘糟の答ふるに先さきだちて、背広の風早かざはやは若きに似合はぬ皺嗄声しわがれごゑを振搾ふりしぼりて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒かゆきに堪たへんことを僕は丁ちやんと洞察どうさつしてをるのだ」
「これは憚様はばかりさまです」
 大島紬の紳士は黏着へばりついたるやうに靠もたれたりし身を遽にはかに起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利さぶりと甘糟は夙かねて横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟ゆうせんくつを見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔きえんを吐く意つもりなのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂いふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪けしからん事こつたぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣おもひやらるるね。ええ、肩書を辱はづかしめん限は遣るも可よからうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
 この老実の言げんを作なすは、今は四年よとせの昔間貫一はざまかんいちが兄事けいじせし同窓の荒尾譲介あらおじようすけなりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙あげられ、踰えて一年の今日こんにち愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢よはひと深慮と誠実との故ゆゑを以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納いひをさめじや。願ねがはくは君達も宜よろしく自重してくれたまへ」
 面白く発はやりし一座も忽たちまち白しらけて、頻しきりに燻くゆらす巻莨まきたばこの煙の、急駛きゆうしせる車の逆風むかひかぜに扇あふらるるが、飛雲の如く窓を逸のがれて六郷川ろくごうがわを掠かすむあるのみ。
 佐分利は幾数回あまたたび頷うなづきて、
「いやさう言れると慄然ぞつとするよ、実は嚮さつき停車場ステエションで例の『美人びじクリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖とかげくらふかと思ふね、毎いつ見ても美いには驚嘆する。全まるで淑女レディの扮装いでたちだ。就中なかんづく今日は冶めかしてをつたが、何処どこか旨うまい口でもあると見える。那奴あいつに搾しぼられちや克かなはん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。夙かねて御高名は聞及んでゐる」
 と大島紬おほしまつむぎの猶なほ続けんとするを遮さへぎりて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を吃くつたのも、其奴そいつが債権者の重おもなる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金きんの腕環なんぞ篏はめてゐると云ふぢやないか。酷ひどい奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係かかつたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊ミイラにならんやうに褌ふんどしを緊しめて掛るが可いぜ」「誰たれか其奴そいつには尻押しりおしが有るのだらう。亭主が有るのか、或あるひは情夫いろか、何か有るのだらう」
 皺嗄声しわがれごゑは卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴ライフがあるのさ、情夫いろぢやない、亭主がある、此奴こいつが君、我々の一世紀前ぜんに鳴した高利貸アイスで、赤樫権三郎あかがしごんざぶろうと云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的媱物いんぶつと来てゐるのだ」
「成程! 積極しやくきよくと消極と相触れたので爪つめに火が熖ともる訳だな」
 大島紬が得意の譃浪まぜかへしに、深沈なる荒尾も已やむを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄もてあそぶのが道楽で、此奴こいつの為に汚けがされた者は随分意外の辺へんにも在るさうな。そこで今の『美人びじクリイム』、これもその手に罹かかつたので、原もとは貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾おやぢこの娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘とりこにしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働なかばたらきに貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞ことわりかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾おやぢは六十ばかりの禿顱はげあたまの事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然たきざはりぜんたる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
 固唾かたづを嚥のみたりし荒尾は思ふところありげに打頷うちうなづきて、
「女といふ者はそんなものじやて」
 甘糟はその面おもてを振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
 佐分利の話を進むる折から、滊車きしやは遽にはかに速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰ひざくりだ」
佐「荒尾、あの葡萄酒ぶどうしゆを抜かんか、喉のどが渇かわいた。これからが佳境に入いるのだからね」
甘「中銭なかせんがあるのは酷ひどい」
佐「蒲田かまだ、君は好い莨たばこを吃すつてゐるぢやないか、一本頂戴ちようだい」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻てまはりの物を片附けやう」
佐「甘糟、焠児マッチを持つてゐるか」
甘「そら、お出いでだ。持参いたしてをりまする仕合しあはせで」
 佐分利は居長高ゐたけだかになりて、
「些ちよつと点つけてくれ」
 葡萄酒の紅くれなゐを啜すすり、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐おもむろに語ことばを継ぐ、
「所謂いはゆる一朶いちだの梨花海棠りかかいどうを圧してからに、娘の満枝は自由にされて了しまつた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐しきつて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気かたぎの親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿はげの方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父おとつさん、どうか承知して下さいは、親父益ますます意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相あいそを尽つかして、唯ただ一人の娘を阿父さん彼自身より十歳とをばかりも老漢おやぢの高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵ちようを得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家さとの方へ貢みつぐと思の外、極きめの給ものの外は塵葉ちりつぱ一本饋やらん。これが又禿の御意ぎよいに入つたところで、女め熟つらつら高利アイスの塩梅あんばいを見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代しんだい我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭かねの方が大事、といふ不敵な了簡りようけんが出た訳だね」「驚くべきものじやね」
 荒尾は可忌いまはしげに呟つぶやきて、稍やや不快の色を動うごかせり。
「そこで、敏捷びんしような女には違無い、自然と高利アイスの呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処どこへでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺あたりから禿は中気が出て未いまだに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛さかんに商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁うすべりを一板いちまい敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――然しかし事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独ひとりで腕を揮ふるつて益す盛に遣やつてゐる。これ則すなはち『美人びじクリイム』の名ある所以ゆゑんさ。
 年紀としかい、二十五だと聞いたが、さう、漸やうやう二三とよりは見えんね。あれで可愛かはゆい細い声をして物柔ものやはらかに、口数くちかずが寡すくなくつて巧い言ことをいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替かきかへだの、手形に願ふのと、急所を衝つく手際てぎはの婉曲えんきよくに巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿なやすかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿なやされたが、柔能く剛を制すで、高利貸アイスには美人が妙! 那彼あいつに一国を預ければ輙すなはちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
 風早は最も興を覚えたる気色けしきにて、
「では、今はその禿顱はげは中風ちゆうふうで寐ねたきりなのだね、一昨年をととしから? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮さかんな女だな」
「余り壮なのは恐れる」
 佐分利は頭かしらを抑おさへて後様うしろさまに靠もたれつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
 佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕おちて、今はしも連帯一判、取交とりまぜ五口いつくちの債務六百四十何円の呵責かしやくに膏あぶらを取とらるる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後ごに又二百円、無疵むきずなるは風早と荒尾とのみ。
 滊車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑ゑましげに傍聴したりし横浜商人体しようにんていの乗客は、幸さいはひに無聊ぶりようを慰められしを謝すらんやうに、懇ねんごろに一揖いつゆうしてここに下車せり。暫しばらく話の絶えける間ひまに荒尾は何をか打案ずる体ていにて、その目を空むなしく見据ゑつつ漫語そぞろごとのやうに言出いひいでたり。
「その後誰たれも間はざまの事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声しわかれごゑは問反とひかへせり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸アイスの才取さいとりとか、手代てだいとかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸アイスの才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
 我が意を得つと謂いはんやうに荒尾は頷うなづきて、猶なほも思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先さきだちてありければ、間とは相識らざるなりき。荒「高利貸アイスと云ふのはどうも妄うそぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
 彼は忍びやかに太息ためいきを泄もらせり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然ぴんと外眥めじりの昂あがつた所が目標めじるしさ」
蒲「さうして髪あたまの癖毛くせつけの具合がな、愛嬌あいきようが有つたぢやないか。デスクの上に頬杖ほほづゑを抂ついて、かう下向になつて何時いつでも真面目まじめに講義を聴いてゐたところは、何処どこかアルフレッド大王に肖にてゐたさ」
 荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎いつも妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃いつぱいを献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶おもひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟おととよりも間の居らなくなつたのを悲む」
 愁然として彼は頭かしらを俛たれぬ。大島紬は受けたる盃さかづきを把とりながら、更に佐分利が持てる猪口ちよくを借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番ひとつ間の健康を祝さう」
 荒尾の喜は実げに溢あふるるばかりなりき。
「おお、それは辱かたじけない」
 盈々なみなみと酒を容いれたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉ひとしく戞かつと相撃あひうてば、紅くれなゐの雫しづくの漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息ひといきに飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺うごかして、
「蒲田は如才ないね。面つらは醜まづいがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言いはれて見ると誰たれでも些ちよつと憎くないからね」
甘「遉さすがは交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
 言ことばを改めて荒尾は言出いひいだせり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場ステエションで間を見たよ。間に違無いのじや」
 唯ただの今いま陰ながらその健康を祷いのりし蒲田は拍子を抜して彼の面おもてを眺ながめたり。
「ふう、それは不思議。他むかふは気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口いりくちの所で些ちよつと顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子ソオフワアを起つと、もう見えなくなつた。それから有間しばらくして又偶然ふつと見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場プラットフォームへ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍そばの柱に僕を見て黒い帽を揮ふつとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
 横浜! 横浜! と或あるひは急に、或は緩ゆるく叫ぶ声の窓の外面そともを飛過とびすぐるとともに、響は雑然として起り、迸ほとばしり出いづる、群集くんじゆは玩具箱おもちやばこを覆かへしたる如く、場内の彼方かなたより轟とどろく鐸ベルの音ねはこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。

☆昨七日さくなぬかイ便の葉書にて(飯田町いいだまち局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或あるひはベルクリイムの傍訓有度ぼうくんありたくとの言げんを貽おくられし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊いささか弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖なまじひに理詰ならむよりは、出まかせの可笑をかしき響あらむこそ可よかめれとバイスクリイムとも思着おもひつきしなり。意こころは美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗くだくだしさを嫌きらひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者きようごうしやの思僻おもひひがめてん字じは添へたるなり。陋いやしげなるびじクリイムの響の中うちには嘲弄とうろうの意こころも籠こもらむとてなり。なほ高諭こうゆを請こふ(三〇・九・八附読売新聞より)


第二章

 柵さくの柱の下もとに在りて帽を揮ふりたりしは、荒尾が言ことばの如く、四年の生死しようしを詳悉つまびらかにせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自みづからの影を晦くらまし、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略あらましを伺ふことを怠らざりき、こ回たびその参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所よそながら暇乞いとまごひもし、二つには栄誉の錦にしきを飾れる姿をも見んと思ひて、群集くんじゆに紛れてここには来きたりしなりけり。
 何なにの故ゆゑに間は四年の音信おとづれを絶ち、又何の故にさしも懐おもひに忘れざる旧友と相見て別べつを為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自おのづから解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独ひとり間貫一のみにあらず、そこもとに聚つどひし老若貴賤ろうにやくきせんの男女なんによは皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞きづかふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一いつなり。数分時の混雑の後車の出いづるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久ひさしう立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸やうやく踵きびすを旋めぐらせし時には、推重おしかさなるまでに柵際さくぎはに聚つどひし衆ひとは殆ほとんど散果てて、駅夫の三四人が箒はうきを執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含さしぐまるる涙を払ひて、独り後おくれたるを驚きけん、遽にはかに急ぎて、蓬莱橋口ほうらいばしぐちより出いでんと、あだかも石段際に寄るところを、誰たれとも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 慌あわてて彼の見向く途端に、
「些ちよつと」と戸口より半身を示して、黄金きんの腕環の気爽けざやかに耀かがやける手なる絹ハンカチイフに唇辺くちもとを掩おほいて束髪の婦人の小腰を屈かがむるに会へり。艶えんなる面おもてに得も謂いはれず愛らしき笑ゑみをさへ浮べたり。「や、赤樫あかがしさん!」
 婦人の笑ゑみもて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉まゆだに動かさず。
「好よい所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些ちよつと此方こちへ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々跟ついて入るに、長椅子ソオフワアに掛かくれば、止む無くその側そばに座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅おぐるめの件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹くろちよろけんの帯の間を捜さぐりて金側時計を取出とりいだし、手早く収めつつ、
「貴方あなたどうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方どちらへかお供を致しませう」
 紫紺塩瀬しほぜに消金けしきんの口金くちがね打ちたる手鞄てかばんを取直して、婦人はやをら起上たちあがりつ。迷惑は貫一が面おもてに顕あらはれたり。
「何方どちらへ?」
「何方どちらでも、私には解りませんですから貴方あなたのお宜よろしい所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有おつしやらずに、私は何方でも宜よろしいのでございます」
 荒布革あらめがはの横長なる手鞄てかばんを膝の上に掻抱かきいだきつつ貫一の思案せるは、その宜き方かたを択ぶにあらで、倶ともに行くをば躊躇ちゆうちよせるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭であひがしらに、入来いりくる者ありて、その足尖つまさきを挫ひしげよと踏付けられぬ。驚き見れば長高たけたかき老紳士の目尻も異あやしく、満枝の色香いろかに惑ひて、これは失敬、意外の麁相そそうをせるなりけり。彼は猶懲なほこりずまにこの目覚めざましき美形びけいの同伴をさへ暫しばらく目送もくそうせり。
 二人は停車場ステエションを出でて、指す方かたも無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極きめやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるを暁さとれども、勉つとめて吾意わがいに従はしめんと念おもへば、さばかりの無遇ぶあしらひをも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻鱺うなぎは上あがりますか」
「鰻鱺? 遣りますよ」
「鶏肉とりと何方が宜よろしうございます」
「何方でも」
「余り御挨拶ごあいさつですね」
「何為なぜですか」
 この時貫一は始めて満枝の面おもてに眼まなこを移せり。百ももの媚こびを含みて睼みむかへし彼の眸まなじりは、未いまだ言はずして既にその言はんとせる半なかばをば語尽かたりつくしたるべし。彼の為人ひととなりを知りて畜生と疎うとめる貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露あらはして片笑かたゑみつつ、
「まあ、何為なぜでも宜うございますから、それでは鶏肉とりに致しませうか」
「それも可いいでせう」 三十間堀さんじつけんぼりに出でて、二町ばかり来たる角かどを西に折れて、唯と有る露地口に清らなる門構かどがまへして、光沢消硝子つやけしガラスの軒燈籠のきとうろうに鳥と標しるしたる方かたに、人目にはさぞ解わけあるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺あたりに六畳の隠座敷の板道伝わたりづたひに離れたる一間に案内されしも宜うべなり。
 懼おそれたるにもあらず、困こうじたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色けしきにて貫一の容かたちさへ可慎つつましげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸おもひかけざる為体ていたらくを、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早いちはやく満枝が好きに計ひて、少頃しばしは言ことば無き二人が中に置れたる莨盆たばこぼんは子細らしう一炷ちゆうの百和香ひやつかこうを燻くゆらせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰おつしやらずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘うそを有仰おつしやいまし」
 かくても貫一は膝ひざを崩くづさで、巻莨入まきたばこいれを取出とりいだせしが、生憎あやにく一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先さきんじて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷あさえぞの御主殿持ごしゆでんもちとともに薦すすむる筒の端はしより焼金やききんの吸口は仄ほのかに耀かがやけり。歯は黄金きん、帯留は黄金きん、指環は黄金きん、腕環は黄金きん、時計は黄金きん、今又煙管きせるは黄金きんにあらずや。黄金きんなる哉かな、金きん、金きん! 知る可べし、その心も金きん! と貫一は独ひとり可笑をかしさに堪たへざりき。
「いや、私は日本莨は一向可いかんので」
 言ひも訖をはらぬ顔を満枝は熟じつと視みて、
「決けして穢きたないのでは御坐いませんけれど、つい心着こころつきませんでした」
 懐紙ふところがみを出いだしてわざとらしくその吸口を捩拭ねぢぬぐへば、貫一も少すこしく慌あわてて、
「決けしてさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐つきなさるなら、もう少し物覚ものおぼえを善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵わにぶちさんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪ひようたんのやうな恰好かつこうのお煙管で、さうして羅宇らうの本もとに些ちよつと紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓とみに塞ふさがざりき。満枝は仇無あどなげに口を掩おほひて笑へり。この罰として貫一は直ただちに三服の吸付莨を強しひられぬ。 とかくする間まに盃盤はいばんは陳つらねられたれど、満枝も貫一も三盃ばいを過し得ぬ下戸げこなり。女は清めし猪口ちよくを出いだして、
「貴方、お一盞ひとつ」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒ビールに致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑すすめて酌せんとこそあるべきに、甚はなはだしい哉、彼の手を束つかねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞ひとつお受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞ひとつを受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅おぐるめの件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼は忽たちまち眉まゆを攅あつめて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴いただきませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外ほかに未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難にくい事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様はばかりさまですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意つもりなのでございますもの」
 その媚こびある目の辺ほとりは漸やうやく花桜の色に染みて、心楽しげに稍やや身を寛ゆるやかに取成したる風情ふぜいは、実げに匂にほひなど零こぼれぬべく、熱しとて紺の絹精縷きぬセルの被風ひふを脱げば、羽織は無くて、粲然ぱつとしたる紋御召の袷あはせに黒樗文絹くろちよろけんの全帯まるおび、華麗はなやかに紅べにの入りたる友禅の帯揚おびあげして、鬢びんの後おくれの被かかる耳際みみぎはを掻上かきあぐる左の手首には、早蕨さわらびを二筋ふたすぢ寄せて蝶ちようの宿れる形かたしたる例の腕環の爽さはやかに晃きらめき遍わたりぬ。常に可忌いまはしと思へる物をかく明々地あからさまに見せつけられたる貫一は、得堪えたふまじく苦にがりたる眉状まゆつきして密ひそかに目を翥そらしつ。彼は女の貴族的に装よそほへるに反して、黒紬くろつむぎの紋付の羽織に藍千筋あゐせんすぢの秩父銘撰ちちぶめいせんの袷着て、白縮緬しろちりめんの兵児帯へこおびも新あたらしからず。
 彼を識しれりし者は定めて見咎みとがむべし、彼の面影おもかげは尠すくなからず変りぬ。愛らしかりしところは皆失うせて、四年よとせに余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自おのづから暗き陰を成してその面おもてを蔽おほへり。撓たゆむとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色がんしよくの表に動けども、嘗かつて宮を見しやうの優き光は再びその眼まなこに輝かずなりぬ。見ることの冷ひややかに、言ふことの謹つつしめるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎なるるを憚はばかれば、自みづからもまた苟いやしくも親みを求めざるほどに、同業者は誰たれも誰も偏人として彼を遠とほざけぬ。焉いづくんぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪あやしむなりけり。 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃さかづきを重ぬる体ていを打目戍うちまもれり。
「もう一盞ひとつ戴きませうか」
 笑ゑみを漾ただふる眸まなじりは微醺びくんに彩られて、更に別様の媚こびを加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方あなたが止せと仰有おつしやるなら私は止します」
「敢あへて止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌てじやくしてその半なかばを傾けしが、見る見る頬の麗く紅くれなゐになれるを、彼は手もて掩おほひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざる為まねして莨を燻くゆらしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝は嘲あざけらむが如く微笑ほほゑみて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障さへては困りますの。然しかし、御酒ごしゆの上で申すのではございませんから、どうぞそのお意つもりで、宜よろしうございますか」
「撞着どうちやくしてゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰おつしやらずに、高たかが女の申すことでございますから」
 こは事難ことむづかしうなりぬべし。克かなはぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱こまぬきつつ俯目ふしめになりて、力つとめて関かかはらざらんやうに持成もてなすを、満枝は擦寄すりよりて、
「これお一盞ひとつで後は決けしてお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
 貫一は些さの言ことばも出いださでその猪口ちよくを受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「易やすい願ですな」と、あはや出いでんとせし唇くちびるを結びて、貫一は纔わづかに苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未まだお長くゐらつしやるお意つもりなのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「勿論もちろんです」
「さうして、まづ何頃いつごろ彼方あちらと別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
 満枝は忽たちまち声を斂をさめて、物思はしげに差俯さしうつむき、莨盆の縁ふちをば弄もてあそべるやうに煙管きせるもて刻きざみを打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽にはかに晦くらむに驚きて顔を挙あぐれば、又旧もとの如く一間ひとまは明あかるうなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫なほしばし打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚はなはだ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方あちらにゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜よろしいでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸をこがましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
 意外に打れたる貫一は箸はしを扣ひかへて女の顔を屹きと視みたり。
「さう遊ばせよ」「それはどう云ふ訳ですか」
 実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠くちごもりたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫あかがしに居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然さつぱり解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
 可恨うらめしげに満枝は言ことばを絶ちて、横膝よこひざに莨を拈ひねりゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
 貫一が飯桶めしつぎを引寄せんとするを、はたと抑おさへて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様はばかりさまです」
 満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀ちやわんをそれに伏せて、彼方あなたの壁際かべぎはに推遣おしやりたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克かなはんですから赦ゆるして下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒ひもじいところを御飯を上げませんでは、さぞお辛つらうございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方こちらで思つてゐることが全まるで先方さきへ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐はるかに辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰おつしやることの主意が能よく解らんのですもの」
「何故なぜお了解わかりになりませんの」
 責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰なじるが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処あすこを出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空すいて来ました」
「それとも貴方外ほかにお約束でも遊ばした御方がお在あんなさるのでございますか」
 彼終つひに鋒鋩ほうぼうを露あらはし来きたれるよと思へば、貫一は猶なほ解せざる体ていを作なして、
「妙な事を聞きますね」
 と苦笑せしのみにて続く言ことばもあらざるに、満枝は図を外はづされて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在あんなさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
 貫一も今は屹きつと胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解わかりになりまして⁈」
 嬉しと心を言へらんやうの気色けしきにて、彼の猪口ちよくに余あませし酒を一息ひといきに飲乾のみほして、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
 発はずみに乗せられて貫一は思はず受うくると斉ひとしく盈々なみなみ注そそがれて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜よろこび!
「その盃は清めてございませんよ」
 一々底意ありて忽諸ゆるがせにすべからざる女の言を、彼はいと可煩わづらはしくて持余もてあませるなり。
「お了解わかりになりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
 僅わづかにかく言ひ放ちて貫一は厳おごそかに沈黙しつ。満枝もさすがに酔ゑひを冷さまして、彼の気色けしきを候うかがひたりしに、例の言寡ことばすくななる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻はづかしい事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」 貫一は緩ゆるやかに頷うなづけり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々よくよくの事でございますから、それに対するだけの理由を有仰おつしやつて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤ごもつともです。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹つつまず自分の考量かんがへをお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆ひととは大きに考量が違つてをります。
 第一、私は一生妻さいといふ者は決けして持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷やめて、この商売を始めたのは、放蕩ほうとうで遣損やりそこなつたのでもなければ、敢あへて食窮くひつめた訳でも有りませんので。書生が可厭いやさに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外ほかに幾多いくらも好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日はくじつ盗とうを為なすと謂いはうか、病人の喉口のどくちを干ほすと謂いはうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択えらむものですか」
 聴居る満枝は益ますます酔ゑひを冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日こんにち始めて知つたのではない、知つて身を堕おとしたのは、私は当時敵手さきを殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極きはまる失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼たのみにしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
 火影ひかげを避けんとしたる彼の目の中に遽にはかに耀かがやけるは、なほ新あらたなる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少たのみすくない世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原もとはと云へば、金銭かねからです。仮初かりそめにも一匹いつぴきの男子たる者が、金銭かねの為に見易みかへられたかと思へば、その無念といふものは、私は一い……一生忘れられんです。
 軽薄でなければ詐いつはり、詐でなければ利慾、愛相あいその尽きた世の中です。それほど可厭いやな世の中なら、何為なぜ一思ひとおもひに死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障さはりになつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐ふくしゆうなどは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹きつと霽はらさなければ措おかん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全まるで発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚はなはだしい、殆ほとんど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴あらしてゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭かねゆゑに売られもすれば、辱はづかしめられもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽たのしみに義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望のぞみも持たんのです。又考へて見ると、憖なまじひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐はるか頼たのみになりますよ。頼にならんのは人の心です!
 先まづかう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰おつしやる資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」 彼は仰ぎて高笑たかわらひしつつも、その面おもては痛く激したり。
 満枝は、彼の言ことばの決して譌いつはりならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実げにさるべき所見かんがへを懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故ゆゑに、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉とびらを閉ぢて、詐いつはりと軽薄と利欲との外なる楽あるを暁さとらざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙たやすく望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌きらひで、総すべての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚ほれたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解わかりになりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
 今は取付く島も無くて、満枝は暫しばし惘然ぼうぜんとしてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
 打萎うちしをれつつ満枝は飯めしを盛りて出いだせり。
「これは恐入ります」
 彼は啖くらふこと傍かたはらに人無き若ごとし。満枝の面おもては薄紅うすくれなゐになほ酔ゑひは有りながら、酔よへる体ていも無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
 かく会釈して貫一は三盃目さんばいめを易かへつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣ふくみて遽にはかに応こたふる能あたはず、唯目を挙あげて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時しばらく胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶ことわりを受けては、私実に面目めんぼく無くて……余あんまり悔くやしうございますわ」
 慌忙あわただしくハンカチイフを取りて、片手に恨泣うらみなきの目元を掩おほへり。
「面目無くて私、この座が起たたれません。間さん、お察し下さいまし」
 貫一は冷々ひややかに見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総すべての人間が嫌なのですから、どうぞ悪あしからず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅おぐるめの件に就いてのお話は?」
 泣赤なきあかめたる目を拭ぬぐひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜よろしうございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召おぼしめして下さい。で、お可厭いやならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日いつまでもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優やさしい言ことばをお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰おつしやりやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決けして忘れません。これなら宜いでせう」
 満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然ひらりと貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠ちからこもりて、その太股ふとももを絶したたか撮つめれば、貫一は不意の痛に覆くつがへらんとするを支へつつ横様よこさまに振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢をんなを呼ぶなりけり。

第三章

 赤坂氷川あかさかひかわの辺ほとりに写真の御前ごぜんと言へば知らぬ者無く、実げにこの殿の出いづるに写真機械を車に積みて随したがへざることあらざれば、自おのづから人目を逭のがれず、かかる異名いみようは呼るるにぞありける。子細しさいを明めずしては、「将棊しようぎの殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器うつはを抱いだきながら、五年を独逸ドイツに薫染せし学者風を喜び、世事を抛なげうちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆ほしいままにすれども、なほ歳としの入るものを計るに正まさに出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春たづみよしはるその人なり。 氷川なる邸内には、唐破風造からはふづくりの昔を摸うつせる館たちと相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造れんがづくりの異あやしきまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄すきにて、独逸に名ある古城の面影おもかげを偲しのびてここに象かたどれるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充あてて、万足よろづたらざる無き閑日月かんじつげつをば、書に耽ふけり、画に楽たのしみ、彫刻を愛し、音楽に嘯うそぶき、近き頃よりは専もつぱら写真に遊びて、齢よはひ三十四に迨およべども頑がんとして未いまだ娶めとらず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然ひようぜんとして、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自おのづからなる七万石の品格は、面白おもてしろう眉秀まゆひいでて、鼻高く、眼爽まなこさはやかに、形かたちの清きよらに揚あがれるは、皎こうとして玉樹ぎよくじゆの風前に臨めるとも謂いふべくや、御代々ごだいだい御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
 かかれば良縁の空むなしからざること、蝶ちようを捉とらへんとする蜘蛛くもの糸より繁しげしといへども、反顧かへりみだに為せずして、例の飄然忍びては酔ゑひの紛れの逸早いつはやき風流みやびに慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌いさめなどふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛あひあいして、末の契も堅く、月下の小舟をぶねに比翼の櫂かひを操あやつり、スプレイの流を指ゆびさして、この水の終つひに涸かるる日はあらんとも、我が恋の燄ほのほの消ゆる時あらせじ、と互の誓詞せいしに詐いつはりはあらざりけるを、帰りて母君に請こふことありしに、いと太いたう驚かれて、こは由々ゆゆしき家の大事ぞや。夷狄いてきは□□よりも賤いやしむべきに、畏かしこくも我が田鶴見の家をばなでう禽獣きんじゆうの檻おりと為すべき。あな、可疎うとましの吾子あこが心やと、涙と共に掻口説かきくどきて、悲かなしび歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無せんなくて、心苦う思ひつつも、猶なほ行末をこそ頼めと文の便たよりを度々たびたびに慰めて、彼方あなたも在るにあられぬ三年みとせの月日を、憂うきは死ななんと味気あぢきなく過せしに、一昨年をととしの秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存ながらへかねし身の苦悩くるしみを、御神みかみの恵めぐみに助けられて、導かれし天国の杳ようとして原たづぬべからざるを、いとど可懐なつかしの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益ますます深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐ただおもひを亡なき人に寄せて、形見こそ仇あだならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女かのをんなが十九の春の色を苦ねんごろに手写しゆしやして、嘗かつて貽おくりしものなりけり。 殿はこの失望の極放肆ほうし遊惰の裏うちに聊いささか懐おもひを遣やり、一具の写真機に千金を擲なげうちて、これに嬉戯すること少児しようにの如く、身をも家をも外ほかにして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛くろやなぎもとえありて、その人迂うならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴いただける田鶴見家も、幸さいはひに些さの破綻はたんを生ずる無きを得てけり。
 彼は貨殖の一端として密ひそかに高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至ないし一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以もて、高利貸の大口を引受くる輩はいのここに便たよらんとせざるはあらず。されども慧さかしき畔柳は事の密なるを策の上と為なして叨みだりに利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行ただゆきの一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺いづれにか金穴きんけつあるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
 鰐淵わにぶちの名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯うしろだてありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂いふにも足らぬ足軽頭あしがるがしらに過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後のち出いでて小役人を勤め、転じて商社に事つかへ、一時或あるひは地所家屋の売買を周旋し、万年青おもとを手掛け、米屋町こめやまちに出入しゆつにゆうし、何いづれにしても世渡よわたりの茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟つひには警部にまで取立てられしを、中ごろにして金きんこれ権けんと感ずるところありて、奉職中蓄得たくはへえたりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未いまだこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或あるは欺き、或は嚇おどし、或は賺すかし、或は虐しひたげ、纔わづかに法網を潜くぐり得て辛からくも繩附なはつきたらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比ころ、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎とらに翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆ほとんど数万に上るとぞ聞えし。
 畔柳はこの手より穫とりいるる利の半なかばは、これを御殿ごてんの金庫に致し、半はこれを懐ふところにして、鰐淵もこれに因よりて利し、金きんは一いつにしてその利を三にせる家令が六臂ろつぴの働はたらきは、主公が不生産的なるを補ひて猶なほ余ありとも謂いふべくや。
 鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢すてばちの身を寄せて、牛頭馬頭ごずめずの手代と頼まれ、五番町なるその家に四年よとせの今日こんにちまで寄寓きぐうせるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇あつかはれ、手代となり、顧問となりて、主あるじの重宝大方ならざれば、四年よとせの久ひさしきに弥わたれども主は彼を出いだすことを喜ばず、彼もまた家を構かまふる必要無ければ、敢あへて留るを厭いとふにもあらで、手代を勤むる傍かたはら若干そくばくの我が小額をも運転して、自おのづから営む便たよりもあれば、今憖なまじひにここを出でて痩臂やせひぢを張らんよりは、然しかるべき時節の到来を待つには如しかじと分別せるなり。彼は啻ただに手代として能よく働き、顧問として能く慮おもんぱかるのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢よはひを以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己おのれを衒てらはず、他ひとを貶おとしめず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有ありがたき若者なり、と鰐淵は寧むしろ心陰こころひそかに彼を畏おそれたり。 主あるじは彼の為人ひととなりを知りし後のち、如此かくのごとき人の如何いかにして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己おのれの履歴を詐いつはりて、如何なる失望の極身をこれに墜おとせしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕あらはれにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿せんさくもせられで、やがては、暖簾のれんを分けて屹きつとしたる後見うしろみは為てくれんと、鰐淵は常に疎おろそかならず彼が身を念おもひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯みねは四十六なり。夫は心猛たけく、人の憂うれひを見ること、犬の嚏くさめの如く、唯貪ただむさぼりて饜あくを知らざるに引易へて、気立きだて優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有もてるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義りちぎに、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更なほさらにあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
 いと幸さちありける貫一が身の上哉かな。彼は世を恨むる余あまりその執念の駆かるままに、人の生ける肉を啖くらひ、以つて聊いささか逆境に暴さらされたりし枯膓こちようを癒いやさんが為に、三悪道に捨身の大願を発起ほつきせる心中には、百の呵責かしやくも、千の苦艱くげんも固もとより期ごしたるを、なかなかかかる寛ゆたかなる信用と、かかる温あたたかき憐愍れんみんとを被かうむらんは、羝羊ていようの乳ちを得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉かな、彼はこの喜を如何いかに喜びけるか。今は呵責をも苦艱くげんをも敢あへて悪にくまざるべき覚悟の貫一は、この信用の終つひには慾の為に剥はがれ、この憐愍れんみんも利の為に吝をしまるる時の目前なるべきを固く信じたり。

(三)の二

 毒は毒を以て制せらる。鰐淵わにぶちが債務者中に高利借の名にしおふ某ぼう党の有志家某あり。彼は三年来生殺なまごろしの関係にて、元利五百余円の責せめを負ひながら、奸智かんちを弄ろうし、雄弁を揮ふるひ、大胆不敵に構かまへて出没自在の計はかりごとを出いだし、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係かかりては、逆捩さかねぢを吃くひて血反吐ちへどを噴はかされし者尠すくなからざるを、鰐淵は弥いよいよ憎しと思へど、彼に対しては銕桿かなてこも折れぬべきに持余しつるを、克かなはぬまでも棄措すておくは口惜くちをしければ、せめては令見みせしめの為にも折々釘くぎを刺して、再び那奴しやつの翅はがいを展のべしめざらんに如しかずと、昨日きのふは貫一の曠ぬからず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
 彼は散々に飜弄ほんろうせられけるを、劣らじと罵ののしりて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣やらで壮さかんに言争ひしが、病者に等き青二才と侮あなどりし貫一の、陰忍しんねり強く立向ひて屈する気色けしきあらざるより、有合ふ仕込杖しこみつゑを抜放し、おのれ還かへらずば生けては還さじと、二尺余あまりの白刃を危あやふく突付けて脅おびやかせしを、その鼻頭はなさきに待あしらひて愈いよいよ動かざりける折柄をりから、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来かへりきにけるが、これが為に彼の感じ易やすき神経は甚はなはだしく激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転うたた勝すぐれねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠ひきこもれるなりけり。かかることありし翌日は夥おびただしく脳の憊つかるるとともに、心乱れ動きて、その憤いかりし後のちを憤り、悲みし後を悲まざれば已やまず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故ゆゑに彼は折に触れつつその体たいの弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸やうやく慣れてけれど、彼の心は決けしてこの悪を作なすに慣れざりき。唯能ただよく忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来じらい終天の失望と恨との一日いちじつも忘るる能あたはざるが為に、その苦悶くもんの余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪たふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或あるは人の加ふる侮辱に堪たへずして、神経の過度に亢奮こうふんせらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙びようを得ることあり。 朗ほがらかに秋の気澄みて、空の色、雲の布置ただずまひ匂にほはしう、金色きんしよくの日影は豊に快晴を飾れる南受みなみうけの縁障子を隙すかして、爽さはやかなる肌寒はださむの蓐とこに長高たけたかく痩やせたる貫一は横よこたはれり。蒼あをく濁にごれる頬ほほの肉よ、髐さらばへる横顔の輪廓りんかくよ、曇の懸れる眉まゆの下に物思はしき眼色めざしの凝りて動かざりしが、やがて崩くづるるやうに頬杖ほほづゑを倒して、枕嚢くくりまくらに重き頭かしらを落すとともに寝返りつつ掻巻かいまき引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣なげやりて仰向になりぬ。折しも誰たれならん、階子はしごを昇来のぼりくる音す。貫一は凝然として目を塞ふたぎゐたり。紙門ふすまを啓あけて入来いりきたれるは主あるじの妻なり。貫一の慌あわてて起上るを、そのままにと制して、机の傍かたはらに坐りつ。
「紅茶を淹いれましたからお上んなさい。少しばかり栗くりを茹ゆでましたから」
 手籃てかごに入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭まくらもとに置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様ごちそうさまでございます」
「冷めない内にお上んなさい」
 彼は会釈して珈琲茶碗カフヒイちやわんを取上げしが、
「旦那だんなは何時いつ頃お出懸でかけになりました」
「今朝は毎いつもより早くね、氷川ひかわへ行くと云つて」
 言ふも可疎うとましげに聞えけれど、さして貫一は意こころも留めず、
「はあ、畔柳くろやなぎさんですか」
「それがどうだか知れないの」
 お峯は苦笑にがわらひしつ。明あきらかなる障子の日脚ひざしはその面おもての小皺こじわの読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛くしの歯通りて、一髪いつぱつを乱さず円髷まるわげに結ひて顔の色は赤き方かたなれど、いと好く磨みがきて清きよらに滑なめらかなり。鼻の辺あたりに薄痘痕うすいもありて、口を引窄ひきすぼむる癖あり。歯性悪ければとて常に涅くろめたるが、かかるをや烏羽玉ぬばたまとも謂いふべく殆ほとんど耀かがやくばかりに麗うるはし。茶柳条ちやじまのフラネルの単衣ひとへに朝寒あささむの羽織着たるが、御召縮緬ちりめんの染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為なぜですか」
 お峯は羽織の紐ひもを解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅ためらへる風情ふぜいなるを、強しひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃かごなる栗を取りて剥むきゐたり。彼は姑しばらく打案ぜし後、
「あの赤樫あかがしの別品べつぴんさんね、あの人は悪い噂うはさが有るぢやありませんか、聞きませんか」「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物くひものに為るとか云ふ……」
 貫一は覚えず首を傾けたり。曩さきの夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴あいつ男を引掛けなくても金銭かねには窮こまらんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可いけない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭かねが有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方こつちへお貸しなさい」
「これは憚様はばかりさまです」
 お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々まじまじと手を束つかねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便たよりあるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択えらみて、その頂いただきよりナイフを加へつ。
「些ちよいと見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人かたじんだから可いけれど、本当にあんな者に係合かかりあひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣やると云ふのは評判ですよ。金窪かなくぼさん、鷲爪わしづめさん、それから芥原あくたはらさん、皆みんなその話をしてゐましたよ」
「或あるひはそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内うちの人も同おんなじのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
 お峯がナイフを執れる手は漸やうやく鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
 お峯は又一つ取りて剥むき始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運はこびは愈いよいよ等閑なほざりなりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処ここきりの話ですからね」
「承知しました」
 貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹きとお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自おのづから潜ひそまりぬ。
「どうも私はこの間から異をかしいわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫ひとがあの別品さんに係合かかりあひを付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
 彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑ゆすりわらひして、
「そんな馬鹿な事が、貴方あなた……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房にようぼの私が……それはもう間違無しよ!」
 貫一は熟じつと思ひ入りて、
「旦那はお幾歳いくつでしたな」
「五十一、もう爺ぢぢいですわね」
 彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの‼」
 息巻くお峯の前に彼は面おもてを俯ふして言はず、静に思廻おもひめぐらすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言ことばを継がざりしが、さて徐おもむろに、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾めかけも楽たのしみも可うございます。これが芸者だとか、囲者かこひものだとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫あかがしさんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡ただの代物しろものぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火ちんちんなら可いけれど、なかなか心火どころの洒落しやれた沙汰さたぢやありはしません。あんな者に係合かかりあつてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫ひともあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異をかしいの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶しやれてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下したておろし渾成づくめで、その奇麗事と謂いつたら、何いつが日ひにも氷川へ行くのにあんなに靚めかした事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
 貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒はがゆくて心苛いらつなるべし。
「はあ、事実とすれば弥いよいよ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気りんきで言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手あひてが悪いからねえ」
 思ひ直せども貫一が腑ふには落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃いつごろからの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然しかし、何なにしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤とつくり言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処そこを突止めたいのだけれど、私の体からだぢや戸外おもての様子が全然さつぱり解らないのですものね」
「御尤ごもつとも」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在いででないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
 行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉かな、紅茶と栗と、と貫一はその余あまりに安く売られたるが独ひとり可笑をかしかりき。
「いえ、一向差支さしつかへございません。どういふ事ですか」
「さう? 余あんまりお気の毒ね」
 彼の赤き顔の色は耀かがやくばかりに懽よろこびぬ。
「御遠慮無く有仰おつしやつて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
 お峯は彼が然諾ぜんだくの爽さはやかなるに遇あひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧はづかしく覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若もし行つたのなら、何頃いつごろ行つて何頃帰つたか、なあに、十とをに九ここのつまではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
 彼は起ちて寝衣帯ねまきおびを解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今俥くるまを呼びに遣やるから」
 かく言捨ててお峯は忙せはしく階子はしごを下行おりゆけり。
 迹あとに貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩わづらひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損なりそこなつて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
 と端無はしなく思ひ浮べては漫そぞろに独ひとり打笑うちゑまれつ。

第四章

 貫一は直ただちに俥くるまを飛とばして氷川なる畔柳くろやなぎのもとに赴おもむけり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入しゆつにゆうすべく、館やかたの側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣もくげがきに取廻して、昔形気むかしかたぎの内に幽ゆかしげに造成つくりなしたる二階建なり。構かまへの可慎つつましう目立たぬに引易ひきかへて、木口きぐちの撰択せんたくの至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
 貫一も彼の主あるじもこの家に公然の出入でいりを憚はばかる身なれば、玄関側わきなる格子口こうしぐちより訪おとづるるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物はきものは在らず。はや帰りしか、来こざりしか、或あるひは未いまだ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言ことばにも符号すれども、直ただちにこれを以て疑を容いるべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主あるじの妻の声して、連しきりに婢をんなの名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出いで来て、「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出いででした」
 眼まなこのみいと大くて、病勝やまひがちに痩衰やせおとろへたる五体は燈心とうしみの如く、見るだに惨々いたいたしながら、声の明あきらかにして張ある、何処いづこより出いづる音ねならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂いへるその人なり。年は五十路いそぢばかりにて頭かしらの霜繁しもしげく夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風の恭うやうやしき礼を作なして、
「はい、今日こんにちは急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方こちら様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出いではありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸かかりたいと申してをりましたところ。唯今ただいま御殿へ出てをりますので、些ちよつと呼びに遣りませうから、暫しばらくお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近はしちかう控ふれば、彼は井ゐの端はたなりし婢をんなを呼立てて、速々そくそく主あるじの方かたへ走らせつ。莨盆たばこぼんを出いだし、番茶を出いだせしのみにて、納戸なんどに入りける妻は再び出いで来きたらず。この間は貫一は如何いかにこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促いきせき還来かへりきにける気勢けはひせしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今些ちよつと手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方あちらへお出なすつて。直ぢき其処そこですよ。婢に案内を為せます。あの豊とよや!」
 暇乞いとまごひして戸口を出づれば、勝手元の垣の側きはに二十歳はたちかと見ゆる物馴顔ものなれがほの婢の待まてりしが、後うしろさまに帯㕞おびかひつくろひつつ道知辺みちしるべす。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫ざりを敷きたる径こみちありて、出外ではづるれば子爵家の構内かまへうちにて、三棟みむね並べる塗籠ぬりごめの背後うしろに、桐きりの木高く植列うゑつらねたる下道したみちの清く掃いたるを行窮ゆきつむれば、板塀繞いたべいめぐらせる下屋造げやつくりの煙突より忙せはしげなる煙けふり立昇りて、折しも御前籠ごぜんかご舁入かきいるるは通用門なり。貫一もこれを入いりて、余所よそながら過来すぎこし厨くりやに、酒の香か、物煮る匂頻にほひしきりて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響ひしめきしたる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間ひとまに導かれぬ。

(四)の二

 畔柳元衛くろやなぎもとえの娘静緒しずおは館やかたの腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持とりもちに召れて、高髷たかわげ、変裏かはりうらに粧よそひを改め、お傍不去そばさらずに麁略そりやくあらせじと冊かしづくなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先まづ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子まはりばしごの半なかばを昇行のぼりゆく後姿うしろすがたに、その客の如何いかに貴婦人なるかを窺うかがふべし。鬘かつらならではと見ゆるまでに結做ゆひなしたる円髷まるわげの漆の如きに、珊瑚さんごの六分玉ろくぶだまの後挿うしろざしを点じたれば、更に白襟しろえりの冷豔れいえん物の類たぐふべき無く、貴族鼠きぞくねずみの縐高縮緬しぼたかちりめんの五紋いつつもんなる単衣ひとへを曳ひきて、帯は海松みる色地に装束しようぞく切摸きれうつしの色紙散しきしちらしの七糸しちんを高く負ひたり。淡紅色ときいろ紋絽もんろの長襦袢ながじゆばんの裾すそは上履うはぐつの歩あゆみに緩ゆるく匂零にほひこぼして、絹足袋きぬたびの雪に嫋々たわわなる山茶花さざんかの開く心地す。 この麗うるはしき容かたちをば見返り勝に静緒は壁側かべぎはに寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯うつむきて昇のぼれるに、櫛くしの蒔絵まきゑのいと能よく見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失そこねて、凄すさまじき響の中にあなや僵たふれんと為したり。幸さいはひに怪我けがは無かりけれど、彼はなかなか己おのれの怪我などより貴客きかくを駭おどろかせし狼藉ろうぜきをば、得も忍ばれず満面に慚はぢて、
「どうも飛んだ麁相そそうを致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処どこもお傷いためなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚びつくり遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こ度たびは薄氷はくひようを蹈ふむ想おもひして一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些ちよつとお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌あわて驚きて、
「あれ、恐入おそれいります」
「可ようございますよ。さあ、熟じつとして」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずして竟つひに貴婦人の手を労わづらはせし彼の心は、溢あふるるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫かをりあらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書じよししよの内訓ないくんに出でたりとて屡しばしば父に聴さるる「五綵服ごさいふくを盛さかんにするも、以つて身の華かと為すに足らず、貞順道ていじゆんみちに率したがへば、乃すなはち以つて婦徳を進むべし」の本文ほんもんに合かなひて、かくてこそ始めて色に矜ほこらず、その徳に爽そむかずとも謂ふべきなれ。愛めでたき人にも遇あへるかなと絶したたかに思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北にしきたの窓に寄り行きて、効々かひがひしく緑色の帷とばりを絞り硝子戸ガラスどを繰揚くりあげて、
「どうぞ此方こちらへお出いであそばしまして。ここが一番見晴みはらしが宜よろしいのでございます」
「まあ、好よい景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀もくせいが匂にほひますね、お邸内やしきうちに在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽しゆうせいの朗ほがらかに濶ひろくして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色おももちして佇たたずめり。窓を争ひて射入さしいる日影は斜ななめにその姿を照して、襟留えりどめなる真珠は焚もゆる如く輝きぬ。塵ちりをだに容ゆるさず澄みに澄みたる添景の中うちに立てる彼の容華かほばせは清く鮮あざやかに見勝みまさりて、玉壺ぎよくこに白き花を挿さしたらん風情ふぜいあり。静緒は女ながらも見惚みとれて、不束ふつつかに眺入ながめいりつ。 その目の爽さはやかにして滴したたるばかり情なさけの籠こもれる、その眉まゆの思へるままに画えがき成せる如き、その口元の莟つぼみながら香かに立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃きめこまやかに光をさへ帯びたる、色の透とほるばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢つややかに、頭かしらも重げに束つかねられたれど、髪際はへぎはの少すこしく打乱れたると、立てる容かたちこそ風にも堪たふまじく繊弱なよやかなれど、面おもての痩やせの過ぎたる為に、自おのづから愁うれはしう底寂そこさびしきと、頸えりの細きが折れやしぬべく可傷いたはしきとなり。
 されどかく揃そろひて好き容量きりようは未いまだ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外ふみはづせし麁忽そこつははや忘れて、見据うる流盻ながしめはその物を奪はんと覘ねらふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌かたちありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍かたはらには見劣せらるること夥おびただしかり。彼は己おのれの間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止やまざりき。実げにこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿させるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧はづべき。婦をんなの徳をさへ虧かかでこの嬋娟あでやかに生れ得て、しかもこの富めるに遇あへる、天の恵めぐみと世の幸さちとを併あはせ享うけて、残る方かた無き果報のかくも痛いみじき人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者ふたつは愜かなはぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸さいはひは男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨ものうらやみの念強けれど、妬ねたしとは及び難くて、静緒は心に畏おそるるなるべし。
 彼は貴婦人の貌かたちに耽ふけりて、その欵待もてなしにとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西フランスより持ち帰られし名器なるを、漸やうやく取出とりいだして薦すすめたり。形は一握いちあくの中に隠るるばかりなれど、能よく遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉ぎよくもて造られ、僅わづかに黄金きん細工の金具を施したるのみ。
 やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措おくを忘らるるまでに愛めでられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽ながめつくされて、彼はこの鏡グラスの凡ただならず精巧なるに驚ける状さまなり。
「那処あすこに遠く些ほんの小楊枝こようじほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄あさぎに赤い柳条しまの模様まで昭然はつきり見えて、さうして旗竿はたさをの頭さきに鳶とびが宿とまつてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度たんと御座いませんさうで、招魂社しようこんしやのお祭の時などは、狼煙のろしの人形が能よく見えるのでございます。私はこれを見まする度たびにさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜よろしうございませう。余あんまり近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」「音が聞えたら、彼方此方あちこちの音が一所に成つて粉雑ごちやごちやになつて了しまひませう」
 かく言ひて斉ひとしく笑へり。静緒は客遇きやくあしらひに慣れたれば、可羞はづかしげに見えながらも話を求むるには拙つたなからざりき。
「私は始めてこれを見せて戴いただきました折、殿様に全然すつかり騙だまされましたのでございます。鼻の前さきに見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直すぐにその眼鏡を耳に推付おつつけて見ろ、早くさへ耳に推付おつつければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
 淀無よどみなく語出かたりいづる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑ゑましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在おいででゐらつしやいましたが、皆為みんななすつて御覧遊ばしました」
 貴婦人は怺こらへかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水はやみと申す者は余あんまり急ぎましたので、耳の此処ここを酷ひどく打ぶちまして、血を出したのでございます」
 彼の歓よろこべるを見るより静緒は椅子を持来もちきたりて薦すすめし後、さて語り続くるやう。
「それで誰たれにも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目まじめなお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西フランスに居た時には能よく聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
 その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇あくさげきを親く睹みたらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白おもしろい方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝すぐれ遊ばしませんので、お険むづかしいお顔をしてゐらつしやるのでございます」
 書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒にはかに空目遣そらめづかひして物の思はしげに、例の底寂そこさびしう打湿うちしめりて見えぬ。
 やや有りて彼は徐しづかに立ち上りけるが、こ回たびは更に邇ちかきを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方あなたこなたに差向くる筒の当所あてども無かりければ、偶たまたま唐楪葉からゆづりはのいと近きが鏡面レンズに入いり来きて一面に蔓はびこりぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自おのづから得忘れぬ面影に肖にたるところあり。
 貴婦人は差し向けたる手を緊しかと据ゑて、目を拭ぬぐふ間も忙せはしく、なほ心を留めて望みけるに、枝葉えだはの遮さへぎりてとかくに思ふままならず。漸やうやくその顔の明あきらかに見ゆる隙ひまを求めけるが、別に相対さしむかへる人ありて、髪は黒けれども真額まつかうの瑩々てらてら禿はげたるは、先に挨拶あいさつに出いでし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃まゆこく、外眦まなじりの昂あがれる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖にたりとは未おろかや、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡グラス持てる手は兢々わなわなと打顫うちふるひぬ。 行く水に数画かずかくよりも儚はかなき恋しさと可懐なつかしさとの朝夕に、なほ夜昼の別わかちも無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年よとせの久きを、熱海の月は朧おぼろなりしかど、一期いちごの涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日いつかは必ずと念懸おもひかけつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫つゆも昔に渝かはらねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何いかなる労わづらひをやさまでは積みけん、齢よはひよりは面瘁おもやつれして、異あやしうも物々しき分別顔ふんべつかほに老いにけるよ。幸薄さいはひうすく暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出わきいでて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮あざやかに映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪たへ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁さとりて失しなしたりと思ひたれど、所為無せんなくハンカチイフを緊きびしく目に掩あてたり。静緒の驚駭おどろきは謂ふばかり無く、
「あれ、如何いかが遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良わるいものですから、余あんまり物を瞶みつめてをると、どうかすると眩暈めまひがして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭ぐしをお摩さすり申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直ぢきに癒なほります。憚はばかりですがお冷ひやを一つ下さいましな」
 静緒は驀地ましぐらに行かんとす。
「あの、貴方あなた、誰にも有仰おつしやらずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽うがひをすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏かしこまりました」
 彼の階子はしごを下り行くと斉ひとしく貴婦人は再び鏡グラスを取りて、葉越はごしの面影を望みしが、一目見るより漸含さしぐむ涙に曇らされて、忽たちまち文色あいろも分かずなりぬ。彼は静無しどなく椅子に崩折くづをれて、縦ほしいままに泣乱したり。

(四)の三

 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継ただつぐと倶ともに田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交くみかはす間まを、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰いづれも日本写真会々員たるに因よれり。自おのづから宮の除物のけものになりて二人の興に入いれるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意こころを獲えんと力つとめけるより、子爵も好みて交まじはるべき人とも思はざれど、勢ひ疎うとんじ難がたくして、今は会員中善く識しれるものの最さいたるなり。爾来じらい富山は益ますます傾慕して措おかず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定かんていを乞ふを名として、曩さきに芝西久保しばにしのくぼなる居宅に請じて疎おろそかならず饗もてなす事ありければ、その返かへしとて今日は夫婦を招待しようだいせるなり。 会員等は富山が頻しきりに子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為かれためにするところあらんなど言ひて陋いやしみ合へりけれど、その実敢あへて為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交まじはるところは、その地位に於おいて、その名声に於て、その家柄に於て、或あるひはその資産に於て、孰いづれの一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実げに彼は美き友を有もてるなり。さりとて彼は未いまだ曾かつてその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強あながちに有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉つとめて交まじはりは求むるならん。故ゆゑに彼はその名簿の中に一箇いつかの憂うれひを同おなじうすべき友をだに見出みいださざるを知れり。抑そもそも友とは楽たのしみを共にせんが為の友にして、若もし憂を同うせんとには、別に金銭マネイありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固もとよりこの理に外ならず、寔まことに彼の択べる友は皆美けれども、尽ことごとくこれ酒肉の兄弟けいていたるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然しかりと為なすの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を眊かすめて、陋いやしみても猶なほ余ある高利貸の手代に片思の涙を灑そそぐにあらずや。
 宮は傍かたはらに人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏かきくれて、熱海の浜に打俯うちふしたりし悲歎なげきの足らざるをここに続つがんとすなるべし。階下したより仄ほのかに足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭かしらを支へつつ室しつの中央まなかなる卓子テエブルの周囲めぐりを歩みゐたり。やがて静緒の持来もちきたりし水に漱くちそそぎ、懐中薬かいちゆうくすりなど服して後、心地復をさまりぬとて又窓に倚よりて外方とのがたを眺めたりしが、
「ちよいと、那処あすこに、それ、男の方の話をしてお在いでの所も御殿の続きなのですか」
「何方どちらでございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内やしきうちでございます。これから直ぢきに見えまする、あの、倉の左手に高い樅もみの木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直ずつとお宅の方へ行いかれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些ちつとお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢きたなうございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又葉越はごしの面影を窺うかがへり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処あすこにお父様とつさまとお話をしてゐらつしやるのは何地どちらの方ですか」
 彼の親達は常に出入でいりせる鰐淵わにぶちの高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告つぐるなり。
「他あれは番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買うりかひを致してをります者の手代で、間はざまとか申しました」「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語ひとりごちて、その違たがへるを訝いぶかるやうに擬もてなしつつ又其方そなたを打目戍うちまもれり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語に因よりて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何いかにとも逢ふべき便たよりはあらんと、獲難えがたき宝を獲たるにも勝まされる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日いつをも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇あだに、余所よそながら見て別れんは本意無ほいなからずや。若もし彼の眼まなこに睨にらまれんとも、互の面おもてを合せて、言ことばは交かはさずとも切せめては相見て相知らばやと、四年よとせを恋に饑うゑたる彼の心は熬いらるる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣きづかへるは、事の危あやふきに過ぎたるなり。附添さへある賓まらうどの身にして、賤いやしきものに遇あつかはるる手代風情ふぜいと、しかもその邸内やしきうちの径こみちに相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑そもや幾許いかばかり恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面おもてに唾吐つばはかるるも厭いとはじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬あふせは今日の一日ひとひに限らぬものを、事の破やぶれを目に見て愚に躁はやまるべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機をりならず、辛つらくとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺すかして、邸内やしきうちを一周せんと、西洋館の後うしろより通用門の側わきに出でて、外塀際そとべいぎはなる礫道ざりみちを行けば、静緒は斜ななめに見ゆる父が詰所の軒端のきばを指さして、
「那処あすこが唯今の客の参つてをります所でございます」
 実げに唐楪葉からゆづりはは高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴きなけり。宮が胸は異あやしうつと塞ふたがりぬ。
 楼たかどのを下りてここに来たるは僅少わづかの間ひまなれば、よもかの人は未いまだ帰らざるべし、若しここに出で来きたらば如何いかにすべきなど、さすがに可恐おそろしきやうにも覚えて、歩あゆみは運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入いらで、さて行くほどに裏門の傍かたはらに到りぬ。
 遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙あぐれども何処いづこを眺むるにもあらず、俯うつむき勝に物思はしき風情ふぜいなるを、静緒は怪くも気遣きづかはしくて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未まだ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜よろしうございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「家うちの中よりは戸外おもての方が未だ可いので、もう些ちと歩いてゐる中には復をさまりますよ。ああ、此方こちらがお宅ですか」「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿もくげが盛さかりですこと。白ばかりも淡白さつぱりして好よいぢやありませんか」
 畔柳の住居すまひを限として、それより前さきは道あれども、賓まらうどの足を容いるべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣まだらがきの此方こなたに、樫かしの実の夥おびただしく零こぼれて、片側かたわきに下水を流せる細路ほそみちを鶏の遊び、犬の睡ねむれるなど見るも悒いぶせきに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼おそれは忽たちまちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来いできたるに会はば、遁のがれんやうはあらで明々地あからさまに面おもてを合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何いかにせん。仮令たとひ此方こなたにては知らぬ顔してあるべきも、争いかでかの人の見付けて驚かざらん。固もとより恨を負へる我が身なれば、言ことばなど懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭おどろきは如何ならん。仇あだに遇あへるその憤懣いきどほりは如何ならん。必ずかの人の凄すさまじう激せるを見ば、静緒は幾許いかばかり我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉ひとしく身内は熱して冷つめたき汗を出いだし、足は地に吸るるかとばかり竦すくみて、宮はこれを想ふにだに堪たへざるなりけり。脇道わきみちもあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣やる方も無く惑へる宮が面色おももちの穏やすからぬを見尤みとがめて、静緒は窃ひそかに目を側そばめたり。彼はいとどその目を懼おそるるなるべし。今は心も漫そぞろに足を疾はやむれば、土蔵の角かども間近になりて其処そこをだに無事に過ぎなば、と切しきりに急がるる折しも、人の影は突とつとしてその角より顕あらはれつ。宮は眩めくるめきぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前は好よきやうに言譌いひこしらへ、さて篤と実否を糺ただせし上にて私ひそかに為せんやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍やや目深まぶかに引側ひきそばめ、通学に馴ならされし疾足はやあしを駆りて、塗籠ぬりこめの角より斜ななめに桐の並木の間あひを出でて、礫道ざりみちの端を歩み来きたれり。
 四辺あたりに往来ゆききのあるにあらねば、二人の姿は忽たちまち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾とく知られけれど、顔打背かほうちそむけたる貴婦人の眩まばゆく着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔わづかに察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近ちかづけば、貫一は静緒に向ひて慇懃いんぎんに礼するを、宮は傍かたはらに能あたふ限は身を窄すぼめて密ひそかに流盻ながしめを凝したり。その面おもての色は惨として夕顔の花に宵月の映うつろへる如く、その冷ひややかなるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚あしは打顫うちふるひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟とどろくを、覚さとられじとすれば猶なほ打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁しむばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際きはに、ふと目鞘めざやの走りて、館の賓まらうどなる貴婦人を一瞥べつせり。端無はしなくも相互たがひの面おもては合へり。宮なるよ! 姦婦かんぷなるよ! 銅臭の肉蒲団にくぶとんなるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨ねめて動かざる眼まなこには見る見る涙を湛たたへて、唯一攫ひとつかみにもせまほしく肉の躍をどるを推怺おしこらへつつ、窃ひそかに歯咬はがみをなしたり。可懐なつかしさと可恐おそろしさと可耻はづかしさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩たとへんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付いだきつきても思ふままに苛さいなまれんをと、心のみは憧あこがれながら身を如何いかにとも為難しがたければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠こむるより外はあらず。 貫一はつと踏出して始の如く足疾あしばやに過行けり。宮は附人つきひとに面を背そむけて、唇くちびるを咬かみつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁わきまへねど、推すいすべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓まらうどの顔色のさしも常ならず変りて可悩なやましげなるを、問出でんも可よしや否あしやを料はかりかねて、唯可慎つつましう引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出いであそばして、お休み遊ばしましては如何いかがでございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼まつさをでゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方あちらへ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可いけませんから、お庭を一周ひとまはりしまして、その内には気分が復なほりますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方あなたのお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰おつしやいます」
 貴婦人はその無名指むめいしより繍眼児めじろの押競おしくらを片截かたきりにせる黄金きんの指環を抜取りて、懐紙ふところかみに包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証しるしに」
 静緒は驚き怖おそれたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可ようございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様おとつさまにも阿母様おつかさまにも誰にも有仰おつしやらないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠てごめに取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋そたばし近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑たかわらひするが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間に勉つとめて気を平たひらげ、色を歛をさめて、ともかくも人目を逭のがれんと計れるなり。されどもこは酒を窃ぬすみて酔はざらんと欲するに同おなじかるべし。
 彼は先に遭あひし事の胸に鏤ゑられたらんやうに忘るる能あたはざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出もえいでて、募りに募らんとする心の乱みだれは、堪たふるに難かたき痛苦くるしみを齎もたらして、一歩は一歩より、胸の逼せまること急に、身内の血は尽ことごとくその心頭しんとうに注ぎて余さず熬いらるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛うちくつろぎて意任こころまかせの我が家に独り居たらんぞ可よき。人に接して強しひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩わづらはしと、例の劇はげしく唇くちびるを咬かみて止まず。
 築山陰つきやまかげの野路のぢを写せる径こみちを行けば、蹈処無ふみどころなく地を這はふ葛くずの乱れ生おひて、草藤くさふぢ、金線草みづひき、紫茉莉おしろいの色々、茅萱かや、穂薄ほすすきの露滋つゆしげく、泉水の末を引きて𥻘々ちよろちよろ水みづを卑ひくきに落せる汀みぎはなる胡麻竹ごまたけの一叢ひとむら茂れるに隠顕みえかくれして苔蒸こけむす石組の小高きに四阿あづまやの立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱なやましげに憩へり。 彼は静緒の柱際はしらぎはに立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥くたびれでせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色の前さきにも劣らず蒼白あをざめたるのみならで、下唇の何に傷きずつきてや、少すこしく血の流れたるに、彼は太いたく驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何いかがあそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴ざくろの花弁はなびらの如く附きたるに、貴婦人は懐鏡ふところかがみ取出とりいだして、咬かむことの過ぎし故ゆゑぞと知りぬ。実げに顔の色は躬みづからも凄すごしと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周いくめぐりして我はこの色を隠さんと為すらんと、彼は心陰こころひそかに己おのれを嘲あざけるなりき。
 忽たちまち女の声して築山の彼方あなたより、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴して応こたへけるが、やがて木隠こがくれに語かたらふ気勢けはひして、返り来ると斉ひとしく賓まらうどの前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直すぐに彼方あちらへお出いであそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋うんたいきようの在る方かたへ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭ところせまきまで盃盤はいばんを陳つらねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方こなたの姿を見るより子爵は縁先に出でて麾さしまねきつつ、
「そこをお渡りになつて、此方こちらに燈籠とうろうがございませう、あの傍そばへ些ちよつとお出で下さいませんか。一枚像とらして戴きたい」
 写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立おりたちて、早くもカメラの覆おほひを引被ひきかつぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
 いでや、事の様ようを見んとて、慢々ゆらゆらと出来いできたれるは富山唯継なり。片手には葉巻シガアの半なかば燻くゆりしを撮つまみ、片臂かたひぢを五紋の単羽織ひとへはおりの袖そでの内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑ゑみを浮べつつ、
「ああ、おまへ其処そこに居らんければ可かんよ、何為なぜ歩いて来るのかね」
 子爵の慌あわてたる顔はこの時毛繻子けじゆすの覆の内よりついと顕あらはれたり。
「可けない! 那処あすこに居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙かうむる? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方あなたは巧い言ことをお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方あちらへ。静緒、お前奥さんを那処あすこへお連れ申して」
 唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度ごしたくをなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍そばへ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含はにかむことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣やつてをるのに、あれで可いのさ。姿勢かたちは私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛よつかかつて頬杖ほほづゑでも拄ついて、空を眺ながめてゐる状かたちなども可いよ。ねえ、如何いかがでせう」「結構。結構」と子爵は頷うなづけり。
 心は進まねど強ひて否いなむべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
 かく呟つぶやきつつ庭下駄を引掛ひきかけ、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚よらしめ、頬杖を拄つかしめ、空を眺めよと教へて、袂たもとの皺しわめるを展のべ、裾すその縺もつれを引直し、さて好しと、少すこしく退のきて姿勢を見るとともに、彼はその面おもての可悩なやましげに太いたくも色を変へたるを発見して、直ただちに寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処どこか不快わるいのか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私わしが訳を言つてお謝絶ことわりをするから」
「いいえ、宜よろしうございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭いやな色だ」
 彼は眷々けんけんとして去る能あたはざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「如何いかがですか」
 唯継は慌忙あわただしく身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
 鏡面レンズに照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板たねいたを挿入さしいるれば、唯継は心得てその邇ちかきを避けたり。
 空を眺むる宮が目の中うちには焚もゆらんやうに一種の表情力充満みちみちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣きぬは唐松からまつの翠みどりの下蔭したかげに章あやを成して、秋高き清遠の空はその後に舗しき、四脚よつあしの雪見燈籠を小楯こだてに裾の辺あたりは寒咲躑躅かんざきつつじの茂しげみに隠れて、近きに二羽の鵞がの汀みぎはに𩛰あさるなど、寧むしろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面レンズを開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽たちまち頽くづれて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破がばと伏しぬ。

第五章

 遊佐良橘ゆさりようきつは郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗すこぶる謹直を以もて聞えしに、却かへりて、日本周航会社に出勤せる今日こんにち、三百円の高利の為に艱なやまさるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外おもてを張らざるべからざる為の遣繰やりくりなるべしと言ひ、或ものは隠遊かくれあそびの風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂いふべからざる事情の下に連帯の印いんを仮かせしが、形かたの如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受うくると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田かまだ鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助かざはやくらのすけとあるのみ。
 凡およそ高利の術たるや、渇者かつしやに水を売るなり。渇の甚はなはだしく堪たへ難き者に至りては、決してその肉を割さきてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値あたひ玉漿ぎよくしようを盛るに異る無し。故ゆゑに前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒いゆるに及びては、玉漿なりとして喜び吃きつせしものは、素もと下水の上澄うはずみに過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾しぼりその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫ああ、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借かるは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以もて、高利は借かるべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹かかれる哉かなと、彼は人の為ながら常にこの憂うれひを解く能あたはざりき。 近きに郷友会きようゆうかいの秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰かへるさを彼等は三人みたり打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走ごちそうと云つては無いけれど、松茸まつだけの極新ごくあたらしいのと、製造元から貰もらつた黒麦酒くろビイルが有るからね、鶏とりでも買つて、寛ゆつくり話さうぢやないか」
 遊佐が弄まさぐれる半月形の熏豚ハムの罐詰かんづめも、この設まうけにとて途みちに求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊とまりが知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対たいに成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然しかし、どうもその長足のちやうはてう(貂)足らず、続つぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然すつかりフロックが止とまつた? ははははは、それはお目出度めでたいやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明あきらかに一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声しわかれごゑして大笑たいしようを発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖たてキュウをして二寸三分クロオスを裂やぶかなければ可けません」
蒲「三たび臂ひぢを折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖たてキュウの極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳あとびきの手際てぎはも知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処あすこの主翁おやぢがさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失なくなる……」
蒲「穿得うがちえて妙だ」
風「チョオクの多少は業わざの巧拙には関せんよ。遊佐が無闇むやみに杖キュウを取易とりかへるのだつて、決して見みとも好くはない」
 蒲田は手もて遽にはかに制しつ。
「もう、それで可い。他ひとの非を挙げるやうな者に業わざの出来た例ためしが無い。悲い哉かな君達の球も蒲田に八十で底止とまりだね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇いくつで来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉かなだ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 語ことばも訖をはらざるに彼は傍腹ひばらに不意の肱突ひぢつきを吃くらひぬ。
「あ、痛いた! さう強く撞つくから毎々球が滾ころげ出すのだ。風早の球は暴あらいから癇癪玉かんしやくだまと謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔やはらかいから蒟蒻玉こんにやくだま。それで、二人の撞くところは電公かみなりと蚊帳かやが捫択もんちやくしてゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度たんとも行かんが、天狗てんぐの風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじと諍あらがひし末、直ただちに一番の勝負をいざいざと手薬煉てぐすね引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛ゆつくり出来るさ。帰つて風呂にでも入いつて、それから徐々そろそろ始めやうよ」
 往来繁ゆききしげき町を湯屋の角より入いれば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑まじりながら閑静に、家並やなみ整へる中程に店蔵みせぐらの質店しちやと軒ラムプの並びて、格子木戸こうしきどの内を庭がかりにしたる門かどに楪葉ゆづりはの立てるぞ遊佐が居住すまひなる。 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出いで来きたりて、伴へる客あるを見て稍やや打惑へる気色けしきなりしが、遽にはかに笑ゑみを含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤とがめられて、彼はいよいよ困こうじたるなり。
「唯今ただいま些ちよいと塞ふさがつてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば傱々づかづかと長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵わにぶちから参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些ちよいとお会ひなすつて、早く還かへしてお了しまひなさいましな」
「松茸まつだけはどうした」
 妻はこの暢気のんきなる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒くろビイルな……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私わたしは那奴あいつが居ると思ふと不快いやな心持で」
 遊佐も差当りて当惑の眉まゆを顰ひそめつ。二階にては例の玉戯ビリアアドの争あらそひなるべし、さも気楽に高笑たかわらひするを妻はいと心憎く。
 少間しばしありて遊佐は二階に昇り来きたれり。
蒲「浴ゆに一つ行かうよ。手拭てぬぐひを貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
 実げに言ふが如く彼は心穏こころおだやかならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸アイスが来てをるのだよ」
蒲「那物えてものが来たのか」
遊「先から座敷で帰来かへりを待つてをつたのだ。困つたね!」
 彼は立ちながら頭かしらを抑へて緩ゆるく柱に倚よれり。
蒲「何とか言つて逐返おつかへして了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍ひねくねした皮肉な奴でね、那奴あいつに捉つかまつたら耐たまらん」
蒲「二三円も叩たたき付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々たびたびなのでね、他むかふは書替を為させやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
 風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮ふるつて」
「これは外の談判と違つて唯金銭かねづくなのだから、素手すでで飛込むのぢや弁の奮ふるひやうが無いよ。それで忽諸まごまごすると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀すけだちを為るから」
 いと難むづかしと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎しをれてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯すくつて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可いかない。ああ云ふ風だから益ますます脚下あしもとを見られて好い事を為れるのだ。高が金銭かねの貸借かしかりだ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼おそれるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利アイスを貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利あんりや無利息なんぞを借りるから見れば、夐はるかに以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭かねに窮こまらんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為すまいし、名誉に於て傷きずつくところは少しも無い」「恐入りました、高利アイスを借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利アイスを借りるなどは、紳士たるもののいとも慚はづべき行おこなひと為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未いまだ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能あたはざるなりだらう。宋そうの時代であつたかね、何か乱が興おこつた。すると上奏に及んだものがある、これは師いくさを動かさるるまでもない、一人いちにんの将を河上かじようへ遣つかはして、賊の方かたに向つて孝経こうきようを読せられた事ならば、賊は自おのづから消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目まじめで孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割てんびきしわりと吃くつて一月隔おきに血を吮すはれる。そんな無法な目に遭あひながら、未いまだ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利アイスは貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族けだものさ」
 得意の快弁流るる如く、彼は息をも継つがせず説来とききたりぬ。
「濡ぬれぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未いまだ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな悞あやまりだ。それは勿論もちろん借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物いちぶつにして一物ならずだよ。武士の魂たましひと商人あきんど根性とは元是これ一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容ゆるさんことは、武士の魂と敢あへて異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人あきんどにあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利アイスなどを借りん内は武士の魂よ、既に対高利たいアイスとなつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟つまりは敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利アイスを借りて、栄と為るに足れりと謂いふに至つては……」
 蒲田は恐縮せる状さまを作なして、
「それは少し白馬は馬に非あらずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕いつぴ深く探る蛟鰐こうがくの淵えんと出掛けやうか」
「空拳くうけんを奈いかんだらう」
 一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独ひとり臥ねつ起きつ安否の気遣きづかはれて苦き無聊ぶりように堪へざる折から、主あるじの妻は漸やうやく茶を持ち来りぬ。
「どうも甚はなはだ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
 彼はその美き顔を少く赧あかめて、
「はい、あの居間へお出いでで、紙門越ふすまごしに様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥はづかしくてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「私わたくしはもう彼奴あいつが参りますと、惣毛竪そうけだつて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭いやに陰気な韌々ねちねちした、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
 急足いそぎあしに階子はしごを鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
 と上端あがりはなに坐れる妻の背後うしろを過すぐるとて絶したたかその足を蹈付ふんづけたり。「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
 骨身に沁しみて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺おしこらへつつ、さり気無く挨拶あいさつせるを、風早は見かねたりけん、
「不相変あひかはらず麁相そそつかしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌あわてたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「落付おちつかれる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸アイスと云ふのは、誰たれだと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面つらを蹈んだ」
「でも仕合しあはせと皮の厚いところで」
「怪けしからん!」
 妻の足の痛いたみは忽たちまち下腹に転うつりて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
 敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た⁈」
「さう! 驚いたらう」
 彼は長き鼻息を出して、空むなしく眼まなこを瞪みはりしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
 別して呆あきれたるは主あるじの妻なり。彼は鈍おぞましからず胸の跳をどるを覚えぬ。同じ思は二人が面おもてにも顕あらはるるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友ごほうゆうなのでございますか」
 蒲田は忙せはしげに頷うなづきて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「夙かねて学校を罷やめてから高利貸アイスを遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和ごくおとなしい男で、高利貸アイスなどの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚うそだらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚うそと想ふのです」
「本ほんにさうでございますね」
 少すこしき前に起ちて行きし風早は疑うたがひを霽はらして帰り来きたれり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影おもかげがあるだらう」
「エッセクスを逐払おつぱらはれた時の面影だ。然し彼奴あいつが高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業いんごうな事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
 主あるじの妻はその美き顔を皺しわめたるなり。
蒲「随分酷ひどうございますか」
妻「酷うございますわ」
 こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽にはかに取りて飲干し、
「然し間であるのが幸さいはひだ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕あこぎなことは言ひもすまい。次手ついでに何とか話を着けて、元金もときんだけか何かに負けさして遣らうよ。那奴あいつなら恐れることは無い」
 彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩けんかに行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些ちつと気凛きりつとするが可い、帯の下へ時計の垂下ぶらさがつてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主あるじの妻は傍かたはらより、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様はばかりさまです。些ちよつと身支度に婦人の心添こころぞへを受けるところは堀部安兵衛ほりべやすべえといふ役だ。然し芝居でも、人数にんずが多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」「馬鹿な! 間はざま如きに」
「急に強くなつたから可笑をかしい。さあ。用意は好いいよ」
「此方こつちも可いい」
 二人は膝を正して屹きと差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討かたきうちの門出かどでだ。互に交す茶盃ちやさかづきか」

第六章

 座敷には窘くるしめる遊佐と沈着おちつきたる貫一と相対して、莨盆たばこぼんの火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍かたはらに茶托ちやたくの上に伏せたる茶碗ちやわんは、嘗かつて肺病患者と知らで出いだせしを恐れて除物のけものにしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
 遊佐は憤いきどほりを忍べる声音こわねにて、
「それは出来んよ。勿論もちろん朋友ほうゆうは幾多いくらも有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
 貫一の声は重きを曳ひくが如く底強く沈みたり。
「敢あへて困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私わたくしの方が立ちません。何方どちらとも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固もとより貴方あなたがお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些ほんの名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼よしみとして、何方どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟つまり名義だけあれば宜よろしいので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決けしてその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉かどが付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先ひとまづ句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
 遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「何方どなたでも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関かかはるやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押さしおさへです」
 遊佐は強しひて微笑を含みけれど、胸には犇ひしと応こたへて、はや八分の怯気おじけ付きたるなり。彼は悶もだえて捩断ねぢきるばかりにその髭ひげを拈ひねり拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金はしたがねで貴方あなたの御名誉を傷きずつけて、後来御出世の妨碍さまたげにもなるやうな事を為るのは、私の方でも決けして可好このましくはないのです。けれども、此方こちらの請求を容いれて下さらなければ已やむを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金もときんの上に借用当時から今日こんにちまでの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強なにがし、それと合がつして五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費つかつたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書かかされる! 余あんまり馬鹿々々しくて話にならん。此方こつちの身にも成つて少しは斟酌しんしやくするが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」 空嘯そらうそぶきて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
 遊佐は陰ひそかに切歯はがみをなしてその横顔を睨付ねめつけたり。
 彼も逭のがれ難き義理に迫りて連帯の印捺いんつきしより、不測の禍わざはひは起りてかかる憂き目を見るよと、太いたく己おのれに懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸かくることもやと、断じて貫一の請求を容いれざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷きはまるとともに貫一もこの場は一寸いつすんも去らじと構へたれば、遊佐は羂わなに係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無いはれなき責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜ひるがへりて一点の人情無き賤奴せんどの虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴あれ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日はつかにお払ひ下さるべきのを、未いまだにお渡わたしが無いのですから、何日いつでも御催促は出来るのです」
 遊佐は拳こぶしを握りて顫ふるひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空むなしく帰るその日当及び俥代くるまだいとして下すつたから戴きました。ですから、若もしあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金うちきんでなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足むだあしを踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜よろしい訳なのです。まあ、過去つた事は措おきまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「今日こんにちはその事で上つたのではないのですから、今日こんにちの始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有おつしやるのですな」
「出来ん!」
「で、金きんも下さらない?」
「無いから遣れん!」
 貫一は目を側めて遊佐が面おもてを熟じと候うかがへり。その冷ひややかに鋭き眼まなこの光は異あやしく彼を襲ひて、坐そぞろに熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽たちまち吾に復かへれるやうに覚えて、身の危あやふきに処をるを省みたり。一時を快くする暴言も竟つひに曳ひかれ者ものの小唄こうたに過ぎざるを暁さとりて、手持無沙汰てもちぶさたに鳴なりを鎮めつ。
「では、何いつごろ御都合が出来るのですか」
 機を制して彼も劣らず和やはらぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢しかと相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜よろしうございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰おつしやるところは少しも有りはしません、その代り何分なんぶんか今日こんにちお遣つかはし下さい」
 かく言ひつつ手鞄てかばんを開きて、約束手形の用紙を取出とりいだせり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少わづかで宜よろしいので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円かねは有りはせん」「それぢや、どうも」
 彼は遽にはかに躊躇ちゆうちよして、手形用紙を惜めるやうに拈ひねるなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
 折から紙門ふすまを開きけるを弗ふと貫一の睼みむかふる目前めさきに、二人の紳士は徐々しづしづと入来いりきたりぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各おのおの心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少すこしく座を動ゆるぎて容かたちを改めたり。紳士は上下かみしもに分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作なせり。
蒲「どうも曩さきから見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
 貫一は愕然がくぜんとして二人の面おもてを眺めたりしが、忽たちまち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出おもひいだせるなり。
「これはお珍めづらしい。何方どなたかと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲まうかりませう」
 貫一は打笑うちゑみて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
 彼の毫いささかも愧はづる色無きを見て、二人は心陰こころひそかに呆あきれぬ。侮あなどりし風早もかくては与くみし易やすからず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然しかし思切つた事を始めましたね。君の性質で能よくこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業わざぢやありませんな」
 これ実に真人間にあらざる人の言ことばなり。二人はこの破廉耻はれんちの老面皮ろうめんぴを憎しと思へり。
蒲「酷ひどいね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私わたしのやうな者が憖なまじひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷やめるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧やはり真人間で居てもらひたいね」
 風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名うきなの聒やかましかつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
 貫一は知らざる為まねしてゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
 よしその旧友の前に人間の面おもてを赧あかめざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨うらやましい」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印ごいんを願ひます」
 彼は矢立やたての筆を抽ぬきて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些ちよつと、その手形はどう云ふのですね」
 貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤ごもつとも、そこで少しお話を為たい」
 蒲田は姑しばらく助太刀の口を噤つぐみて、皺嗄声しわがれごゑの如何いかに弁ずるかを聴かんと、吃余すひさしの葉巻を火入ひいれに挿さして、威長高ゐたけだかに腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱あつかひをして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼たのみと思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
 彼も答へず、これも少時しばしは言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
「究竟つまり君の方に損の掛らん限は減まけてもらひたいのだ。知つての通り、元金もとこの借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処そこは能よく解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹かかつたので、如何いかにも気の毒な次第。ところで、図はからずも貸主が君と云ふので、轍鮒てつぷの水を得たる想おもひで我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間はざまとして、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙かねて話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林とおばやしが従来これまで三回に二百七十円の利を払つて在ある。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金もときんだけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」 貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費つかはずに空くうに出るのだから随分辛つらい話、君の方は未まだ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競くらべを為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前たちまへにはなつてゐる、此方こつちは三百九十円の全損まるぞんだから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
「全まるでお話にならない」
 秋の日は短みじかしと謂いはんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面おもてを注視せし風早と蒲田との眼まなこは、更に相合うて瞋いかれるを、再び彼方あなたに差向けて、いとど厳きびしく打目戍うちまもれり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印ごいんを願ひませう。日限にちげんは十六日、宜よろしうございますか」
 この傍若無人の振舞に蒲田の怺こらへかねたる気色けしきなるを、風早は目授めまぜして、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方ほうが付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所いつしよに沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関かかる大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何いかにとも手の着けやうが無い。対手あいてが君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯すくふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然まるまる損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決けしてさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
「私わたくしは鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日こんにちはまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
 遊佐はその独ひとりに計ひかねて覚束おぼつかなげに頷うなづくのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒いかりはこの時衝つくが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸すくして頼んでゐるのぢやないか、銭貰ぜにもらひが門かどに立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然しかるべき挨拶あいさつを為たまへ」
「お話がお話だから可然しかるべき御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間はざま! 貴様の頭脳あたまは銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然しかるべき挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節たしなめと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人ぬすつとの兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧あかい顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑ぶべつしたこの有様を、荒尾譲介あらおじようすけに見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟おととを殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱ふさいでゐたぞ。その一言いちごんに対しても少しは良心の眠ねむりを覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順おとなしく帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方あなたがたがそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為なすつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形かたはそれで一先ひとまづ附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
 蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜よろしい」「ではさう為なすつて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦じつかねんぷは」
「ええ? 常談ぢやありません」
 さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑せせらわらひしつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日内うちに篤とくと話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰おつしやるで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外ほかへ廻るで急ぎますから、お話は後日寛ゆつくり伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方あなた御承諾なすつて置きながら今になつて遅々ぐづぐづなすつては困ります」
蒲「疫病神やくびようがみが戸惑とまどひしたやうに手形々々と煩うるさい奴だ。俺おれが始末をして遣らうよ」
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
 かかる事は能よく知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈はずは無い」
 貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂かけて、
「九十円が元金もときん、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利アイスの定法じようほうです」
 音もせざれど遊佐が胆は潰つぶれぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
 蒲田は物をも言はず件くだんの手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶なほも引裂き引裂き、引捩ひきねぢりて間が目先に投遣なげやりたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為なさるのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
 彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰こころひそかに懼おそれを作なして、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
 蒲田は仡きつと膝ひざを前すすめて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
 彼の鬼臉こはもてなるをいと稚をさなしと軽かろしめたるやうに、間はわざと色を和やはらげて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方あなたも折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私わたくし如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副あひそはんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為なさい」
 蒲田が腕かひなは電光の如く躍をどりて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴もろつかみに無図むずと捉とりたり。
「間、貴様は……」
 捩向ねぢむけたる彼の面おもてを打目戍うちまもりて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠かぶつて煖炉ストオブの前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼ああ、順おとなしい間を、と力抜ちからぬけがして了ふ。貴様これが人情だぞ」
 鷹たかに遭あへる小鳥の如く身動みうごきし得為えせで押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然あはれと見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間はざまと思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼よしみを思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自おのづから別問題……」
 彼は忽ち吭迫のどつまりて言ふを得ず、蒲田は稍やや強く緊しめたるなり。「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸いきが止るぞ」
 貫一は苦しさに堪たへで振釈ふりほどかんと捥もがけども、嘉納流かのうりゆうの覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信まかせたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴あらくするなよ」
 蒲田は哄然こうぜんとして大笑たいしようせり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝すいこでんにある図だらう。惟おもふに、凡およそ国利を護まもり、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜へちまの皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争あらそひは抑そもそも誰たれの手で公明正大に遺憾無いかんなく決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰いはく戦たたかひ!」
風「もう釈ゆるしてやれ、大分だいぶ苦しさうだ」
蒲「強国にして辱はづかしめられた例ためしを聞かん、故ゆゑに僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷ひどい目に遭せると、僕の方へ報むくつて来るから、もう舎よしてくれたまへな」
 他ひとの言ことばに手は弛ゆるめたれど、蒲田は未いまだ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
「吭のどを緊められても出す音ねは変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面つらを五百円の紙幣束さつたばでお撲たたきなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
 油断せる貫一が左の高頬たかほを平手打に絶したたか吃くらはすれば、呀あと両手に痛を抑おさへて、少時しばしは顔も得挙えあげざりき。蒲田はやうやう座に復かえりて、
「急には此奴こいつ帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為せう」
「さあ、それも可よからう」
 独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨うまくないね。さうして形が付かなければ、何時いつまでだつて帰りはせんよ。酒が仕舞しまひになつてこればかり遺のこられたら猶なほ困る」
「宜よろしい、帰去かへりには僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
 と彼は横手を拍うちて不意に呌さけべば、
「ええ、吃驚びつくりする、何だ」
「憶出おもひだした。間の許婚いひなづけはお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日こんにちぢや大きに日済ひなしなどを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為さしちや可かんよ。けれども高利貸アイスなどは、これで却かへつて女子をんなには温やさしいとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪むさぼる所以ゆゑんの者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀えようがして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺さんたんと努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨かねを殖こしらへるやうだがな、譬たとへば、軍用金を聚あつめるとか、お家の宝を質請しちうけするとか。単に己おのれの慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多おほくのガリガリ亡者もうじやは論外として、間貫一に於おいては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存そんするのだらう」 秋の日は忽たちまち黄昏たそがれて、稍やや早けれど燈ともしを入るるとともに、用意の酒肴さけさかなは順を逐おひて運び出いだされぬ。
「おつと、麦酒ビイルかい、頂戴ちようだい。鍋なべは風早の方へ、煮方は宜よろしくお頼み申しますよ。うう、好い松茸まつだけだ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白ましろで、庖丁ほうちようが軋きしむやうでなくては。今年は不作はづれだね、瘠やせてゐて、虫が多い、あの雨が障さはつたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯貨かねが欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃いつぱい飲んで、今日は機嫌きげん好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
「私わたくしは酒は不可いかんのです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
 差付けらるるを推除おしのくる機はずみに、コップは脆もろくも蒲田の手を脱すべれば、莨盆たばこぼんの火入ひいれに抵あたりて発矢はつしと割れたり。
「何を為る!」
 貫一も今は怺こらへかねて、
「どうしたと!」
 やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板むないたを衝つかれて、一耐ひとたまりもせず仰様のけさまに打僵うちこけたり。蒲田はこの隙ひまに彼の手鞄てかばんを奪ひて、中なる書類を手信てまかせに掴出つかみだせば、狂気の如く駈寄かけよる貫一、
「身分に障さはるぞ!」と組み付くを、利腕捉ききうでとつて、
「黙れ!」と捩伏ねぢふせ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴そいつを取つて了ひ給へ」
 これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余あまりに暴なるを快こころよしと為ざるなりき。貫一は駭おどろきて、撥返はねかへさんと右に左に身を揉むを、蹈跨ふんまたがりて捩揚ねぢあげ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期ごに及んで! 躊躇ちゆうちよするところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
 手を出しかねたる二人を睨廻ねめまはして、蒲田はなかなか下に貫一の悶もだゆるにも劣らず、独ひとり業ごうを沸にやして、効無かひなき地鞴ぢただらを踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善よくない、善くない」
「善いいも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を懵然ぼんやりしてゐるのだ」
 彼はほとほと慄をののきて、寧むしろ蒲田が腕立うでだての紳士にあるまじきを諌いさめんとも思へるなり。腰弱き彼等の与くみするに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入いりながら手を空むなしうする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上ねぢあぐれば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒やかましい。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独ひとりで遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」 かく言捨てて蒲田は片手して己おのれの帯を解かんとすれば、時計の紐ひもの生憎あやにくに絡からまるを、躁あせりに躁りて引放さんとす。
風「独ひとりでどうするのだよ」
 彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴こいつを蹈縛ふんじばつて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏おだやかでないから、それだけは思ひ止とまり給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴こいつの言ふ事が!」
 間は苦くるしき声を搾しぼりて、
「きつと話を付けるから、この手を釈ゆるしてくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方こつちの要求を容いれるか」
間「容れる」
 詐いつはりとは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫ちからくじけて、竟つひに貫一を放ちてけり。
 身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚かきあつめ、鞄かばんを拾ひてその中に捩込ねぢこみ、さて慌忙あわただしく座に復かへりて、
「それでは今日こんにちはこれでお暇いとまをします」
 蒲田が思切りたる無法にこの長居は危あやふしと見たれば、心に恨は含みながら、陽おもてには克かなはじと閉口して、重ねて難題の出いでざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱げすあつかひに呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容いれん内は、今度は此方こつちが還かへさんぞ」
 膝推向ひざおしむけて迫寄つめよる気色けしきは、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮さつきから散々の目に遭あはされて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座ちようざをいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
 忽たちまち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑あざわらひして、
「間、貴様は犬の糞くそで仇かたきを取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今これから毎いつでも蒲田が現れて取挫とりひしいで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇かたきは取らない」
「利きいた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処そこまで送らう」
 遊佐と風早とは起ちて彼を送出おくりいだせり。主あるじの妻は縁側より入いり来きたりぬ。
「まあ、貴方あなた、お蔭様で難有ありがたう存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些ちよつと壮士そうし芝居といふところを」
「大相宜よろしい幕でございましたこと。お酌を致しませう」
 件くだんの騒動にて四辺あたりの狼藉ろうぜきたるを、彼は効々かひかひしく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来いりくるを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛ごゆるり召上つて下さいまし」
 妻の喜は溢あふるるばかりなるに引易ひきかへて、遊佐は青息あをいき呴つきて思案に昏くれたり。
「弱つた! 君がああして取緊とつちめてくれたのは可いが、この返報に那奴あいつどんな事を為るか知れん。明日あしたあたり突然どんと差押さしおさへなどを吃くはせられたら耐たまらんな」「余り蒲田が手酷てひどい事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々はらはらしてゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前あとさきを考へて遣つてくれなくては他迷惑はためいわくだらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
 蒲田は袂たもとの中を撈かいさぐりて、揉皺もめしわみたる二通の書類を取出とりいだしつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
 何ならんと主あるじの妻も鼻の下を延べて窺うかがへり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
 彼は先づその一通を取りて披見ひらきみるに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
 二人は蒲田が案外の物持てるに驚おどろかされて、各おのおの息を凝こらして瞪みはれる眼まなこを動さず。蒲田も無言の間うちに他の一通を取りて披ひらけば、妻はいよいよ近ちかづきて差覗さしのぞきつ。四箇よつの頭顱かしらはラムプの周辺めぐりに麩ふに寄る池の鯉こひの如く犇ひしと聚あつまれり。
「これは三百円の証書だな」
 一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前さきなる遊佐良橘の名をも署しるしたり、蒲田は弾機仕掛ばねじかけのやうに躍をどり上りて、
「占めた! これだこれだ」
 驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤しやもの鉢はちの中にすつぱと落入り、乗出す膝頭ひざがしらに銚子ちようしを薙倒なぎたふして、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋きんの活動はたらきを失へるやうにて幾度いくたびも捉とらへ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽たちまち胸塞むねふたがりて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈ふむところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ‼ 難有ありがたい!!!」
 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六むつの目を以もて子細にこれを点検して、その夢ならざるを明あきらめたり。
「君はどうしたのだ」
 風早の面おもてはかつ呆あきれ、かつ喜び、かつ懼をそるるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒ビイルの満まんを引きし蒲田は「血は大刀に滴したたりて拭ぬぐふに遑いとまあらざる」意気を昂あげて、
「何と凄すごからう。奴を捩伏ねぢふせてゐる中に脚あしで掻寄かきよせて袂たもとへ忍ばせたのだ――早業はやわざさね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝きようげべつでんさ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治たいじる材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘ねらふ敵かたきの証書ならんとは、全く天の善に与くみするところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方こつちへ取つて了へば、三百円は蹈ふめるのかね」
蒲「大蹈おほふめ! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無さしつかへない。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本せいほんさへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動じたばたしたつて『河童かつぱの皿に水の乾かわいた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然まるまる蹈むのもさすがに不便ふびんとの思召おぼしめしを以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜よろしく樽爼そんその間かんに折衝して、遊佐家を泰山たいざんの安きに置いて見せる。嗚呼ああ、実に近来の一大快事だ!」 人々の呆あきるるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴おしいただき推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方あなたが音頭おんどをお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
 小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒らち開けんといふに励されて、さては一生の怨敵おんてき退散の賀いはひと、各おのおの漫そぞろに前すすむ膝を聚あつめて、長夜ちようやの宴を催さんとぞ犇ひしめいたる。

第七章

 茫々ぼうぼうたる世間に放れて、蚤はやく骨肉の親むべき無く、況いはんや愛情の温あたたむるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然かいぜんとして横よこたはる石の如きものなるべし。彼が鴫沢しぎさわの家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔やはらかき手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽たのしみをも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊あきたらず、母の一部分となし、妹いもとの一部分となし、或あるひは父の、兄の一部分とも為なして宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒まどひに値せしなり、故ゆゑに彼の恋は青年を楽む一場いちじようの風流の麗うるはしき夢に似たる類たぐひならで、質はその文ぶんに勝てるものなりけり。彼の宮に於おけるは都すべての人の妻となすべき以上を妻として、寧むしろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自みづからはその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時いちじに花を着くる心地して、曩さきの枯野に夕暮れし石も今将はた水に温ぬくみ、霞かすみに酔ゑひて、長閑のどかなる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃こまやかになり勝まされる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙たやすく宮を奪はれし貫一が心は如何いかなりけん。身をも心をも打委うちまかせて詐いつはることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己おのれに反そむきて、空むなしく他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何いかなりけん。彼はここに於いて曩さきに半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥せいりようを感ずるのみにて止とどまらず、失望を添へ、恨を累かさねて、かの塊然たる野末のずゑの石は、霜置く上に凩こがらしの吹誘ひて、皮肉を穿うがち来きたる人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已やまざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞かつて与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併あはせて取去られしなり。
 彼は或あるひはその恨を抛なげうつべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦ひとたび太いたくその心を傷きずつけられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶ともに存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強しふる痛苦は、能よく彼の痛苦と相剋あひこくして、その間かん聊いささか思おもひを遣るべき余地を窃ぬすみ得るに慣れて、彼は漸やうやく忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵けいてきに遇あひ、悪徒に罹かかりて、或は弄もてあそばれ、或は欺かれ、或は脅おびやかされ勢いきほひ毒を以つて制し、暴を以つて易かふるの已やむを得ざるより、一いつはその道の習に薫染して、彼は益ますます懼おそれず貪むさぼるに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻むちうつやうに募ることありて、心も消々きえきえに悩まさるる毎に、齷齰あくさく利を趁おふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐おもはざるにあらず。唯その一旦にして易やすく、又今の空むなしき死を遂とげ了をはらんをば、いと効為かひなしと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度ひとたび前さきの失望と恨とを霽はらし得て、胸裡きようりの涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨とぐが如く為ざらん、その夕ゆふべぞ我は正まさに死ぬべきと私ひそかに慰むるなりき。 貫一は一いつはかの痛苦を忘るる手段として、一いつはその妄執もうしゆうを散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪むさぼれるなり。知らず彼がその夕ゆふべにして瞑めいせんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐ふくしゆうの小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少すこしく事の大きく男らしくあらんをば企図きとせるなり。然れども、痛苦の劇はげしく、懐旧の恨に堪たへざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆かこちぬ。
「唉ああ、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐はるかに勝ましだ。死んでさへ了へば万慮空むなしくこの苦艱くげんは無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易やすいが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨かねが有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今俺おれの貯たくはへた貨かねは、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂いふだらう。俺には無い! 第一貨かねなどを持つてゐるやうな気持さへ為せんぢやないか。失望した身にはその望を取復とりかへすほどの宝は無いのだ。唉ああ、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑わびて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜けがされた宮は、決して旧もとの宮ではなければ、もう間はざまの宝ではない。間の宝は五年前ぜんの宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋こひしいのは宮だ。かうしてゐる間まも宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫ああ、鴫沢の宮! 五年前ぜんの宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲えられんのだ! 思へば貨かねもつまらん。少すくないながらも今の貨かねが熱海へ追つて行つた時の鞄かばんの中に在つたなら……ええ‼」
 頭かしらも打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能あたはざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見たずみの底に逍遙しようようせし富山が妻との姿は、双々そうそう貫一が身辺を彷徨ほうこうして去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮かさざること仇敵きゆうてきの如く、債務を逼せまりて酷を極きはむるなり。退しりぞいてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽たちまち勢に駆られて断行するを憚はばからざるなり。かくして彼の心に拘かかつらふ事あれば、自おのづから念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素もとより彼は正せいを知らずして邪を為し、是ぜを喜ばずして非ひを為すものにあらざれば、己おのれを抂まげてこれを行ふ心苦しさは俯ふして愧はぢ、仰ぎて懼おそれ、天地の間に身を置くところは、纔わづかにその容いるる空間だに猶濶なほひろきを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐はるかに忍ぶの易く、体たいのまた胖ゆたかなるをさへ感ずるなりけり。
 一向ひたぶるに神しんを労し、思を費して、日夜これを暢のぶるに遑いとまあらぬ貫一は、肉痩にくやせ、骨立ち、色疲れて、宛然さながら死水しすいなどのやうに沈鬱し了をはんぬ。その攅あつめたる眉まゆと空むなしく凝こらせる目とは、体力の漸やうやく衰ふるに反して、精神の愈いよいよ興奮するとともに、思の益ますます繁しげく、益す乱るるを、従ひて芟かり、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟つひに如何いかに為せばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤つややかなりし髪は、後脳の辺あたりに若干そくばくの白きを交まじへて、額に催せし皺しわの一筋長く横よこたはれるぞ、その心の窄せばまれる襞ひだならざるべき、況いはんや彼の面おもてを蔽おほへる蔭は益ますます暗きにあらずや。 吁ああ、彼はその初一念を遂とげて、外面げめんに、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜おつるを得たりけるなり。貪欲界どんよくかいの雲は凝こりて歩々ほほに厚く護まもり、離恨天りこんてんの雨は随所直ただちに灑そそぐ、一飛いつぴ一躍出でては人の肉を啖くらひ、半生半死入いりては我と膓はらわたを劈つんざく。居をる所は陰風常に廻めぐりて白日を見ず、行けども行けども無明むみようの長夜ちようや今に到るまで一千四百六十日、逢あへども可懐なつかしき友の面おもてを知らず、交まじはれども曾かつて情なさけの蜜みつより甘きを知らず、花咲けども春日はるびの麗うららかなるを知らず、楽来たのしみきたれども打背うちそむきて歓よろこぶを知らず、道あれども履ふむを知らず、善あれども与くみするを知らず、福さいはひあれども招くを知らず、恵あれども享うくるを知らず、空むなしく利欲に耽ふけりて志を喪うしなひ、偏ひとへに迷執に弄もてあそばれて思を労つからす、吁ああ、彼は終つひに何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸やうやく同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目しよくもくせざるはあらずなりぬ。
 かの堪たふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻しきりなる厳談酷促げんだんこくそくは自おのづから此処ここに彼処かしこに債務者の怨うらみを買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡すくなからず、同業者といへども時としては彼の余あまりに用捨無きを咎とがむるさへありけり。独ひとり鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出いださざるを誇れるなり。彼は己おのれの今日こんにちあるを致せし辛抱と苦労とは、未いまだ如此かくのごとくにして足るものならずとて、屡しばしばその例を挙げては貫一を𠹤そそのかし、飽くまで彼の意を強うせんと勉つとめき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然の理ことわりにて、己おのれの為なすところは都すべての同業者の為すところにて、己一人おのれいちにんの残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此かくのごとく残刻ならざるべからずと念おもへるなり。故ゆゑに彼は決して己の所業のみ独ひとり怨うらみを買ふべきにあらずと信じたり。
 実げに彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛からうじてその半なかばを想ひ得る残刻と、終つひに学ぶ能あたはざる譎詐きつさとを左右にして、始めて今日こんにちの富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐きつさとを擅ほしいままにして、なほ天に畏おそれず、人に憚はばからざる不敵の傲骨ごうこつあるにあらず。彼は密ひそかに警いましめて多く夜出いでず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝をしまず、唯これ身の無事を祈るに汲々きゆうきゆうとして、自ら安ずる計はかりごとをなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正まさにこの信心の致すところと仕へ奉る御神おんかみの冥護みようごを辱かたじけなみて措おかざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐きつさとに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯きよならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一いつも曾かつて犯せる事のあらざりしに、天は却かへりて己を罰し人は却りて己を詐いつはり、終生の失望と遺恨とは濫みだりに断膓だんちようの斧をのを揮ふるひて、死苦の若しかざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼おそるべき無しと為せるならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自みづからの心のみなりけり。
第八章

 用談果つるを俟まちて貫一の魚膠無にべなく暇乞いとまごひするを、満枝は暫しばしと留置とどめおきて、用有りげに奥の間にぞ入いりたる。その言ことばの如く暫し待てども出いで来こざれば、又巻莨まきたばこを取出とりいだしけるに、手炉てあぶりの炭は狼おほかみの糞ふんのやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座たんざに毛糸の敷物したる石笠いしがさのラムプの燄ほのほを仮りて、貫一は為せう事無しに煙けふりを吹きつつ、この赤樫あかがしの客間を夜目ながら眗みまはしつ。
 袋棚ふくろだななる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬しつぽうやきまがひの一輪挿いちりんざし、蝋石ろうせきの飾玉を水色縮緬みづいろちりめんの三重みつがさねの褥しとねに載せて、床柱なる水牛の角の懸花入かけはないれは松に隼はやぶさの勧工場蒔絵まきゑ金々きんきんとして、花を見ず。鋳物いものの香炉の悪古わるふるびに玄くすませたると、羽二重はぶたへ細工の花筐はなかたみとを床に飾りて、雨中うちゆうの富士をば引攪旋ひきかきまはしたるやうに落墨して、金泥精描の騰竜のぼりりゆうは目貫めぬきを打つたるかとばかり雲間くもまに耀かがやける横物よこものの一幅。頭かしらを回めぐらせば、楣間びかんに黄海こうかい大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅すみには二鉢ふたばちの菊を据ゑたり。
 やや有りて出来いできたれる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸えりかけたる小袖こそでに納戸なんど小紋の縮緬の羽織着て、七糸しつちんと黒繻子くろじゆすとの昼夜帯して、華美はでなるシオウルを携へ、髪など撫付なでつけしと覚おぼしく、面おもても見違ふやうに軽く粧よそほひて、
「大変失礼を致しました。些ちよつと私わたくしも其処そこまで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」
 無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼よしみに貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
 満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
 聴き飽きたりと謂いはんやうに彼は取合はで、
「それぢや参りませう。貴方あなたは何方どちらまでお出いでなのですか」
「私わたくしは大横町おおよこちようまで」
 二人は打連れて四谷左門町よつやさもんちようなる赤樫の家を出いでぬ。伝馬町通てんまちようどおりは両側の店に燈ともしを列つらねて、未まだ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚はなはだしければ、往来ゆききも稀まれに、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜よろしいぢやございませんか。それではお話が達とどきませんわ」
 彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄すりよりて歩めり。「これぢや私わたくしが歩き難にくいです」
「貴方お寒うございませう。私お鞄かばんを持ちませう」
「いいや、どういたして」
「貴方あなた恐入りますが、もう少し御緩ごゆつくりお歩きなすつて下さいましな、私呼吸いきが切れて……」
 已やむ無く彼は加減して歩めり。満枝は着重きおもるシォウルを揺上ゆりあげて、
「疾とうから是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些ちよつともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶たまにはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而せんだつてのやうな事は再び申上げませんから。些ちといらしつて下さいましな」
「は、難有ありがたう」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
「御機嫌伺ごきげんうかがひの」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
「では、恋こひしい時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞ことわりをします」
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵わにぶちさんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
 唯と見れば伝馬町てんまちよう三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒まかんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為せずして立住たちどまりつ。
「それぢや私はここで失礼します」
 その不意に出いでて貫一の闇くらき横町に入いるを、
「あれ、貴方あなた、其方そちらからいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂さびしい道をお出いでなさらなくても、此方こつちの方が順ではございませんか」
 満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方こつちが余程近いのですから」
「幾多いくらも違ひは致しませんのに、賑にぎやかな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附みつけの所までお送り申しますから」
「貴方に送つて戴いただいたつて為やうが無い。夜が更ふけますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転ためごかしを有仰おつしやらなくても宜よろしうございます」
 かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識しらずしらず其方そなたに歩ませられし満枝は、やにはに立竦たちすくみて声を揚げつ。
「ああ! 間さん些ちよつと」
「どうしました」
「路悪みちわるへ入つて了しまつて、履物はきものが取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へお出いでなさらんが可いのに」
 彼は渋々寄り来きたれり。
「憚様はばかりさまですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
 シォウルの外に援たすけを求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は踽よろめきつつ泥濘ぬかるみを出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて摚どうと貫一に靠もたれたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方あなたの所為せゐでございますよ」
「馬鹿なことを」
 彼はこの時扶たすけし手を放たんとせしに、釘付くぎつけなどにしたらんやうに曳ひけども振れども得離れざるを、怪しと女の面おもてを窺うかがへるなり。満枝は打背うちそむけたる顔の半なかばをシオウルの端はしに包みて、握れる手をば弥いよいよ固く緊しめたり。「さあ、もう放して下さい」
 益ますます緊めて袖そでの中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
 女は一語ひとことも言はず、面も背けたるままに、その手は益ますます放たで男の行く方かたに歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、後うしろから人が来る」
「宜よろしうございますよ」
 独語ひとりごつやうに言ひて、満枝は弥いよいよ寄添ひつ。貫一は怺こらへかねて力任せに吽うんと曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、痛いた! そんな酷ひどい事をなさらなくても、其処そこの角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
 と暴あららかに引払ひつぱらひて、寄らんとする隙ひまもあらせず摩脱すりぬくるより足を疾はやめて津守坂つのかみざかを驀直ましぐらに下りたり。
 やうやう昇れる利鎌とかまの月は乱雲らんうんを芟かりて、逈はるけき梢こずゑの頂いただきに姑しばらく掛れり。一抹いちまつの闇やみを透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割かたわれとは、懶ものうく寝覚めたるやうに覚束おぼつかなき形を顕あらはしぬ。坂上なる巡査派出所の燈ともしは空むなしく血紅けつこうの光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終つひに見えず。

(八)の二

 片側町かたかはまちなる坂町さかまちは軒並のきなみに鎖とざして、何処いづこに隙洩すきもる火影ひかげも見えず、旧砲兵営の外柵がいさくに生茂おひしげる群松むらまつは颯々さつさつの響を作なして、その下道したみちの小暗をぐらき空に五位鷺ごいさぎの魂切たまきる声消えて、夜色愁ふるが如く、正まさに十一時に垂なんなんとす。
 忽たちまち兵営の門前に方あたりて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者くせものに囲れたるなり。一人いちにんは黒の中折帽の鐔つばを目深まぶかに引下ひきおろし、鼠色ねずみいろの毛糸の衿巻えりまきに半面を裹つつみ、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿したばき高々と尻褰しりからげして、黒足袋くろたびに木裏の雪踏せつたを履はき、六分強ろくぶづよなる色木いろきの弓の折をれを杖つゑにしたり。他は盲縞めくらじまの股引ももひき腹掛はらがけに、唐桟とうざんの半纏はんてん着て、茶ヅックの深靴ふかぐつを穿うがち、衿巻の頬冠ほほかぶりに鳥撃帽子とりうちぼうしを頂きて、六角に削成けずりなしたる檳榔子びんろうじの逞きステッキを引抱ひんだき、いづれも身材みのたけ貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼わかものどもなり。「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に障ささへて、
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手あひてにならう。物取ならば財かねはくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
 答は無くて揮下ふりおろしたる弓の折は貫一が高頬たかほほを発矢はつしと打つ。眩めくるめきつつも迯にげ行くを、猛然と追迫おひせまれる檳榔子は、件くだんの杖もて片手突に肩の辺あたりを曳えいと突いたり。踏み耐こたへんとせし貫一は水道工事の鉄道レイルに跌つまづきて仆たふるるを、得たりと附入つけいる曲者は、余あまりに躁はやりて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方あなたに反跳はずみを打ちて投飛されぬ。入替いりかはりて一番手の弓の折は貫一の背そびらを袈裟掛けさがけに打据ゑければ、起きも得せで、崩折くづをるるを、畳みかけんとする隙ひまに、手元に脱捨ぬぎすてたりし駒下駄こまげたを取るより早く、彼の面おもてを望みて投げたるが、丁ちようと中あたりて痿ひるむその時、貫一は蹶起はねおきて三歩ばかりも逭のがれしを打転うちこけし檳榔子の躍をどり蒐かかりて、拝打をがみうちに下おろせる杖は小鬢こびんを掠かすり、肩を辷すべりて、鞄かばん持つ手を断ちぎれんとすばかりに撲うちけるを、辛からくも忍びてつと退のきながら身構みがまへしが、目潰吃めつぶしくらひし一番手の怒いかりを作なして奮進し来きたるを見るより今は危あやふしと鞄の中なる小刀こがたな撈かいさぐりつつ馳出はせいづるを、輙たやすく肉薄せる二人が笞しもとは雨の如く、所嫌ところきらはぬ滅多打めつたうちに、彼は敢無あへなくも昏倒こんとうせるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴こいつおれの鼻面はなづらへ下駄を打着けよつた、ああ、痛いた」
 衿巻掻除かきのけて彼の撫なでたる鼻は朱あけに染みて、西洋蕃椒たうがらしの熟つえたるに異らず。
檳「おお、大変な衂はなぢですぜ」
 貫一は息も絶々ながら緊しかと鞄を掻抱かきいだき、右の逆手さかてに小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉ろうぜきに及ばば為せんやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体ていを装よそほひ、直呻ひたうめきにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分撲うつたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
 かくて曲者は間近の横町に入いりぬ。辛からうじて面おもてを擡あげ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通いたみに、精神漸やうやく乱れて、屡しばしば前後を覚えざらんとす。


後編



第一章

 翌々日の諸新聞は坂町さかまちに於ける高利貸アイス遭難の一件を報道せり。中うちに間はざま貫一を誤りて鰐淵直行わにぶちただゆきと為せるもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識しらざる読者は湯屋の喧嘩けんかも同じく、三ノ面記事の常套じようとうとして看過みすごすべく、何の遑いとまかその敵手あひての誰々たれたれなるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利きかずなるまで撃踣うちのめされざりしを本意無ほいなく思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為なせる業わざならんとは、諸新聞の記しるせる如く、人も皆思ふところなりけり。
 直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協あはせて貫一の災難を悲かなしみ、何程の費つひえをも吝をしまず手宛てあての限を加へて、少小すこしの瘢きずをも遺のこさざらんと祈るなりき。
 股肱ここうと恃たのみ、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打やみうちのやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見みせしめの為に、彼が入院中を目覚めざましくも厚く賄まかなひて、再び手出しもならざらんやう、陰かげながら卑怯者ひきようものの息の根を遏とめんと、気も狂くるはしく力を竭つくせり。
 彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出いで来きたるべきを思過おもひすごして、若もしさるべからんには如何いかにか為すべき、この悲しさ、この口惜くちをしさ、この心細さにては止やまじと思ふに就けて、空可恐そらおそろしく胸の打騒ぐを禁とどめ得ず。奉公大事ゆゑに怨うらみを結びて、憂き目に遭あひし貫一は、夫の禍わざはひを転じて身の仇あだとせし可憫あはれさを、日頃の手柄に増して浸々しみじみ難有ありがたく、かれを念おもひ、これを思ひて、絶したたかに心弱くのみ成行くほどに、裏に愧はづること、懼おそるること、疚やましきことなどの常に抑おさへたるが、忽たちまち涌立わきたち、跳出をどりいでて、その身を責むる痛苦に堪たへざるなりき。
 年久く飼かはるる老猫ろうみようの凡およそ子狗こいぬほどなるが、棄てたる雪の塊かたまりのやうに長火鉢ながひばちの猫板ねこいたの上に蹲うづくまりて、前足の隻落かたしおとして爪頭つまさきの灰に埋うづもるるをも知らず、齁いびきをさへ掻かきて熟睡うまいしたり。妻はその夜の騒擾とりこみ、次の日の気労きづかれに、血の道を悩める心地ここちにて、懵々うつらうつらとなりては驚かされつつありける耳元に、格子こうしの鐸ベルの轟とどろきければ、はや夫の帰来かへりかと疑ひも果てぬに、紙門ふすまを開きて顕あらはせる姿は、年紀としのころ二十六七と見えて、身材たけは高からず、色やや蒼あをき痩顔やせがほの険むづかしげに口髭逞くちひげたくましく、髪の生おひ乱れたるに深々ふかふかと紺ネルトンの二重外套にじゆうまわしの襟えりを立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁べつこうぶちの眼鏡を挿はさみて、稜かどある眼色まなざしは見る物毎に恨あるが如し。 妻は思設けぬ面色おももちの中に喜を漾たたへて、
「まあ直道ただみちかい、好くお出いでだね」
 片隅かたすみに外套がいとうを脱捨つれば、彼は黒綾くろあやのモオニングの新あたらしからぬに、濃納戸地こいなんどじに黒縞くろじまの穿袴ズボンの寛ゆたかなるを着けて、清きよらならぬ護謨ゴムのカラ、カフ、鼠色ねずみいろの紋繻子もんじゆすの頸飾えりかざりしたり。妻は得々いそいそ起ちて、その外套を柱の折釘をりくぎに懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父おとつさんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕おどろいて飛んで来たのです。容体ようだいはどうです」
 彼は時儀を叙のぶるに迨およばずして忙せはしげにかく問出とひいでぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作なさりはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我おほけがを為なすつて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれは間はざまさ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭いやだね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然ちやんとさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之さつき病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来かへりだらう。まあ寛々ゆつくりしてお在いでな」
 かくと聞ける直道は余あまりの不意に拍子抜して、喜びも得為えせず唖然あぜんたるのみ。
「ああ、さうですか、間が遣やられたのですか」
「ああ、間が可哀かあいさうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」
「どんなです、新聞には余程劇ひどいやうに出てゐましたが」
「新聞に在る通だけれど、不具かたはになるやうな事も無いさうだが、全然すつかり快よくなるには三月みつきぐらゐはどんな事をしても要かかるといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父おとつさんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛てあては十分にしてあるのだから、決して気遣きづかひは無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少し摧くだけたとかで、手が緩縦ぶらぶらになつて了しまつたの、その外紫色の痣あざだの、蚯蚓腫めめずばれだの、打切ぶつきれたり、擦毀すりこはしたやうな負傷きずは、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部あたまを撲ぶたれたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つてお在いでださうだけれど、今のところではそんな塩梅あんばいも無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込かつぎこんだ時は半死半生で、些ほんの虫の息が通つてゐるばかり、私わたしは一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね」
「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました」
「何ととは?」
「間が闇打やみうちにされた事を」
「いづれ敵手あひては貸金かしきんの事から遺趣を持つて、その悔し紛まぎれに無法な真似まねをしたのだらうつて、大相腹を立ててお在いでなのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人おとなしい人だから、つまらない喧嘩けんかなぞを為る気遣きづかひはなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更なほさら気の毒で、何とも謂いひやうが無い」「間は若いから、それでも助るのです、阿父おとつさんであつたら命は有りませんよ、阿母おつかさん」
「まあ可厭いやなことをお言ひでないな!」
 浸々しみじみ思入りたりし直道は徐しづかにその恨うらめしき目を挙げて、
「阿母さん、阿父さんは未まだこの家業をお廃やめなさる様子は無いのですかね」
 母は苦しげに鈍り鈍りて、
「さうねえ……別に何とも……私わたしには能よく解らないね……」
「もう今に応報むくいは阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭あつたのは、決して人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
「それは言ふも可いけれど、従来これまでも随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些ちつともお聴きではないぢやないか。とても他ひとの言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑つぶつてお在いでよ、よ」
「私わたしだつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑つぶつてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没なくなして了しまひたいと熟つくづく思ふのです。噫ああ、こんな事なら未まだ親子で乞食をした方が夐はるかに可い」
 彼は涙を浮べて倆うつむきぬ。母はその身も倶ともに責めらるる想して、或あるひは可慚はづかしく、或は可忌いまはしく、この苦くるしき位置に在るに堪たへかねつつ、言解かん術すべさへ無けれど、とにもかくにも言はで已やむべき折ならねば、辛からうじて打出うちいだしつ。
「それはもうお前の言ふのは尤もつともだけれど、お前と阿父おとつさんとは全まるで気合きあひが違ふのだから、万事考量かんがへが別々で、お前の言ふ事は阿父さんの肚はらには入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂いふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応にお財かねも出来たのだから、かう云ふ家業は廃やめて、楽隠居になつて、お前に嫁を貰もらつて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなに慍おこられるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然うつかりした事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀かあいさうではあり、さうかと云つて何方どつちをどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
 さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、憖なまじひ言合つてお互に心持を悪くするのが果おちだから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便たよりだか知れやしないのだから、究竟つまりはお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又阿父おとつさんの方にも其処そこには了簡りようけんがあつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
 それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと却かへつて善くないから、今日は窃そつとして措おいておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」
 実げに母は自ら言へりし如く、板挾いたばさみの難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道を諭さとすなりき。彼は涙の催すに堪たへずして、鼻目鏡はなめがねを取捨てて目を推拭おしぬぐひつつ猶咽むせびゐたりしが、「阿母おつかさんにさう言れるから、私は不断は怺こらへてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭あつたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
 母はその一念に脅おびやかされけんやうにて漫そぞろ寒きを覚えたり。洟打去はなうちかみて直道は語ことばを継ぎぬ。
「然し私わたしの仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚けがれた家業を為るのを見てゐるのが可厭いやだ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何いかにも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在いででせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処いつしよに居たらさぞ好からうとは……」
「それは、私は猶なほの事です。こんな内に居るのは可厭いやだ、別居して独ひとりで遣る、と我儘わがままを言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのは誰たれのお陰かと謂へば、皆みんな親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父おとつさんを踏付にしたやうな行おこなひを為るのは、阿母おつかさん能々よくよくの事だと思つて下さい。私は親に悖さからふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを嫌きらふのぢやないが、私は金貸などと云ふ賤いやしい家業が大嫌だいきらひなのです。人を悩なやめて己おのれを肥こやす――浅ましい家業です!」
 身を顫ふるはして彼は涙に掻昏かきくれたり。母は居久いたたまらぬまでに惑へるなり。
「親を過すごすほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目めんぼくも無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに乾ひもじい思はきつと為させませんから、破屋あばらやでも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を差さされず、罪も作らず、怨うらみも受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は貨かねが有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして拵こしらへた貨かね、そんな貨かねが何の頼たのみになるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上しんじようは一代持たずに滅びます。因果の報う例ためしは恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業は廃やめるに越した事はありません。噫ああ、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」
 積悪の応報覿面てきめんの末を憂うれひて措おかざる直道が心の眼まなこは、無残にも怨うらみの刃やいばに劈つんざかれて、路上に横死おうしの恥を暴さらせる父が死顔の、犬に蹋けられ、泥に塗まみれて、古蓆ふるむしろの陰に枕まくらせるを、怪くも歴々まざまざと見て、恐くは我が至誠の鑑かがみは父が未然を宛然さながら映し出いだして謬あやまらざるにあらざるかと、事の目前まのあたりの真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつと迸ほとばしる哭声なきごゑは、咬緊くひしむる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏くれたる折しも、門かどに俥くるまの駐とどまりて、格子の鐸ベルの鳴るは夫の帰来かへりか、次手ついで悪しと胸を轟とどろかして、直道の肩を揺り動うごかしつつ、声を潜めて口早に、「直道、阿父さんのお帰来かへりだから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方あつちへ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
 はや足音は次の間に来きたりぬ。母は慌あわてて出迎に起たてば、一足遅れに紙門ふすまは外より開れて主あるじ直行の高く幅たき躯からだは岸然のつそりとお峯の肩越かたごしに顕あらはれぬ。

(一)の二

「おお、直道か珍いの。何時いつ来たのか」
 かく言ひつつ彼は艶々つやつやと赭あからみたる鉢割はちわれの広き額の陰に小く点せる金壺眼かねつぼまなこを心快こころよげに瞪みひらきて、妻が例の如く外套がいとうを脱ぬがするままに立てり。お峯は直道が言ことばに稜かどあらんことを慮おもひはかりて、さり気無く自ら代りて答へつ。
「もう少し先さつきでした。貴君あなたは大相お早かつたぢやありませんか、丁度好よございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」
「いや、仕合しあはせと想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
 黒一楽くろいちらくの三紋みつもん付けたる綿入羽織わたいればおりの衣紋えもんを直して、彼は機嫌きげん好く火鉢ひばちの傍そばに歩み寄る時、直道は漸やうやく面おもてを抗あげて礼を作なせり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
 梭櫚しゆろの毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭くちひげを掻拈かいひねりて、太短ふとみじかなる眉まゆを顰ひそむれば、聞ゐる妻は呀はつとばかり、刃やいばを踏める心地も為めり。直道は屹きと振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高ゐたけだかになりけるが、父の面おもてを見し目を伏せて、さて徐しづかに口を開きぬ。
「今朝新聞を見ましたところが、阿父おとつさんが、大怪我を為なすつたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」
 白髪しらがを交まじへたる茶褐色ちやかつしよくの髪の頭かしらに置余るばかりなるを撫なでて、直行は、
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。俺おれならそんな場合に出会うたて、唯々おめおめ打うたれちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手あひてにしてくれるが」
 直道の隣に居たる母は密ひそかに彼のコオトの裾すそを引きて、言ことばを返させじと心着づくるなり。これが為に彼は少しく遅ためらひぬ。
「本ほんにお前どうした、顔色かほつきが良うないが」
「さうですか。余り貴方あなたの事が心配になるからです」
「何じや?」
「阿父さん、度々たびたび言ふ事ですが、もう金貸は廃やめて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
「廃めなければならんやうになつて廃めるのは見みつともない。今朝貴方あなたが半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、私わたしはどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうに為させなかつたのを熟つくづく後悔したのです。幸さいはひに貴方は無事であつた、から猶更なほさら今日は私の意見を用ゐて貰もらはなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐おそろしいから廃めると謂ふのぢやありません、正ただしい事で争つて殞おとす命ならば、決けして辞することは無いけれど、金銭づくの事で怨うらみを受けて、それ故ゆゑに無法な目に遭あふのは、如何いかにも恥曝はぢさらしではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具かたはにも為されなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。 こんな家業を為せんでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾つまはぢきをされて、無理な財かねを拵こしらへんければならんのですか。何でそんなに金が要いるのですか。誰にしても自身に足りる以外の財かねは、子孫に遺のこさうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子ひとりつこ、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日こんにち無用の財を貯たくはへる為に、人の怨を受けたり、世に誚そしられたり、さうして現在の親子が讐かたきのやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為なすつてゐるのではないでせう。
 私のやうなものでも可愛かはいいと思つて下さるなら、財産を遺のこして下さる代かはりに私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」
 父が前に頭かしらを低たれて、輙たやすく抗あげぬ彼の面おもては熱き涙に蔽おほはるるなりき。
 些さも動ずる色無き直行は却かへつて微笑を帯びて、語ことばをさへ和やはらげつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉うれしいけど、お前のはそれは杞憂きゆうと謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳あたまで実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚そしりのと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉そねみ、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍あはれまるるじや。何家業に限らず、財かねを拵こしらへる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財かねの有る奴で評判の好ええものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自おのづから心持も違うて、財かねなどをさう貴たつといものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可ええか。実業家の精神は唯財ただかねじや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲ほしがる財じや、何ぞ好ええところが無くてはならんぢやらう。何処どこが好ええのか、何でそんなに好ええのかは学者には解らん。
 お前は自身に供給するに足るほどの財かねがあつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量かんがへじやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可ええと満足して了うてからに手を退ひくやうな了簡りようけんであつたら、国は忽たちまち亡ほろぶるじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中こくちゆう若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
 俺にそんなに財かねを拵こしらへてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為せん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟つまり財を拵へるが極きはめて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好ええ加減に為せい、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
 お前は能ようこの家業を不正ぢやの、汚けがらはしいのと言ふけど、財を儲まうくるに君子の道を行うてゆく商売が何処どこに在るか。我々が高利の金を貸す、如何いかにも高利じや、何為なぜ高利か、可ええか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐いつはつて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚けがらはしいか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯すくはにや措おかれんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則すなはち営業の魂たましひなんじや。 財かねといふものは誰でも愛して、皆獲やうと念おもうとる、獲たら離すまいと為しとる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総すべての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲かねまうけする者は皆不正な事をしとるんじや」
 太いたくもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡しばしば直道の顔を偸視ぬすみみて、あはれ彼が理窟りくつもこれが為に挫くじけて、気遣きづかひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私ひそかに懽よろこべり。
 直道は先まづ厳おごそかに頭かしらを掉ふりて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私わたしは決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入つけいつて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! 譬たとへば間が災難に遭あつた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃くはしたのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返いしゆがへしの為方とお思ひなさるか。卑劣極きはまる奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」
 彼は声を昂あげて逼せまれり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮しづめて、
「どうですか」
「勿論もちろん」
「勿論? 勿論ですとも! 何奴なにやつか知らんけれど、実に陋きたない根性、劣けちな奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設たとひその手段は如何いかにあらうとも」
 父は騒がず、笑ゑみを含みて赤き髭ひげを弄まさぐりたり。
「卑劣と言れやうが、陋きたないと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺つかみころしても遣りたいほど悔くやしいのは此方こつちばかり。
 阿父おとつさんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方あなたがお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」
 又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言ことばをもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理ことわりの覿面てきめん当然なるに口を開かんやうも無きにと、心慌あわてつつ夫の気色を密ひそかに窺うかがひたり。彼は自若として、却かへつてその子の善く論ずるを心に愛めづらんやうの面色おももちにて、転うたた微笑を弄ろうするのみ。されども妻は能よく知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡しばしばするを。彼は今それか非あらぬかを疑へるなり。
 蒼あをく羸やつれたる直道が顔は可忌いまはしくも白き色に変じ、声は甲高かんだかに細りて、膝ひざに置ける手頭てさきは連しきりに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来これまでも度々たびたび言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父おとつさんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在いでは無からうけれど、考出かんがへだすと勉強するのも何も可厭いやになつて、吁ああ、いつそ山の中へでも引籠ひつこんで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤いやしんで、附合ふのも耻はぢにしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞きかされる心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終つひには容いれられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方こつちに大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺みちばたに餓死かつゑじにするのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎うとまれてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」 眼まなこは痛恨の涙を湧わかして、彼は覚えず父の面おもてを睨にらみたり。直行は例の嘯うそぶけり。
 直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言ことばを止やめず。
「今度の事を見ても、如何いかに間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方あなたの手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎にくみはどんなであるか言ふに忍びない」
 父は忽たちまち遮さへぎりて、
「善し、解つた。能よう解つた」
「では私の言ことばを用ゐて下さるか」
「まあ可ええ。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。然しかし、爾なんぢは爾たり、吾は吾たりじや」
 直道は怺こらへかねて犇ひしと拳こぶしを握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空あだには思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉まげて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更なほさら劇えらい目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
 はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりや辱かたじけないが、ま、当分俺の躯からだは俺に委まかして置いてくれ」
 彼は徐しづかに立上りて、
「些ちよつとこれから行いて来にやならん処があるで、寛ゆつくりして行くが可ええ」
 忽忙そそくさと二重外套にじゆうまわしを打被うちかつぎて出いづる後より、帽子を持ちて送おくれる妻は密ひそかに出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺しわめて、
「俺が居ると面倒ぢやから、些ちよつと出て来る。可ええやうに言うての、還かへしてくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方あなた、私わたしだつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
「可よくはありません、私は困りますよ」
 お峯は足摩あしずりして迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
 さすがに争ひかねてお峯の渋々佇たたずめるを、見も返らで夫は驀地まつしぐらに門かどを出でぬ。母は直道の勢に怖おそれて先にも増してさぞや苛さいなまるるならんと想へば、虎とらの尾をも履ふむらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯と見れば、直道は手を拱こまぬき、頭かしらを低たれて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食ひるだが、お前何をお上りだ」
 彼は身転みじろぎも為せざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束おぼつかなげに顔を挙あげて、
「阿母おつかさん!」
 その術無じゆつなき声は謂知いひしらず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭まくらもとに居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
 異あやしくも遽にはかに名残なごりの惜をしまれて、今は得も放はなたじと心牽こころひかるるなり。「もうお中食ひるだから、久しぶりで御膳ごぜんを食べて……」
「御膳も吭のどへは通りませんから……」

第二章

 主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外ほか、身辺に事あらざる暇いとまに乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
 一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択えらびて富山の家に輿入こしいれしたりき。その場より貫一の失踪しつそうせしは、鴫沢一家しぎさわいつけの為に物化もつけの邪魔払じやまばらひたりしには疑無うたがひなかりけれど、家内かないは挙こぞりてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠こめて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺よるべあらぬ貫一が身の安否を慮おもひはかりて措おく能あたはざりしなり。
 気強くは別れにけれど、やがて帰り来こんと頼めし心待も、終つひに空あだなるを暁さとりし後、さりとも今一度は仮初かりそめにも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬あふせは有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方ゆくへは知られずして、その身の家を出いづべき日は潮うしほの如く迫れるに、遣方やるかたも無く漫そぞろ惑ひては、常に鈍おぞましう思ひ下せる卜者ぼくしやにも問ひて、後には廻合めぐりあふべきも、今はなかなか文ふみに便たよりもあらじと教へられしを、筆持つは篤まめなる人なれば、長き長き怨言うらみなどは告来つげこさんと、それのみは掌たなごころを指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言ことばは不幸にも過あやまたで、宮は彼の怨言うらみをだに聞くを得ざりしなり。
 とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念おもひ、それは愜かなはずなりてより、せめて一筆ひとふでの便たより聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾すべて違たがひて、さしも願はぬ一事いちじのみは玉を転ずらんやうに何等の障さはりも無く捗取はかどりて、彼が空むなしく貫一の便たよりを望みし一日にも似ず、三月三日は忽たちまち頭かしらの上に跳をどり来きたれるなりき。彼は終つひに心を許し肌身はだみを許せし初恋はつごひを擲なげうちて、絶痛絶苦の悶々もんもんの中うちに一生最も楽たのしかるべき大礼を挙げ畢をはんぬ。
 宮は実に貫一に別れてより、始めて己おのれの如何いかばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
 彼の出いでて帰らざる恋しさに堪たへかねたる夕ゆふべ、宮はその机に倚よりて思ひ、その衣きぬの人香ひとかを嗅かぎて悶もだえ、その写真に頬摩ほほずりして憧あくがれ、彼若もし己おのれを容いれて、ここに優き便たよりをだに聞きかせなば、親をも家をも振捨てて、直ただちに彼に奔はしるべきものをと念へり。結納ゆいのうの交かはされし日も宮は富山唯継を夫つまと定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終つひにその家に適ゆくべき身たるを忘れざりしなり。 ほとほと自らその緒いとぐちを索もとむる能あたはざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過あやまちを改め、操みさをを守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真まことに彼の胸に恃たのめる覚悟とてはあらざりき。恋佗わびつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強しひて今更否いなまんとするにもあらず、彼方かなたの恋こひしきを思ひ、こなたの富めるを愛をしみ、自ら決するところ無く、為すところ無くして空むなしき迷まよひに弄もてあそばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来きたるに会へるなり。
 この日よ、この夕ゆふべよ、更ふけて床盃とこさかづきのその期ごに迨およびても、怪あやしむべし、宮は決して富山唯継を夫つまと定めたる心は起らざるにぞありける、止ただこの人を夫つまと定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂おもへり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委まかすなり。故ゆゑに身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂おもへる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免まぬかる能あたはざる約束なるべきを信じて、寧むしろ深く怪むにもあらざりき。如此かくのごとくにして宮は唯継の妻となりぬ。
 花聟君はなむこぎみは彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙あげたり。宮はその身の上の日毎輝き勝まさるままに、いよいよ意中の人と私わたくしすべき陰無くなりゆくを見て、愈いよいよ楽まざる心は、夫つまの愛を承くるに慵ものうくて、唯ただ機械の如く事つかふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言ものいふ花の姿、温き玉の容かたちを一向ひたぶるに愛めで悦よろこぶ余に、冷ひややかに空むなしき器うつはを抱いだくに異らざる妻を擁して、殆ほとんど憎むべきまでに得意の頤おとがひを撫なづるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊みごもりて、翌年の春美き男子なんしを挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒いゆる日を竣またで、初子うひごはいと弱くて肺炎の為に歿みまかりにけり。
 子を生みし後も宮が色香はつゆ移うつろはずして、自おのづから可悩なやましき風情ふぜいの添そはりたるに、夫つまが愛護の念は益ますます深く、寵ちようは人目の見苦みぐるしきばかり弥いよいよ加くははるのみ。彼はその妻の常に楽たのしまざる故ゆゑを毫つゆも暁さとらず、始より唯その色を見て、打沈うちしづみたる生得うまれと独合点ひとりがてんして多く問はざるなりけり。
 かく怜いとしまれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有ありがたき人の情なさけに負そむきて、ここに嫁とつぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過あやまちは如何いかにすべきと、躬みづからその容ゆるし難きを慙はぢて、悲むこと太甚はなはだしかりしが、実げに親の所憎にくしみにや堪たへざりけん。その子の失うせし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年ふたとせの後のち、三年みとせの後、四年よとせの後まで異あやしくも宮はこの誓を全うせり。 次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに苦くるしめるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる効かひも思出もあらで、空むなしく籠鳥ろうちようの雲を望める身には、それのみの願なりし裕ゆたかなる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、却かへりてこの四年よとせが間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方ゆくへ知れざりし人の姿を田鶴見たずみの邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰おとさたをも聞かざりしなり。生家さとなる鴫沢しぎさわにては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無よしなき事を告ぐるが如き愚おろかなる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便たよりは絶れたりしなり。
 計らずもその夢寐むびに忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計いかばかりなりけんよ。饑うゑたる者の貪むさぼり食くらふらんやうに、彼はその一目にして四年よとせの求むるところを求めんとしたり。饜あかず、饜かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已やまん、と深くも念じたり。
 五番町なる鰐淵わにぶちといふ方かたに住める由は、静緒しずおより聞きつれど、むざとは文ふみも通はせ難く、道は遠からねど、独ひとり出でて彷徨さまよふべき身にもあらぬなど、克かなはぬ事のみなるに苦くるしかりけれど、安否を分わかざりし幾年いくとせの思に較くらぶれば、はや嚢ふくろの物を捜さぐるに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然つれづれを憂きに堪へざる余あまり、我心を遺のこる方かた無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、止ただかくも儚はかなき身の上と切なき胸の内とを独ひとり自ら愬うつたへんとてなり。

(二)の二

 宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる能あたはざるなり。更に見よ。歳々としどし廻来めぐりくる一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に烙やきがねして、彼の悔を新にするにあらずや。
「十年後のちの今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処どこかでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
 掩おほへども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかを試こころみしに、曾かつてその人の余所よそに泣ける徴しるしもあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共もろともに今は我をも思はでや、さては何処いづこに如何いかにしてなど、更に打歎うちなげかるるなりき。
 例のその日は四よたび廻めぐりて今日しも来きたりぬ。晴れたりし空は午後より曇りて少すこしく吹出ふきいでたる風のいと寒く、凡ただならず冷ひゆる日なり。宮は毎いつよりも心煩こころわづらはしきこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為したりしが、余あまりに思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
 益ますます寒威の募るに堪へざりければ、遽にはかに煖炉だんろを調ぜしめて、彼は西洋間に徙うつりぬ。尽ことごとく窓帷カアテンを引きたる十畳の間まは寸隙すんげきもあらず裹つつまれて、火気の漸やうやく春を蒸すところに、宮は体たいを胖ゆたかに友禅縮緬ゆうぜんちりめんの長襦袢ながじゆばんの褄つまを蹈披ふみひらきて、緋ひの紋緞子もんどんす張の楽椅子らくいすに凭よりて、心の影の其処そこに映るを眺ながむらんやうに、その美き目をば唯白く坦たひらなる天井に注ぎたり。 夫の留守にはこの家の主あるじとして、彼は事つかふべき舅姑きゆうこを戴いただかず、気兼すべき小姑こじうとを抱かかへず、足手絡あしてまとひの幼きも未まだ有らずして、一箇ひとりの仲働なかばたらきと両箇ふたりの下婢かひとに万般よろづの煩わづらはしきを委まかせ、一日何の為なすべき事も無くて、出いづるに車あり、膳ぜんには肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆悦よろこばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実げに世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正まさに己おのれのこの身の上なる哉かな、と宮は不覚そぞろ胸に浮べたるなり。
 嗟乎ああ、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余あまりに、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮きはめし楽たのしみも、五年いつとせの昔なりける今日の日に窮きはめし悲かなしみに易かふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息ためいきしたり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶ともに同じき楽たのしみを享うけんと願ひしに外ならざるを。若もし身の楽たのしみと心の楽たのしみとを併享あはせうくべき幸無さちなくて、必ずその一つを択えらぶべきものならば、孰いづれを取るべきかを知ることの晩おそかりしを、遣方やるかたも無く悔ゆるなりけり。
 この寒き日をこの煖あたたかき室しつに、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何いかに、と思到れる時、宮は殆ほとんど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜くちをしさを悶もだえては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面そともを何心無く打見遣うちみやれば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇はげしく動きて、宮は降頻ふりしきる雪に或言あることばを聴くが如く佇たたずめり。折から唯継は還来かへりきたりぬ。静に啓あけたる闥ドアの響は絶したたかに物思へる宮の耳には入いらざりき。氷の如く冷徹ひえわたりたる手をわりなく懐ふところに差入れらるるに驚き、咄嗟あなやと見向かんとすれば、後より緊しかと抱かかへられたれど、夫の常に飭たしなめる香水の薫かをりは隠るべくもあらず。
「おや、お帰来かへりでございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
 宮は楽椅子を夫に勧めて、躬みづからは煖炉ストオブの薪たきぎを焌くべたり。今の今まで貫一が事を思窮おもひつめたりし心には、夫なる唯継にかく事つかふるも、なかなか道ならぬやうにて屑いさぎよからず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、梢こずゑに宿れる雪、庭に布しく雪、見ゆる限の白妙しらたへは、我身に積める人の怨うらみの丈たけかとも思ふに、かくてあることの疚やましさ、切なさは、脂あぶらを搾しぼらるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その脚あしを八文字に踏展ふみはだけ、漸やうやく煖まれる頤おとがひを突反つきそらして、「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋よせなべで飲むんだね。寄鍋を取つて貰もらはう、寄鍋が好い。それから珈琲カフヒイを一つ拵こしらへてくれ、コニャックを些ちと余計に入れて」
 宮の行かんとするを、
「お前、行かんでも可いぢやないか、要いる物を取寄せてここで拵へなさい」
 彼の電鈴でんれいを鳴して、火の傍そばに寄来ると斉ひとしく、唯継はその手を取りて小脇こわきに挾はさみつ。宮は懌よろこべる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
「おまへどうした、何を鬱ふさいでゐるのかね」
 引寄せられし宮はほとほと仆たふれんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩するばかりにその顔を差覗さしのぞきて余念も無く見入りつつ、
「顔の色が甚はなはだ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い? どうしたんだな。それぢや、もつと爽然はつきりしてくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合じようあひが薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」
 忽たちまち闥ドアの啓あくと見れば、仲働なかばたらきの命ぜし物を持来もちきたれるなり。人目を憚はばからずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその傍そばを退のかんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ風ふりしつつ、器具と壜ボトルとをテエブルに置きて、直ぢきに退まかり出いでぬ。かく執念しゆうねく愛せらるるを、宮はなかなか憂うくも浅ましくも思ふなりけり。
 雪は風を添へて掻乱かきみだし掻乱し降頻ふりしきりつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜の漸やうやく来きたれるが最辱いとかたじけなき唯継の目尻なり。
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、俺おれにはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠ひつこんでをるのが宜よろしくないよ。この頃は些ちよつとも出掛けんぢやないか。さう因循いんじゆんしてをるから、益ますます陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴としばの奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為なぜ近頃は奥さんは些ちよつともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然まるつきり影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞しまひ込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しは衆ひとにも見せてお遣やんなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積ふくづみが当選したらう。俺も大おほいに与あづかつて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第すみしだい別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中れんじゆうを招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行であるかれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好よいけれど、然し、近頃のやうに籠こもつてばかり居をるのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年はんとしばかり経たつてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分彼地此地あちこち出たぢやないかね。
 善し、珈琲カフヒイ出来たか。うう熱い、旨うまい。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋は未まだか。うむ、彼方あつちに支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢ながひばちの相対さしむかひに限るんさ。 可いかね、福積の招待しようだいには吃驚びつくりさせるほど美うつくしくして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速拵こしらへやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装なりで、隆りゆうとして推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装なりにかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍ねぼけたのばかりは恐れるね。何為なぜあの被風ひふを着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
 明後日あさつては日曜だ、何処どこかへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原かしわばらの奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ度たびに聒やかましく催促するんで克かなはんよ。明日あしたは用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんと拙まづいて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日あさつて写しに行かう。直ずつと若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。
 善し、寄鍋が来た? さあ行かう」
 夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに姑しばらく窓の外面そともを窺うかがひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
「何を下くだらんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」

第三章

 宮は既に富むと裕ゆたかなるとに饜あきぬ。抑そもそも彼がこの家に嫁とつぎしは、惑深まどひふかき娘気の一図に、栄耀えいよう栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、殆ほとんど無用の物のやうに軽かろしめたりき。今やその願足りて、しかも遂つひに饜きたる彼は弥《いよい》よ夤まつはらるる愛情の煩わづらはしきに堪たへずして、寧むしろ影を追ふよりも儚はかなき昔の恋を思ひて、私ひそかに楽むの味あぢはひあるを覚ゆるなり。
 かくなりてより彼は自おのづから唯継の面前を厭いとひて、寂く垂籠たれこめては、随意に物思ふを懌よろこびたりしが、図らずも田鶴見たずみの邸内やしきうちに貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度ひとたびは絶えし恋ながら、なほ冥々めいめいに行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容かたちなるを、今もその独ひとりを守りて、時の到るを待つらんやうに思做おもひなさるるなりけり。
 その時は果して到るべきものなるか。宮は躬みづからの心の底を叩たたきて、答を得るに沮はばみつつも、さすがに又己おのれにも知れざる秘密の潜める心地ここちして、一面には覚束おぼつかなくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
 便すなはち宮の夫の愛を受くるを難堪たへがたく苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面レンズの前に悶絶もんぜつせし日よりにて、その恋しさに取迫とりつめては、いでや、この富めるに饜き、裕ゆたかなるに倦うめる家を棄つべきか、棄てよとならば遅ためらはじと思へるも屡々しばしばなりき。唯敢ただあへてこれを為せざるは、窃ひそかに望は繋かけながらも、行くべき方かたの怨うらみを解かざるを虞おそるる故ゆゑのみ。
 素もとより宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂おもへらく、吾夫わがをつとこそ当時恋と富との値あたひを知らざりし己を欺き、空むなしく輝ける富を示して、售うるべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他ひとに被きせて、彼は己を過あやまりしをば、全く夫の罪と為なせり。 この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍しのばるるに就つけて転うたた悪人の夫を厭ふこと甚はなはだしかり。無辜むこの唯継はかかる今宵の楽たのしみを授さづくるこの美き妻を拝するばかりに、有程あるほどの誠を捧げて、蜜みつよりも甘き言ことばの数々を咡ささやきて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいと能よく響きたる。
 その雪は明方になりて歇やみぬ。乾坤けんこんの白きに漂ひて華麗はなやかに差出でたる日影は、漲みなぎるばかりに暖き光を鋪しきて終日ひねもす輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来ゆききの妨碍さまたげもあらず、処々ところどころの泥濘ぬかるみは打続く快晴の天そらに曝さらされて、刻々に乾かわき行くなり。
 この雪の為に外出そとでを封ぜられし人は、この日和ひよりとこの道とを見て、皆怺こらへかねて昨日きのふより出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の宜よろしからぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折つづらをり、或あるは捏返こねかへせし汁粉しるこの海の、差掛りて難儀を極きはむるとは知らず、見渡す町通まちとほりの乾々干からからほしに固かたまれるに唆そそのかされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来ゆききの常より頻しきりなる午前十一時といふ頃、屈かがみ勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣ころも掛けたる車輪を可悩なやましげに転まろばして、黒綾くろあやの吾妻あづまコオト着て、鉄色縮緬てついろちりめんの頭巾づきんを領えりに巻きたる五十路いそぢに近き賤いやしからぬ婦人を載せたるが、南の方かたより芝飯倉通しばいいぐらとおりに来かかりぬ。
 唯有とある横町を西に切れて、某なにがしの神社の石の玉垣たまがきに沿ひて、だらだらと上のぼる道狭く、繁しげき木立に南を塞ふさがれて、残れる雪の夥多おびただしきが泥交どろまじりに踏散されたるを、件くだんの車は曳々えいえいと挽上ひきあげて、取着とつきに土塀どべいを由々ゆゆしく構へて、門かどには電燈を掲げたる方かたにぞ入いりける。
 こは富山唯継が住居すまひにて、その女客は宮が母なり。主あるじは疾とくに会社に出勤せし後にて、例刻に来きたれる髪結の今方帰行かへりゆきて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重もんはぶたへの肉色鹿子にくいろがのこを掛けたる大円髷おほまるわげより水は滴たるばかりに、玉の如き喉のどを白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気かぜけなどにや、連しきりに打咳うちしはぶきつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。その故ゆゑとも覚えず余あまりに著しるき面羸おもやつれは、唯一目に母が心を驚おどろかせり。 閑ひまある身なれば、宮は月々生家さとなる両親を見舞ひ、母も同じほど訪とひ音づるるをば、此上無こよなき隠居の保養と為るなり。信まことに女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎に大おほいなる手柄をも成したらんやうに吾が識しれるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合しあはせ薄くて、有様ありようは気の毒なる人達哉かな、と漫そぞろに己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山の門かどを入るは、正まさに人の母たる成功の凱旋門がいせんもんを過すぐる心地もすなるべし。
 可懐なつかしきと、嬉きと、猶なほ今一つとにて、母は得々いそいそと奥に導れぬ。久く垂籠たれこめて友欲き宮は、拯すくひを得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は密ひそかに貫一の報を齎もたらせるにはあらずやなど、枉まげても念じつつ、せめては愁うれひに閉ぢたる胸を姑しばらくも寛ゆるうせんとするなり。
 母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措おきて、先づ宮が血色の気遣きづかはしく衰へたる故を詰なじりぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の羸やつれたるを惧おそれつつも、
「さう? でも、何処どこも悪い所なんぞ有りはしません。余あんまり体を動いごかさないから、その所為せゐかも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱ふさいで鬱いで耐たまらない事があるの。あれは血の道と謂いふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診みてもらふ方が可いよ、放つて措おくから畢竟ひつきよう持病にもなるのさ」
 宮は唯頷うなづきぬ。
 母は不図思起してや、さも慌忙あわただしげに、
「後が出来たのぢやないかい」
 宮は打笑うちゑみつ。されども例の可羞はづかしとにはあらで傍痛かたはらいたき余を微見ほのみせしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日いつまでも沙汰さたが無くちや困るぢやないか。本当に未まだそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在いでだか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父おとつさんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍おこりきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭いやに落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先せんの内は子供が所好すきだつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
 宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専せんだよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診みてもらふのも変だし……けれどもね、阿母おつかさん、私は疾とうから言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快よくないの。その所為せゐで自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
 母のその目は瞪みはり、その膝ひざは前すすみ、その胸は潰つぶれたり。「どうしたのさ!」
 宮は俯うつむきたりし顔を寂しげに起して、
「私わたしね、去年の秋、貫一かんいつさんに逢つてね……」
「さうかい!」
 己だに聞くを憚はばかる秘密の如く、母はその応こたふる声をも潜めて、まして四辺あたりには油断もあらぬ気勢けはひなり。
「何処どこで」
「内の方へも全然まるきり爾来あれからの様子は知れないの?」
「ああ」
「些ちつとも?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
 かく纔わづかに応ふるのみにて、母は自ら湧わかせる万感の渦の裏うちに陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父おとつさんは内証で知つてお在いでぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
 宮はその梗概あらましを語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁のがれ得てし始末を詳つまびらかにするを俟まちて、始めて重荷を下したるやうに哱ほと息を咆つきぬ。実げに彼は熱海の梅園にて膩汗あぶらあせを搾しぼられし次手ついで悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍ふびんとも、惨いぢらしとも、今更に親心を傷いたむるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙しようげの或あるひは来きたるべきを案じて、母はなかなか心穏こころおだやかならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采なりをして、何だか大変羸やつれて、私も極きまりが悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄みすぼらしい様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵わにぶちとかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処そこに居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処いつしよに居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
 彼は襦袢じゆばんの袖そでの端はしに窃そと眶まぶたを挲すりて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
 母の顔色も異あやしき寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出おもひださない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭いやな夢なんぞを度々たびたび見るの。阿父おとつさんや、阿母おつかさんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難にくいやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終しよつちゆう苦になる所為せゐで気を傷いためるから体にも障さはるのぢやないかと、さう想ふのです」
 思凝おもひこらせるやうに母は或方を見据ゑつつ、言ことばは無くて頷うなづきゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧やつぱり鴫沢しぎさわの跡は貫一さんに取とらして下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方ゆきがたが知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直ぢきに分るのだから、それを抛はふつて措おいちや此方こつちが悪いから、阿父さんにでも会つて貰もらつて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通これまでどほりに内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家うちの跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃さかづきをして、何処までも生家さとの兄さんで、末始終力になつて欲いわ」 宮がこの言ことばは決して内に自ら欺き、又敢て外に他ひとを欺くにはあらざりき。影とも儚はかなく隔へだての関の遠き恋人として余所よそに朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀こひねがへるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能よくお言ひのさ、如何いかに何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古ほごにしたと云ふので、齢としの若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些ちつとは考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所どこを些ちつと考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵つらあてがましい仕打振をするつてが有るものかね。
 それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独ひとりで勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初かりそめにも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望のぞみなら洋行も為させやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰ばちも当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰まけに、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低さげないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方こつちには少しも無理は無い筈はずだのに、貫一が余あんまり身の程を知らな過すぎるよ。
 それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返おんがへしなら、行処ゆきどこの無い躯からだを十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
 全く、お前、貫一の為方しかたは増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛かはゆくはないのだからね、今更此方こつちから捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
 その不見識とやらを嫌きらふよりは、別に嫌ふべく、懼おそるべく、警いましむべき事あらずや、と母は私ひそかに慮おもひはかれるなり。
「阿父おとつさんや阿母おつかさんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅なくなるのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
 かく言出でし宮が胸は、ここに尽ことごとくその罪を懺悔ざんげしたらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、還かへつて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為せゐで体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐たまらない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂いつたら可いのだらう――私があんなに不仕合ふしあはせな身分にして了しまつたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐おそろしいやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外ほかには何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉うれしからうと、そんな事ばかり考へては鬱ふさいでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当さしあたり阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」 されども母は投首なげくびして、
「私の考量かんがへぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は凴拠あてにはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
 涙含なみだぐみつつ宮が焦心せきごころになれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
「可よかないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
 我にもあらで迸ほとばしる泣声を、つと袖に抑おさへても、宮は急来せきくる涙を止とどめかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑をかしな人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡りようけんがあるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父おとつさんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母おつかさんは私の心を知らないのだから、頼効たのみがひが無い、と謂いふのよ」
「多度たんとお言ひな」
「言ふわ」
 真顔作れる母は火鉢ひばちの縁ふちに丁とんと煙管きせるを撃はたけば、他行持よそゆきもちの暫しばらく乾からされて弛ゆるみし雁首がんくびはほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。

第四章

 頭部に受けし貫一が挫傷ざしようは、危あやふくも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体したいに数個所すかしよの傷部とともに、その免るべからざる若干そくばくの疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復こうふくの歩を趁おひて、可艱なやましげにも自ら起居たちゐを扶たすけ得る身となりければ、一日一夜を為なす事も無く、ベッドの上に静養を勉つとめざるべからざる病院の無聊ぶりようをば、殆ほとんど生きながら葬られたらんやうに倦うみ困こうじつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
 主治医も、助手も、看護婦も、附添婆つきそひばばも、受附も、小使も、乃至ないし患者の幾人も、皆目を側そばめて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁しげしげ病やまひを訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入しゆつにゆうするなれば、噂うはさは自おのづから院内に播ひろまりて、博士の某ぼうさへ終つひに唆そそのかされて、垣間見かいまみの歩をここに枉まげられしとぞ伝へ侍はべる。始の程は何者の美形びけいとも得知れざりしを、医員の中に例の困くるしめられしがありて、名著なうての美人びじクリイムと洩もらせしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦よろこばす種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
 さりとは彼の暁さとるべき由無けれど、何の廉かどもあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽おもてにして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂いへ、こは情なさけの掛※かけわなと知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人ひととなりを悪にくみて、その貌かたちの美きを見ず、その思切おもひせつなるを汲まんともせざるに、猶なほかつ主ぬしある身の謬あやまりて仇名あだなもや立たばなど気遣きづかはるるに就けて、貫一は彼の入来いりくるに会へば、冷き汗の湧出わきいづるとともに、創所きずしよの遽にはかに疼うづき立ちて、唯異ただあやしくも己おのれなる者の全く痺しびらさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤とがむれども効かひ無かりけり。実げに彼は日頃この煩わづらひを逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横よこたはれれば、宛然さながら爼板まないたに上れる魚うをの如く、空むなしく他の為すに委まかするのみなる仕合しあはせを、掻挘かきむしらんとばかりに悶もだゆるなり。 かかる苦くるしき枕頭まくらもとに彼は又驚くべき事実を見出みいだしつつ、飜ひるがへつて己を顧れば、測らざる累の既に逮およべる迷惑は、その藁蒲団わらぶとんの内に針はりの包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分さんぶを患わづらひて、内に却かへつて七分しちぶを憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念けねんせしが、果して鰐淵わにぶちは彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略ほぼ推すいし得たるなり。
 例の煩わづらしき人は今日も訪とひ来きつ、しかも仇あだならず意こころを籠こめたりと覚おぼしき見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付よせつけじとやうに彼方あなたを向きて、覚めながら目を塞ふさぎていと静に臥ふしたり。附添婆つきそひばばの折から出行いでゆきしを候うかがひて、満枝は椅子を躙にじり寄せつつ、
「間はざまさん、間さん。貴方あなた、貴方」
 と枕の端はしを指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方あなたへ廻り行きて、彼の寐顔ねがほを差覗さしのぞきつ。
「間さん」
 猶答へざりけるを、軽く肩の辺あたりを撼うごかせば、貫一はさるをも知らざる為まねはしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐なつかしげに差寄りたる態かたちを改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私わたくし貴方に些ちよつとお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在ゐらしつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
 彼の隔へだて無く身近に狎なるるを可忌うとましと思へば、貫一はわざと寐返ねがへりて、椅子を置きたる方かたに向直り、
「どうぞ此方こちらへ」
 この心を暁さとれる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇あつかはれながら、なほこの人を慕はでは已やまぬ我身かと、効かひ無くも余に軽く弄もてあそばるるを可愧はづかしうて佇たたずみたり。されども貫一は直すぐに席を移さざる満枝の為に、再び言ことばを費さんとも為せざりけり。
 気嵩きがさなる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「唉ああ、貴方には軽蔑けいべつされてゐる事を知りながら、何為なぜ私わたくし腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
 満枝は彼の枕を捉とらへて顫ふるひしが、貫一の寂然せきぜんとして眼まなこを閉ぢたるに益ますます苛いらだちて、
「余あんまり酷ひどうございますよ。間さん、何とか有仰おつしやつて下さいましな」
 彼は堪へざらんやうに苦にがりたる口元を引歪ひきゆがめて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有ありがた迷惑で……」
「何と有仰おつしやいます!」「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……‼」
 満枝は眉まゆを昂あげて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼まなこを塞ふたぎぬ。
 素もとより彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己おのれに対しては更に甚はなはだしきを加ふるをも善く知れり。満枝が手管てくだは、今その外おもてに顕あらはせるやうに決けして内に怺こらへかねたるにはあらず、かくしてその人と諍いさかふも、また愜かなはざる恋の内に聊いささか楽む道なるを思へるなり。涙微紅ほのあかめたる眶まぶたに耀かがやきて、いつか宿せる暁あかつきの葩はなびらに露の津々しとどなる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私わたくしも貴方に度々たびたび来て戴くのは甚はなはだ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶うつとしがつて、如何いかに何でもそんなに作なさるものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮こまつてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭いやなことを有仰おつしやつたのです。私些ちつともかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
 聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答うけこたへだに為せざるなり。
「実は疾とうからお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭いやな事を自分の口から吹聴らしく、却かへつて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵様さんのかれこれ有仰おつしやるのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮こまつてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁にげてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁しげしげいらつしやるので、度々たびたびお目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰おつしやつて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了しまひました」
「え!」と貫一は繃帯ほうたいしたる頭を擡もたげて、彼の有為顔したりがほを赦ゆるし難く打目戍うちまもれり。満枝はさすが過あやまちを悔いたる風情ふぜいにて、やをら左の袂たもとを膝ひざに掻載かきのせ、牡丹ぼたんの莟つぼみの如く揃そろへる紅絹裏もみうらの振ふりを弄まさぐりつつ、彼の咎とがめを懼おそるる目遣めづかひしてゐたり。
「実に怪けしからん! 謊ばかなことを有仰おつしやつたものです」
 萎しをるる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
 彼を喝かつせし怒いかりに任せて、半なかば起したりし体たいを投倒せば、腰部ようぶの創所きずしよを強く抵あてて、得堪えたへず呻うめき苦むを、不意なりければ満枝は殊ことに惑まどひて、「どう遊ばして? 何処どこぞお痛みですか」
 手早く夜着よぎを揚げんとすれば、払退はらひのけて、
「もうお還り下さい」
 言放ちて貫一は例の背そびらを差向けて、遽にはかに打鎮うちしづまりゐたり。
「私わたくし還りません! 貴方がさう酷く有仰おつしやれば、以上還りません。いつまでも居られる躯からだではないのでございますから、順おとなしく還るやうにして還して下さいまし」
 いとはしたなくて立てる満枝は闥ドアの啓あくに驚かされぬ。入来いりきたれるは、附添婆つきそひばばか、あらず。看護婦か、あらず。国手ドクトルの回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
 胡麻塩羅紗ごましほらしやの地厚なる二重外套にじゆうまわしを絡まとへる魁肥かいひの老紳士は悠然ゆうぜんとして入来いりきたりしが、内の光景ありさまを見ると斉ひとしく胸悪き色はつとその面おもてに出いでぬ。満枝は心に少すこく慌あわてたれど、さしも顕あらはさで、雍しとやかに小腰を屈かがめて、
「おや、お出いであそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
 同く慇懃いんぎんに会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼かなつぼまなこは光を逞たくましう女の横顔を瞥見べつけんせり。静に臥ふしたる貫一は発作パロキシマの来きたれる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行ただゆきを迎ふれば、
「どうぢやな。好ええ方がお見舞に来てをつて下さるで、可ええの」
 打付うちつけに過ぎし言ことばを二人ともに快からず思へば、頓とみに答いらへは無くて、その場の白しらけたるを、さこそと謂いはんやうに直行の独ひとり笑ふなりき。如何いかに答ふべきか。如何に言釈いひとくべきか、如何に処すべきかを思煩おもひわづらへる貫一は艱むづかしげなる顔を稍やや内向けたるに、今はなかなか悪怯わるびれもせで満枝は椅子の前なる手炉てあぶりに寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙せはしいところを度々お見舞下されては痛入いたみいります。それにこれの病気も最早快ようなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出いで下さるのは何分お断り申しまする」
 言黒いひくろめたる邪魔立を満枝は面憎つらにくがりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手ついでがありますのでございますから、その御心配には及びません」
 直行の眼まなこは再び輝けり。貫一は憖なまじひに彼を窘くるしめじと、傍かたはらより言ことばを添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却かへつて私わたくしは迷惑致すのですから、どうか貴方から可然しかるべく御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私わたくし差控へませう」
 満枝は色を作なして直行を打見遣うちみやりつつ、その面おもてを引廻ひきめぐらして、やがて非あらぬ方かたを目戍まもりたり。
「いや、いや、な、決けして、そんな訳ぢや……」「余あんまりな御挨拶で! 女だと思召おぼしめして有仰おつしやるのかは存じませんが、それまでのお指図さしづは受けませんで宜よろしうございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚はなはだ困る、畢竟ひつきよう貴方あんたの為を思ひますじやに因よつて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私わたくしの不為ふためになるのでございませう」
「それにお心着こころづきが無い?」
 その能く用ゐる微笑を弄ろうして、直行は巧たくみに温顔を作れるなり。
 満枝は稍やや急立せきたちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子をなごが度々出入でいりしたら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易やすい、可ええですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様あかがしさんと云ふ者のある貴方の躯からだに疵きずが付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
 陰には己おのれ自ら更に甚はなはだしき不為を強しひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑をかし、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有ありがたう存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美うつくしい御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯からだでゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今これから慎つつしみますでございます」
「これは太えらい失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘うそにもかれこれ言いはるるんぢやから、どんなにも嬉うれしいぢやらう、私わしのやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為すまいにな」
 貫一は苦々しさに聞かざる為まねしてゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在ゐらつしやるのですから、余り頻繁しげしげ上りますと……」
 後は得言はで打笑める目元の媚こび、ハンカチイフを口蔽くちおほひにしたる羞含はぢがましさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出いでかな。私わしは赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰おつしやつて下さいまし。私わたくし此方こなたへ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方あなたから御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却かへつて私の伺ふのを懊悩うるさく思召おぼしめしてゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障めざはりか知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作なさらなくても宜よろしいではございませんか。
 然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅たくへお出いでになつた御帰途おかへりみちにこの御怪我おけがなんでございませう。それに、未まだ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂つのかみざかへお出いでなさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途みちでこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜よろこびが無いのでございませう」 彼はいと辛つらしとやうに、恨うらめしとやうに、さては悲しとやうにも直行を視みるなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃ひそかに金壺眼かなつぼまなこの一角を溶とろかしつつ眺入ながめいるにぞありける。
「さやうかな。如何いかさま、それで善う解りましたじや。太えらい御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私わしからも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念おもうて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻しりぞくるやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措おけんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌きらはるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
 赤髭あかひげを拈ひねり拈りて、直行は女の気色けしきを偸視ぬすみみつ。
「さやうでございます。お年寄は勿論もちろん結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧くちやかましくてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難きむづかしうもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太えらう嫌うたもんですな」
「尤もつとも年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方こつちから好きましても、他さきで嫌はれましては、何の効かひもございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方あんたのやうな方が此方こつちから好いたと言うたら、どんな者でも可厭いや言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰おつしやつて! 如何いかがでございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
 椅子も傾くばかりに身を反そらして、彼はわざとらしく揺上ゆりあげ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何いかがですか、さう云ふ事は」
 誰たれか烏からすの雌雄しゆうを知らんとやうに、貫一は冷然として嘯うそぶけり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈はずはございませんわ。ほほほほほほほほ」
 そのわざとらしさは彼にも遜ゆづらじとばかり、満枝は笑ひ囃はやせり。
 直行が眼まなこは誰を見るとしも無くて独ひとり耀かがやけり。
「それでは私もうお暇いとまを致します」
「ほう、もう、お帰去かへりかな。私わしもはや行かん成らんで、其所そこまで御一処に」
「いえ、私些ちよつと、あの、西黒門町にしくろもんちようへ寄りますでございますから、甚はなはだ失礼でございますが……」
「まあ、宜よろしい。其処そこまで」
「いえ、本当に今日こんにちは……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座あさひざの株式一件な、あれがつい纏まとまりさうぢやで、この際お打合うちあはせをして置かんと、『琴吹ことぶき』の収債とりたてが面白うない。お目に掛つたのが幸さいはひぢやから、些ちよつとそのお話を」
「では、明日みようにちにでも又、今日は些ちと急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
 姑しばらく推おし問答の末彼は終つひに満枝を拉らつし去れり。迹あとに貫一は悪夢の覚めたる如く連しきりに太息ためいき呴ついたりしが、やがて為せん方無げに枕まくらに就きてよりは、見るべき物もあらぬ方かたに、止ただ果無はてしなく目を奪れゐたり。
第五章

 檜葉ひば、樅もみなどの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗うららかなる日影のみぞ饒ゆたかに置余おきあまして、そこらの梅の点々ぼちぼちと咲初めたるも、自おのづから怠り勝に風情ふぜい作らずと見ゆれど、春の色香いろかに出いでたるは憐あはれむべく、打霞うちかすめる空に来馴きなるる鵯ひよのいとどしく鳴頻なきしきりて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々せきせきたるに、たまたま響くは患者の廊下を緩ゆるう行くなり。
 枕の上の徒然つれづれは、この時人を圧して殆ほとんど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛からうじて夢を結びゐたり。彼は実げに夢ならでは有得べからざる怪あやしき夢に弄もてあそばれて、躬みづからも夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡ねむりの中に囚とらはれしを、端無はしなく人の呼ぶに駭おどろかされて、漸やうやく慵ものうき枕を欹そばだてつ。
 愕然がくぜんとして彼は瞳ひとみを凝こらせり。ベッドの傍かたはらに立てるは、その怪き夢の中に顕あらはれて、終始相離あひはなれざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視みれども訪来とひきたれる満枝に紛まぎれあらざりき。とは謂いへ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中うちなるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺あたりも可輝かがやかしく、五六歳いつつむつばかりも若わかやぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路むそぢに余れる夫有つまもてる身と誰たれかは想ふべき。
 髪を台湾銀杏たいわんいちようといふに結びて、飾かざりとてはわざと本甲蒔絵ほんこうまきゑの櫛くしのみを挿さしたり。黒縮緬くろちりめんの羽織に夢想裏むそううらに光琳風こうりんふうの春の野を色入いろいりに染めて、納戸縞なんどじまの御召の下に濃小豆こいあづきの更紗縮緬さらさちりめん、紫根七糸しこんしちんに楽器尽がつきつくしの昼夜帯して、半襟はんえりは色糸の縫ぬひある肉色なるが、頸えりの白きを匂にほはすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛きらきらと煩うるさし。今日は殊ことに推おして来にけるを、得堪えたへず心の尤とがむらん風情ふぜいにて佇たたずめる姿すがた限無かぎりなく嬌なまめきて見ゆ。
「お寝やすみのところを飛んだ失礼を致しました。私わたくし上あがる筈はずではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些ちよつと伺ひましたのでございますから、今日こんにちのところはどうか御堪忍ごかんにんあそばして」
 彼の許ゆるしを得んまでは席に着くをだに憚はばかる如く、満枝は漂ただよはしげになほ立てるなり。「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
 内に燃ゆる憤いかりを抑おさふるとともに貫一の言ことばは絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜よろしいのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰おつしやらずに……」
「失礼します。今日こんにちは腰の傷部きずが又痛みますので」
「おや、それは、お劇きついことはお在あんなさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在ゐらしつて」
 貫一は無雑作に郡内縞ぐんないじまの掻巻かいまき引被ひきかけて臥ふしけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤まめやかに冊かしづきて、やがて己おのれも始めて椅子に倚よれり。
「貴方あなたの前でこんな事は私申上げ難にくいのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰おつしやるので、湯島ゆしまの天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭いやらしい事をもうもう執濃しつこく有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑うたぐつて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効としがひの無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召おぼしめしてゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯たはむれるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取とんだ八当やつあたりで貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪あしからず……。
 今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜よろしいやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些ちよつとでも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜きらひぬいてお在いであそばす私わたくしのやうな者と訳でもあるやうに有仰おつしやられるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦あきらめ遊ばしまし。
 貴方も因果なれば、私も……私は猶なほ因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂いふのでございませうね」
 金煙管きんぎせるの莨たばこの独ひとり杳眇ほのぼのと燻くゆるを手にせるまま、満枝は儚はかなさの遣方無やるかたなげに萎しをれゐたり。さるをも見向かず、答いらへず、頑がんとして石の如く横よこたはれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切せめてさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透とほつたやうな気が致すのでございます。
 間さん。貴方は過日いつぞや私がこんなに思つてゐることを何日いつまでもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何いかがなのでございますよ」
 勢ひて問詰むれば、極きはめて事も無げに、
「忘れません」
 満枝は彼の面おもてを絶したたかに怨視うらみみて瞬またたきも為せず、その時人声して闥ドアは徐しづかに啓あきぬ。
 案内せる附添の婆ばばは戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑こころまどひせらるる体ていにて、彼にさへ可慎つつましう小声に言付けつつ名刺を渡せり。 満枝は如何なる人かと瞥ちらと見るに、白髪交しらがまじりの髯ひげは長く胸の辺あたりに垂れて、篤実の面貌痩おもざしやせたれども賤いやしからず、長たけは高しとにあらねど、素もとより膄ゆたかにもあらざりし肉の自おのづから齢よはひの衰おとろへに削れたれば、冬枯の峰に抽ぬけるやうに聳そびえても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽おくゆかしくて、誰とも知らねどさすがに疎おろそかならず覚えて、彼は早くもこの賓まらうどの席を設けて待てるなりき。
 貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三しぎさわりゆうぞうと誌しるしたり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕おどろきに駆れて、忽たちまち身を飜ひるがへして其方そなたを見向かんとせしが、幾ほとんど同時に又枕して、終つひに動かず。狂ひ出でんずる息を厳きびしく閉ぢて、燃もゆるばかりに瞋いかれる眼まなこは放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹つつめる一点の涙は不覚に滾まろび出いでぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方こちらへお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
 人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜けがらはしと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強しひて目を塞ふさぎ、身の顫ふるふをば吾と吾手に抱窘だきすくめて、恨は忘れずとも憤いかりは忍ぶべしと、撻むちうたんやうにも己を制すれば、髪は逆竪さかだち蠢うごめきて、頭脳の裏うちに沸騰わきのぼる血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫みだれさすなり。彼はこれと争ひて猶なほも抑へぬ。面色は漸やうやく変じて灰の如し。婆は懼おそれたる目色めざしを客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断ことわつて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰おつしやつてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」

(五)の二

 婆は鴫沢しぎさわの前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様うしろさまに束つかねたるままに受取らで、強しひて面おもてを和やはらぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分だいぶ久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜よろしい。私わしが直ぢかにお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
 屹きと思案せる鴫沢の椅子ある方かたに進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦すすめぬ。
「貫一さん、私わしだよ。久う会はんので忘れられたかのう」
 室の隅すみに婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或あるひは指図もし、又自ら持来もちきたりて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方あなたを向きて答へず。仔細しさいこそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍よそに見つつも憫あはれに可笑をかしかりき。
「貫一さんや、私わしだ。疾とうにも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然さつぱり知れんので。一昨日おとつひふと聞出したから不取敢とりあへずかうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我おほけがださうではないか」 猶なほも答のあらざるを腹立はらだたしくは思へど、満枝の居るを幸さいはひに、
「睡ねてをりますですかな」
「はい、如何いかがでございますか」
 彼はこの長者の窘くるしめるを傍よそに見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺うかがへば、涙の顔を褥しとねに擦付すりつけて、急上せきあげ急上げ肩息かたいきしてゐたり。何事とも覚えず驚おどろかされしを、色にも見せず、怪まるるをも言ことばに出いださず、些ちとの心着さへあらぬやうに擬もてなして、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向識しらん方なのですから、お還し申して下さい」
 彼は面おもてを伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推すいして、また多くは問はず席に復かへりて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰おつしやるのでございます」
 長き髯ひげを推揉おしもみつつ鴫沢は為方無せんかたなさに苦笑にがわらひして、
「人違とは如何いかなことでも! 五年や七年会はんでも私わしは未まだそれほど老耄ろうもうはせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些ちよつとでも会うて貰ひませう」
 挨拶あいさつ如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、能よう考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来これまでの為方しかた、又今日のこの始末は、ちと妥当おだやかならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁をぢに対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少すこしく言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方こちらでは既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決けつして身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方そちらの身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切ろうばしんせつ。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日こんにちも五年前も同じ考量かんがへで居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日こんにちまでも誤解されてゐるのは愈いよいよ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡およそ此方こちらの了簡りようけんを誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀はかつて、さうして僅わづかの行違ゆきちがひから恨まれる、恩に被きせうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰たれにしても思はん。で、ああして睦むつましう一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意つもりであつたものを、僅の行違から音信不通いんしんふつうの間なかになつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私わしも誠に寐覚ねざめが悪からうと謂ふもの、実に姨をばとも言暮してゐるのだ。私の方では何処どこまでも旧通もとどほりになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈とけんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直ぢきに訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣まゐつて、のう、抑そもそもお前さんを引取つてから今日こんにちまでの来歴を在様陳ありようのべて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と丁ちやんとお分疏ことわりを言うて、そして私は私の一分いちぶんを立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便たよりを為せんのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。 私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁をぢの為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何いかにも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当おだやかに事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処そこだ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様いかさま手落があつたで、その詫わびも言はうし、又昔も今も此方こちらには心持に異変かはりは無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日こんにちは何も言はずに清う会うてくれ」
 曾かつて聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇あやしき興を覚えて耳を傾けぬ。
 我強がづよくも貫一のなほ言ものいはんとはせざるに、漸やうやく怺こらへかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強しひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言ことばを尽せるにも理ことわり聞えて、無下むげに打うちも棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出いださず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂いはれはあらんと推測おしはからるれば、一も二も無く満枝は恋人に与くみしてこの場の急を拯すくはんと思へるなり。
 枕頭まくらもとを窺うかがひつつ危む如く眉を攅あつめて、鴫沢の未いまだ言出でざる時、
「私わたくし看病に参つてをります者でございますが、何方様どなたさまでゐらつしやいますか存じませんが、この一両日いちりようにち病人は熱の気味で始終昏々うとうといたして、時々譫語うはごとのやうな事を申して、泣いたり、慍おこつたり致すのでございますが、……」
 頭を捻向ねぢむけて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時故ことさらに解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直ぢきに除とれまするさうでございますから、又改めてお出いでを願ひたう存じます。今日こんにちは私御名刺を戴いただいて置きまして、お軽快こころよくなり次第私から悉くはしくお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方しかたもございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日こんにちは又如何いかが致したのでございますか、昨日とは全まるで反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇むやみなことを申されるよりは始末が宜よろしいでございます」
 かくても始末は善しと謂ふかと、翁をぢは打蹙うちひそむべきを強しひて易かへたるやうの笑ゑみを洩もらせば、満枝はその言了いひをはせしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦すすめて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌しるしてあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵わにぶちさんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶もらうたと聞きましたが、如何いかがいたしましたな」
 彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
 容儀かたち人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲きらきらしう装飾よそほひかざれる様は色を売る儔たぐひにやと疑はれざるにはあらねど、言辞ものごし行儀の端々はしはし自おのづからさにもあらざる、畢竟ひつきようこれ何者と、鴫沢は容易にその一斑いつぱんをも推すいし得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆詐いつはりならんとは想ひぬ。正ただしき筋の知辺しるべにはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若もしさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根しようねも腐れ、身持も頽くづれたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋つなぐべきものにあらず。如此かくのごとき輩やからを出入でいりせしむる鴫沢の家は、終つひに不慮の禍わざはひを招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中遽にはかに懼おそれを生じて、さては彼の恨深く言ことばを容いれざるを幸さいはひに、今日こんにちは一先ひとまづ立還たちかへりて、尚なほ一層の探索と一番の熟考とを遂とげて後、来きたる可べくは再び来らんも晩おそからず、と失望の裏うち別に幾分の得るところあるを私ひそかに喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私わたくしは」と紫根塩瀬しこんしほぜの手提の中うちより小形の名刺を取出だして、
「甚はなはだ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝あかがしみつえさまと有仰おつしやいますか」
 この女の素性に於おける彼の疑は益ますます暗くなりぬ。夫有つまもてる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無にげなし、まして裏面うらに横文字を入れたるは、猶可慎なほつつましからず。応対の雍しとやかにして人馴ひとなれたる、服装みなりなどの当世風に貴族的なる、或あるひは欧羅巴ヨウロッパ的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余あまりに色美いろよきが、又さる際きはには相応ふさはしからずも覚えて、こは終つひに一題の麗うるはしき謎なぞを彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇ぶあしらひに慍いきどほるをも忘れて、この謎なぞの為に苦められつつ病院を辞し去れり。
 客を送り出でて満枝の内に入来いりきたれば、ベッドの上に貫一の居丈高ゐたけだかに起直りて、痩尽やせすがれたる拳こぶしを握りつつ、咄々とつとつ、言はで忍びし無念に堪へずして、独ひとり疾視しつしの瞳ひとみを凝こらすに会へり。

第六章

 数日前すじつぜんより鰐淵わにぶちが家は燈点あかしともる頃を期して、何処いづこより来るとも知らぬ一人の老女ろうによに訪とはるるが例となりぬ。その人は齢よはひ六十路むそぢ余に傾かたふきて、顔は皺しわみたれど膚清はだへきよく、切髪きりがみの容かたちなどなかなか由よしありげにて、風俗も見苦からず、唯ただ異様なるは茶微塵ちやみじんの御召縮緬おめしちりめんの被風ひふをも着ながら、更紗さらさの小風呂敷包に油紙の上掛うはがけしたるを矢筈やはずに負ひて、薄穢うすきたなき護謨底ゴムぞこの運動靴を履はいたり。 所用は折入つて主あるじに会ひたしとなり。生憎あいにくにも来る度たび他出中なりけれど、本意無ほいなげにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸やうやく怪しと思初おもひそめぬ。
 彼のあだかも三日続けて来きたれる日、その挙動の常ならず、殊ことには眼色凄まなざしすごく、憚はばかりも無く人を目戍まもりては、時ならぬに独ひとり打笑うちゑむ顔の坐寒すずろさむきまでに可恐おそろしきは、狂人なるべし、しかも夜に入いるを候うかがひ、時をも差たがへず訪おとなひ来るなど、我家に祟たたりを作なすにはあらずや、とお峯は遽にはかに懼おそれを抱いだきて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還かへり来にけるなり。
「どうも貴方あなた、あれは気違ですよ。それでも品の良いいことは、些ちよいとまあ旗本か何かの隠居さんと謂いつたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩やせた面長おもながな、怖こはい顔なんですね。戸外おもてへ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。毎いつでも極きまつて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍しとやかに、緩ゆつくり二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然ぞつとして、ああ可厭いやだ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
 お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈あかしの点ともるには未だ間ありと見るなるべし。直行は可難むづかしげに眉まゆを寄せ、唇くちびるを引結びて、
「何者か知らんて、一向心当こころあたりと謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐たまりませんから、貴方本当に来ましたら、篤とつくり説諭して、もう来ないやうに作なすつて下さいよ」
「そりや受合へん。他さきが気違ぢやもの」
「気違だから私わたしも気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
「幾多いくら頼まれたてて、気違ぢやもの、俺おれも為やうは無い」
 頼める夫つまのさしも思はで頼無たのみなき言ことばに、お峯は力落してかつは尠すくなからず心慌あわつるなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣やりませう」
 直行は打笑うちわらへり。
「まあ、そんなに騒がんとも可ええ」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違の好ええものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
 知らず、その老女ろうによは何者、狂か、あらざるか、合力ごうりよくか、物売か、将はた主あるじの知人しりびとか、正体の顕あらはるべき時はかかる裏うちにも一分時毎に近ちかづくなりき。
 終日ひねもす灰色に打曇りて、薄日をだに吝をしみて洩もらさざりし空は漸やうやく暮れんとして、弥増いやます寒さは怪けしからず人に逼せまれば、幾分の凌しのぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖さされて、なほ稍明ややあかくその色厚氷あつこほりを懸けたる如き西の空より、隠々いんいんとして寂き余光の遠く来きたれるが、遽にはかに去るに忍びざらんやうに彷徨さまよへる巷ちまたの此処彼処ここかしこに、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔ほのほを放てり。 一陣の風は砂を捲まきて起りぬ。怪しの老女ろうによはこの風に吹出ふきいだされたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪さかだちて、披払はたはたと飄ひるがへる裾袂すそたもとに靡なびかされつつ漂ただよはしげに行きつ留りつ、町の南側を辿たどり辿りて、鰐淵が住へる横町に入いりぬ。銃槍じゆうそうの忍返しのびがへしを打ちたる石塀いしべいを溢あふれて一本ひともとの梅の咲誇れるを、斜ななめに軒ラムプの照せるがその門かどなり。
 彼は殆ほとんど我家に帰り来きたれると見ゆる態度にて、傱々つかつかと寄りて戸を啓あけんとしたれど、啓かざりければ、かの雍しとやかに緩ゆるしと謂ふ声して、
「頼みます、はい、頼みます」
 風は飈々ひようひようと鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯は竦すくみて立たず。
「貴方、来ましたよ」
「うん、あれか」
 実げに直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立こなべだてせる火鉢ひばちの角かどに猪口ちよくを措おき、燈あかしを持もて来よと婢をんなに命じて、玄関に出でけるが、先まづ戸の内より、
「はい何方どなたですな」
「旦那だんなはお宅でございませうか」
「居りますが、何方どなたで」
 答はあらで、呟つぶやくか、咡ささやくか、小声ながら頻しきりに物言ふが聞ゆるのみ。
「何方どなたですか、お名前は何と有仰おつしやるな」
「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花はなはやつぱりこの梅が宜よろしからうと存じます。さあ、どうぞ此方こちらへお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」
 啓あけんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩うちたたきて劇はげしく案内あないす。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにては逐おふとも立去るまじきに、一度ひとたびは会うてとにもかくにも為せんと、心ならずも戸を開けば、聞きしに差たがはぬ老女ろうによは入来いりきたれり。
「鰐淵は私わしじやが、何ぞ用かな」
「おお、おまへが鰐淵か!」
 つと乗出のりいだしてその面おもてに瞳ひとみを据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて忽たちまち寒く戦をののけるなり。熟つくづくと見入る眼まなこを放つと共に、老女は皺手しわでに顔を掩おほひて潜々さめざめと泣出なきいだせり。呆あきれ果てたる直行は金壺眼かなつぼまなこを凝こらしてその泣くを眺むる外はあらざりけり。
 彼は泣きて泣きて止まず。
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私わしに用と云ふのは?」
 朽木の自おのづから頽くづれ行くらんやうにも打萎うちしをれて見えし老女は、猛然もうねんとして振仰ぎ、血声を搾しぼりて、
「この大騙おほかたりめ!」
「何ぢやと!」
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之まさゆきのやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国かいのくにの住人武田大膳太夫たけだだいぜんだゆう信玄入道しんげんにゆうどう、田夫野人でんぷやじんの為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井かしわいの鈴すうちやんがお嫁に来てくれれば、私わたしの仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪やぶは有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見みずのあの雅之、能ようも能うもおのれは瞞だましたな! さあ、さあさ讐かたきを討つから立合ひなさい」 直行は舌を吐きて独語ひとりごちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
 見る見る老女の怒いかりは激して、形相ぎようそう漸くおどろおどろしく、物怪もののけなどの凴ついたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の疎まばらなるを牙きばの如く露あらはして、一念の凝これる眸まなじりは直行の外ほかを見ず、
「歿なくなられた良人つれあひから懇々くれぐれも頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子ひとりつこ、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方このほうを女と侮あなどつてさやうな不埒ふらちを致したか。長刀なぎなたの一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
 彼は忽たちまちさも心地快ここちよげに笑へり。
「さうあらうとも、赦ゆるします。内には鈴すうちやんが今日を曠はれと着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致きりようと云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、読よみ、書かき、針仕事はりしごと、そんなことは言つてゐるところではない。頸くびを長くして待つてお在いでだのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物はきものはここに在るよ。なあに、おまへ私はね、滊車きしやで行くから訳は無いとも」
 かく言ふ間も忙せはしげに我が靴を脱ぎて、其処そこに直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結なかゆひを釈きて、直行が前に上掛うはがけの油紙を披ひろげたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直ぢきに落ちるから、早く落してお了ひなさい」
 さすがに持扱もてあつかひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖ほそめて、何処いづこより出づらんやとばかり世にも奇あやしき声を発はなちて緩ゆるく笑ひぬ。彼は謂知いひしらぬ凄気せいきに打れて、覚えず肩を聳そびやかせり。
 懲役と言ひ、雅之と言ふに因よりて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之あくらまさゆきは、私書偽造罪を以もつて彼の被告としてこの十数日前ぜん、罰金十円、重禁錮じゆうきんこ一箇年に処せられしなり。実げにその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
 爾思しかおもへりしのみにて直行はその他に猶なほも思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀はかりて陥れたるなり。
 彼等の用ゐる悪手段の中うちに、人の借かるを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合はなしあひの上は貸さんと称となへて先まづ誘いざなひ、然しかる後、但ただし証書の体ていを成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然しかるべき親族知己しるべなどの名義を私用して、在合ふ印章を捺おさしめ、固もとより懇意上の内約なればその偽いつはりなるを咎とがめず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一いつは焦眉しようびの急に迫り、一いつは期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息こそくして、この術中には陥るなりけり。
 期に迨およびて還さざらんか、彼は忽たちまち爪牙そうがを露あらはし、陰に告訴の意を示してこれを脅おびやかし、散々に不当の利を貪むさぼりて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶なほ饜あく無き慾は、更に件くだんの連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰おもてざたにせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに於おいて誰たれか恐慌し、狼狽ろうばいし、悩乱し、号泣し、死力を竭つくして七所借ななとこがりの調達ちようだつを計らざらん。この時魔の如き力は喉のんどを扼やくしてその背を捬うつ、人の死と生とは渾すべて彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。 雅之もこの※わなに繋かかりて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻はたんに及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為は終つひに第二百十条の問ふところとなりぬ。
 法律は鉄腕の如く雅之を拉らつし去りて、剰あまつさへ杖つゑに離れ、涙に蹌よろぼふ老母をば道の傍かたはらに踢返けかへして顧ざりけり。噫ああ、母は幾許いかばかりこの子に思を繋かけたりけるよ。親に仕つかへて、此上無こよなう優かりしを、柏井かしわいの鈴すずとて美き娘をも見立てて、この秋には妻めあはすべかりしを、又この歳暮くれには援ひく方かた有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆休やみぬ、彼は人の歯よはひせざる国法の罪人となり了をはれり。耻辱ちじよく、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
 無益むやくに言ことばを用ゐんより、唯手柔ただてやはらかに撮つまみ出すに如しかじと、直行は少しも逆さからはずして、
「ああ宜よろしいが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから外おもてへ行かう。さあ一処に来た」
 狂女は苦々しげに頭かしらを掉ふりて、
「お前さんの云ふことは皆妄うそだ。その手で雅之を瞞だましたのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着だまくらかして、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札いつさつをこの通り入れたぢやないか、これでも未まだ皛しらじらしい顔をしてゐるのか」
 打披うちひろげたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香うつりがにや、胸悪き一種の腥気せいきありて夥おびただしく鼻を撲うちぬ。直行は猶なほも逆はで已やむ無く面おもてを背そむけたるを、狂女は目を瞪みはりつつ雀躍こをどりして、
「おおおお、あれあれ! これは嬉うれしい、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」
 地には落さじとやうに慌あわて愺ふためき、油紙もて承けんと為せる、その利腕ききうでをやにはに捉とらへて直行は格子こうしの外へ㩳おしださんと為たり。彼は推おされながら格子に縋すがりて差理無理しやりむり争ひ、
「ええ、おのれは他ひとをこの崖がけから突落す気だな。この老婦としよりを騙討だましうちに為るのだな」
 喚わめきつつ身を捻返ねぢかへして、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷ふみすべらして尻居に倒るれば、彼は囃はやし立てて笑ふなり。忽たちまち起上りし直行は彼の衿上えりがみを掻掴かいつかみて、力まかせに外方とのかたへ突遣つきやり、手早く雨戸を引かんとせしに、軋きしみて動かざる間ひまに又駈戻かけもどりて、狂女はその凄すさましき顔を戸口に顕あらはせり。余りの可恐おそろしさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲うち、痿ひるむところを得たりと鎖とざせば、外より割るるばかりに戸を叩きて、「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊くつどろぼう、大騙おほかたり! 首を寄来よこせ」
 直行は佇たたずみて様子を候うかがひゐたり。抜足差足ぬきあしさしあし忍び来きたれる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
 夫は戸の外を指ゆびさしてなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴ゴムぐつと油紙との遺散おちちれるを見付けて、由無よしなき質を取りけるよと思おもひ煩わづらへる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
 と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫どうぶるひして、長くここに留とどまるに堪へず、夫を勧めて奥に入いりにけり。
 戸叩く音は後のちも撓たゆまず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺うかがひける時は、風吹荒ふきすさぶ門かどの梅の飛雪ひせつの如く乱点して、燈火の微ほのかに照す処その影は見えざるなりき。
 次の日も例刻になれば狂女は又訪とひ来れり。主あるじは不在なりとて、婢をんなをして彼の遺のこせし二品ふたしなを返さしめけるに、前夜の暴あれに暴れし気色けしきはなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
 お峯はその翌日も必ず来きたるべきを懼おそれて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢をんなを出いだして不在の由よしを言はしめしに、こたびは直ぢきに立去らで、
「それぢやお帰来かへりまでここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
 彼は戸口かどぐちに蹲うづくまりて動かず。婢は様々に言作いひこしらへて賺すかしけれど、一声も耳には入いらざらんやうに、石仏いしぼとけの如く応ぜざるなり。彼は已やむ無くこれを奥へ告げぬ。直行も為せん術すべあらねば棄措すておきたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
 お峯は心苦こころぐるしがりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪さわぐを、直行は人を煩わづらはすべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払おひはらふべき手立てだてのありやと責むるに、害を為なすにもあらねば、宿無犬やどなしいぬの寝たると想ひて意こころに介かくるなとのみ。意こころに介かくまじき如きを故ことさらに夫には学ばじ、と彼は腹立はらだたしく思へり。この一事いちじのみにあらず、お峯は常に夫の共に謀はかると謂ふこと無くて、女童をんなわらべと侮あなどれるやうに取合はぬ風あるを、口惜くちをしくも可恨うらめしくも、又或時は心細さの便無たよりなき余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明しんめいの冥護みようごに拠よらんと、八百万やほよろづの神といふ神は差別無しやべつなく敬神せるが中にも、ここに数年前ぜんより新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇あがめたるは、その光紫の一大明星みようじようにて、御名おんなを大御明尊おおみあかりのみことと申す。天地渾沌てんちこんとんとして日月じつげつも未いまだ成らざりし先高天原たかまがはらに出現ましませしに因よりて、天上天下万物の司つかさと仰ぎ、諸もろもろの足らざるを補ひ、総すべて欠けたるを完まつたうせしめんの大御誓おほみちかひをもて国土百姓を寧やすらけく恵ませ給ふとなり。彼は夙つとに起信して、この尊をば一身一家いつけの守護神まもりがみと敬ひ奉り、事と有れば祈念を凝こらして偏ひとへに頼み聞ゆるにぞありける。 この夜は別して身を浄きよめ、御燈みあかしの数を献ささげて、災難即滅、怨敵退散おんてきたいさんの祈願を籠こめたりしが、翌日あくるひの点燈頃ひともしごろともなれば、又来にけり。夫は出でて未いまだ帰らざれば、今日若もし罵ののしり噪さわぎて、内に躍入をどりいることもやあらば如何いかにせんと、前後の別わかれ知らぬばかりに動顛どうてんして、取次には婢を出いだし遣やり、躬みづからは神棚かみだなの前に駈着かけつけ、顫声ふるひごゑを打揚うちあげ、丹精を抽ぬきんでて祝詞のりとを宣のりゐたり。狂女は不在と聞きて敢あへて争はず、昨日きのふの如く、ここにて帰来かへりを待たんとて、同おなじき処に同き形して蹲うづくまれり。婢は格子を鎖さし固めて内に入いりけるが、暫しばらくは音も為ざりしに、遽にはかに物語る如き、或あるひは罵ののしる如き声の頻しきりに聞ゆるより主あるじの知らで帰来かへりきて、捉とらへられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗さしのぞけば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主あるじに欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃あとさきぶぞろひに泣いつ怒りつ訴ふるなり。

第七章

 子の讐かたきなる直行が首を獲えんとして夕々ゆふべゆふべに狂女の訪ひ来ること八日に迨およべり。浅ましとは思へど、逐おひて去らしむべきにあらず、又門口かどぐちに居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措すておかるるなりき。直行が言へりし如く、畢竟ひつきよう彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太はなはだ択えらばざるべけれど、縮緬ちりめんの被風ひふ着たる人の形の黄昏たそがるる門の薄寒きに踞つくばひて、灰色の剪髪きりがみを掻乱かきみだし、妖星ようせいの光にも似たる眼まなこを睨反ねめそらして、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤いかり、己おのれの胸のやうに際そこひも知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲かなしみと恨とを訴へ、腥なまぐさき油紙を拈ひねりては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終つひにはこの家に祟たたりを作なすべき望を繋かくるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈つんざき、巌いはほを砕くの例ためし、ましてや家を滅めつし、人を鏖みなごろしにすなど、塵ちりを吹くよりも易やすかるべきに、可恐おそろしや事無くてあれかしと、お峯は独ひとり謂知いひしらず心を傷いたむるなり。
 夫は決けして雅之の私書偽造を己おのれの陥れし巧たくみなりとは彼に告げざれば、悪は正まさしく狂女の子に在りて、此方こなたに恨を受くべき筋は無く、自おのづからかかる事も出来いでくるは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒かしだふれの損耗あるを思へば、所詮しよせん仆たふし、仆さるるは商あきなひの習と、お峯は自おのづから意こころを強うして、この老女ろうによの狂くるひを発せしを、夫の為なせる業わざとは毫つゆも思ひ寄よするにあらざりき。さは謂いへ、人の親の切なる情なさけを思へば、実げにさぞと肝に徹こたふる節無ふしなきにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇あやしき殃わざはひにも遭あふなればと唯思過ただおもひすごされては窮無きはまりなき恐怖おそれの募るのみ。 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時しばらく門かどに居て動かざるは、その妄執もうしゆうの念力ねんりきを籠こめて夫婦を呪のろふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬たとへん方無く悩されぬ。されば狂女の門かどに在る間は、大御明尊おおみあかしのみことの御前おんまへに打頻うちしきり祝詞のりとを唱ふるにあらざれば凌しのぐ能あたはず。かかる中うちにも心に些ちとの弛ゆるみあれば、煌々こうこうと耀かがやき遍わたれる御燈みあかしの影かげ遽にはかに晦くらみ行きて、天尊てんそんの御像みかたちも朧おぼろに消失きえうせなんと吾目わがめに見ゆるは、納受のうじゆの恵に泄もれ、擁護おうごの綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠こめ、烟けむりを立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。槍やりは降りても必ず来くべし、と震摺おぢおそれながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何いかにしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返さえかへりたるこの日の寒気は鍼はりもて膚はだへに霜を種ううらんやうに覚えしめぬ。外には烈風はげしきかぜ怒いかり号さけびて、樹を鳴し、屋いへを撼うごかし、砂を捲まき、礫こいしを飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃ほこりに蔽おほはれて、一天晦くらく乱れ、日色につしよく黄きに濁りて、殊ことに物可恐ものおそろしき夕暮の気勢けはひなり。
 鰐淵が門かどの燈ともしは硝子ガラスを二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆くつがへりたり。内の燈火あかしは常より鮮あざやかに主あるじが晩酌の喫台ちやぶだいを照し、火鉢ひばちに架かけたる鍋なべの物は沸々ふつふつと薫くんじて、はや一銚子ひとちようし更かへたるに、未いまだ狂女の音容おとづれはあらず。お峯は半なかば危みつつも幾分の安堵あんどの思を弄もてあそび喜ぶ風情ふぜいにて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎いつもきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了しまひませうから。ああ、真ほんに天尊様の御利益ごりやくがあつたのだ」
 夫が差せる猪口ちよくを受けて、
「お相あひをしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴いただくとお美いしいものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方あなた。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然いよいよ今晩は来ないと極きまりましたね。ぢや、戸締とじまりを為さして了ひませうか、真ほんに今晩のやうな気の霽々せいせいした、心しんの底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿いのちを短ちぢめたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒ごしゆもお美いしいものですね。なあにあの婆さんが唯怖ただこはいのぢやありませんよ。それは気味きびは悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄すごくて耐たまらないのです。あれが来ると、悚然ぞつと、惣毛竪そうけだつて体からだが竦すくむのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着とつつかれでもするやうな気がして、あの、それ、能よく夢で可恐おそろしい奴なんぞに追懸おつかけられると、迯にげるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」 銚子を更かへて婢をんなの持来もちきたれば、
「金きんや、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅あんばいでございます」
「お前には後でお菓子を御褒美ごほうびに出すからね。貴方あなた、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭いやなことを有仰おつしやいまし」
 吹来ふききたり、吹去る風は大浪おほなみの寄せては返す如く絶間無く轟とどろきて、その劇はげしきは柱などをひちひちと鳴揺なりゆるがし、物打倒す犇ひしめき、引断ひきちぎる音、圧折へしおる響は此処彼処ここかしこに聞えて、唯居るさへに胆きもは冷ひやされぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶てつびんの湯気は雲を噴はくこと頻しきりなれど、更に背面を圧する寒さむさは鉄板てつぱんなどや負はさるるかと、飲めども多く酔ゑひ成さざるに、直行は後を牽ひきて已やまず、お峯も心祝こころいはひの数を過して、その地顔の赭あかきをば仮漆布ニスしきたるやうに照り耀かがやかして陶然たり。
 狂女は果して来こざりけり。歓よろこび酔ゑへるお峯も唯酔ゑへる夫も、褒美貰もらひし婢も、十時近き比ころほひには皆寐鎮ねしづまりぬ。
 風は猶なほも邪よこしまに吹募りて、高き梢こずゑは箒ははきの掃くが如く撓たわめられ、疎まばらに散れる星の数は終つひに吹下ふきおろされぬべく、層々凝これる寒さむさは殆ほとんど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益ますます冥くらく、益す凄すさまじからんとす。忽たちまちこの黒暗々を劈つんざきて、鰐淵が裏木戸の辺あたりに一道いちどうの光は揚りぬ。低く発おこりて物に遮さへぎられたれば、何の火とも弁わきまへ難くて、その迸発ほとばしりの朱あかく烟けむれる中に、母家もやと土蔵との影は朧おぼろに顕あらはるるともなく奪はれて、瞬またたくばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又映うつろふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時しばし明あかりを保ちたりしが、風の僅わづかの絶間を偸ぬすみて、閃々ひらひらと納屋なやの板戸を伝ひ、始めて騰のぼれる焔ほのほは炳然へいぜんとして四辺あたりを照せり。塀際へいぎはに添ひて人の形かたち動くと見えしが、なほ暗くて了然さだかならず。
 数息すそくの間にして火の手は縦横に蔓はびこりつつ、納屋の内に乱入れば、噴出ふきいづる黒烟くろけふりの渦は或あるひは頽くづれ、或は畳みて、その外を引韞ひきつつむとともに、見え遍わたりし家も土蔵も堆うづたかき黯黮あんたんの底に没して、闇は焔に破られ、焔は烟けふりに揉立もみたてられ、烟けむりは更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の夥おびただしければ、猶ほ所狭ところせく漲みなぎりて、文目あやめも分かず攪乱かきみだれたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然さだかならざりし形はこの時明あきらかに輝かされぬ。宵に来くべかりし狂女の佇たたずめるなり。躍をどり狂ふ烟の下に自若として、面おもても爛ただれんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。実げに彼は火の如何いかに焚もえ、如何に燬やくや、と厳おごそかに監みるが如く眥まなじりを裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焔ほのほとの相雑あひまじはり、相争あひあらそひ、相勢あひきほひて、力の限を互に奮ふるふをば、妙いみじくも為したりとや、漫そぞろ笑ゑみを洩もらせる顔色がんしよくはこの世に匹たぐふべきものありとも知らず。 風の暴頻あれしきる響動どよみに紛れて、寝耳にこれを聞着ききつくる者も無かりければ、誰一人出いでて噪さわがざる間に、火は烈々めらめらと下屋げやに延しきて、厨くりやの燃立つ底より一声叫喚きようかんせるは誰たれ、狂女は嘻々ききとして高く笑ひぬ。

(七)の二

 人々出合ひて打騒うちさわぐ比ころほひには、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔ほのほを出いだし、はや如何いかにとも為んやうあらざるなり。さしもの強風ごうふうなりしかど、消防力つとめたりしに拠よりて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に迨およびて鎮火するを得たり。雑踏の裏うちより怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りも遣やらざりしが捕とらはれしなり。
 火元と認定せらるる鰐淵方わにぶちかたは塵一筋ちりひとすぢだに持出もちいださずして、憐あはれむべき一片の焦土を遺のこしたるのみ。家族の消息は直ただちに警察の訊問じんもんするところとなりぬ。婢をんなは命辛々からがら迯了にげおほせけれども、目覚むると斉ひとしく頭面まくらもとは一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨よびすてにして走り出いでければ、主あるじたちは如何いかになりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過あやまちなど有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
 熱灰ねつかいの下より一体の屍かばねの半なかば焦爛こげただれたるが見出みいだされぬ。目も当てられず、浅ましう悒いぶせき限を尽したれど、主あるじの妻と輙たやすく弁ぜらるべき面影おもかげは焚残やけのこれり。さてはとその邇ちかくを隈無くまなく掻起かきおこしけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚おぼしき辺あたりより始めて焦壊こげくづれたる人骨を掘出ほりいだせり。酔ゑひて遁惑にげまどひし故ゆゑか、貪むさぼりて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦あるじふうふはこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟けふりとなりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓もとむべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔ちようえんたんえんの紛糾する処に、独ひとり無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
 別居せる直道ただみちは旅行中にて未いまだ還かへらず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着かけつけたり。彼は三日の後には退院すべき手筈てはずなりければ、今は全く癒いえて務を執るをも妨げざれど、事の極きはめて不慮なると、急激なると、瑣小さしようならざるとに心惑こころまどひのみせられて、病後の身を以もてこれに当らんはいと苦くるしかりけるを、尽瘁じんすいして万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
 枕をも得挙えあげざりし病人の今かく健すこやかに起きて、常に来ては親く慰められし人の頑かたくなにも強かりしを、空むなしく燼余じんよの断骨に相見あひみて、弔ふ言ことばだにあらざらんとは、貫一の遽にはかにその真まことをば真とし能あたはざるところなりき。人は皆死ぬべきものと人は皆知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族を迫せめての一人も余さず、家倉と共に焚尽やきつくされて一夜の中に儚はかなくなり了をはれるに会ひては、おのれが懐裡ふところの物の故無ゆゑなく消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何いかに成りなんをも料はかられざるをと、無常の愁は頻しきりに腸はらわたに沁しむなりけり。 住むべき家の痕跡あとかたも無く焼失せたりと謂いふだに、見果てぬ夢の如し、まして併あはせて頼めし主あるじ夫婦を喪うしなへるをや、音容おんよう幻まぼろしを去らずして、ほとほと幽明の界さかひを弁ぜず、剰あまつさへ久く病院の乾燥せる生活に困こうじて、この家を懐おもふこと切なりければ、追慕の情は極きはまりて迷執し、迫せめては得るところもありやと、夜の晩おそきに貫一は市いちヶ谷やなる立退所たちのきじよを出でて、杖つゑに扶たすけられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。
 連日風立ち、寒かりしに、この夜は遽にはかに緩ゆるみて、朧おぼろの月の色も暖あたたかに、曇るともなく打霞うちかすめる町筋は静に眠れり。燻臭いぶりくさき悪気は四辺あたりに充満みちみちて、踏荒されし道は水に漐しとり、燼もえがらに埋うづもれ、焼杭やけくひ焼瓦やけがはらなど所狭く積重ねたる空地くうちを、火元とて板囲いたがこひも得為えせず、それとも分かぬ焼原の狼藉ろうぜきとして、鰐淵が家居いへゐは全く形を失へるなり。黒焦に削れたる幹みきのみ短く残れる一列ひとつらの立木の傍かたはらに、塊つちくれ堆うづたかく盛りたるは土蔵の名残なごりと踏み行けば、灰燼の熱気は未いまだ冷めずして、微ほのかに面おもてを撲うつ。貫一は前杖まへづゑ拄ついて悵然ちようぜんとして佇たたずめり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨を発おこせし所なり。恨むと見ゆる死顔の月は、肉の片きれの棄てられたるやうに朱あかく敷しける満地の瓦を照して、目に入いるものは皆伏し、四望の空く寥々りようりようたるに、黒く点せる人の影を、彼は自おのづから物凄ものすごく顧らるるなりき。
 立尽せる貫一が胸には、在りし家居の状さまの明かに映じて、赭あかく光れるお峯が顔も、苦にがき口付せる主あるじが面おもても眼に浮びて、歴々まざまざと相対さしむかへる心地もするに、姑しばらくはその境に己おのれを忘れたりしが、やがて徐しづかに仰ぎ、徐に俯ふして、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭おしぬぐひつ。彼は転うたた人生の凄涼せいりようを感じて禁ずる能あたはざりき。苟いやしくもその親める者の半にして離れ乖そむかざるはあらず。見よ或はかの棄てられし恨を遺のこし、或はこの奪はれし悲かなしみに遭あひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者は逝ゆき、㷀然けいぜんとして吾独われひとり在り。在るが故に慶よろこぶべきか、亡なきが故に悼いたむべきか、在る者は積憂の中に活いき、亡き者は非命の下もとに殪たふる。抑そもそもこの活かつとこの死とは孰いづれを哀あはれみ、孰を悲かなしまん。 吾が煩悶はんもんの活を見るに、彼等が惨憺さんたんの死と相同あひおなじからざるなし、但殊ただことにするところは去ると留るとのみ。彼等の死ありて聊いささか吾が活の苦くるしきをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼等が死の傷いたましきを弔ふに足らんか。吾が腸ちようは断たれ、吾が心は壊やぶれたり、彼等が肉は爛ただれ、彼等が骨は砕けたり。活きて爾苦しかくるしめる身をも、なほさすがに魂たましひも消けぬべく打駭うちおどろかしつる彼等が死状しにざまなるよ。産を失ひ、家を失ひ、猶なほも身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへども未いまだ曾かつて如此かくのごとき虐刑の辱はづかしめを受けず、犬畜生の末までも箇様かようの業ごうは曝さらさざるに、天か、命めいか、或あるは応報か、然しかれども独ひとり吾が直行をもて世間に善を作なさざる者と為なすなかれ。人情は暗中に刃やいばを揮ふるひ、世路せいろは到る処に陥穽かんせいを設け、陰に陽に悪を行ひ、不善を作なさざるはなし。若もし吾が直行の行ふところをもて咎とがむべしと為さば、誰か有りて咎とがめられざらん、しかも猶なほ甚はなはだしきを為して天も憎まず、命も薄うすんぜず、応報もこれを避さくるもの有るを見るにあらずや。彼等の惨死さんしを辱はづかしむるなかれ、適たまたま奇禍を免れ得ざりしのみ。
 かく念おもへる貫一は生前しようぜんの誼深よしみふかかりし夫婦の死を歎きて、この永き別わかれを遣方やるかたも無く悲み惜むなりき。さて何時いつまでかここに在らんと、主の遺骨を出いだせし辺あたりを拝し、又妻の屍かばねの横よこたはりし処を拝して、心佗こころわびしく立去らんとしたりしに、彼は怪くも遽にはかに胸の内の掻乱かきみだるる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路やみぢの奥に打棄てられたるを悲く、あはれ猶なほ少時しばし留らずやと、いと迫せめて乞ひ縋すがると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土に息いこへり。
 実げに彼も家の内に居て、遺骸なきがらの前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人の傍そばにも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらん想おもひして、立てたる杖に重き頭かしらを支へて、夫婦が地下に齎もたらせし念々を冥捜めいそうしたり。やがて彼は何の得るところや有りけん、繁しげき涙は滂沱はらはらと頬ほほを伝ひて零こぼれぬ。
 夜陰に轟とどろく車ありて、一散に飛とばし来きたりけるが、焼場やけばの際きはに止とどまりて、翩ひらりと下立おりたちし人は、直ただちに鰐淵が跡の前に尋ね行きて歩あゆみを住とどめたり。
 焼瓦やけがはらの踏破ふみしだかるる音に面おもてを擡もたげたる貫一は、件くだんの人影の近く進来すすみくるをば、誰ならんと認むる間ひまも無く、「間さんですか」
「おお、貴方あなたは! お帰来かへりでしたか」
 その人は待ちに待たれし直道なり。貫一は忙いそがはしく出迎へぬ。向ひて立てる両箇ふたりは月明つきあかりに面おもてを見合ひけるが、各おのおの口吃くちきつして卒にはかに言ふ能はざるなりき。
「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」
「はい。この度たびは留守中と云ひ、別してお世話になりました」
「私わたくしは事の起りました晩は未まだ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつて漸やうやく駈着かけつけたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽ろうばいされる方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多のこりおほい事を致しました」
 直道は塞ふさぎし眼まなこを怠たゆげに開きて、
「何もかも皆焼けましたらうな」
「唯一品ひとしな、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」
「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」
「貨かねも少しは在りませうが、帳簿、証書の類が主おもでございます」
「貸金に関した?」
「さやうで」
「ええ、それが焼きたかつたのに!」
 口惜くちをしとの色は絶したたかその面おもてに上のぼれり。貫一は彼が意見の父と相容あひいれずして、年来としごろ別居せる内情を詳つまびらかに知れば、迫せめてその喜ぶべきをも、却かへつてかく憂うれひと為なす故ゆゑを暁さとれるなり。
「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無さしつかへないのです。寧むしろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿なくなつたのも、私わたくしであれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞ衆みんなが喜んでゐるだらうと思ふと、唯親を喪なくなしたのが情無なさけないばかりではないのですよ」
 されども堰せき敢あへず流るるは恩愛の涙なり。彼を憚はばかりし父と彼を畏おそれし母とは、決して共に子として彼を慈いつくしむを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を被かうむりき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、その聴きかれざりし恨より、親として事つかへざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。
 生暖なまあたたかき風は急に来きたりてその外套がいとうの翼を吹捲ふきまくりぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無はしなく彼は憶起おもひおこして、さばかりは有ありのすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙いつしを与ふる者ぞ、我は今聘へいせられし測量地より帰来かへりきたれるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へて杳はるかに迢はるかに隔つる世の人となりぬ。
 炎々たる猛火の裏うちに、その父と母とは苦くるしみ悶もだえて援たすけを呼びけんは幾許いかばかりぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽あいえつは渾身こんしんをして涙に化し了をはらしめんとするなり。
「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。貴方あなた一箇ひとりのお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日こんにちまで御両親をお持ちになつてゐられたのは、私わたくしなどの身から見ると何よりお可羨うらやましいので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ詐いつはりの無いものは決して御座いませんな、私は十五の歳としから孤児みなしごになりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊みくびられます。余り見縊られたのが自棄やけの本もとで、遂つひに私も真人間に成損なりそこなつて了つたやうな訳で。固もとより己おのれの至らん罪ではありますけれど、抑そもそも親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合ふしあはせで、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それはもう幾歳いくつになつたから親に別れて可いと謂いふ理窟りくつはありませんけれど、聊いささか慰むるに足ると、まあ、思召おぼしめさなければなりません」 貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き例ためしはあらず、彼の物言はずとよりは、この人の悪にくみ遠とほざけたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生視して、得べくば撲うつて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が言ことばの端々はしはしに人がましき響あるを聞きて、いと異あやしと思へり。
「それでは、貴方真人間に成損なりそこなつたとお言ひのですな」
「さうでございます」
「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」
「勿論もちろんでございます」
 直道は俯うつむきて言はざりき。
「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐ふてくされた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」
 彼はなほ俯うつむき、なほ言はずして、頷うなづくのみ。
 夜は太いたく更ふけにければ、さらでだに音を絶たてる寂静しづかさはここに澄徹すみわたりて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙ふみにじる靴の下に、瓦の脆もろく割わるるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物は毀こぼたれたる中に一箇ひとりは立ち、一箇ひとりは偃いこひて、言ことばあらぬ姿の佗わびしげなるに照すとも無き月影の隠々と映添さしそひたる、既に彷彿ほうふつとして悲かなしみの図を描成ゑがきなせり。
 かくて暫しばらく有りし後、直道は卒然言ことばを出いだせり。
「貴方、真人間に成つてくれませんか」
 その声音こわねの可愁うれはしき底には情なさけも籠こもれりと聞えぬ。貫一は粗ほぼ彼の意を暁さとれり。
「はい、難有ありがたうございます」
「どうですか」
「折角のお言ことばではございますが、私わたくしはどうぞこのままにお措おき下さいまし」
「それは何為なぜですか」
「今更真人間に復かへる必要も無いのです」
「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶あいさつをして下さいな」
「いや、お気に障さはりましたらお赦ゆるし下さいまし。貴方とは従来これまで浸々しみじみお話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂うはさを伺つて、能よく貴方を存じてをります。極潔ごくきよいお方なので、精神的に傷きずついたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、正ただしい、直すぐなお耳へは入いらんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、拗ねぢけた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流ききながしに願ひます」
「ああ、善く解りました」
「真人間になつてくれんかと有仰おつしやつて下すつたのが、私は非常に嬉うれしいのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、辛つらいのでございます。そんな思をしつつ何為なぜしてゐるか! 曰いはく言難いひがたしで、精神的に酷ひどく傷きずつけられた反動と、先まづ思召おぼしめして下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒やけざけでも吃くらつて、体からだを毀こはして、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒は可いかず、腹を切る勇気は無し、究竟つまりは意気地の無いところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」 彼の潔きよしと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見ほのめかしたる述懐の為に稍やや動されぬ。
「お話を聞いて見ると、貴方が今日こんにちの境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、悉くはしく聞きかして下さいませんか」
「極愚ぐな話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は他ひとには語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟つまり或事に就いて或者に欺かれたのでございます」
「はあ、それではお話はそれで措おきませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決して愧はづべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或時は不如いつそ父の前で死んで見せて、最後の意見を為るより外は無い、と決心したことも有つたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄てては措おかん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾いかんで。一時に両親ふたおやに別れて、死目にも逢あはず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうの無い……凡およそ人の子としてこれより上の悲かなしみが有らうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、愈いよいよ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難は免のがれたに違無い。いや私はさう信じてゐる。然し、過ぎた事は今更為方が無いから、父の代かはりに是非貴方に改心して貰もらひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念も霽はれる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。
 成程、お話の様子では、こんな家業に身を墜おとされたのも、已やむを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのは罷やめて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上の喜よろこびは有りません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非を悛あらためて下さい」
 聴ゐる貫一は露の晨あしたの草の如く仰ぎ視みず。語り訖をはれども猶仰ぎ視ず、如何いかにと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。
 忽たちまち一閃いつせんの光ありて焼跡を貫く道の畔ほとりを照しけるが、その燈ともしびの此方こなたに向ひて近ちかづくは、巡査の見尤みとがめて寄来よりくるなり。両箇ふたりは一様に睼みむかへて、待つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は隈無くまなく彼等を曝さらしぬ。巡査は如何いかに驚きけんよ、かれもこれも各おのおの惨として蒼あをき面おもてに涙垂れたり――しかもここは人の泣くべき処なるか、時は正まさに午前二時半。



続金色夜叉



与紅葉山人書

学海居士


紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。


第一章

 時を銭ぜになりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前いちにんまへの睡量ねぶりだか凡およそ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄おしつまりたる歳末の市中は物情恟々きようきようとして、世界絶滅の期の終つひに宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離きるさの気立けたたましく、肩相摩けんあひましては傷きずつき、轂相撃こくあひうちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々こころごころに今を限かぎりと慌あわて騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去の十一箇月を虚あだに送りて、一秒の塵ちりの積める弐千余円の大金を何処いづくにか振落し、後悔の尾しりに立ちて今更に血眼ちまなこを瞪みひらき、草を分け、瓦を揆おこしても、その行方ゆくへを尋ねんと為るにあらざるなし。かかる間ひまにも常は止ただ一毛に値する一秒の壱銭乃至ないし拾銭にも暴騰せる貴々重々ききちようちようの時は、速射砲を連発つるべうちにするが如く飛過とびすぐるにぞ、彼等の恐慌は更に意言こころことばも及ばざるなる。 その平生へいぜいに怠無おこたりなかりし天は、又今日に何の変易へんえきもあらず、悠々ゆうゆうとして蒼あをく、昭々として闊ひろく、浩々こうこうとして静に、しかも確然としてその覆おほふべきを覆ひ、終日ひねもす北の風を下おろし、夕付ゆふづく日の影を耀かがやかして、師走しはすの塵ちりの表おもてに高く澄めり。見遍みわたせば両行の門飾かどかざりは一様に枝葉の末広く寿山じゆざんの翠みどりを交かはし、十町じつちようの軒端のきばに続く注連繩しめなはは、福海ふくかいの霞かすみ揺曳ようえいして、繁華を添ふる春待つ景色は、転うたた旧ふり行く歳としの魂こんを驚おどろかす。
 かの人々の弐千余円を失ひて馳違はせちがふ中を、梅提げて通るは誰たが子、猟銃担かたげ行くは誰が子、妓ぎと車を同おなじうするは誰が子、啣楊枝くはへようじして好き衣きぬ着たるは誰が子、或あるひは二頭立だちの馬車を駆かる者、結納ゆひのうの品々担つらする者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋ずずつなぎにして勧工場かんこうばに入いる者、彼等は各おのおの若干そこばくの得たるところ有りて、如此かくのごとく自ら足れりと為するにかあらん。これ等の少すこしく失へる者は喜び、彼等の多く失へる輩はいは憂ひ、又稀まれには全く失はざりし人の楽めるも、皆内には齷齪あくそくとして、盈みてるは虧かけじ、虧けるは盈たんと、孰いづれかその求むるところに急ならざるはあらず。人の世は三みつの朝あしたより花の昼、月の夕ゆふべにもその思おもひの外ほかはあらざれど、勇怯ゆうきようは死地に入いりて始て明あきらかなる年の関を、物の数とも為せざらんほどを目にも見よとや、空臑からすねの酔ゑひを踏み、鉄鞭てつべんを曳ひき、一巻のブックを懐ふところにして、嘉平治平かへいじひらの袴はかまの焼海苔やきのりを綴つづれる如きを穿うがち、フラネルの浴衣ゆかたの洗ひ曬ざらして垢染あかぞめにしたるに、文目あやめも分かぬ木綿縞もめんじまの布子ぬのこを襲かさねて、ジォンソン帽の瓦色かはらいろに化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗しまらしやの二重外套にじゆうまわしは何いつの冬誰たが不用をや譲られけん、尋常なみなみよりは寸の薄つまりたるを、身材みのたけの人より豊なるに絡まとひたれば、例の袴は風にや吹断ふきちぎれんと危あやふくも閃ひらめきつつ、その人は齢よはひ三十六七と見えて、形癯かたちやせたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚よりて孤なる風情ふぜい、独ひとり負ふ気無げなく麗うるはしくも富める髭髯ひげは、下には乳ちの辺あたりまで毿々さんさんと垂れて、左右に拈ひねりたるは八字の蔓つるを巻きて耳の根にも迨およびぬ。打見うちみれば面目めんもく爽さはやかに、稍傲ややおごれる色有れど峻さかしくはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺のべを辿たどるらんやうに、西筋の横町をこの大路に出いで来きたらんとす。「瓢ひよう空むなしく夜よは静しづかにして高楼に上のぼり、酒を買ひ、簾れんを巻き、月を邀むかへて酔ゑひ、酔中すいちゆう剣けんを払へば光ひかり月つきを射る」
 彼は節ふしをかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色るりいろに夕栄ゆふばえて、俄にはかに冴さえ勝まさる颰こがらしの目口に沁しみて磨鍼《とぎはり》を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘ふといきふいて、右に一歩左に一歩と踽よろめきつつ、
「往々おうおう悲歌ひかして独ひとり流涕りゆうていす、君山くんざんを剗却さんきやくして湘水しようすい平に桂樹けいじゆを砍却しやくきやくして月更さらに明あきらかならんを、丈夫じようふ志有こころざしありて……」
 と唱うたひ出いづる時、一隊の近衛騎兵このえきへいは南頭みなみがしらに馬を疾はやめて、真一文字まいちもんじに行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭てつべんを植たてて、舞立つ砂煙すなけむりの中に魁さきがけの花を装よそほへる健児の参差しんさとして推行おしゆく後影うしろかげをば、壮さかんなる哉かなと謂いはまほしげに看送みおくりて、
「我われ四方しほうに遊びて意こころを得ず、陽狂ようきようして薬を施す成都の市し」
 と漫そぞろにその詩の首はじめをば小声こごゑ朗ほがらかに吟じゐたり。さては往来ゆききの遑いとまなき目も皆牽ひかれて、この節季の修羅場しゆらばを独ひとり天下てんかに吃くらひ酔ゑへるは、何者の暢気のんきか、自棄やけか、豪傑か、悟さとりか、酔生児のんだくれか、と異あやしき姿を見て過すぐる有れば、面おもてを識らんと窺うかがふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼は太いたく酔ゑへれば総すべて知らず、町の殷賑にぎはひを眺ながめ遣やりて、何方いづれを指して行かんとも心定らず姑しばらく立てるなりけり。
 さばかり人に怪あやしまるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕あらはしたるにあらず、折々散歩すらんやうに出来いでくることあれど、箇様かようの酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希めづらしと思へるなり。
 やがて彼は鉄鞭てつべんを曳鳴ひきならして大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾いぬゐの方かたより狭き坂道の開きたる角かどに来にける途端とたんに、風を帯びて馳下はせくだりたる俥くるまは、生憎あいにく其方そなたに踽よろめける酔客すいかくの膁よわごしの辺あたりを一衝撞ひとあてあてたりければ、彼は郤含はずみを打つて二間も彼方そなたへ撥飛はねとばさるると斉ひとしく、大地に横面擦よこづらすつて僵たふれたり。不思議にも無難に踏留ふみとどまりし車夫は、この麁忽そこつに気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅かぢを回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾くろあやの吾妻あづまコオト着て、素鼠縮緬すねずみちりめんの頭巾被づきんかぶれる婦人は樺色無地かばいろむじの絹臘虎きぬらつこの膝掛ひざかけを推除おしのけて、駐とめよ、返せと悶もだゆるを、猶なほ聴かで曳々えいえいと挽ひき行く後うしろより、「待て、こら!」と喝かつする声に、行く人の始て事有りと覚さとれるも多く、はや車夫の不情を尤とがむる語ことばも聞ゆるに、耐たまりかねたる夫人は強しひて其処そこに下車して返り来きたりぬ。
 例の物見高き町中なりければ、この忙せはしき際きはをも忘れて、寄来よりくる人数にんずは蟻ありの甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞つくばへる周辺めぐりを擁し、一面には婦人の左右に傍そひて、目に物見んと揉立もみたてたり。婦人は途みちを来つつ被物かぶりものを取りぬ。紋羽二重もんはぶたへの小豆鹿子あづきかのこの手絡てがらしたる円髷まるわげに、鼈甲脚べつこうあしの金七宝きんしつぽうの玉の後簪うしろざしを斜ななめに、高蒔絵たかまきゑの政子櫛まさこぐしを翳かざして、粧よそほひは実げに塵ちりをも怯おそれぬべき人の謂いひ知らず思惑おもひまどへるを、可痛いたはしの嵐あらしに堪たへぬ花の顔かんばせや、と群集くんじゆは自おのづから声を歛をさめて肝に徹こたふるなりき。
 いと更に面おもての裹つつまほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞はづかしさと切なさとは幾許いかばかりなりけん、打赧うちあかめたる顔は措おき所あらぬやうに、人堵ひとがきの内を急足いそぎあしに辿たどりたり。帽子も鉄鞭てつべんも、懐ふところにせしブックも、薩摩下駄さつまげたの隻かたしも投散されたる中に、酔客すいかくは半ば身を擡もたげて血を流せる右の高頬たかほを平手に掩おほひつつ寄来よりくる婦人を打見遣うちみやりつ。彼はその前に先まづ懦わるびれず会釈して、
「どうも取んだ麁相そそうを致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打ぶちましたか、まあどうも……」
「いや太たいした事は無いのです」
「さやうでございますか。何処どこぞお痛め遊ばしましたでございませう」
 腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣きづかへるなり。
 車夫は数次あまたたび腰こしを屈かがめて主人の後方うしろより進出すすみいでけるが、
「どうも、旦那だんな、誠に申訳もございません、どうか、まあ平ひらに御勘弁を願ひます」
 眼まなこを其方そなたに転じたる酔客は恚いかれるとしもなけれど声粛こゑおごそかに、
「貴様は善くないぞ。麁相そそうを為たと思うたら何為なぜ車を駐とめん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻かかする」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
 俥くるまの主の身を下くだして辞ことばを添ふれば、彼も打頷うちうなづきて、「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
 やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜よろこびに引易ひきかへて、見物の飽気無あつけなさは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余あまりに落着の蛇尾だび振はざるを悔みて、はや忙々いそがはしき踵きびすを回かへすも多かりけれど、又見栄みばえあるこの場の模様に名残なごりを惜みつつ去り敢あへぬもありけり。
 車夫は起ち悩める酔客を扶たすけて、履物はきものを拾ひ、鞭むちを拾ひて宛行あてがへば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇ねんごろに外套がいとう、袴はかまの泥を払はしめぬ。免ゆるされし罪は消えぬべきも、歴々まざまざと挫傷すりきずのその面おもてに残れるを見れば、疚やましきに堪へぬ心は、なほ為なすべき事あるを吝をしみて私わたくしせるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷いたましと眺ながめたりしに、その眼色まなざしは漸やうやく鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚まもりつつ便無びんなげに佇たたずみけるに、いでや長居は無益むやくとばかり、彼は蹌踉よろよろと踏出ふみいだせり。
 婦人はとにもかくにも遣過やりすごせしが、又何とか思直おもひなほしけん、遽にはかに追行きて呼止めたり。頭かしらを捻向ねぢむけたる酔客は眊くもれる眼まなこを屹きと見据ゑて、自われか他ひとかと訝いぶかしさに言ことばも出いださず。
「もしお人違ひとちがひでございましたら御免あそばしまして。貴方あなたは、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回かへして、丁ちようと立てたる鉄鞭に仗より、こは是これ白日の夢か、空華くうげの形か、正体見んと為れど、酔眼の空むなしく張るのみにて、益ますます霽はれざるは疑うたがひなり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私わたくし荒尾です」
「あの間はざま貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
「私わたくしは鴫沢しぎさわの宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰おつしやる……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
 奇遇に驚かされたる彼の酔ゑひは頓とみに半なかばは消えて、せめて昔の俤おもかげを認むるや、とその人を打眺うちながむるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
 宮は懽よろこび勇みて犇ひしと寄りぬ。
 今は美うつくしき俥くるまの主ならず、路傍の酔客ならず名宣合なのりあへるかれとこれとの思は如何いかに。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜いとしかりし人にあらずや。その日の彼等は又同胞はらからにも得べからざる親したしみを以もて、膝ひざをも交まじへ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算かぞへざりしなり。よしさりとも、一ひとたび同胞はらからと睦合むつみあへりし身の、弊衣へいいを飄ひるがへして道に酔ゑひ、流車を駆りて富に驕おごれる高下こうげの差別しやべつの自おのづから種しゆ有りて作なせるに似たる如此かくのごときを、彼等は更に更に夢ゆめみざりしなり。その算かぞへざりし奇遇と夢ゆめみざりし差別しやべつとは、咄々とつとつ、相携へて二人の身上しんじように逼せまれるなり。女気をんなぎの脆もろき涙ははや宮の目に湿うるほひぬ。「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
「貴方あなたも変りましたな!」
 さしも見えざりし面おもての傷の可恐おそろしきまでに益ますます血を出いだすに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭ぬぐはしめつつ、心も心ならず様子を窺うかがひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
 彼は何やらん吩咐いひつけて車夫を遣りぬ。
「直ぢきこの近くに懇意の医者が居りますから、其処そこまでいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆あぶなうございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出いであそばしまし」
「いんや、宜よろしい、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
 宮は胸先むなさきを刃やいばの透とほるやうに覚おぼゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈はずです」
 生きたる心地もせずして宮の慙はぢ慄をののける傍かたはらに、車夫は見苦みぐるしからぬ一台の辻車つじぐるまを伴ひ来きたれり。漸やうやく面おもてを挙あぐれば、いつ又寄りしとも知らぬ人立ひとたちを、可忌いまはしくも巡査の怪みて近ちかづくなり。

第二章

 鬚深ひげふかき横面よこづらに貼薬はりくすりしたる荒尾譲介あらおじようすけは既に蒼あをく酔醒ゑひさめて、煌々こうこうたる空気ラムプの前に襞襀ひだもあらぬ袴はかまの膝ひざを丈六じようろくに組みて、接待莨せつたいたばこの葉巻を燻くゆしつつ意気粛おごそかに、打萎うちしをれたる宮と熊の敷皮を斜ななめに差向ひたり。こはこれ、彼の識しれると謂いひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒いとぐちを解きしなるべし。
「間はざまが影を隠す時、僕に遺のこした手紙が有る、それで悉くはしい様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫ふるへて腹が立つた。直すぐに貴方あなたに会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒いゆるほど打踣うちのめして、一生結婚の成らんやう立派な不具かたはにしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言ことばを尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言ことばを容いれやう道理が無い。又間を嫌きらうた以上は、貴方は富山への売物じや。他ひとの売物に疵きずを附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯たても耐たまらん胸を挲さすつて了しまうたんです」
 宮が顔を推当おしあてたる片袖かたそでの端はしより、連しきりに眉まゆの顰ひそむが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間はざまさへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨うらむばかりでは慊あきたらん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生しちしようまで怨む、きつと怨む!」 終つひに宮が得堪えたへぬ泣音なくねは洩もれぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子いつぷじよしに棄てられたが為に志を挫くじいて、命を抛なげうつたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何いかに不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故ゆゑに、彼が今日こんにちの有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操みさをを破つたのみでない。併あはせて夫を刺殺さしころしたも……」
 宮は慄然りつぜんとして振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥まなじりは貫一が怨うらみも憑うつりたりやと、その見る前に身の措所無おきどころなく打竦うちすくみたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟かいごされたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日こんにちに及んでの悔悟は業すでに晩おそい。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆くつがへつた。盆は破れて了しまうたんじや。かう成つた上は最早もはや神の力も逮およぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作なせる罪の報むくいで、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
 宮は俯うつむきてよよと泣くのみ。
 吁ああ、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争いかで争で吾が罪を容ゆるすべき。吁ああ、吾が罪は終つひに容ゆるされず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
 宮は胸潰むねつぶれて、涙の中に人心地ひとここちをも失はんとすなり。
 おのれ、利を見て愛無かりし匹婦ひつぷ、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情じようは動くなりき。宮は際無はてしなく顔を得挙えあげずゐたり。
「然し、好う悔悟を作なすつた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因よつて自ら容されたんじや」
 由無よしなき慰藉なぐさめは聞かじとやうに宮は俯ふしながら頭かしらを掉ふりて更に泣入りぬ。
「自みづからにても容されたのは、誰たれにも容されんのには勝まさつてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂いふもの。僕は未まだ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日こんにちの貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間はざまの胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰いづれが多く憐あはれむべきであるかと謂へば、間の無念は抑そもそもどんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
 かうして今日こんにち図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝かたじけないと思うた事も幾度いくたびか知れん、その媛友レディフレンドに何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐なつかしう思ひました」
 宮は泣音なくねの迸ほとばしらんとするを咬緊くひしめて、濡浸ぬれひたれる袖そでに犇々ひしひしと面おもてを擦付すりつけたり。
「けれど又、円髷まるわげに結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決けして可愛かはゆうはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると言いはるる、善し、あの様に間を詐いつはつた貴方じや、又僕を幾何どれほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打踣うちのめしてくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は陰ひそかに喜んで聴いたのです。今日こんにちの貴方はやはり僕の友フレンドの宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍の疵きずを附けにや還かへさんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。 で、間に取成してくれい、詑わびを言うてくれい、とのお嘱たのみぢやけれど、それは僕は為せん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。
 かうして親友の敵かたきに逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭いやな言ことばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好ごきげんよう、これでお暇いとまします」
 会釈して荒尾の身を起さんとする時、
「暫しばらく、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙ふりあげて、重き瞼まぶたの露を払へり。
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為なすつては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私わたくしを容ゆるさんと有仰おつしやるので御座いますか」
「さうです」
 忙せはしげに荒尾は片膝かたひざ立ててゐたり。
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今ただいま直ぢきに御飯が参りますですから」
「や、飯めしなら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍かんにんなすつて下さいまし」
 火鉢ひばちの縁ふちに片手を翳かざして、何をか打案ずる様さまなる目を翥そらしつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入ききいれはあるまいと私は諦あきらめましたから、貫一かんいつさんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
 咄嗟とつさに荒尾の視線は転じて、猶語続かたりつづくる宮が面おもてを掠かすめ去さりぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何いかにも悪かつた事を思ふ存分謝あやまりたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素もとより容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
 宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可よいので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
 感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽たちまちその長き髯ひげを振りて頷うなづけり。
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言いはれた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継ただつぐと云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。
 して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方あなたは富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効は没なくなつて了ふ」
「そんな事はかまひません!」
 無慙むざんに唇くちびるを咬かみて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
「私わたくしはもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾とうから棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如いつそさうして死んで了ひたいので御座います」
「それそれさう云ふ無考むかんがへな、訳の解らん人に僕は与くみすることは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡りようけんぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓ふらちです! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧むしろ富山を不憫ふびんに思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍あはれまんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈いよいよ憎むべきは貴方じや」 四途乱しどろに湿うるほへる宮の目は焚もゆらんやうに耀かがやけり。
「さう有仰おつしやつたら、私はどうして悔悟したら宜よろしいので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召おぼしめしてお誨をしへなすつて下さいまし」
「僕には誨へられんで、貴方がまあ能よう考へて御覧なさい」
「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々ぶらぶらと全まるで疾わづらつてをるやうな気分で、噫ああもうこんななら、いつそ死んで了しまはう、と熟つくづくさうは思ひながら、唯たつたもう一目、一目で可うございますから貫一かんいつさんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」
「まあ能う考へて御覧なさい」
「荒尾さん、貴方それでは余あんまりでございますわ」
 独ひとりに余る心細さに、宮は男の袂たもとを執りて泣きぬ。理切ことわりせめて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞むねふさがれて、実げにもと覚ゆる宮が衰容やつれすがたに眼まなこを凝こらしゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼たのみに成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨をしへなすつて下さいまし」
 涙に昏くれてその語ことばは能くも聞えず、階子下はしごしたの物音は膳運ぜんはこび出いづるなるべし。
 果して人の入来いりきて、夕餉ゆふげの設まうけすとて少時しばし紛まぎらされし後、二人は謂いふべからざる佗わびしき無言の中に相対あひたいするのみなりしを、荒尾は始て高く咳しはぶきつ。
「貴方の言るる事は能よう解つてをる、決して無理とは思はんです。如何いかにも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量かんがへに止とどまるので……いや、いや、そりや言いはれん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况いはんや誨ふべき事ではない、止ただ僕一箇の了簡として肚はらの中に思うたまでの事、究竟つまり荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能なほよう考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出みいだしたら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住すまひ? 居住は、まあ言はん方が可い、蜑あまが子こなれば宿も定めずじや。言うても差支さしつかへは無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何いかにも、こんな態なりをしてをるので、貴方は吃驚びつくりなすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。
 酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希まれです。忝かたじけない、折角の御忠告ぢやから今後は宜よろしい、気を着くるです。
 力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
 間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗すこぶる有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日あす訪ねてくれい? さうは可いかん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世うきよが可厭いやか、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日こんにちの有様では生効いきがひの無い方じやけれど、このままで空むなしく死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論勝ましですさ。何故なにゆゑ命が惜いのか、考へて見ると頗すこぶる解わからなくなる」 語りつつ彼は食を了をはりぬ。
「嗚呼ああ、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
 宮は差含さしぐむ涙を啜すすれり。尽きせぬ悲かなしみを何時までか見んとやうに荒尾は俄にはかに身支度して、
「こりや然し却かへつてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇いとま」
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
 はや彼は起てるなり。宮はその前に塞ふさがりて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
 始て誨をしふるが如く言放ちて荒尾の排かきのけ行かんとするを、彼は猶も縋すがりて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
 驚破すはや、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣やらぬ宮が姿は、寂さびしくも壁に向ひて動かざりけり。

第三章

 門々かどかどの松は除かれて七八日ななやうかも過ぎぬれど、なほ正月機嫌きげんの失せぬ富山唯継は、今日も明日あすもと行処ゆきどころを求めては、夜を晷ひに継ぎて打廻うちめぐるなりけり。宮は毫いささかもこれも咎とがめず、出づるも入いるも唯彼の為なすに任せて、あだかも旅館の主あるじの為すらんやうに、形かたばかりの送迎を怠らざると謂いふのみ。
 この夫に対する仕向しむけは両三年来の平生へいぜいを貫きて、彼の性質とも病身の故ゆゑとも許さるるまでに目慣めならされて又彼方あなたよりも咎められざるなり。それと共に唯継の行おこなひも曩日さきのひとは漸やうやく変りて、出遊であそびに耽ふけらんとする傾かたむきも出いで来きしを、浅瀬あさせの浪なみと見みし間まも無く近き頃より俄にはかに深陥ふかはまりして浮うかるると知れたるを、宮は猶なほしも措おきて咎めず。他ひとは如何いかにとも為せよ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易こころやすさを偸ぬすみて、異あやしき女夫めをとの契を繋つなぐにぞありける。
 かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂うきに瘁やつれたる宮は決して美うつくしき色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧かくべきにあらざりき。抑そもそもここに嫁とつぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻ただに愛無きに止とどまらずして、陰ひそかに厭いとひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂うさを霽はらすに忙いそがはしきにあらずや。されども彼の忘れず塒ねぐらに帰り来きたるは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了みをはれば、何ばかりの楽たのしみのあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉ストオブの傍かたはらに処をらしむるなり。彼の凍えて出いでざること無し。出いづれば幸ひにその金力に頼よりて勢を得、媚こびを買ひて、一時の慾を肆ほしいままにし、其処そこには楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空むなしき色香いろかに溺おぼれて、内にはかかる美きものを手活ていけの花と眺ながめ、外には到るところに当世の翮はぶしを鳴して推廻おしまはすが、此上無こよなう紳士の願足れりと心得たるなり。 いで、その妻は見るも厭いとはしき夫の傍そばに在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁しげき外出そとでを見赦みゆるして、十度とたびに一度ひとたびも色を作なさざるを風引かぜひかぬやうに召しませ猪牙ちよきとやらの難有ありがたき賢女の志とも戴いただき喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑なほざりならず念おもひにけり。さるは独ひとり夫のみならず、本家の両親を始はじめ親属知辺しるべに至るまで一般に彼の病身を憫あはれみて、おとなしき嫁よと賞ほめ揚そやさぬはあらず。実げに彼は某なにがしの妻のやうに出行であるかず、くれがしの夫人マダムのやうに気儘きままならず、又は誰々たれだれの如く華美はでを好まず、強請事ねだりごとせず、しかもそれ等の人々より才も容かたちも立勝たちまさりて在りながら、常に内に居て夫に事つかふるより外ほかを為せざるが、最怜いとをしと見ゆるなるべし。宮が裹つつめる秘密は知る者もあらず、躬みづからも絶えて異あやしまるべき穂を露あらはさざりければ、その夫に事つかへて捗々はかばかしからぬ偽いつはりも偽とは為られず、却かへりて人に憫あはれまるるなんど、その身には量無はかりなき幸さいはひを享うくる心の内に、独ひとり遣方無やるかたなく苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
 十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日きのふを夢み、今日を嘆かこちつつ、過すぐせば過さるる月日を累かさねて、ここに二十はたちあまり五いつつの春を迎へぬ。この春の齎もたらせしものは痛悔と失望と憂悶ゆうもんと、別に空むなしくその身を老おいしむる齢よはひなるのみ。彼は釈ゆるされざる囚とらはれにも同おなじかる思を悩みて、元日の明あくるよりいとど懊悩おうのうの遣る方無かりけるも、年の始といふに臥ふすべき病やまひならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧よそほひも、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶なほ甚はなはだしき浅ましさをその人の陰かげに陽ひなたに恨み悲むめり。
 宮は今外出せんとする夫の寒凌さむさしのぎに葡萄酒ぶどうしゆ飲む間まを暫しばらく長火鉢ながひばちの前に冊かしづくなり。木振賤きぶりいやしからぬ二鉢ふたはちの梅の影を帯びて南縁の障子に上のぼり尽せる日脚ひざしは、袋棚ふくろだなに据ゑたる福寿草ふくじゆそうの五六輪咲揃さきそろへる葩はなびらに輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩ひるまばゆき新調の三枚襲さんまいがさねを着飾りてその最も珍ちんと為る里昂リヨン製の白の透織すかしおりの絹領巻きぬえりまきを右手めてに引摳ひきつくろひ、左に宮の酌を受けながら、「あ、拙まづい手付てつき……ああ零こぼれる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所よそで飲む気にもなりますと謂いつて可い位のものだ」
「ですから多度上たんとあがつていらつしやいまし」
「宜よろしいかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来かへりになります」
「遅いよ」
「でも大約おほよそ時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆みんな寝みますから」
「遅いよ」
 又言ふも煩わづらはしくて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些ちよつと」
「…………」
「おや。お前慍おこつたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
 彼は続け様に宮の袖そでを曳けば、
「何を作なさるのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅おそいのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌きげんを直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜よろしうございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来直ぢきに慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為せゐかも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
「私わたくし沢山」
「ぢや俺が半分助すけて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注つぐ真似まね」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅あんばいに、愛子流かね」
 妓ぎの名を聞ける宮の如何いかに言ふらん、と唯継は陰ひそかに楽み待つなる流眄ながしめを彼の面おもてに送れるなり。
 宮は知らず貌がほに一口の酒を喞ふくみて、眉まゆを顰ひそめたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方こつちにお寄来よこし」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注いつぱいついで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習おほざらひが有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川いとがわの処へ集つて下温習したざらひを為るのさ。俺は、それお特得はこの、「親々おやおやに誘いざなはれ、難波なにわの浦うらを船出ふなでして、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待かぜまちにテチンチンツン……」
 厭いとはしげに宮の余所見よそみせるに、乗地のりぢの唯継は愈いよいよ声を作りて、
「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐あらしに吹分ふきわけられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父ちちイイイイ母ははのチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定つまさだめ……」
「貴方もう好加減いいかげんになさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操みさをを破ら……」
「又寛ゆつくり伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些ちよつと聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰もらはうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃じようるりの解らんやうな頭脳あたまぢや為方しかたが無い。お前は一体冷淡な頭脳あたまを有もつてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
「些ちつとも解らんよ」
「まあ可ようございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時いつでも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
 漸やうやく唯継の立起たちあがれば、宮は外套がいとうを着せ掛けて、不取敢とりあへず彼に握手を求めぬ。こは決けして宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故ゆゑは、この女夫めをとの出入しゆつにゆうに握手するは、夫の始より命じて習せし躾しつけなるをや。

(三)の二

 夫を玄関に送り出いでし宮は、やがて氷の窖あなぐらなどに入いるらん想おもひしつつ、是非無き歩あゆみを運びて居間に還かへりぬ。彼はその夫と偕ともに在るを謂いはんやう無き累わづらひと為すなれど、又その独ひとりを守りてこの家に処おかるるをも堪たへ難く悒いぶせきものに思へるなり。必かならずしも力つとむるとにはあらねど、夫の前には自おのづから気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣ほしいままなる身一箇みひとつとなれば、遽にはかに慵ものうく打労うちつかれて、心は整へん術すべも知らず紊みだれに乱るるが常なり。
 火鉢ひばちに倚よりて宮は、我を喪うしなへる体ていなりしが、如何いかに思入おもひいり、思回おもひまはし思窮おもひつむればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終つひに明けぬ闇やみに彷徨さまよへる可悲かなしさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出いでたり。
 麗うるはしく冱さえたる空は遠く三四みつよつの凧いかの影を転じて、見遍みわたす庭の名残なごり無く冬枯ふゆかれたれば、浅露あからさまなる日の光の眩まばゆきのみにて、啼狂なきくるひし梢こずゑの鵯ひよの去りし後は、隔てる隣より戞々かつかつと羽子はね突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値あたひあらぬを、彼はされども少時しばし居て、又空を眺ながめ、又冬枯ふゆがれを見遣みやり、同おなじき日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑おさへんとはしたりけれども抑へ難さの竟つひに苦く、再び居間に入いると見れば、其処そこにも留らで書斎の次なる寝間ねまに入いるより、身を抛なげうちてベットに伏したり。
 厚き蓐しとねの積れる雪と真白き上に、乱畳みだれたためる幾重いくへの衣きぬの彩いろどりを争ひつつ、妖あでなる姿を意こころも介おかず横よこたはれるを、窓の日の帷カアテンを透とほして隠々ほのぼの照したる、実げに匂にほひも零こぼるるやうにして彼は浪なみに漂ひし人の今打揚うちあげられたるも現うつつならず、ほとほと力竭ちからつきて絶入たえいらんとするが如く、止ただ手枕てまくらに横顔を支へて、力無き眼まなこを瞪みはれり。竟つひには溜息ためいき呴つきてその目を閉づれば、片寝に倦うめる面おもてを内向うちむけて、裾すその寒さを佗わびしげに身動みうごきしたりしが、猶なほも底止無そこひなき思の淵ふちは彼を沈めて逭のがさざるなり。 隅棚すみだなの枕時計は突はたと秒刻チクタクを忘れぬ。益ますます静に、益す明かなる閨ねやの内には、空むなしとも空むなしき時の移るともなく移るのみなりしが、忽たちまち差入る鳥影の軒端のきばに近く、俯ふしたる宮が肩頭かたさきに打連うちつらなりて飜ひらめきつ。
 やや有りて彼は嬾しどなくベットの上に起直りけるが、鬢びんの縺ほつれし頭かしらを傾かたぶけて、帷カアテンの隙ひまより僅わづかに眺めらるる庭の面おもに見るとしもなき目を遣りて、当所無あてどなく心の彷徨さまよふ蹤あとを追ふなりき。
 久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直ぢきに箪笥たんすの中より友禅縮緬ゆうぜんちりめんの帯揚おびあげを取出とりいだし、心に籠こめたりし一通の文ふみとも見ゆるものを抜きて、こたびは主あるじの書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺のこせし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈たけを窃ひそかに書聯かきつらねたるものなりかし。
 往年さいつとし宮は田鶴見たずみの邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方かたもあらぬ切なさに、唯心寛ただこころゆかしの仮初かりそめに援とりける筆ながら、なかなか口には打出うちいだし難き事を最好いとよく書きて陳つづけも為せしを、あはれかのひとの許もとに送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意こころをも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨うらめる怒いかりの余に投返されて、人目に曝さらさるる事などあらば、徒いたづらに身を滅ほろぼす疵きずを求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危あやふく、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無よりどころなき頼を繋かけつつ、彼は懊悩おうのうに堪へざる毎に取出でては写し易かふる傍かたはら、或あるは書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自おのづからその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽いひつくして心残こころのこりのあらざる如く、止ただこれに因よりて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古ほごとなりて、彼の帯揚に籠こめられては、いつまで草の可哀あはれや用らるる果も知らず、宮が手習は実げに久ひさしうなりぬ。
 些箇かごとに慰められて過せる身の荒尾に邂逅めぐりあひし嬉しさは、何に似たりと謂いはんも愚おろかにて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂とげんと頼みしを、仇あだの如く与くみせられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱かきみだれて、今は漸やうやく危きを懼おそれざる覚悟も出いで来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。
 紙の良きを択えらび、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意こころしてその字の良きを殊ことに択びて、今日の今ぞ始めて仮初かりそめならず写さんと為すなる。打顫うちふるふ手に十行余あまり認したためしを、つと裂きて火鉢に差爇さしくべければ、焔ほのほの急に炎々と騰のぼるを、可踈うとましと眺めたる折しも、紙門ふすまを啓あけてその光に惧おびえし婢をんなは、覚えず主あるじの気色けしきを異あやしみつつ、「あの、御本家の奥様がお出いで遊ばしました」

第四章

 主あるじ夫婦を併あはせて焼亡しようぼうせし鰐淵わにぶちが居宅は、さるほど貫一の手に頼よりてその跡に改築せられぬ、有形ありがたよりは小体こていに、質素を旨としたれど専もつぱら旧さきの構造を摸うつして差たがはざらんと勉つとめしに似たり。
 間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主あるじになれるなり。家督たるべき直道は如何いかにせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀こひねがひしを、貫一は今この家の主ぬしとなれるに、なほ先代の志を飜ひるがへさずして、益ますます盛さかんに例の貪むさぼりを営むなりき。然しかれば彼と貫一との今日こんにちの関繋かんけいは如何いかなるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡およそ人生箇々ここの裏面には必ず如此かくのごとき内情若もしくは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸さいはひに他の穿鑿せんさくを免れて、瞹眛あいまいの裏うちに葬られ畢をはんぬる例ためし尠すくなからず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩もれざるを得たり。
 かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛をさむれども、内には事足る老婢ろうひを役つかひて、僅わづかに自炊ならざる男世帯をとこせたいを張りて、なほも奢おごらず、楽まず、心は昔日きのふの手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物へんぶつの名を失はでゐたり。
 出いでてはさすがに労つかれて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家わがいへながら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも休やすらへる想しつつ、稍やや興冷めて坐りも遣やらず、物の悲き夕ゆふべを特ことに独ひとりの感じゐれば、老婢はラムプを持ち来きたりて、
「今日こんにち三時頃でございました、お客様が見えまして、明日みようにち又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰おつしやつて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰おつしやつてお帰りになりました」
「学校の友達?」
 臆測おしあてにも知る能あたはざるはこの藪やぶから棒の主ぬしなり。
「どんな風の人かね」
「さやうでございますよ、年紀としごろ四十ばかりの蒙茸むしやくしやと髭髯ひげの生はえた、身材せいの高い、剛こはい顔の、全まるで壮士みたやうな風体ふうていをしてお在いででした」
「…………」
 些さの憶起おもひおこす節ふしもありや、と貫一は打案じつつも半なかばは怪むに過ぎざりき。
「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」
「明日あした三時頃に又来ると?」
「さやうでございますよ」
「誰たれか知らんな」
「何だか誠に風の悪さうな人体にんていで御座いましたが、明日みようんち参りましたら通しませうで御座いますか」「ぢや用向は言つては行かんのだね」
「さやうでございますよ」
「宜よろしい、会つて見やう」
「さやうでございますか」
 起ち行かんとせし老婢は又居直りて、
「それから何でございました、間もなく赤樫あかがしさんがいらつしやいまして」
 貫一は懌よろこばざる色を作なしてこれに応こたへたり。
「神戸の蒲鉾かまぼこを三枚、見事なのでございます。それに藤村ふじむらの蒸羊羹むしようかんを下さいまして、私わたくしまで毎度又頂戴物ちようだいものを致しましたので御座います」
 彼は益す不快を禁じ得ざる面色おももちして、応答うけこたへも為せで聴きゐたり。
「さうして明日みようんち、五時頃些ちよいとお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰おつしやつてで御座いました」
 可よしとも彼は口には出いださで、寧むしろ止やめよとやうに忙せはしく頷うなづけり。

(四)の二

 学校友達と名宣なのりし客はその言ことばの如く重ねて訪とひ来きぬ。不思議の対面に駭おどろき惑へる貫一は、迅雷じんらいの耳を掩おほふに遑いとまあらざらんやうに劇はげしく吾を失ひて、頓とみにはその惘然ぼうぜんたるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温あたたまる間ひまの手弄てまさぐりに放ちも遣やらぬ下髯したひげの、長く忘れたりし友の今を如何いかにと観みるに忙いそがしかり。
「殆ほとんど一昔と謂うても可よい程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日こんにちでも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」
 答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。
「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是イエスか否ノウかの一つじや」
「そりや昔は親友であつた」
 彼は覚束無おぼつかなげに言出いひいだせり。
「さう」
「今はさうぢやあるまい」
「何為なぜにな」
「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」
「なに五六年前ぜんも一向親友ではありやせんぢやつたではないか」
 貫一は目を側そばめて彼を訝いぶかりつ。
「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相談も為せんのみか、それなり失踪しつそうして了うたのは何処どこが親友なのか」
 その常に慙はぢかつ悔くゆる一事を責められては、癒いえざる痍きずをも割さかるる心地して、彼は苦しげに容かたちを歛をさめ、声をも出いださでゐたり。
「君の情人いろは君に負そむいたぢやらうが、君の友フレンドは決けして君に負かん筈はずぢや。その友フレンドを何為なぜに君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、未まだ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」
 学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾‼ 尾羽をは打枯うちからせる今の荒尾の姿は変りたれど、猶なほ一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡無き跡を悲しと偲しのぶなりけり。
「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は痛痒つうようを感ずるぢやなからうけれど、僕は僕で、友フレンドの徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄つるも、又棄てんのも、唯今日こんにちにある意つもりじや。 今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも敢あへて望まん、立派に名宣なのつて僕も間貫一を棄つる!」
 貫一は頭かしらを低たれて敢て言はず。
「然し、今日こんにちまで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別わかれになるのぢやから、その餞行はなむけとして一言いちごん云はんけりやならん。
 間、君は何の為に貨かねを殖こしらゆるのぢや。かの大いなる楽たのしみとする者を奪れた為に、それに易かへる者として金銭マネエといふ考を起したのか。それも可からう、可いとして措おく。けれどもじや、それを獲える為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在他ひとから苦められてゐる躯からだではないのか。さうなれば己おのれが又他ひとを苦むるのは尤もつとも用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他ひとを苦むると謂うても、難儀に附入つけいつて、さうしてその血を搾しぼるのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖こしらえつつ、君はそれで今日こんにち慰められてをるのか。如何いかに金銭マネエが総すべての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然いぜんとして楽んでをるか。長閑のどかな日に花の盛さかりを眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押さしおさへを為たりしてをるか。どうかい、間」
 彼は愈いよいよ口を閉ぢたり。
「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の顔色がんしよくを見い! 全まるで罪人じやぞ。獄中に居る者の面つらじや」
 別人と見るまでに彼の浅ましく瘁やつれたる面おもてを矚まもりて、譲介は涙の落つるを覚えず。
「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多いくら貨かねを殖こしらへたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと謂うて毒を飲んで、その病が痊なほるぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友フレンドであつた間はそんな痴漢たはけぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居しをる奴は尤とがむるに足らんけれど、一婦人いつぷじんの為に発狂したその根性を、彼の友フレンドとして僕が慙はぢざるを得んのじや。間、君は盗人ぬすとと言れたぞ。罪人と言いはれたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴けるとも為て見い!」
 彼は自ら言いはひ、自ら憤り、尚なほ自ら打ちも蹴けりも為せんずる色を作なして速々そくそく答を貫一に逼せまれり。
「腹は立たん!」
「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人ぬすととも、罪人とも……」
「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目めんぼく無いけれど、既に発狂して了しまつたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ」
 貫一は纔わづかにかく言ひて已やみぬ。
「さうか。それぢや君は不正な金銭マネエで慰められてをるのか」
「未だ慰められてはをらん」
「何日いつ慰めらるるのか」
「解らん」
「さうして君は妻君を娶もらうたか」
「娶はん」
「何故なぜ娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」
「さうでもないさ」
「君は今では彼の事をどう思うてをるな」「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」
「然し、君も今日こんにちでは畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや」
「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」
「僕も畜生かな」
「…………」
「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若もし彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷やめにやならんじやな」
「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪むさぼる畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐いつはつて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣なのつて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得うるものか」
「何為なぜ成り得えんのか」
「何為なぜ成り得えるのか」
「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」
「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」
 寧むしろその面めんに唾つばせんとも思へる貫一の気色けしきなり。
「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」
 貫一は吾を忘れて嗤笑あざわらひぬ。彼はその如何いかに賤いやしむべきか、謂はんやうもあらぬを念おもひて、更に嗤笑あざわらひ猶嗤笑ひ、遏やめんとして又嗤笑ひぬ。
「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」
「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与あづかる事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう」
「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑わびを為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋すがつて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容ゆるして遣れと勧めは為せん、それは別問題じや。但ただ僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独ひとり苦んでをる。即すなはち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨うらみを釈といて可からうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復かへるべきぢやらうと考へるのじや。
 君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日いつ慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭マネエ、それは幾多いくらか知らんけれど、その寡すくなからん金銭マネエよりは、彼が終つひに悔悟したと聞いた一言いちごんの方が、遙はるかに大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」
「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日こんにちはそれに因よつて少すこしも慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐あだを復かへす価は無いさ。
 今日こんにちになつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固もとよりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無かつたらうに――不心得であつた、非常な不心得であつた!」
 彼は黯然あんぜんとして空むなしく懐おもへるなり。
「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可よいのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨かねを殖こしらへてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭マネエの力に頼よつて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委まかする。貨かねを殖こしらゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪むさぼつて聚あつむるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用もちゐんでも、富む道は幾多いくらも有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止ただ手段を改めよじや。路みちは違へても同じ高嶺たかねの月を見るのじやが」「辱かたじけないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切いつせつかまひ付けずに措いてくれ給へ」
「さうか。どうあつても僕の言ことばは用もちゐられんのじやな」
「容ゆるしてくれ給へ」
「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか」
「今日限こんにちかぎり互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇ひとつ聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」
「見たら解るぢやらう」
「見たばかりで解るものか」
「貧乏してをるのよ」
「それは解つてゐるぢやないか」
「それだけじや」
「それだけの事が有るものか。何で官途を罷やめて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか」
「話したところで狂人きちがひには解らんのよ」
 荒尾は空嘯そらうそぶきて起たんと為すなり。
「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」
「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No《ノオ》 thank《サンク》じや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然いぜんとして楽んでをるのじや」
「それだから猶なほ、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」
 荒尾は故ことさらに哈々こうこうとして笑へり。
「貴様如き無血虫むけつちゆうがそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」
「さうまで辱はづかしめられても辞ことばを返すことの出来ん程、僕の躯からだは腐つて了つたのだ」
「固よりじや」
「かう腐つて了つた僕の躯からだは今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器うつはであることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰ひそかにそれを祷いのつてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐おもふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日こんにちまで君の外には一人いちにんの友フレンドも無いのだ。一昨年をととしであつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐なつかしくもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀よろこびも言ひたいと念おもつたけれど、どうも逢れん僕の躯からだだから、切せめて陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場ステエションへ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」
 さてはと荒尾も心陰こころひそかに頷うなづきぬ。
「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日こんにち君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己おのれを棄ててゐるのだ。一婦女子いつぷじよしの詐如いつはりごときに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正きようせいすることの出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛をしんで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮さかんなる働はたらきを作なして欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人いつこじんとして己の為に身を愛をしみたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」
 貫一の面おもては病などの忽たちまち癒いえけんやうに輝きつつ、如此かくのごとく潔くも麗うるはしき辞ことばを語れるなり。
「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄らくはくしてをるのを見て気毒きのどくと思ふのか」「君が謂ふほどの畜生でもない!」
「其処そこじや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ用もちゐらるべき人才の多くがじや、名を傷きずつけ、身を誤られて、社会の外ほかに放逐されて空むなしく朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝かたじけないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷やめてくれい、と僕は又頼むのじや。今日こんにちの人才を滅ほろぼす者は、曰いはく色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落おちぶれてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱なやまされてをる人才の多くを一層不敏ふびんと思うて遣れ。
 君が愛ラヴに失敗して苦むのもじや、或人が金銭マネエの為に苦むのも、苦むと云ふ点に於ては差異かはりは無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友フレンドが有つたらばと思はん事は無い。その友フレンドが僕の身を念おもうてくれて、社会へ打つて出て壮さかんに働け、一臂いつぴの力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何いかに嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友フレンド、最も悪にくむべき者は高利貸ぢや。如何いかに高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益ますます友フレンドを懐おもふのじや。その昔の友フレンドが今日こんにちの高利貸――その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」
 彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。
「段々の君の忠告、僕は難有ありがたい。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯からだが元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念おもつてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処どこに今居るかね」
「まあ、高利貸などは来て貰もらはん方が可い」
「その日は友フレンドとして訪ねるのだ」
「高利貸に友フレンドは持たんものな」
 雍しとやかに紙門ふすまを押啓おしひらきて出来いできたれるを、誰たれかと見れば満枝なり。彼如何いかなれば不躾ぶしつけにもこの席には顕あらはれけん、と打駭うちおどろける主あるじよりも、荒尾が心の中こそ更に匹たぐふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘くるしみてその長き髯ひげをば痛したたかに拈ひねりつ。されど狼狽うろたへたりと見られんは口惜くちをしとやうに、遽にはかにその手を胸高むなたかに拱こまぬきて、動かざること山の如しと打控うちひかへたる様さまも、自おのづからわざとらしくて、また見好みよげにはあらざりき。
 満枝は先まづ主あるじに挨拶あいさつして、さて荒尾に向ひては一際ひときは礼を重く、しかも躬みづからは手の動き、目の視みるまで、専もつぱら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑ゑむともあらず面おもてを和やはらげて姑しばらく辞ことばを出いださず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪たへずして、
「これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな」
「君はどうして此方こちらを識しつてゐるのだ」 左瞻右視とみかうみして貫一は呆あきるるのみなり。
「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」
「荒尾さん」
 満枝は逭のがさじと呼留めて、
「かう云ふ処で申上げますのも如何いかがで御座いますけれど」
「ああ、そりや此ここで聞くべき事ぢやない」
「けれど毎いつも御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁にげも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜よろしいやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
「うう、随分酷ひどい事を察しさせられるのじやね」
「近日に是非私わたくしお願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬きつて了しまふとか云ふ事が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
 満枝は彼に耻はぢよとばかり嗤笑あざわらひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
「本当とも! 実際那奴あやつ砍却たたききつて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
「まあ、怖こはい事ぢや御座いませんか。私わたくしなぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」
 そは誰たが事を言ふならんとやうに、荒尾は頂うなじを反そらして噪ののめき笑ひぬ。
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭ふいて置かう」
「荒尾君、夕飯ゆふめしの支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
 満枝は荒尾の立てる脚下あしもとに褥しとねを推付おしつけて、実げに還さじと主あるじにも劣らず最惜いとをしむ様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
「そのお意つもりで、どうぞお席にゐらしつて」
 固もとより留とどまらざるべき荒尾は終つひに行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
 彼は唇くちびるの寒かるべきを思ひて、空むなしく鬱抑うつよくして帰り去れり。その言はざりし語ことばは直ただちに貫一が胸に響きて、彼は人の去いにける迹あとも、なほ聴くに苦くるしき面おもてを得挙えあげざりけり。

(四)の三

 程も有らずラムプは点ともされて、止ただ在りけるままに竦すくみゐたる彼の傍かたはらに置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧よそほひをも加へけんやうに怪けしからず妖艶あでやかに、宛然さながら色香いろかを擅ほしいままにせる牡丹ぼたんの枝を咲撓さきたわめたる風情ふぜいにて、彼は親しげに座を進めつ。
「間はざまさん、貴方あなたどうあそばして、非常にお鬱ふさぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」
 貫一は怠たゆくも纔わづかに目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
「私よりは、貴方があの方の御朋友ごほうゆうでゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が? 貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」「はあ、さうして額たかは若干どれほどなのですか」
「三千円ばかりでございますの」
「三千円? それでその直接の貸主かしぬしと謂いふのは何処どこの誰ですか」
 満枝は彼の遽にはかに捩向ねぢむきて膝ひざの前すすむをさへ覚えざらんとするを見て、歪ゆがむる口角くちもとに笑ゑみを忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生へいぜい私がお話でも致すと、全まるで取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
「些ちよつとも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為なぜですか」
「何為でも宜よろしう御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召おぼしめすなら、私に債権を棄てて了へと有仰おつしやつて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
「甚はなはだ解らんぢやありませんか」
「勿論もちろん解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些ちよつともお解りにならないのですから、私も益ますます解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
 満枝は金煙管きんぎせるに手炉てあぶりの縁ふちを丁ちようと拍うちて、男の顔に流眄ながしめの怨うらみを注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
 満枝は遽にはかに煙管きせるを索もとめて、さて傍かたはらに人無き若ごとく緩ゆるやかに煙けふりを吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆ほとんど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
 唯と見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々ぐづぐづしてをりましたら、さぞ貴方憤じれつたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決けして好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在いでなのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋たしか御承知でゐらつしやいましたらう。前ぜんに宅に居りました向坂さぎさかと申すの、あれが静岡へ参つて、今では些ちよつと盛さかんに遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在いでなのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟つまりあの方もその件から諭旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方あちらを引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然すつかり此方こちらへ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
 然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止とんと遊んでお在いでも同様で、飜訳ほんやくか何か少すこしばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」「大館朔郎おおだちさくろうと云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚あとばらだとか云ふ話でございました」
「うむ、如何いかにも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
 はやその言ことばの中うちに彼の心は急に傷いたみぬ。己おのれの敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々せきせきたらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲なげうち、恩の為に富貴を顧ざりし故ゆゑにあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優まされり。君子なる吾友わがともよ。さしも潔き志を抱いだける者にして、その酬らるる薄倖はつこうの彼の如く甚はなはだしく酷なるを念ひて、貫一は漫そぞろ涙の沸く目を閉ぢたり。

第五章

 遽にはかに千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所ほんじよ発を期して車を飛せしに、咄嗟あなや、一歩の時を遅れて、二時間後のちの次回を待つべき倒懸とうけんの難に遭あへるなり。彼は悄々すごすご停車場前の休憇処に入いりて奥の一間なる縞毛布しまケットの上に温茶ぬるちやを啜すすりたりしが、門かどを出づる折受取りし三通の郵書の鞄かばんに打込みしままなるを、この時取出とりいだせば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
「ええ、又寄来よこした!」
 彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読壳よみがらと一つに投入れし鞄を磤はたと閉づるや、枕に引寄せて仰臥あふぎふすと見れば、はや目を塞ふさぎて睡ねむりを促さんと為るなりき。されども、彼は能よく睡ねぶるを得べきか。さすがにその人の筆の蹟あとを見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念おもひには懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
 いで、この文こそは宮が送りし再度の愬うつたへにて、その始て貫一を驚かせし一札いつさつは、約およそ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩さきに荒尾に答へしと同様の意を以もてその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言くりごとなるべきを、何の未練有りて、徒いたづらに目を汚けがし、懐おもひを傷きずつけんやと、気強くも右より左に掻遣かきやりけるなり。
 宮は如何いかに悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖さき、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲うるに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直ただちに貫一の心を解かんとは思設けざりき。
 故ゆゑに幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験しるしあらずば、彼は弥増いやます悲かなしみの中に定めて三度みたびの筆を援とるなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度みたび、五度いつたび、七度ななたび重ね重ねて十と百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意こころを決せるを。
 静に臥ふしたりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出いだし、焠児マッチを捜さぐりて、封のままなるその端はしに火を移しつつ、火鉢ひばちの上に差翳さしかざせり。一片の焔ほのほは烈々れつれつとして、白く颺あがるものは宮の思の何か、黒く壊落くづれおつるものは宮が心の何か、彼は幾年いくとせの悲かなしみと悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟けふりと消えて跡無くなりぬ。 貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥あふぎふせり。
 間しばし有りて婢をんなどもの口々に呼邀よびむかふる声して、入来いりきし客の、障子越ごしなる隣室に案内されたる気勢けはひに、貫一はその男女なんによの二人連づれなるを知れり。
 彼等は若き人のやうにもあらず頗すこぶる沈寂しめやかに座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛ゆつくり出来る。さあ、鈴すうさん、お茶をお上んなさい」
 こは男の声なり。
「貴方あなた本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
「盆過ぼんすぎには是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父をぢさんや尊母をばさんの気が変つて了つてお在いでなのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦ただあきらめるのだ。私わたしは男らしく諦めた!」
「雅まささんは男だからさうでせうけれど、私わたしは諦あきらめません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父おとつさんや阿母おつかさんの為方しかたを慍おこつてお在いでなのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処どこへも適いきはしませんから」
 女は処々ところどころ聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許いくら私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰たれを怨うらむ訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯からだに疵きずの付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤もつともだと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰もらつて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔くやしいか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※わなに罹かかつたばかりで、自分の躯には生涯の疵きずを付け、隻ひとりの母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚いひなづけは破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如いつそ私は牢ろうの中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
 両箇ふたりは一度に哭なき出いだせり。
「阿母さんがあん畜生ちきしようの家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒はらいせぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴すうさんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽たのしみにして在ゐなすつた……のだし」
 女をんなはつと出でし泣音なくねの後を怺こらへ怺へて啜上すすりあげぬ。
「私わたしも破談に為する気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退ひいて、これまでの縁と諦あきらめてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
 女は唯愈いよいよ咽むせびゐたり。音も立てず臥ふしたりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処そこここより男を隙見すきみせんと為たりけれど、竟つひに意こころの如くならで止みぬ。然しかれども彼は正まさしくその声音こわねに聞覚ききおぼえあるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之あくらまさゆきならずと為せんや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独ひとり頷うなづきつつ貫一は又潜ひそまりて聴耳立てたり。「嘘うそにもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭あひなので、それが為に縁を切る意つもりなら、私は、雅さん、……一年が間……塩断しほだちなんぞ為はしませんわ」
 彼は自らその苦節を憶おもひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞だまされて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共ともどもに悔くやし……悔し……悔くやしいとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時いつ私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
 この心を知らずや、と情極じようきはまりて彼の悶もだえ慨なげくが手に取る如き隣には、貫一が内俯うつぷしに頭かしらを擦付すりつけて、巻莨まきたばこの消えしを擎ささげたるままに横よこたはれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月みつきの余よも疾わづらつて……そんな事も雅さんは知つてお在いでぢやないのでせう。それは、阿父おとつさんや阿母おつかさんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適ゆかずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛かはいがつて下すつた雅さんの尊母おつかさんに私は済まない。
 親が不承知なのを私が自分の了簡通りようけんどほりに為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適ゆきたいのですから、お可厭いやでなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有あんなさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
 貫一は身を回めぐらして臂枕ひざまくらに打仰うちあふぎぬ。彼は己おのれが与へし男の不幸よりも、添そはれぬ女の悲かなしみよりも、先まづその娘が意気の壮さかんなるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚もゆる如き誠もあるよ、と頭かしらは熱ねつし胸は轟とどろくなり。
 さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴すうさん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭あはなかつたら、今頃は家内三人で睦むつましく、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂いはれないほど情無い。かうして今では人に顔向かほむけも出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父をぢさん、尊母をばさんの心にもなつて見たら、今の私には添そはされないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情じようは、何処どこの親でも差違かはりは無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦あきらめると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽たのしみに、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父おとつさんや阿母おつかさんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些ちつとも思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全まるで私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適ゆくと極きまつて、その為に御嫁入道具まで丁ちやんと調こしらへて置きながら、今更外へ適ゆかれますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余あんまり酷ひどいわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他よそへは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
 女は身を顫ふるはして泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為せうと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極きめてゐますから」
 亜ついで男の声は為せざりしが、間有しばしありて孰いづれより語り出でしとも分かず、又一時ひとしきり密々ひそひそと話声の洩もれけれど、調子の低かりければ此方こなたには聞知られざりき。彼等は久くこの細語ささめごとを息やめずして、その間一たびも高く言ことばを出いださざりしは、互にその意こころに逆さかふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
 始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
 かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々じよじよとして飽かず語れるなり。貫一は心陰こころひそかに女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何いかに幸さいはひならんかを想ひて、あたかも妙たへなる楽の音ねの計らず洩聞もれきこえけんやうに、憂うかる己をも忘れんとしつ。
 今かの娘の宮ならば如何いかならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日こんにちの吾たるを択えらぶ可べきか、将はたかの雅之たるを希こひねがはんや。貫一は空むなしうかく想へり。
 宮も嘗かつて己に対して、かの娘に遜ゆづるまじき誠を抱いだかざるにしもあらざりき。彼にして若もし金剛石ダイアモンドの光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全まつたうしたらんや。唯継ただつぐの金力を以て彼女を脅おびやかしたらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀かがやける金剛石ダイアモンドと汚けがれたる罪名とは、孰いづれか愛を割さくの力多かる。
 彼は更にかく思へり。
 唯その人を命として、己おのれも有らず、家も有らず、何処いづこの野末のずゑにも相従あひしたがはんと誓へるかの娘の、竟つひに利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝をしみて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
 彼は又かくも思へるなり。
 それ愛の最も篤あつからんには、利にも惑はず、他に又易かふる者もあらざる可きを、仮初かりそめもこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明あかせるなり。凡およそ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或あるは己の信ずらんやうに、宮の愛の特ことに己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故ゆゑに世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾すべてこれを斥しりぞけぬ。されどもその一旦の憤いきどほりは、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々おうおうは、吾心を食尽はみつくし、終つひに吾身を斃たふすにあらざれば、得やは去るまじき悪霊あくりようの如く執念しゆうねく吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶たまたま人の相悦あひよろこぶを見て、又躬みづからも怡よろこびつつ、楽たのしの影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。 彼はいよいよ思廻おもひめぐらせり。
 宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾命めいのままならんとぞ言来いひこしたる。吾はその悔の為にはかの憤いきどほりを忘るべきか、任他さはれ吾恋の旧むかしに復かへりて再び完まつたかるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因よりて始て償はるべきか、或あるひはその富を獲んとする貪欲どんよくはこの恨を移すに足るか。
 彼は苦くるしき息いきを嘘ふきぬ。
 吾恋を壊やぶりし唯継! 彼等の恋を壊らんと為せしは誰たそ、その吾の今千葉に赴おもむくも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医いすべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割さかれし愛は落花の復かへる無くして畢をはらんのみ! いで、吾はかくて空く埋うづもるべきか、風に因よりて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
 貫一は船橋を過すぐる燈ともしび暗き汽車の中うちに在り。

第六章

 千葉より帰りて五日の後 M., Shigis ――の書信ふみは又来きたりぬ。貫一は例に因よりて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽たちまち浮ぶその人の面影おもかげは、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆ほとんど当時に同おなじき憤いかりを発して、先の二度なるよりはこの三度みたびに及べるを、径廷をこがましくも廻らぬ筆の力などを以もて、旧むかしに返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来きたりて大海だいかいを填うづめんとするやと、却かへりて頑かたくなに自ら守らんとも為なり。
 さりとも知らぬ宮は蟻ありの思を運ぶに似たる片便かたたよりも、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何いかに見るらん、書綴かきつづれる吾誠わがまことの千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋ひとすぢの緒いとぐちともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採ふでとりて、その限無き思おもひを写してぞ止まざりし。
 唯継は近頃彼の専もつぱら手習すと聞きて、その善き行おこなひを感ずる余あまりに、良き墨、良き筆、良き硯すずり、良き手本まで自ら求め来ては、この難有ありがたき心掛の妻に遣おくりぬ。宮はそれ等を汚けがらはしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴つづられし文は、又六日むゆかを経て貫一の許もとに送られぬ。彼は四度よたびの文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経ふると思ふ程も無く、五度いつたびの文は来にけり。よし送り送りて千束ちつかにも余れ、手に取るからの烟けむぞと侮あなどれる貫一も、曾かつて宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知いひしらず異あやしみつつ、今日のみは直すぐにも焚やかざりしその文を、一度ひとたびは披ひらき見んと為たり。
「然し……」
 彼は輙たやすく手を下さざりき。
「赦ゆるしてくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若もし有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣やる、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日こんにちの貫一と宮との間に如何いかなる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操みさをの疵きずが愈いえて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於おいては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚けがれた宮ではないか。ことの破れて了しまつた今日こんにちになつて悔悟も赦してくれも要いつたものか、無益な事だ! 少すこしも汚けがれん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行おこなつても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。 であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外ほかに妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺おれのこの胸の中を可憐あはれと思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負そむいて……何の面目めんぼく有つて今更悔悟……晩おそい!」
 彼はその文を再三柱に鞭むちうちて、終に繩なはの如く引捩ひきねぢりぬ。
 打続きて宮が音信たよりの必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披ひらかれざるに送り、送らるるに披ひらかかざりしも、はや算かぞふれば十通に上のぼれり。さすがに今は貫一が見る度たびの憤いかりも弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁しげきに、自おのづから他の悔い悲める宮在るを忘るる能あたはずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽にはかに彼を可懐なつかしむにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容いれんと為るにあらずして、始はじめに恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己おのれに存し、彼の新なる悔は切に夤まつはるも、徒いたづらに凍えて水を得たるに同おなじかるこの両ふたつの者の、相対あひたいして相拯あひすくふ能はざる苦艱くげんを添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤いかりならぬ憤も発して、憂身独うきみひとりの儚はかなき世をば如何いかにせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々ぼうぼうとして、彼は屡しばしばその貪むさぼるをさへ忘るる事ありけり。劇はげしく物思ひて寝いねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨ねやに魘おそはるる夢の苦く頻しきりに呻うめきしを、老婢ろうひに喚よばれて、覚めたりと知りつつ現うつつならず又睡りけるを、再び彼に揺起ゆりおこされて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
「荒尾さんと有仰おつしやいました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
 主あるじの急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫しばらく失礼致しますとさう申して」
 貫一はかの一別の後三度みたびまで彼の隠家かくれがを訪ひしかど、毎つねに不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何いかがを満枝に糺ただせしに、変る事無く其処そこに住めりと言ふに、さては真まことに交まじはりを絶たんとすならんを、姑しばらく強しひて追はじと、一月余あまりも打絶えたりしに、彼方あなたより好よくこそ来つれ、吾がこの苦くるしみを語るべきは唯彼在るのみなるを、朋ともの来きたれるも、実げにかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出いだして一日いちじつ彼を還さじなど、心忙こころせはしきまでに歓よろこばれぬ。
 絶交せるやうに疏音そいんなりし荒尾の、何の意ありて卒にはかに訪来とひきたれるならん。貫一はその何の意なりやを念おもはず、又その突然の来叩おとづれをも怪あやしまずして、畢竟ひつきよう彼の疏音なりしはその飄然ひようぜん主義の拘かからざる故ゆゑ、交まじはりを絶つとは言ひしかど、誼よしみの吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己おのれを友として来きたれるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。 手水場てうづばを出来いできし貫一は腫眶はれまぶたの赤きを連𥉌しばたたきつつ、羽織の紐ひもを結びも敢あへず、つと客間の紙門ふすまを排ひらけば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美うつくしう装よそほへる婦人の独ひとり羞含はぢがましう控へたる。打惑うちまどひて入いりかねたる彼の目前まのあたりに、可疑うたがはしき女客も未いまだ背そむけたる面おもてを回めぐらさず、細雨さいう静しづかに庭樹ていじゆを撲うちて滴したたる翠みどりは内を照せり。
「荒尾さんと有仰おつしやるのは貴方で」
 彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面おもてを示さざらんやうに頭かしらを下げて礼を作なせり。しかも彼は輙たやすくその下げたる頭かしらと拄つかへたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚おどろかされし貫一は、今又何事なりやと弥いよいよ呆あきれて、彼の様子を打矚うちまもれり。乍たちまち有りて貫一の眼まなこは慌忙あわただしく覓もとむらん色を作なして、婦人の俯うつむけるを仡きと窺うかがひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
 彼は益ますます急に左瞻右視とみかうみして窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
 露置く百合ゆりの花などの仄ほのかに風を迎へたる如く、その可疑うたがはしき婦人の面おもては術無じゆつなげに挙らんとして、又慙はぢ懼おそれたるやうに遅疑たゆたふ時、
「宮⁉」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
 宮は嬉し悲しの心昧こころくらみて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
 怒いかるべきか、この時。恨むべきか、この時。辱はぢしむべきか、悲むべきか、号さけぶべきか、詈ののしるべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱あひみだれて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫うちふるひゐたり。
「貫一かんいつさん! どうぞ堪忍かんにんして下さいまし」
 宮は漸やうやう顔を振挙げしも、凄すさまじく色を変へたる貫一の面おもてに向ふべくもあらで萎しをれ俯ふしぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
 幾年いくとせ聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐なつかしと見る目を覚えず其方そなたに転うつせば、鋭く睼みむかふる貫一の眼まなこの湿うるほへるは、既に如何いかなる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意つもりか。先達而せんだつてから頻しきりに手紙を寄来よこすが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直すぐに焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私わたしは今病中で、かうしてゐるのも太儀たいぎでならんのだから、早く帰つて貰ひたい」 彼は老婢を召して、
「お客様のお立たちだ、お供にさう申して」
 取附く島もあらず思悩おもひなやめる宮を委おきて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私わたしは今日は死んでも可いい意つもりでお目に掛りに来たのですから、貴方あなたの存分にどんな目にでも遭あはせて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました‼ 悉くはしい事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全まるで見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言いはれない事ばかり、設たとひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些ちつとはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑わびは為る意つもりでも、かうしてお目に掛つて見ると、面目めんぼくが無いやら、悲いやらで、何一語ひとことも言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈はずでない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
 涙ながらに手を拄つかへて、吾が足下あしもとに額叩ぬかづく宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年前ぜんの一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
 唯と見る間に出行いでゆく貫一、咄嗟あなや、紙門ふすまは鉄壁よりも堅く閉たてられたり。宮はその心に張充はりつめし望を失ひてはたと領伏ひれふしぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇はげしく縁続えんつづきの子亭はなれより聞きこゆれば、直ぢきに走り行く足音の響きしが、やがて返し来きたれる老婢は客間に顕あらはれぬ。宮は未だ頭かしらを挙げずゐたり。可憐しをらしき束髪の頸元深えりもとふかく、黄蘖染おうばくぞめの半衿はんえりに紋御召もんおめしの二枚袷にまいあはせを重ねたる衣紋えもんの綾あや先まづ謂はんやう無く、肩状かたつき優やさしう内俯うつふしたる脊そびらに金茶地きんちやぢの東綴あづまつづれの帯高く、勝色裏かついろうらの敷乱しきみだれつつ、白羽二重しろはぶたへのハンカチイフに涙を掩おほへる指に赤く、白く指環リングの玉を耀かがやかしたる、殆ほとんど物語の画をも看みるらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐おそろしきやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎あいにくと急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日こんにちはこれで御立帰おたちかへりを願ひますで御座います」
 面おもてを抑へたるままに宮は涙を啜すすりて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出いでのところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今些ちよつと支度を致しますから、もう少々置いて戴いただきますよ」
「さあさあ、貴方あなた御遠慮無く御寛ごゆるりと遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日こんにちはいつそお寒過ぎますで御座います」 彼の起ちし迹あとに宮は身支度を為るにもあらで、始て甦よみがへりたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久ひさしかるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来いできたれり。宮はその時遽にはかに身㕞みづくろいして、
「それではお暇いとまを致します。些ちよつと御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方どちらにお寝よつてお在いでですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些ちよつと」
「さやうで御座いますか。では此方こちらへ」
 主あるじの本意ほいならじとは念おもひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭はなれに案内あないせり。昨夜ゆふべの収めざる蓐とこの内に貫一は着のまま打仆うちたふれて、夜着よぎも掻巻かいまきも裾すその方かたに蹴放けはなし、枕まくらに辛からうじてその端はしに幾度いくたびか置易おきかへられし頭かしらを載のせたり。
 思ひも懸けず宮の入来いりくるを見て、起回おきかへらんとせし彼の膝下ひざもとに、早くも女の転まろび来て、立たんと為れば袂たもとを執り、猶なほも犇ひしと寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似まねだ!」
 突返さんとする男の手を、宮は両手に抱いだき緊しめて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知はぢしらず!」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒やかましい! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
 その身を楯たてに宮は放さじと争ひて益ますます放さず、両箇ふたりが顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見あひみじと誓へるその人の顔の、おのれ眺ながめたりし色は疾とく失せて、誰たれゆゑ今の別べつに豔えんなるも、なほ形のみは変らずして、実げにかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何いかにしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間ひまに現うつつともなく彼を矚まもれり。宮は殆ほとんど情極きはまりて、纔わづかに狂せざるを得たるのみ。
 彼は人の頭かしらより大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把とる手をば釈とかざらん。大いなるダイアモンドか、幾許いかばかり大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持もたるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無はかりなきものなりしが、嗟乎ああ、今何処いづこに在りや。その嘗かつて誠を恵みし手は冷ひややかに残れり。空むなしくその手を抱いだきて泣かんが為に来きたれる宮が悔は、実げに幾許いかばかり大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打ぶつなり、殴たたくなり貫一さんの勝手にして、さうして少小すこしでも機嫌きげんを直して、私のお詑わびに来た訳を聞いて下さい」「ええ、煩うるさい!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
 身悶みもだえして宮の縋すがるを、
「そんな事で俺おれの胸が霽はれると思つてゐるか、殺しても慊あきたらんのだ」
「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
 彼は自ら手を下くだして、この身を殺すさへ屑いさぎよからずとまでに己おのれを鄙いやしむなるか、余に辛つらしと宮は唇くちびるを咬かみぬ。
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見みつとも無い態ざまを為ずに何為なぜ死ぬまで立派に棄て通さんのだ」
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤とつくりとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾とうから自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
 宮は男の手をば益す弛ゆるめず、益す激する心の中うちには、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易かふる者を失はじと一向ひたぶるに思入るなり。
 折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何いかに、宮は些ちとも弛ゆるめざるのみか、その容かたちをだに改めんと為ず。果して足音は紙門ふすまの外に逼せまれり。
「これ、人が来る」
「…………」
 宮は唯力を極きはめぬ。
 不意にこの体ていを見たる老婢は、半なかば啓あけたる紙門ふすまの陰に顔引入れつつ、
「赤樫あかがしさんがお出いでになりまして御座います」
 窮厄の色はつと貫一の面おもてに上のぼれり。
「ああ、今其方そつちへ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
 用捨もあらず宮は捻倒ねぢたふされて、落花の狼藉ろうぜきと起き敢あへぬ間に貫一は出行いでゆく。

(六)の二

 座敷外に脱ぎたる紫裏むらさきうらの吾妻あづまコオトに目留めし満枝は、嘗かつて知らざりしその内曲うちわの客を問はで止む能あたはざりき。又常に厚く恵めぐまるる老婢は、彼の為に始終の様子を告つぐるの労を吝をしまざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚しんいに燃えて、可憎につくき人の疾とく出で来こよかし、如何いかなる貌かほして我を見んと為すらん、と焦心せきごころに待つ間のいとどしう久ひさしかりしに、貫一はなかなか出いで来ずして、しかも子亭はなれのほとほと人気ひとけもあらざらんやうに打鎮うちしづまれるは、我に忍ぶかと、弥いよいよ満枝は怺こらへかねて、
「お豊さん、もう一遍旦那だんな様にさう申して来て下さいな、私わたし今日は急ぎますから、些ちよつとお目に懸りたいと」
「でも、私わたくしは誠に参り難にくいので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在いでのやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
 老婢は行きて、紙門ふすまの外より、「旦那さま、旦那さま」
「此方こちらにお在いでは御座いませんよ」
 かく答へしは客の声なり。豊は紙門ふすまを開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
 実げに主あるじは在らずして、在るが如くその枕頭まくらもとに坐れる客の、猶悲なほかなしみの残れる面おもてに髪をば少し打乱うちみだし、左の袼わきあけの二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽にはかに引枢ひきつくろひつつ、
「今し方其方そちらへお出いでなすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
「那裡あちらのお客様の方へお出いでなすつたのでは御座いませんか」
「いいえ、貴方、那裡あちらのお客様が急ぐと有仰おつしやつてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺どちらへいらつしやいましたらう!」
「那裡あちらにもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
 老婢はここを倉皇とつかは起ちて、満枝が前に、
「此方こちらへもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡あちらにもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方這裡こちらへ出てお在いでになつたのださうで御座います」
「嘘うそ、嘘ですよ」
「いいえ、那裡あちらにはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方こちらへお出いでなさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方どつちへいらつしやつたのかと思ひまして……」
「那裡あちらにきつと隠れてでもお在いでなのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水てうづですかしらん」
 随処そこら尋ねんとて彼は又倉皇とつかは起ちぬ。
 有効無ありがひなきこの侵辱はづかしめに遭あへる吾身わがみは如何いかにせん、と満枝は無念の遣やる方無さに色を変へながら、些ちとも騒ぎ惑はずして、知りつつ食はみし毒の験しるしを耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂いはれず窃ひそかに苦めり。宮はその人の遁のがれ去りしこそ頼たのみの綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報むくいは悲くも何時まで儚はかなきこの身ならんと、打俯うちふし、打仰ぎて、太息ためいき呴つくのみ。
 颯さと空の昏くらみ行く時、軒打つ雨は漸やうやく密なり。
 戸棚とだな、押入おしいれの外ほか捜さざる処もあらざりしに、終つひに主あるじを見出みいださざる老婢は希有けうなる貌かほして又子亭はなれに入来いりきたれり。
「何方どちらにもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡あちらにも這裡こちらにもお客様を置去おきざりに作なすつてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処どつこにもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」 彼は又満枝の許もとに急ぎ行きて、事の由よしを告げぬ。
「いいえ、貴方あなた、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭はなれにゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」
 彼は遽にはかに心着きて履物はきものを検あらため来んとて起ちけるに、踵ついで起てる満枝の庭前にはさきの縁に出づると見れば、傱々つかつかと行きて子亭はなれの入口に顕あらはれたり。
 宮は何人なにびとの何の為に入来いりきたれるとも知らず、先まづ愕おどろきつつも彼を迎へて容かたちを改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己おのれより少わかく、己より美く、己より可憐しをらしく、己より貴たつときを見たる妬ねたさ、憎さは、唯この者有りて可怜いとしさ故に、他ひとの情なさけも誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣つるぎとも成して、この場を去らず刺殺さしころさまほしう、心は躍をどり襲かかり、躍り襲らんと為るなりけり。
 宮は稍羞ややはぢらひて、葉隠はがくれに咲遅れたる花の如く、夕月の涼すずしう棟むねを離れたるやうに満枝は彼の前に進出すすみいでて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」
 憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来これまでお見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方どちらに」
「池端いけのはたに居ります」
「へえ、池端、お宜よろしい処で御座いますね。然し、夙かねて間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰おつしやるもので御座いますから、全くさうとばかり私わたくし信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意つもりであんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作なさるので御座いますよ」
 疑うたがひの雲は始て宮が胸に懸かかりぬ。父が甞かつて病院にて見し女の必ず訳有るべしと指させしはこれならん。さては客来きやくらいと言ひしも詐いつはりにて、或あるひは内縁の妻と定れる身の、吾を咎とがめて邪魔立せんとか、但ただしは彼人かのひとのこれ見よとてここに引出ひきいだせしかと、今更に差たがはざりし父が言ことばを思ひて、宮は仇あだの為に病めるを笞むちうたるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処いづくにか潜めゐる彼人かのひとの吾が還るを待ちて忽たちまち出で来て、この者と手を把とり、面おもてを並べて、可哀あはれなる吾をば笑ひ罵ののしりもやせんと想へば、得堪えたへず口惜くちをしくて、如何いかにせば可よきと心苦こころくるしく遅ためらひゐたり。「お久しぶりで折角お出いでのところを、生憎あいにくと余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些ちよつと遠方でございますから、お帰来かへりの程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛ごゆつくりとお出いで遊ばしまして」
「大相長座ちようざを致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些ちよつとも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日こんにちは一日遊んで参らうと楽たのしみに致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇いとまを致しませう」
「お帰来かへりで御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多いくら降りましたところが俥くるまで御座いますから」
 互に憎し、口惜くちをしと鎬しのぎを削る心の刃やいばを控へて、彼等は又相見あひみざるべしと念じつつ別れにけり。

第七章

 家の内を隈無くまなく尋ぬれども在らず、さては今にも何処いづこよりか帰来かへりこんと待てど暮せど、姿を晦くらませし貫一は、我家ながらも身を容いるる所無き苦紛くるしまぎれに、裏庭の木戸より傘かさも擎ささで忍び出でけるなり。
 されど唯一目散に脱のがれんとのみにて、卒にはかに志す方かたもあらぬに、生憎あやにく降頻ふりしきる雨をば、辛からくも人の軒などに凌しのぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節をりふし通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処そこに躍入をどりいりけり。
 客は三組ばかり、各おのおの静に窓前の竹の清韻せいいんを聴きて相対あひたいせる座敷の一間ひとま奥に、主あるじは乾魚ひものの如き親仁おやぢの黄なる髯ひげを長く生はやしたるが、兀然こつぜんとして独ひとり盤を磨みがきゐる傍に通りて、彼は先まづ濡ぬれたる衣きぬを炙あぶらんと火鉢ひばちに寄りたり。
 異あやしみ問はるるには能よくも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波なごりは今も轟とどろく胸の内に痛したたか思回おもひめぐらして、又空むなしく神しんは傷いたみ、魂こんは驚くといへども、我や怒いかる可き、事や哀あはれむべき、或あるひは悲む可きか、恨む可きか、抑そもそも喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内ごない渾すべて燃え、四肢しし直ただちに氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶はんもんとは新に来きたりて彼を襲へるなり。
 主あるじは貫一が全濡づぶぬれの姿よりも、更に可訝いぶかしきその気色けしきに目留めて、問はでも椿事ちんじの有りしを疑はざりき。ここまで身は遁のがれ来にけれど、なかなか心安からで、両人ふたりを置去おきざりに為せし跡は如何いかに、又我が為せんやうは如何いかになど、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒さわがしさには似で、小暗をぐらき空に満てる雨声うせいを破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚はなはだ幽なり。主あるじはこの時窓際まどぎはの手合観てあはせみに呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾ひぬ袂たもとを翳かざしつつ、愈いよいよ限無く惑ひゐたり。遽にはかに人の騒立つるに愕おどろきて顔を挙あぐれば、座中尽ことごとく頸くびを延べて己おのが方かたを眺め、声々に臭しと喚よばはるに、見れば、吾が羽織の端はしは火中に落ちて黒煙くろけふりを起つるなり。直ぢきに揉消もみけせば人は静しづまるとともに、彼もまた前さきの如し。 少頃しばし有りて、門かどに入来いりきし女の訪おとなふ声して、
「宅の旦那だんな様はもしや這裡こちらへいらつしやりは致しませんで為したらうか」
 主は忽たちまち髯ひげの頤おとがひを回めぐらして、
「ああ、奥にお在いでで御座いますよ」
 豊かと差覗さしのぞきたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方こちらにお在いでなので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾とうにお帰かへりになりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰おつしやいまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措おけ」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経たつたら帰る」
「直ぢきにもうお中食ひるで御座いますが」
「可いいから早く行けよ」
「未まだ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
 老婢は傘と足駄あしだとを置きて悄々すごすご還りぬ。
 程無く貫一も焦げたる袂たもとを垂れて出行いでゆけり。
 彼はこの情緒の劇はげしく紛乱せるに際して、可煩わづらはしき満枝に夤まつはらるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去かへりさらん後までは決けして還らじと心を定めて、既に所在ありかを知られたる碁会所を立出たちいでしが、いよいよ指して行くべき方かたは有らず。はや正午と云ふに未いまだ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何いかに為せんとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然ぼうぼうぜんとして彷徨さまよへり。
 初夏の日は長かりけれど、纔わづかに幾局の勝負を決せし盤の上には、殆ほとんど惜き夢の間に昏くれて、折から雨も霽はれたれば、好者すきものどもも終つひに碁子きしを歛をさめて、惣立そうだちに帰るをあたかも送らんとする主の忙々いそがはしく燈ひともす比ころなり、貫一の姿は始て我家の門かどに顕あらはれぬ。
 彼は内に入いるより、
「飯を、飯を!」と婢をんなを叱しつして、颯さと奥の間の紙門ふすまを排ひらけば、何ぞ図らん燈火ともしびの前に人の影在り。
 彼は立てるままに目を瞪みはりつ。されど、その影は後向うしろむきに居て動かんとも為せず。満枝は未いまだ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚なほも殊更ことさらに見向かぬを、此方こなたもわざと言ことばを掛けずして子亭はなれに入り、豊を呼びて衣を更かへ、膳ぜんをも其処そこに取寄せしが、何とか為けん、必ず入来いりくべき満枝の食事を了をはるまでも来ざるなりき。却かへりて仕合好しあはせよしと、貫一は打労うちつかれたる身を暢のびやかに、障子の月影に肱枕ひぢまくらして、姑しばらく喫烟きつえんに耽ふけりたり。 敢あへて恋しとにはあらねど、苦しげに羸やつれたる宮が面影おもかげの幻は、頭かしらを回めぐれる一蚊ひとつかの声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出おもひいでらるれば、なほ往きかねて那辺そこらに忍ばずやと、風の音にも幾度いくたびか頭かしらを挙げし貫一は、婆娑ばさとして障子に揺ゆるる竹の影を疑へり。
 宮は何時いつまでここに在らん、我は例の孤ひとりなり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以もて容ゆるさざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又怪あやしきまでに貫一は佗わびしくて、その釈とき難き怨うらみに加ふるに、或種の哀あはれに似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺うちながめて、他ひとの憎しとよりは転うたた自みづからを悲しと思続けぬ。彼は竟つひに堪へかねたる気色けしきにて障子を推啓おしあくれば、涼すずしき空に懸れる片割月かたわれづきは真向まむきに彼の面おもてに照りて、彼の愁ふる眼まなこは又痛したたかにその光を望めり。
「間さん」
 居たるを忘れし人の可疎うとましき声に見返れば、はや背後うしろに坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑ゑみを帯びざる無き目の秋波しほも乾かわき、顔色などは殊ことに槁かれて、などかくは浅ましきと、心陰こころひそかに怪む貫一。
「ああ、未だ御在おいででしたか」
「はい、居りました。お午前ひるまへから私わたくしお待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
 語気の卒にはかに厲はげしきを駭おどろける貫一は、空むなしく女の顔を見遣みやるのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛とんだ御娯おたのしみのお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
 その眼色まなざしは怨うらみの鋩きつさきを露あらはして、男の面上を貫かんとやうに緊きびしく見据ゑたり。
 貫一は苦笑して、
「貴方あなたは何を謊ばかな事を言つてゐるのですか」
「今更お庾かくしなさるには及びませんさ。若い男と女が一間ひとまに入つて、取付とつつき引付ひつつきして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳ななつや八歳やつの子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直ぢきに解りませうでは御座いませんか。
 爾後それから貴方がお出掛になりますと私直ぢきにここのお座敷へ推掛おしかけて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
 絮くどしと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹そばだてぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰おつしやらなくても可ささうな事までお話を作なさいますので、それは随分聞難ききにくい事まで私伺ひました」
 為失しなしたりと貫一は密ひそかに術無じゆつなき拳こぶしを握れり。満枝は猶なほも言足らで、「然し、間さん、遉さすがに貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯おたのしみにお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者いつこくものだ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠ひしかくしに隠し通してゐらしつたお手際てぎはには私実に驚入つて一言いちごんも御座いません。能く凄すごいとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰おつしやつても、実はお嬉うれしいので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋こひしくてゐらつしやるのですかね」
 されば我が出行いでゆきし迹あとをこそ案ぜしに、果してかかる孽わざはひは出で来にけり。由無よしなき者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼こころくぐまりつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方こなたより熟々つくづくと見透みすかして目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜よろしいでは御座いませんか。ああ云ふお美うつくしいのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利ききに成るのもお可厭いやなのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮くどい事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶どうかそれだけ言いはして下さいまし」
 貫一は冷ひややかに目を転うつして、
「何なりと有仰おつしやい」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です⁈」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で私わたしが貴方に殺されるのですか」
「間さん、貴方はその訳を御存無ごぞんじないと有仰おつしやるのですか、どの口で有仰るのですか」
「これは怪けしからん! 何ですと」
「怪からんとは、貴方も余あんまりな事を有仰るでは御座いませんか」
 既に恨み、既に瞋いかりし満枝の眼まなこは、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧むしろ可恐おそろしと念おもへり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措おきません」
「貴方を何日いつ私が憎みました。そんな事は有りません」
「では、何で怪からんなどと有仰おつしやいます」
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決けして貴方に殺される覚おぼえは無い」
 満枝は口惜くちをしげに頭かしらを掉ふりて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
「貴方が独ひとりで信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
 いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情ふぜいは添そはりけれど、軒端のきばなる芭蕉葉ばしようばの露夥つゆおびただしく夜気の侵すに堪たへで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉たてて燈ひを明あかうし、故ことさらに床の間の置時計を見遣りて、
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩おそくなるですから。ええ?」
「憚はばかり様で御座います」
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何いかがですか」
 憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看みんとやうに、姑しばらく男の顔色を候うかがひしが、「一体あれは何者なので御座います!」
 犬にも非ず、猫にも非ず、汝なんぢに似たる者よと思ひけれど、言争いひあらそはんは愚なりと勘弁して、彼は才わづかに不快の色を作なせしのみ。満枝は益す独り憤じれて、
「旧ふるいお馴染なじみださうで御座いますが、あの恰好かつこうは、商売人ではなし、万更の素人しろうとでもないやうな、貴方も余程よつぽど不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有ぬしある花で御座いませう」
 妄みだりに言へるならんと念おもへど、如何いかにせん貫一が胸は陰ひそかに轟とどろけるを。
「どうですか、なあ」
「さう云ふ者を対手あひてに遊ばすと、別べつしてお楽たのしみが深いとか申しますが、その代かはりに罪も深いので御座いますよ。貴方が今日こんにちまで巧たくみに隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公おほやけに御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤ごもつともで御座います。
 その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌きらひの嫌ひの大御嫌だいおきらひの私に知られたのは、どんなにかお心苦こころくるしくゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程幸さいはひな事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他ひとを苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召おぼしめしてゐらつしやい!」
 聞訖ききをはりたる貫一は吃々きつきつとして窃笑せつしようせり。
「貴方は気でも違ひは為せんですか」
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違きちがひには作なすつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣あがつて気が違つたのですから、元の正気に復なほしてお還し下さいまし」
 彼は擦寄すりより、擦寄りて貫一の身近に逼せまれり。浅ましく心苦こころくるしかりけれど迯にぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩おほへる心地しつつ、貫一は身を側そばめ側め居たり。満枝は猶なほも寄添はまほしき風情ふぜいにて、
「就きましては、私一言いちごん貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁ちやんと有仰おつしやつてお聞せ下さいまし、宜よろしう御座いますか」
「何ですか」
「なんですかでは可厭いやです、宜よろしいと截然きつぱり有仰おつしやつて下さい。さあ、さあ、貴方」
「けれども……」
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎いつも気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜よろしいのですから」
「勿論もちろん答へます。それは当然あたりまへの事ぢやないですか」
「それが当然あたりまへでなく、極打明けて少しも裹つつまずに言つて戴きたいのですから」
 善よしと貫一は頷うなづきつ。
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方あなたは私を憥うるさい奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏つきまとつてゐるのは、自分の口から箇様かような事を申すのも、甚はなはだ可笑をかしいので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何いかに思つてをりましたところが、元来もともと私と云ふ者を嫌きらひ抜いて御在おいでなのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画かずかくよりも儚はかなきは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の愜かなふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦あきらめられんので御座います。 こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存ごぞんじでゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解わかりに成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや或あるひはさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或あるひはもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に憥うるさがられる訳は御座いませんさ、貴方も私を憥うるさいと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠しつこくて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在いでのでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関かかはらず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」
「さう」
「で、私従来これまでに色々申上げた事が御座いましたけれど、些ちよつとでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟りくつから申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決けして貴方の有仰おつしやるやうな道に外はづれた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処そこに理窟も何も有るのでは御座いません。究竟つまり貴方がそれを口実にして遁にげてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛ぎごはな片意地なところもお有あんなすつて、色恋の事なんぞには貪着とんちやくを遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固がんこなのを私歯痒はがゆいやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
 と言ひも敢あへず煙管きせるを取りて、彼は貫一の横膝よこひざをば或る念力ねんりき強く痛したたか推したり。
「何を作なさるのです!」
 払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸さいはひに満枝は又打ち被かかる。
 こは何事と駭おどろける貫一は、身を避さくる暇いとまもあらず三つ四つ撃れしが、遂つひに取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯うつぷしに引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股ももの辺あたりに咬付かみついたり。怪けしからぬ女哉かな、と怒いかりの余に手暴てあらく捩放ねぢはなせば、なほ辛からくも縋すがれるままに面おもてを擦付すりつけて咽泣むせびなきに泣くなりき。
 貫一は唯不思議の為体ていたらくに呆あきれ惑ひて言ことばも出いでず、漸やうやく泣ゐる彼を推斥おしのけんと為たれど、膠にかはの附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿うるほひは単衣ひとへを透とほして、この難面つれなき人の膚はだへに沁しみぬ。
 捨置かば如何いかに募らんも知らずと、貫一は用捨無く※放もぎはなして、起たんと為るを、彼は虚すかさず夤まつはりて、又泣顔を擦付すりつくれば、怺こらへかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜よろしい。もう明日あすからは貴方のここへ足蹈あしぶみの出来んやうに為て了しまふから、さうお思ひなさい」「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛はふつて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
 満枝は始て涙に沾うるほへる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
 貫一は歯を鳴して急上せきあげたり。
「貴方は……実に……驚入おどろきいつた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
「怪けしからん!」
 彼は憎き女の頬桁ほほげたをば撃つて撃つて打割うちわる能あたはざるを憾うらみと為すなるべし。
「定さだめてあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決けしてさやうでは御座いませんです」
「そんなら何なんですか」
「往日いつぞやもお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐かたきも同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方かたに惚ほれて騒ぐ分は、一向差支さしつかへの無い独身ひとりみも同じので御座います。
 間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊ごぜんたきに貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰おつしやつて下さいまし。私豊とよの手伝でも致して、此方こなたに一生奉公を致します。
 貴方は大方赤樫に言ふと有仰おつしやつたら、震へ上つて私が怖こはがりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧むしろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧くれるで御座いませう」
 貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然しかこそは呆あきれつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠とほざけやう為に、お話をなさるのなら、徒爾むだな事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些ちよつともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召おぼしめすものなら、物は試ためしで御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
 私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主ぬし有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引あひびきしてゐらつしやる事を触散ふれちらしますから、それで何方どちらが余計迷惑するか、比較事くらべつこを致しませう。如何いかがで御座います」
「男勝をとこまさりの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直ただちに逢引あひびきですか。又妙齢としごろの女でさへあれば、必ず主有るに極きまつてゐるのですか。浅膚あさはかな邪推とは言ひながら、人を誣しふるも太甚はなはだしい! 失敬千万な、気を着けて口をお利ききなさい」
「間さん、貴方、些ちよつと此方こちらをお向きなさい」
 手を取りて引けば、振釈ふりほどき、
「ええ、もう貴方は」
「お憥うるさいでせう」
「勿論もちろん」
「私向後これからもつと、もつともつと憥くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰おつしやつたので御座います、浅膚あさはかな邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利きき遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為なぜ立派に、その通だ。情婦をんなが有るのがどうしたと、かう打付ぶつつけて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多いくらさう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚はばかつて、さう向むきに成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。 私実を申しませうか、箇様かようなので御座います。貴方が余所外よそほかに未だ何百人愛してゐらつしやる方かたが有りませうとも、それで愛相あいそを尽つかして、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡りようけんではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩もらしましたところで、愜かなはない願が愜ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯ひきような女ではない積つもりで御座います。
 世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些ほんのその場の憎まれ口で、私決けしてそんな心は微塵みじんも無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫わびを致します」
 満枝は惜まず身を下くだして、彼の前に頭かしらを低さぐる可憐しをらしさよ。貫一は如何いかにとも為する能はずして、窃ひそかに首かうべを掻かいたり。
「就つきましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来これまでの貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞ことば次第で、私もう断然何方どちらに致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶どうか歯に衣きぬを着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜よろしう御座いますか。
 今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存ごぞんじでゐらつしやるのです。従来これまでも随分絮くどく申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌きらひ遊ばして、些ちよつとでも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌きらはれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻はぢを掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜よいのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子をんなにしては極未練の無い方で、手短てみじかに一か八ばちか決して了ふ側がはなので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為なぜかう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
 ですから、唯その胸の中うちだけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟つまり貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方いたしかたも有りませんが、そんなに為されてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何いかにも不敏ふびんな者だと、設たとひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
 御自分が恋こひしく思召すのも、人が恋いのも、恋いに差かはりは無いで御座いませう。増まして、貴方、片思かたおもひに思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束ふつつかな者でも、同じに生れた人間一人いちにんが、貴方の為には全まるで奴隷どれいのやうに成つて、しかも今貴方のお辞ことばを一言ひとこと聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処そこをお考へ遊ばしたら、如何いかに好かん奴であらうとも、雫しづくぐらゐの情なさけは懸けて遣やらう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
 私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞ことばを、唯一言ひとことで宜いのですから、今までのお馴染効なじみがひにどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」 終に近く益す顫ふるへる声は、竟つひに平生へいぜいの調ちようをさへ失ひて聞えぬ。彼は正まさしくその一言いちごんの為には幾千円の公正証書を挙げて反古ほぐに為んも、なかなか吝をしからぬ気色を帯びて逼せまれり。息は凝こり、面おもては打蒼うちあをみて、その袖そでよりは劒つるぎを出いださんか、その心よりは笑ゑみを出いださんか、と胸跳むねをどらせて片時へんじも苦く待つなりき。
 切なりと謂はば実げに極きはめて切なる、可憐しをらしと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他たの己おのれを愛するの故ゆゑを以もて直ただちに蛇蝎だかつに親まんや、と却かへりてその執念をば難堪たへがたく浅ましと思へるなり。
 されど又情として厲はげしく言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩うちなやめる眉まゆを強しひて披ひらかせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言いちごん?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰おつしやつてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他ひとにお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上にげこうじようを有仰おつしやらうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些ちよつと有仰おつしやつて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶あいさつを為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難むづかしい、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜よろしう御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召おぼしめしは実に難有ありがたいと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭くちさきばかりでは私可厭いやで御座います。貴方もあれ程確たしかに有仰おつしやつたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
 驚破すはや、障子を推開おしひらきて、貫一は露けき庭に躍をどり下りぬ。つとその迹あとに顕あらはれたる満枝の面おもては、斜ななめに葉越はごしの月の冷つめたき影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。

第八章

 家の内には己おのれと老婢ろうひとの外ほかに、今客も在らざるに、女の泣く声、詬ののしる声の聞ゆるは甚はなはだ謂無いはれなし、我われ或あるひは夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕まくらせる頭かしらを擡もたげて耳を澄せり。 その声は急に噪さわがしく、相争あひあらそふ気勢けはひさへして、はたはたと紙門ふすまを犇ひしめかすは、愈いよいよ怪あやしと夜着よぎ排却はねのけて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉ひとしく、二人の女の姿は貫一が目前めさきに転まろび出いでぬ。
 苛さいなまれしと見ゆる方かたの髪は浮藻うきもの如く乱れて、着たるコートは雫しづくするばかり雨に濡ぬれたり。その人は起上り様さまに男の顔を見て、嬉うれしや、可懐なつかしやと心も空そらなる気色けしき。
「貫一かんいつさん」と匐はひ寄らんとするを、薄色魚子うすいろななこの羽織着て、夜会結やかいむすびに為したる後姿うしろすがたの女は躍をどり被かかつて引据ひきすうれば、
「あれ、貫、貫一さん!」
 拯すくひを求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生しちしようまでその願は聴かじと郤しりぞけたる満枝の、我の辛つらさを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊なほあきたらで我が前に責むるかと、貫一は怺こらへかねて顫ふるひゐたり。満枝は縦ほしいままに宮を据とらへて些ちとも動かせず、徐しづかに貫一を見返りて、
「間はざまさん、貴方あなたのお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
 頸髪取えりがみとつて宮が面おもてを引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私わたしは悔くやしう御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
「私わたくし奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
 彼は足擦あしずりして叫びぬ。満枝は直ただちに推伏おしふせて、
「ええ、聒やかましい! 貫一かんいちさんは其処そこに一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在いでなさい。
 間さん、私想ふのですね、究竟つまりかう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言ことは取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所よそへ嫁に入つて了しまつたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余あんまり男らしくなくてお在いでなさる。それは如何いかにお可愛かはいいのか存じませんけれど、一旦愛相あいそを尽つかして迯にげて行つた女を、いつまでも思込んで遅々ぐづぐづしてゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺さしころして了しまふのです」
 宮は跂返はねかへさんと為せしが、又抑おさへられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰おつしやいましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為なぜこんな淫乱いんらんの人非人にんぴにんを阿容おめおめ活いけてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分いちぶんが立たんで御座いませう。何為なぜ成敗は遊ばしません。さあ、私決けしてもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。 間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒いざと云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損しそんじの無いやうに、私好よい刃物きれものをお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
 彼の懐ふところを出でたるは蝋塗ろぬりの晃きらめく一口いつこうの短刀なり。貫一はその殺気に撲うたれて一指をも得動かさず、空むなしく眼まなこを輝かがやかして満枝の面おもてを睨にらみたり。宮ははや気死せるか、推伏おしふせられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭のどなり胸なり、ぐつと一突ひとつきに遣やつてお了しまひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々ぐづぐづしてゐらつしやるのです。刀の持様もちやうさへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
 と片手ながらに一揮ひとふり揮ふれば、鞘さやは発矢はつしと飛散つて、電光袂たもとを廻めぐる白刃しらはの影は、忽たちまち飜ひるがへつて貫一が面上三寸の処に落来おちきたれり。
「これで突けば可よいのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未まだ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些ちよつと御覧あそばせな」
 言下ごんかに勿焉こつえんと消えし刃やいばの光は、早くも宮が乱鬢らんびんを掠かすめて顕あらはれぬ。啊呀あなやと貫一の号さけぶ時、妙いしくも彼は跂起はねおきざまに突来る鋩きつさきを危あやふく外はづして、
「あれ、貫一さん!」
 と満枝の手首に縋すがれるまま、一心不乱の力を極きはめて捩伏ねぢふせ捩伏ねぢふせ、仰様のけざまに推重おしかさなりて仆たふしたり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思ひとおもひに殺して下さい!」
 この恐るべき危機に瀕ひんして、貫一は謂知いひしらず自ら異あやしくも、敢あへて拯すくひの手を藉かさんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空むなしく悶もだえに悶えゐたり。必死と争へる両箇ふたりが手中の刃やいばは、或あるひは高く、或は低く、右に左に閃々せんせんとして、あたかも一鉤いつこうの新月白く風の柳を縫ぬふに似たり。
「貫一さん、貴方は私を見殺みごろしになさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔くやしい! 悔い‼ 私は悔い‼」
 彼は乱せる髪を夜叉やしやの如く打振り打振り、五体ごたいを揉もみて、唇くちびるの血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷きずつけじと、貫一が胸は車輪の廻めぐるが若ごとくなれど、如何いかにせん、その身は内より不思議の力に緊縛きんばくせられたるやうにて、逸はやれど、躁あせれど、寸分の微揺ゆるぎを得ず、せめては声を立てんと為れば、吭のんどは又塞ふさがりて、銕丸てつがんを啣ふくめる想おもひ。 力も今は絶々に、はや危あやふしと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
 又激く捩合ねぢあふ郤含はずみに、短刀は戞然からりと落ちて、貫一が前なる畳に突立つつたつたり。宮は虚すかさず躍をどり被かかりて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔おしへだつる腋わきの下より後突うしろづきに、𣠽つかも透とほれと刺したる急所、一声号さけびて仰反のけぞる満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩くれ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇ひしと寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦ゆるされた積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍かんにんして、今までの恨は霽はらして下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替いきかはり死替しにかはりして七生しちしようまで貫一さんを怨うらみますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱となへて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
 朱あけに染みたる白刃しらはをば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐なつかしき拳こぶしに頻回あまたたび頬擦ほほずりしたり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向えこうをして下さると思つて、今はの際きはで唯一言ただひとこと赦して遣ると有仰おつしやつて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑おわびが為たいばかりなのですから、貫一さん、既往これまでの事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
 今思へばあの時の不心得が実に悔くやしくて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零こぼして言つて下すつた事も覚えてゐます。後来のちのちきつと思中おもひあたるから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為なぜあの時に些少すこしでも気が着かなかつたか。愚おろかな自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復とりかへしの付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰ばちが中あたつたわ! 私は生きてゐる空そらが無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
 さうしてとてもこの罰の中つた躯からだでは、今更どうかうと思つても、願なんぞの愜かなふと云ふのは愚な事、未まだ未だ憂目うきめを見た上に思死おもひじにに死にでも為なければ、私の業ごうは滅めつしないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱くげんを埋うめて了つて、さうして早く元の浄きよい躯からだに生れ替かはつて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦かんなんしんくを為ても、きつと貴方に添遂そひとげて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴いただき、又この世で為遺しのこした事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦よろこばれ、自分も嬉うれしい思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可ようござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。 人は最期さいごの一念で生しようを引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮おもひつめて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
 声震はせて縋すがると見れば、宮は男の膝ひざの上なる鋩きつさき目掛けて岸破がばと伏したり。
「や、行やつたな!」
 貫一が胸は劈つんざけて始てこの声を出いだせるなり。
「貫一さん!」
 無残やな、振仰ぐ宮が喉のんどは血に塗まみれて、刃やいばの半なかばを貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼まなこを睜みひらきつつ、男の顔を視みんと為るを、貫一は気も漫そぞろに引抱ひつかかへて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
 大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝こりて些ちとも弛ゆるめぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為なぜ放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺おもひのこす事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦ゆるすと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
 血は滾々こんこんと益す流れて、末期まつごの影は次第に黯くらく逼せまれる気色。貫一は見るにも堪たへず心乱れて、
「これ、宮、確乎しつかりしろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
 貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言ことばは出いでず、抱いだき緊しめたる宮が顔をば紛はふり下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇くちびるを貪むさぼり吮すひぬ。宮は男の唾つばきを口移くちうつしに辛からくも喉のどを潤うるほして、
「それなら貫一さん、私は、吁ああ、苦くるしいから、もうこれで一思ひに……」
 と力を出いだして刳えぐらんと為るを、緊しかと抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
 漸やうやく刀を捥放もぎはなせば、宮は忽たちまち身を回かへして、輾こけつ転ころびつ座敷の外に脱のがれ出づるを、
「宮、何処どこへ行く!」
 遣やらじと伸のべし腕かひなは逮およばず、苛いらつて起ちし貫一は唯一掴ひとつかみと躍り被かかれば、生憎あやにく満枝が死骸しがいに躓つまづき、一間ばかり投げられたる其処そこの敷居に膝頭ひざがしらを砕けんばかり強く打れて、踣のめりしままに起きも得ず、身を竦すくめて呻うめきながらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」
 呼べど号さけべど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅あしゆらの如く憤いかりて起ちしが、又仆たふれぬ。仆れしを漸く起回おきかへりて、忙々いそがはしく四下あたりを眴みまはせど、はや宮の影は在らず。その歩々ほほに委おとせし血は苧環をだまきの糸を曳きたるやうに長く連つらなりて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処いづこまで、彼は重傷いたでを負ひて行くならん。 磐石ばんじやくを曳くより苦く貫一は膝の疼痛いたみを怺こらへ怺へて、とにもかくにも塀外へいそとに踽よろぼひ出づれば、宮は未いまだ遠くも行かず、有明ありあけの月冷つきひややかに夜は水の若ごとく白しらみて、ほのぼのと狭霧罩さぎりこめたる大路の寂せきとして物の影無き辺あたりを、唯独ひとり覚束無おぼつかなげに走れるなり。
「宮! 待て!」
 呼べば谺こだまは返せども、雲は幽ゆうにして彼は応こたへず。歯咬はがみを作なして貫一は後を追ひぬ。
 固もとより間あはひは幾許いくばくも有らざるに、急所の血を出いだせる女の足取、引捉ひつとらふるに何程の事有らんと、侮あなどりしに相違して、彼は始の如く走るに引易ひきかへ、此方こなたは漸く息疲いきつかるるに及べども、距離は竟つひに依然として近ちかづく能はず。こは口惜くちをし、と貫一は満身の力を励し、僵たふるるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱なほのがるるほどに、帯は忽たちまち颯さと釈とけて脚あしに絡まとふを、右に左に踢払けはらひつつ、跌つまづきては進み、行きては踉よろめき、彼もはや力は竭つきたりと見えながら、如何いかに為せん、其処そこに伏して復また起きざる時、躬みづからも終つひに及ばずして此処ここに絶入ぜつにゆうせんと思へば、貫一は今に当りて纔わづかに声を揚ぐるの術じゆつを余すのみ。
「宮!」と奮ふるつて呼びしかど、憫あはれむべし、その声は苦き喘あへぎの如き者なりき。我と吾肉を啖くらはんと想ふばかりに躁あせれども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無かひなき己おのれに憤いかりを作なして、益す休まず狂呼きようこすれば、彼の吭のんどは終に破れて、汨然こつぜんとして一涌いちゆうの鮮紅せんこうを嘔出はきいだせり。心晦こころくらみて覚えず倒れんとする耳元に、松風まつかぜ驀然どつと吹起りて、吾に復かへれば、眼前の御壕端おほりばた。只看みる、宮は行き行きて生茂おひしげる柳の暗きに分入りたる、入水じゆすいの覚悟に極きはまれりと、貫一は必死の声を搾しぼりて連しきりに呼べば、咳入せきいり咳入り数口すうこうの咯血かつけつ、斑爛はんらんとして地に委おちたり。何思ひけん、宮は千条ちすぢの緑の陰より、その色よりは稍やや白き面おもてを露あらはして、追来る人を熟じと見たりしが、竟つひに疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗あげて遙はるかに留とむるを、免ゆるし給へと伏拝ふしをがみて、つと茂の中うちに隠れたり。 彼は己おのれの死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄かけよる岸の柳を潜くぐりて、水は深きか、宮は何処いづこに、と葎むぐらの露に踏滑ふみすべる身を危あやふくも淵ふちに臨めば、鞺鞳どうとうと瀉そそぐ早瀬の水は、駭おどろく浪なみの体たいを尽つくし、乱るる流の文ぶんを捲まいて、眼下に幾個の怪き大石たいせき、かの鰲背ごうはいを聚あつめて丘の如く、その勢いきほひを拒ふせがんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜ひるがへり、長波の邁ゆくところ滔々とうとうとして破らざる為なき奮迅ふんじんの力は、両岸も為に震ひ、坤軸こんじくも為に轟とどろき、蹈居ふみゐる土も今にや崩くづれなんと疑ふところ、衣袂いべいの雨濃あめこまやかに灑そそぎ、鬢髪びんぱつの風転うたた急なり。
 あな凄すさまじ、と貫一は身毛みのけも弥竪よだちて、縋すがれる枝を放ちかねつつ、看れば、叢くさむらの底に秋蛇しゆうだの行くに似たる径こみち有りて、ほとほと逆落さかおとしに懸崖けんがいを下くだるべし。危あやふき哉かなと差覗さしのぞけば、茅葛かやかつらの頻しきりに動きて、小笹棘をざさうばらに見えつ隠れつ段々と辷すべり行くは、求むる宮なり。
 その死を止とどめんの一念より他たあらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑いとまもあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間たにまの嵐あらしの誘ふに委まかせて、驀直ましぐらに身を堕おとせり。
 或あるひは摧くだけて死ぬべかりしを、恙無つつがなきこそ天の佑たすけと、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸ひたれる巌いはほを渉わたりて、既に渦巻く滝津瀬たきつせに生憎あやにく! 花は散りかかるを、
「宮!」
 と後うしろに呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
 咄嗟とつさの遅おくれを天に叫び、地に号わめき、流に悶もだえ、巌に狂へる貫一は、血走る眼まなこに水を射て、此処ここや彼処かしこと恋こひしき水屑みくづを覓もとむれば、正まさしく浮木芥うきぎあくたの類とも見えざる物の、十間じつけんばかり彼方あなたを揉みに揉んで、波間隠なみまがくれに推流おしながさるるは、人ならず哉や、宮なるかと瞳ひとみを定むる折しもあれ、水勢其処そこに一段急なり、在りける影は弦つるを放れし箭飛やとびを作なして、行方ゆくへも知らずと胸潰むねつぶるれば、忽たちまち遠く浮き出でたり。 嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀よぢ、崖がけを伝ひ、或あるひは下りて水を踰こえ、石を躡ふみ、巌を廻めぐり、心地死ぬべく踉蹌ろうそうとして近ちかづき見れば、緑樹りよくじゆ蔭愁かげうれひ、潺湲せんかん声咽こゑむせびて、浅瀬に繋かかれる宮が骸むくろよ!
 貫一は唯その上に泣伏したり。
 吁ああ、宮は生前に於おいて纔わづかに一刻の前さきなる生前に於て、この情なさけの熱き一滴を幾許いかばかりかは忝かたじけなみけん。今や千行垂せんこうたるといへども効無かひなき涙は、徒いたづらに無心の死顔に濺そそぎて宮の魂こんは知らざるなり。
 貫一の悲かなしみは窮きはまりぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀あはれなのに、この浅ましい姿はどうだ。
 刃やいばに貫き、水に溺おぼれ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛かはいい奴め、思迫おもひつめたなあ!
 宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊あきたらずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏ふびんだ!
 どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状しにざまを見ては、罪も恨うらみも皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺おれは心の底から赦したぞ!
 今はの際きはに赦したと、俺が一言ひとこと云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ‼
 余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目めんもく無い! これまでの精神とは知らずに見殺みごろしに為たのは残念だつた! 俺が過あやまりだ! 宮、赦してくれよ! 可いいか、宮、可いか。
 嗚呼ああ死んで了つたのだ!!!」
 貫一は彼の死の余りに酷むごく、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽ことごとく沃そそがれ、旧悪の膚はだへは全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己おのれの為に捨てたる亡骸なきがらの、実げに憐あはれみても憐むべく、悲みても猶なほ及ばざる思の、今は唯極きはめて切なる有るのみ。
 かの烈々れつれつたる怨念おんねんの跡無く消ゆるとともに、一旦涸かれにし愛慕の情は又泉の涌わくらんやうに起りて、その胸に漲みなぎりぬ。苦からず哉や、人亡なき後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何いかなる恨をも繋かくるの忍び易やすきを今ぞ知るなる。
 貫一は腸断ちようたち涙連なみだつらなりて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向たむけるのは、俺のこの胸の中うちだ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳ひやくまでも添そひ、添、添遂そひとげるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
 氷の如き宮が手を取り、犇ひしと握りて、永く眠れる面おもてを覗のぞかんと為れば、涙急にして文色あいろも分かず、推重おしかさなりて、怜いとしやと身を悶もだえつつ少時しばし泣いたり。「然し、宮、貴様は立派な者だ。一ひとたび罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴あつぱれだぞ。それでこそ始て人間たるの面目めんもくが立つのだ。
 然るに、この貫一はどうか! 一端いつぱし男と生れながら、高が一婦いつぷの愛を失つたが為に、志を挫くぢいて一生を誤り、餓鬼がきの如き振舞ふるまひを為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪むさぼるの外は何も知らん。その財かねは何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
 凡およそ人と謂いふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己おのれと云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟いやしくも男と生れた一生を抛なげうたうと云ふのだ。人たるの効かひは何処どこに在る、人たる道はどうしたのか。
 噫ああ、誤つた!
 宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯からだだ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入はぢいりも為すりや、可羨うらやましくもある。当初はじめ貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速すみやかに心を悛あらためて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖つぐなはなけりや成らん訳だ。
 嗟乎ああ、然し、何に就つけても苦くるしい世の中だ!
 人間の道は道、義務は義務、楽たのしみは又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢しぎさわに居て宮を対手あいてに勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
 あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
 爾来あれから、今日こんにちまでの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼たのみで俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損しにぞくなつてゐたのだ‼
 鰐淵わにぶちは焚死やけしに、宮は自殺した、俺はどう為するのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来これから宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦くるしみを受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
 人たるの道を尽す? 人たるの行おこなひを為る? ああ、憥うるさい、憥い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一いつの罪悪だと謂いふ。或あるひは罪悪かも知れん。けれども、茫々然ぼうぼうぜんと呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等なにらの益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末みじまつだ。増まして、俺が今死ねば、忽たちまち何十人の人が助り、何百人の人が懽よろこぶか知れん。
 俺も一箇ひとりの女故ゆゑに身を誤つたその余あとが、盗人ぬすと家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初はじめに出損でそくなつたのが一生の不覚、あれが抑そもそも不運の貫一の躯からだは、もう一遍鍛直きたへなほして出て来るより外ほか為方が無い。この世の無念はその時霽はらす!」
 さしも遣る方無く悲かなしめりし貫一は、その悲を立たちどころに抜くべき術すべを今覚れり。看々みるみる涙の頬ほほの乾かわける辺あたりに、異あやしく昂あがれる気有きありて青く耀かがやきぬ。「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世らいせで二人が夫婦に成る、これが結納ゆひのうだと思つて、幾久いくひさしく受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
 さらば往きて汝なんぢの陥りし淵ふちに沈まん。沈まば諸共もろともと、彼は宮が屍かばねを引起して背うしろに負へば、その軽かろきこと一片ひとひらの紙に等ひとし。怪あやしと見返れば、更に怪し! 芳芬ほうふん鼻を撲うちて、一朶いちだの白百合しろゆり大おほいさ人面じんめんの若ごときが、満開の葩はなびらを垂れて肩に懸かかれり。
 不思議に愕おどろくと為れば目覚めさめぬ。覚むれば暁の夢なり。



続続金色夜叉



第一章

 貫一が胸は益ますます苦くるしく成り愈まさりぬ。彼を念おもひ、これを思ふに、生きて在るべき心地はせで、寧むしろかの怪あやしき夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。
 彼は空むなしく万事を抛なげうちて、懊憹おうのうの間に三日ばかりを過すごしぬ。
 これを語らんに人無く、愬うつたへんには友無く、しかも自ら拯すくふべき道は有りや。有りとも覚えず、無しとは知れど、煩わづらふ者の煩ひ、悩む者の悩みて縦ほしいままなるを如何いかにせん。彼は実にこの昏迷乱擾こんめいらんじようせる一根いつこんの悪障を抉去くじりさりて、猛火に燬やかんことを冀こひねがへり。その時彼は死ぬべきなり。生か、死か。貫一の苦悶くもんは漸やうやく急にして、終つひにこの問題の前に首かうべを垂るるに至れり。
 値無き吾が生存は、又同おなじく値無き死亡を以つて畢をへしむべき者か。悔に堪たへざる吾が生の値無かりしを結ばんには、これを償ふに足る可べき死を以て為せざる可からざるか、或あるひは、ここに過多あやまちおほき半生の最期さいごを遂とげて、新あらたに他の値ある後半の復活を明日みようにちに計るべきか。
 彼は強あながちに死を避けず、又生を厭いとふにもあらざれど、両ふたつながらその値無きを、私ひそかに屑いさぎよしと為せざるなり。当面の苦は彼に死を勧め、半生の悔は耻はぢを責めて仮さず。苦を抜かんが為に、我は値無き死を辞せざるべきか、過あやまちを償はんが為に、我は楽まざる生を忍ぶべきか。碌々ろくろくの生は易やすし、死は即すなはち難かたし。碌々の死は易し、生は則すなはち難し。我は悔いて人と成るべきか、死してその愚を完まつたうすべきか。
 貫一は活を求めて得ず、死を覓もとめて得ず、居れば立つを念おもひ、立てば臥ふすを想おもひ、臥せば行くを懐おもひ、寐いぬれば覚め、覚むれば思ひて、夜もあらず、日もあらず、人もあらず、世もあらで、唯憂ただうれひ惑へる己一個おのれひとりの措所無おきどころなく可煩わづらはしきに悩乱せり。 あだかもこの際抛なげうち去るべからざる一件の要事は起りぬ。先に大口おほぐちの言込有いひこみありし貸付の緩々だらだら急に取引迫りて、彼は些ちとの猶予も無く、自ら野州やしゆう塩原なる畑下はたおりと云へる温泉場おんせんじように出向き、其処そこに清琴楼せいきんろうと呼べる湯宿に就きて、密ひそかに云々うんぬんの探知すべき必要を生じたるなり。
 謂知いひしらず憥うるさしと腹立たれけれど、行懸ゆきがかりの是非無く、かつは難得えがたき奇景の地と聞及べば、少時しばしの憂うさを忘るる事も有らんと、自ら努めて結束し、かの日より約およそ一週間の後、彼はほとほと進まぬ足を曳ひきて家を出でぬ。その晨あした横雲白よこぐもしろく明方あけがたの空に半輪の残月を懸けたり。一番列車を取らんと上野に向ふ俥くるまの上なる貫一は、この暁の眺矚ながめに撲うたれて、覚えず悚然しようぜんたる者ありき。

(一)の二

 車は駛はせ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易かはらざる他その悒鬱ゆううつを抱いだきて、遣やる方無き五時間の独ひとりに倦うみ憊つかれつつ、始て西那須野にしなすのの駅に下車せり。
 直ただちに西北に向ひて、今尚いまなほ茫々ぼうぼうたる古いにしへの那須野原なすのがはらに入いれば、天は濶ひろく、地は遐はるかに、唯平蕪ただへいぶの迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の坦途たんと、一帯の重巒ちようらん、塩原は其処そこぞと見えて、行くほどに跡みちは窮きはまらず、漸やうやく千本松を過ぎ、進みて関谷村せきやむらに到れば、人家の尽る処に淙々そうそうの響有りて、これに架かかれるを入勝橋にゆうしようきようと為なす。
 輙すなはち橋を渡りて僅わづかに行けば、日光冥くらく、山厚く畳み、嵐気らんき冷ひややかに壑深たにふかく陥りて、幾廻いくめぐりせる葛折つづらをりの、後には密樹みつじゆに声々せいせいの鳥呼び、前には幽草ゆうそう歩々ほほの花を発ひらき、いよいよ躋のぼれば、遙はるかに木隠こがくれの音のみ聞えし流の水上みなかみは浅く露あらはれて、驚破すはや、ここに空山くうざんの雷いかづち白光はつこうを放ちて頽くづれ落ちたるかと凄すさまじかり。道の右は山を𠠇きりて長壁と成し、石幽いしゆうに蘚碧こけあをうして、幾条いくすぢとも白糸を乱し懸けたる細瀑小瀑ほそたきこたきの珊々さんさんとして濺そそげるは、嶺上れいじようの松の調しらべも、定さだめてこの緒をよりやと見捨て難し。 俥を駆かりて白羽坂しらはざかを踰こえてより、回顧橋みかへりばしに三十尺の飛瀑ひばくを蹻ふみて、山中の景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にして三十橋、山有れば巌有いはあり、巌有れば必ず瀑たき有り、全嶺ぜんれいにして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。猶なほ数ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰たれか一々探さぐり得べき。
 抑そもそも塩原の地形たる、塩谷郡しほやごほりの南より群峰の間を分けて深く西北に入いり、綿々として箒川ははきがわの流に沂さかのぼる片岨かたそばの、四里に岐わかれ、十一里に亙わたりて、到る処巉巌ざんがんの水を夾はさまざる無きは、宛然さながら青銅の薬研やげんに瑠璃末るりまつを砕くに似たり。先づ大網おほあみの湯を過すぐれば、根本山ねもとやま、魚止滝うおどめのたき、児ちごヶ淵ふち、左靱ひだりうつぼの険は古ふりて、白雲洞はくうんどうは朗ほがらかに、布滝ぬのだき、竜りゆうヶ鼻はな、材木石ざいもくいし、五色石ごしきせき、船岩ふないわなんどと眺行ながめゆけば、鳥井戸とりいど、前山まえやまの翠衣みどりころもに染みて、福渡ふくわたの里に入いるなり。
 途みちすがら前面むかひの崖がけの処々ところどころに躑躅つつじの残り、山藤の懸れるが、甚はなはだ興有りと目留まれば、又この辺あたり殊ことに谿浅たにあさく、水澄みて、大いなる古鏡こきようの沈める如く、深く蔽おほへる岸樹がんじゆは陰々として眠るに似たり。貫一は覚えず踏止りぬ。
 かの逆巻さかまく波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりし其処そこの景色に、似たりとも酷はなはだ似たる岸の布置たたずまひ、茂しげりの状況ありさま、乃至ないしは漾たたふる水の文あやも、透徹すきとほる底の岩面いはづらも、広さの程も、位置も、趣おもむきも、子細に看来みきたればいよいよ差たがはず。
 彼は眦まなじりを決さきて寒慄かんりつせり。
 怪あやしむべき哉かな、曾かつて経へたりし塲ところをそのままに夢むる例ためしは有れ、所拠よりどころも無く夢みし跡を、歴々まざまざとかく目前に見ると云ふも有る事か。宮の骸むくろの横よこたはりし処も、又は己おのれの追来おひきし筋も、彼処かしこよ、此処ここよと、陰ひそかに一々指ゆびさしては、限無かぎりなく駭おどろけるなり。 車夫を顧みて、処の名を問へば、不動沢ふどうざわと言ふ。
 物可恐ものおそろしげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に死なんとせしがと、さすが現うつつの身にも沁しむ時、宮にはあらで山百合やまゆりの花なりし怪異を又懐おもひて、彼は肩頭かたさき寒く顫ふるひぬ。
 卒にはかに踵きびすを回かへして急げば、行路ゆくての雲間に塞ふさがりて、咄々とつとつ、何等なんらの物か、と先まづ驚おどろかさるる異形いぎようの屏風巌びようぶいは、地を抜く何百丈じようと見挙みあぐる絶頂には、はらはら松も危あやふく立竦たちすくみ、幹竹割からたけわりに割放さきはなしたる断面は、半空なかそらより一文字に垂下すいかして、岌々きゆうきゆうたるその勢いきほひ、幾ほとんど眺ながむる眼まなこも留とまらず。
 貫一は惘然ぼうぜんとして佇たたずめり。
 彼が宮を追ひて転まろび落ちたりし谷間の深さは、正まさにこの天辺てつぺんの高きより投じたらんやうに、冉々せんせんとして虚空を舞下まひくだる危惧きぐの堪難たへがたかりしを想へるなり。
 我われ未いまだ甞かつて見ざりつる絶壁! 危あやふしとも、可恐おそろしとも、夢ならずして争いかでか飛下り得べき。又この人並ひとなみならぬ雲雀骨ひばりぼねの粉微塵こなみじんに散つて失うせざりしこそ、洵まことに夢なりけれと、身柱ちりけ冷ひややかに瞳ひとみを凝こらす彼の傍かたはらより、これこそ名にし負ふ天狗巌てんぐいわ、と為したり貌がほにも車夫は案内あないす。
 貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼おそれつつ立尽せり。
 既に如此かくのごとくなれば、怪は愈いよいよ怪に、或あるひは夢中に見たりし踪あとの猶なほ着々ちやくちやく活現し来きたりて、飽くまで我を脅おびやかさざれば休やまざらんと為るにあらずや、と彼は胸安からずも足に信まかせて、かの巌いはほの頭上に聳そびゆる辺あたりに到れば、谿たに急に激折して、水これが為に鼓怒こどし、咆哮ほうこうし、噴薄激盪げきとうして、奔馬ほんばの乱れ競きそふが如し。この乱流の間に横よこたはりて高さ二丈に余り、その頂いただきは平たひらかに濶ひろがりて、寛ゆたかに百人を立たしむべき大磐石だいばんじやく、風雨に歳経としふる膚はだへは死灰しかいの色を成して、鱗うろこも添はず、毛も生ひざれど、状かたち可恐おそろしげに蹲うづくまりて、老木の蔭を負ひ、急湍きゆうたんの浪なみに漬ひたりて、夜な夜な天狗巌の魔風まふうに誘はれて吼ほえもしぬべき怪しの物なり。 その古いにしへ蒲生飛騨守氏郷がもうひだのかみうじさとこの処に野立のだちせし事有るに因よりて、野立石のだちいしとは申す、と例のが説出ときいだすを、貫一は頷うなづきつつ、目を放たず打眺うちながめて、独り窃ひそかに舌を巻くのみ。
 彼は実げに壑間たにまの宮を尋ぬる時、この大石たいせきを眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。
 又は流るる宮を追ひて、道無きに困くるしめる折、左右には水深く、崖高く、前には攀よづべからざる石の塞ふさがりたるを、攀よぢて半なかばに到りて進退谷きはまりつる、その石もこれなりけん、と肩は自おのづと聳そびえて、久く留とどまるに堪たへず。
 数歩すほを行けば、宮が命を沈めしその淵ふちと見るべき処も、彼が釈とけたる帯を曳ひきしその巌いはほも、歴然として皆在らざるは無し! 貫一が髪毛かみのけは針はりの如く竪たちて戦そよげり。彼の思は前夜の悪夢を反復くりかへすに等ひとしき苦悩を辞する能はざればなり。
 夢ながら可恐おそろしくも、浅ましくも、悲くも、可傷いたましくも、分わく方無くて唯一図に切なかりしを、事もし一塲の夢にして止とどまらざらんには、抑そもそも如何いかん! 今や塩原の実景は一々いちいち夢中の見るところ、然らばこの景既に夢ならず! 思掛おもひがけずもここに来にける吾身もまた夢ならず! 但ただ夢に欠く者とては宮一箇ひとりのみ。纔わづかに彼のここに来きたらざるのみ‼
 貫一はかく思到りて、我又夢に入りたるにあらざるかと疑はんとも為つ。夢ならずと為せば、我は由無よしなき処に来にけるよ。幸さいはひに夢に似る事無くてあれかし。異あやしとも甚はなはだ異し! 疾とく往きて、疾く還かへらんと、遽にはかに率ひきゐし俥くるまに乗りて、白倉山しらくらやまの麓ふもと、塩釜しおがまの湯ゆ、高尾塚たかおづか、離室はなれむろ、甘湯沢あまゆざわ、兄弟滝あにおととのたき、玉簾瀬たまだれのせ、小太郎淵こたろうがぶち、路みちの頭ほとりに高きは寺山てらやま、低きに人家の在る処、即ち畑下戸はたおり。

第二章

 一村十二戸、温泉は五箇所に涌わきて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方あたりて箒川ははきがわの緩ゆるく廻めぐれる磧かはらに臨み、俯ふしては、水石すいせきの粼々りんりんたるを弄もてあそび、仰げば西に、富士、喜十六きじゆうろくの翠巒すいらんと対して、清風座に満ち、袖そでの沢を落来おちくる流は、二十丈の絶壁に懸りて、素縑ねりぎぬを垂れたる如き吉井滝よしいのたきあり。東北は山又山を重ねて、琅玕ろうかんの玉簾ぎよくれん深く夏日の畏おそるべきを遮さへぎりたれば、四面遊目ゆうもくに足りて丘壑きゆうかくの富を擅ほしいままにし、林泉の奢おごりを窮きはめ、又有るまじき清福自在の別境なり。 貫一はこの絵を看みる如き清穏せいおんの風景に値あひて、かの途上みちすがら険けはしき巌いはほと峻さかしき流との為に幾度いくたびか魂こん飛び肉銷にくしようして、理をさむる方かた無く掻乱かきみだされし胸の内は靄然あいぜんとして頓とみに和やはらぎ、恍然こうぜんとして総すべて忘れたり。
 彼は以為おもへらく。
 誠に好くこそ我は来きつれ! なんぞ来きたるの甚はなはだ遅かりし。山の麗うるはしと謂いふも、壌つちの堆うづたかき者のみ、川の暢のどけしと謂ふも、水の逝ゆくに過ぎざるを、牢ろうとして抜く可からざる我が半生の痼疾こしつは、争いかで壌つちと水との医いすべき者ならん、と歯牙しがにも掛けず侮あなどりたりし己おのれこそ、先づ侮らるべき愚おろかの者ならずや。
 看みよ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀ひいづる峰も、流るる渓たにも、峙そばだつ巌いはほも、吹来ふきくる風も、日の光も、鶏とりの鳴く音ねも、空の色も、皆自おのづから浮世の物ならで、我はここに憂うれひを忘れ、悲かなしみを忘れ、苦くるしみを忘れ、労つかれを忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希こひねがはくは今より如此かくのごとくして我生を了をはらん哉かな。
 恋も有らず、怨うらみも有らず、金銭ぜにも有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止ただ天然の無垢むくにして、形骸けいがいを安きのみなるこの里、我思わがおもひを埋うづむるの里か、吾骨を埋るの里か。
 性来多く山水の美に親したしまざりし貫一は、殊ことに心の往くところを知らざるばかりに愛めで悦よろこびて、清琴楼の二階座敷に案内あないされたれど、内には入いらで、始より滝に向へる欄干らんかんに倚よりて、偶たまたま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢あひけんやうに、少時しばしはその傍かたはらを離れ得ざるなりき。
 楼前の緑は漸やうやく暗く、遠近をちこちの水音冱さえて、はや夕暮ゆふくるる山風の身に沁しめば、先づ湯浴ゆあみなどせばやと、何気無く座敷に入りたる彼の眼まなこを、又一個ひとつ驚かす物こそあれ。
 鞄かばんを置いたる床間とこのまに、山百合やまゆりの花のいと大きなるを唯ただ一輪棒挿ぼうざしに活いけたるが、茎形くきなりに曲くねり傾きて、あたかも此方こなたに向へるなり。
 貫一は覚えず足を踏止めて、その瞪みはれる眼まなこを花に注ぎつ。宮ははやここに居たりとやうに、彼は卒爾そつじの感に衝つかれたるなり。 既に幾処いくところの実景の夢と符合するさへ有るに、またその殊に夢の夢なる一本ひともと百合のここに在る事、畢竟ひつきよう偶合に過ぎずとは謂へ、さりとては余りにかの夢とこの旅との照応急に、因縁深きに似て、などかくは我を驚かすの太甚はなはだしき!
 奇を弄ろうして益ますます出づる不思議に、彼は益懼おそれを作なして、或あるひはこの裏うちに天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。
 やがて傍近そばちかく寄りて、幾許いかばかり似たると眺ながむれば、打披うちひらける葩はなびらは凛りんとして玉を割さいたる如く、濃香芬々ふんふんと迸ほとばしり、葉色に露気ろき有りて緑鮮みどりあざやかに、定さだめて今朝けさや剪きりけんと覚おぼしき花の勢いきほひなり。
 少しばらく楽まされし貫一も、これが為に興冷きようさめて、俄にはかに重き頭かしらを花の前に支へつつ、又かの愁うれひを徐々に喚起よびおこさんと為つ。
「お風呂へ御案内申しませう」
 その声に彼は婢をんなを見返りて、
「ああ、姐ねえさん、この花を那裏そつちへ持つて行つておくれでないか」
「はあ、その花で御座いますか。旦那だんな様は百合の花はお嫌きらひで?」
「いや、匂にほひが強くて、頭痛がして成らんから」
「さやうで御座いますか。唯今直ぢきに片付けますです。これは唯たつた一つ早咲はやざきで、珍めづらしう御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒いたづらに挿して置いたんで御座います」
「うう、成程、早咲だね」
「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯たつた一つ有りましたんで、紛まぐれ咲ざきなので御座いますね」
「うう紛れ咲、さうだね」
「御案内致しませう」
 風呂場に入いれば、一箇ひとりの客先まづ在りて、未まだ燈点ひともさぬ微黯うすくらがりの湯槽ゆぶねに漬ひたりけるが、何様人の来きたるに駭おどろけると覚おぼしく、甚はなはだ忙せはしげに身を起しつ。貫一が入れば、直ぢきに上ると斉ひとしく洗塲ながしの片隅かたすみに寄りて、色白き背そびらを此方こなたに向けたり。
 年紀としのころは二十七八なるべきか。やや孱弱かよわなる短躯こづくりの男なり。頻しきりに左視右胆とみかうみすれども、明々地あからさまならぬ面貌おもては定さだかに認め難かり。されども、自おのづから見識越みしりごしならぬは明あきらかなるに、何が故ゆゑに人目を避さくるが如き態かたちを作なすならん。華車きやしやなる形成かたちづくりは、ここ等辺らあたりの人にあらず、何人なにびとにして、何が故になど、貫一は徒いたづらに心牽こころひかれてゐたり。 やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで此方こなたを向かざらんと為つつ、蕭索しめやかに浴ゆを行つかふ音を立つるのみ。
 その膚はだの色の男に似気無にげなく白きも、その骨纖ほねほそに肉の痩やせたるも、又はその挙動ふるまひの打湿うちしめりたるも、その人を懼おそるる気色けしきなるも、総すべて自おのづから尋常ただならざるは、察するに精神病者の類たぐひなるべし。さては何の怪むところ有らん。節は初夏の未まだ寒き、この寥々りようりようたる山中に来きたり宿とまれる客なれば、保養鬱散の為ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと心釈こころとけては、はや目も遣らずなりける間ひまに、男は浴ゆあみ果てて、貸浴衣かしゆかた引絡ひきまとひつつ出で行きけり。
 暮色はいよいよ濃こまやかに、転激うたたはげしき川音の寒さを添ふれど、手寡てずくななればや燈あかりも持来きたらず、湯香ゆのか高く蒸騰むしのぼる煙けむりの中に、独ひとり影暗く蹲うづくまるも、少すこしく凄すさまじき心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間とこのまには百合の花も在らず煌々こうこうたる燈火ともしびの下に座を設け、膳ぜんを据ゑて傍かたはらに手焙てあぶりを置き、茶器食籠じきろうなど取揃とりそろへて、この一目さすがに旅の労つかれを忘るべし。
 先づ衣桁いこうに在りける褞袍どてらを被かつぎ、夕冷ゆふびえの火も恋こひしく引寄せて莨たばこを吃ふかしゐれば、天地静しづかに石走いはばしる水の響、梢こずゑを渡る風の声、颯々淙々さつさつそうそうと鳴りて、幽なること太古の如し。
 乍たちまちはたはたと跫音あしおと長く廊下に曳ひいて、先のにはあらぬ小婢こをんなの夕餉ゆふげを運び来きたれるに引添ひて、其処そこに出でたる宿の主あるじは、
「今日こんにちは好ようこそ御越おこし下さいまして、さぞ御労様おつかれさまでゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下くだし置れまして、甚はなはだ恐入りました儀で、難有ありがたう存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
 ええ前以ぜんもつてお詑わびを申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些ちよつと時候もお早いので、自然お客様のお越こしも御座りませんゆゑ、何分用意等とうも致し置きませんやうな次第で、然し、一両日いちりようにち中にはお麁末そまつながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日こんみようにちのところは御勘弁を下さいまして、御寛ごゆるりと御逗留ごとうりゆう下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁おみおつけをお易かへ申して来ないか」 主あるじの辞し去りて後、貫一は彼の所謂いはゆる何も無き、椀わんも皿も皆黄なる鶏子一色たまごいつしきの膳に向へり。
「内にはお客は今幾箇いくたり有るのだね」
「這箇こちらの外にお一方ひとかたで御座りやす」
「一箇ひとり? あのお客は単身ひとりなのか」
「はい」
「先さつきに湯殿で些ちよつと遇あつたが、男の客だよ」
「さよで御座りやす」
「あれは病人だね」
「どうで御座りやすか。――そんな事無ねえで御座りやせう」
「さうかい。何処どこも不良わるいところは無いやうかね」
「無ねえやうで御座りやすな」
「どうも病人のやうだが、さうでないかな」
「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」
 貫一は覚えず噴飯ふんぱんせんと為つつ、
「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」
「いんえ、昨日きのふお出いでになりやしたので」
「昨日来たのだ? 東京の人か」
「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」
「それぢや商人あきんどか」
「私能く知りやせん」
「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」
「そりやなさりやす」
「俺と那箇どつちが為る」
「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」
「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌しやべりなのだな」
「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏あちらのお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様つれさまが直ぢきにいらしやる筈はずで、それを、まあ酷えらう待つてお在いでなさりやす」
「おお、伴つれが後から来るのか。いや、大きに御馳走ごちそうだつた」
「何も御座りやせんで、お麁末様そまつさまで御座りやす」
 婢をんなは膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然ころりと臥ねたり。
 二十間も座敷の数有る大構おほがまへの内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥さびしさは既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽おほはれたる孤村の片辺かたほとりに倚よれる清琴楼の間毎に亘わたる長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許いかばかり心細くも可恐おそろしき夜道ならんよ。戸一重外とひとへそとには、山颪やまおろしの絶えずおどろおどろと吹廻ふきめぐりて、早瀬の波の高鳴たかなりは、真に放鬼の名をも懐おもふばかり。
 折しも唾壺はひふき打つ音は、二間ふたまばかりを隔てて甚だ蕭索しめやかに聞えぬ。
 貫一は何なにの故ゆゑとも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識しる人ならずと為せば、何を以つて人を懼おそるる態かたちを作なすならん。抑そもそも彼は何者なりや。又何の尤とがむるところ有りて、さばかり人を懼るるや。
 貫一はこの秘密の鑰かぎを獲んとして、左往右返とさまかうさまに暗中摸索もさくの思おもひを費すなりき。

(二)の二

 明あくる朝あしたの食後、貫一は先まづこの狭き畑下戸はたおりの隅々すみずみまで一遍ひとわたり見周みめぐりて、略ほぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格いへがらを考へなどして、磧かはらに出づれば、浅瀬に架かかれる板橋の風情ふぜい面白く、渡れば喜十六の山麓さんろくにて、十町ばかり登りて須巻すまきの滝たきの湯有りと教へらるるままに、遂つひに其処そこまで往きて、午ひる近き頃宿に帰りぬ。 汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互すれちがひに、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面おもてを見せじとやうに、慌忙あわただしく打背うちそむきて過行くなり。
 今は疑ふべくもあらず、彼は正まさしく人目を避けんと為るなり。則すなはち人を懼るるなり。故は、自ら尤とがむるなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈いよいよ深く怪みぬ。
 昨日きのふこそ誰乎彼たそがれの黯黮くらがりにて、分明さやかに面貌かほかたちを弁ぜざりしが、今の一目は、躬みづからも奇なりと思ふばかり奇くしくも、彼の不用意の間うちに速写機の如き力を以てして、その映じ来きたりし形を総すべて脱のがさず捉とらへ得たりしなり。
 貫一はその相貌そうぼうの瞥見べつけんに縁よりて、直ただちに彼の性質を占うらなはんと試こころむるまでに、いと善く見極みきはめたり。されども、いかにせん、彼の相するところは始に疑ひしところと頗すこぶる一致せざる者有り。彼若もし実まことに人を懼るると為せば、彼の人を懼るる所以ゆゑんと、我より彼の人を懼るる所以と為なす者とは、或あるひは稍やや趣おもむきを異ことにせざらんや。又想ふに、彼は決して自ら尤とがむるところなど有るに非ずして、止ただその性せいの多羞シャイなるが故のみか、未だ知るべからず。この二者ふたつの前さきのをも取り難く、さすがに後のにも頷うなづきかねて、彼は又新あらたに打惑うちまどへり。
 午飯ひるめしの給仕には年嵩としかさの婢をんな出でたれば、余所よそながらかの客の事を問ひけるに、箸はしをも取らで今外に出で行きしと云ふ。
「はあ、飯めしも食はんで? 何処どこへ行つたのかね」
「何でも昨日きのふあたりお連様つれさまがお出いでの筈はずになつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座いますから、今朝けさから御心配遊あそばして、停車場ステエションまで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰おつしやいまして、それでお出ましに成つたので御座います」
「うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉もんでゐるとは、どう云ふ伴つれなのかな。――年寄としよりか、婦をんなででもあるか」
「如何いかがで御座いますか」
「お前知らんのか」
「私わたくし存じません」
 彼は覚えず小首を傾かたむくれば、
「旦那だんなも大相御心配ぢや御座いませんか」
「さう云ふ事を聞くと、俺おれも気になるのだ」
「ぢや旦那も余程よつぽど苦労性の方ですね」
「大きにさうだ」
「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜よろしう御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方あなた、お美うつくしい方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね」
「どう大変なのか」
「又御心配ぢや御座いませんか」
「うむ、大きにこれはさうだ」
 風恬かぜしづかに草香かをりて、唯居るは惜き日和ひよりに奇痒こそばゆく、貫一は又出でて、塩釜の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。還かへれば寂さびしく夕暮るる頃なり。例の如く湯に入いりて、上あがれば直ぢきに膳ぜんを持出もちいで、燈あかしも漸く耀かがやきしに、かの客、未いまだ帰り来こず、「閑寂しづかなのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、全まるでかう独法師ひとりぼつちも随分心細いね」
 託言かごとがましく貫一は言出づれば、
「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那がお一人でゐらつしやると云ふお心懸こころがけが悪いので御座いますもの、それは為方が御座いません」
 婢はわざとらしう高笑たかわらひしつ。
「成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ」
「今度なんて仰有おつしやらずに、旦那も明日あしたあたり電信でお呼寄よびよせになつたら如何いかがで御座います」
「五十四になる老婢ばあやを呼んだつて、お前、始らんぢやないか」
「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ」
「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」
「ですから、旦那、づつと外ほかにお在んなさるので御座いませう」
「そりや外には幾多いくらでも在るとも」
「あら、御馳走で御座いますね」
「なあに、能く聴いて見ると、それが皆みんな人の物ださうだ」
「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰おつしやるもんですよ」
「本当にも嘘うそにもその通だ。私わたしなんぞはそんな意気な者が有れば、何為なにしにこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか」
「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」
「青臭いどころか、お前、天狗巌てんぐいわだ、七不思議だと云ふ者が有る、可恐おそろしい山の中に違無いぢやないか。そこへ彷徨のそのそ、閑ひまさうな貌かほをして唯一箇たつたひとりで遣やつて来るなんぞは、能々よくよくの間抜まぬけと思はなけりやならんよ」
「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか」
「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜まぬけ一人いちにんと附けて在る」
「その傍そばに小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴いただきませう」
「面白い事を言ふなあ、おまへは」
「やつぱり少し抜けてゐる所為せゐで御座います」
 彼は食事を了をはりて湯浴ゆあみし、少焉しばらくありて九時を聞きけれど、かの客は未いまだ帰らず。寝床に入いりて、程無く十時の鳴りけるにも、水声空むなしく楼を繞めぐりて、松の嵐の枕上ちんじように落つる有るのみなり。
 始よりその人を怪まざらんにはこの咎とがむるに足らぬ瑣細ささいの事も、大いなる糢糊もこの影を作なして、いよいよ彼が疑うたがひの眼まなこを遮さへぎり来きたらんとするなりけり。貫一はほとほと疑ひ得らるる限疑ひて、躬みづからも其の妄ぼうに過すぐるの太甚はなはだしきを驚けるまでに至りて、始て罷やめんと為たり。
 これに亜ついで、彼は抑そもそも何の故ゆゑ有りて、肥瘠ひせきも関せざるかの客に対して、かくばかり軽々しく思を費し、又念おもひを懸かくるの固執なるや、その謂無いはれなき己おのれをば、敢て自ら解かんと試みつ。
 されども、人は往々にして自ら率ひきゐるその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざらんと為せば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大いなる影の冥想めいそうの間に纏綿てんめんして、或あるひは理外に在る者有る無からんや、と疑はざらんと為る傍かたはらより却かへりて惑まどはしむるなり。
 表階子おもてばしごの口に懸かかれる大時計は、病み憊つかれたるやうの鈍き響を作なして、廊下の闇やみに彷徨さまよふを、数ふれば正まさに十一時なり。 かの客はこの深更しんこうに及べども未いまだ帰り来こず。
 彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又思放おもひはなつ能はずして、貫一は寝苦ねぐるしき枕を頻回あまたたび易かへたり。今や十二時にも成りなんにと心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして遂つひに眠ねむりを催せり。日高ひだかき朝景色の前に起出づれば、座敷の外を小婢こをんなは雑巾掛ぞうきんがけしてゐたり。
「お早う御座りやす」
「睡ねむさうな顔をしてゐるな」
「はい、昨夜よんべ那裏あちらのお客様がお帰かへりになるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」
「ああ、あのお客は昨夜ゆふべは帰らずか」
「はい、お帰かへりが御座りやせん」
 貫一はかの客の間の障子を開放あけはなしたるを見て、咥楊枝くはへようじのまま欄杆伝てすりづたひに外おもてを眺め行く態ふりして、その前を過すぐれば、床の間に小豆革あづきがはの手鞄てかばんと、浅黄あさぎキャリコの風呂敷包とを並ならべて、傍そばに二三枚の新聞紙を引※ひつつくね、衣桁いこうに絹物の袷あはせを懸けて、その裾すそに紺の靴下を畳置きたり。
 さては少すこしく本意無ほいなきまでに、座敷の内には見出みいだすべき異状も有らで、彼は宿帳に拠よりて、洋服仕立商なるを知りたると、敢あへて背そむくところ有りとも覚えざるなりき。
 拍子抜して返もどれる貫一は、心私こころひそかにその臆測の鑿いりほがなりしを媿はぢざるにもあらざれど、又これが為に、直ただちに彼の濡衣ぬれぎぬを剥去はぎさるまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人まちびとの如何いかなる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎もたらし来きたるべき彼の帰来かへりの程を、陰ながら最更いとさらに遅しと待てり。
 夜は山精木魅さんせいもくびの出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽いんしんせいゆうの気を凝こらすに反してこの霽朗せいろうなる昼間の山容水態は、明媚めいび争いかでか画がも如しかん、天色大気も殆ほとんど塵境以外じんきよういがいの感無くんばあらず。黄金こがねを織作おりなせる羅うすものにも似たる麗うるはしき日影を蒙かうむりて、万斛ばんこくの珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭らんとうの山を枕に恍惚こうこつとして消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽あわただしき跫音あしおとの廊下を動うごかし来きたるに駭おどろかされて、起回おきかへりさまに頭かしらを捻向ねぢむくれば、何事とも知らず、年嵩としかさの婢をんなの駈着かけつくるなり。
「些ちよいと旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く」
「何が来たのだ」
「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」
「何だ、何だよ」
「早く階子はしごの所へいらしつて御覧なさい」「おお、あの客が還つたのか」
 彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の言ことばは五間も後に残されたり。彼が注進の模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直すぐに起ちて表階子おもてはしごの辺あたりに行く時、既に晩おそし両箇ふたりの人影は欄てすりの上に顕あらはれたり。
 鍔広つばひろなる藍鼠あゐねずみの中折帽なかをれぼうを前斜まへのめりに冠かむれる男は、例の面おもてを見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳はたちを二つ三つも越したる可べし。銀杏返いてふがへしを引約ひつつめて、本甲蒔絵ほんこうまきゑの挿櫛さしぐし根深ねぶかに、大粒の淡色瑪瑙うすいろめのうに金脚きんあしの後簪うしろざし、堆朱彫ついしゆぼりの玉根掛たまねがけをして、鬢びんの一髪いつぱつをも乱さず、極きはめて快く結ひ做なしたり。葡萄茶えびちやの細格子ほそごうしの縞御召しまおめしに勝色裏かついろうらの袷あはせを着て、羽織は小紋縮緬こもんちりめんの一紋ひとつもん、阿蘭陀オランダ模様の七糸しつちんの袱紗帯ふくさおびに金鎖子きんぐさりの繊ほそきを引入れて、嬌なまめかしき友禅染の襦袢じゆばんの袖そでして口元を拭ぬぐひつつ、四季袋しきぶくろを紐短ひもみじかに挈さげたるが、弗ふと此方こなたを見向ける素顔の色蒼あをく、口の紅べにも点ささで、やや裏寂うらさびしくも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰やつれを帯びたれど、美目の盻へんたる色香いろか尚濃なほこまやかにして、漫そぞろ人に染むばかりなり。
 両箇ふたりは彼の見る目の顕露あらはなるに気怯きおくれせる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着ほうちやくの唐突なるに打惑ひて、なかなか精くはしく看るべき遑いとまあらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独ひとり合点せり。

第三章

 かの男女なんによは娧いとしさに堪たへざらんやうに居寄りて、手に手を交まじへつつ密々ひそやかに語れり。
「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方あなたがここで想つてゐるやうな訳に行きは為しませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可いいつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁ああ、私は今だに胸が悸々どきどきして、後から追掛おつかけられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない」
「まあ何でも、かうして約束通り逢あへりや上首尾なんだ」
「全くよ。一昨日をととひの晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」
 些ちよと男の顔を盻みやりて、濡ぬるる瞼まぶたを軽く拭ぬぐへり。「その縁の尽きないのが、究竟つまり彼我ふたりの身の窮迫つまりなのだ。俺おれもかう云ふ事に成らうとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は為方しかたの無いものだ」
 女は尚窃なほひそかに泣きゐる面おもてを背そむけたるまま、
「貴方は直ぢきに悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」
「悪縁だからかうなつたのぢやないか」
「かう成つたのがどうしたんですよ!」
「今更どうするものか」
「当然あたりまへさ! 貴方は一体水臭いんだ‼」
「おい、お静しず、水臭いとは誰の事だ」
 色を作なせる男の眼まなこは、つと湧わく涙に輝けり。
「貴方の事さ!」
 女の目よりは漣々はらはらと零こぼれぬ。
「俺の事だ⁈ お静……手前てめへはそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」
「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」
「未まだそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ」
「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他ひとの顔さへ見りや、直ぢきに悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我ふたりの中の悪縁は、貴方がそんなに言いはなくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方一箇ひとりの悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂いふに謂いはれない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端はしには悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞きかされる身に成つて御覧なさいな。余あんまり好いい心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
 彼等は相背あひそむきて姑しばらく語無ことばなかりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」
 お静は竟つひに顔を掩おほうて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間なかにも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘うそにも水臭いなんて言いはれりや、俺だつて悔くやしいだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」
「狭山さやまさん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝あやまります。ねえ、狭山さん、些ちよいと」
 お静の顔を打矚うちまもりつつ、男は茫然ぼうぜんたるのみなり。
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
「知れた事さ、彼我ふたりの身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
 狭山は徐々おもむろに目を転うつして、太息といきを呴ついたり。
「もうそんな溜息ためいきなんぞを呴くのはお舎よしなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
「ああ、さう、何でも袷あはせを着てゐたから、丁度今時分でした。湖月こげつさんのあの池に好いお月が映さしてゐて、暖あつたかい晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全まる三年に成るのね」
「おお、さうさう。昨日きのふのやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
「吁ああ、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
 両箇ふたりは手を把とり、膝ひざを重ねて、同じ思を猶悲なおかなしく、「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
 声立てじと男の胸に泣附く女。
「かう成るのも皆みんな約束事ぢやあらうけれど、那奴あいつさへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日いつかの御神籤通おみくじどほりな事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴あいつが邪魔して、横紙よこがみを裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余あんまり申訳が無い! 堪かん……忍にん……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅はめにも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在いでなんだらうに、逢ふ度たんびに私の身を案じて、毎いつも優くして下さるのは仇あだや疎おろかな事ぢやないと、私は嬉うれしいより難有ありがたいと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直ぢきに涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然やつぱりかう云ふ事になる讖しらせだつたんでせう。
 貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退ひけてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在いでなんぢやなからうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者さつきはあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無ちがひないんだけれど、後生だからそんな可厭いやな事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」
「生木なまきを割さいて別れるよりは、まあ愈ましだ」
「別れる? 吁ああ! 可厭いやだ! 考へても慄然ぞつとする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴あいつが来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句あげくがこんな事に成つたのも、想へば皆みんな那奴のお蔭だ。ええ、悔くやしい! 私はきつと執着とつついても、この怨うらみは返して遣やるから、覚えてゐるが可い!」
 女は身を顫ふるはせて詈ののしるとともに、念入おもひいりて呪のろふが如き血相を作なせり。
 不知しらず、この恨み、詈ののしり、呪はるる者は、何処いづくの誰だれならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
 男は歯咬はがみしつつ苦しげに嗤笑ししようせり。
「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓いろの有る女が金で靡なびくか、靡かないか、些ちつとは考へながら遊ぶが可い。来りや不好いやな顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう憥うるさく附けつ廻しつして、了局しまひには人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能よく能くの芸無猿げいなしざるに出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産おきみやげに、那奴の額を打割ぶちわつて来たんでさね」
「ええ、どうして!」

「なあにね、貴方に別れたあの翌日あくるひから、延続のべつに来てゐやがつて、ちつとでも傍そばを離さないんぢやありませんか。這箇こつちは気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠わるしつこくて耐たまらないから、病気だと謂いつて内へ遁にげて来りや、直すぐに追懸おつかけて来て、附絡つきまとつてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁ちやんと渉わたりが付いてゐるんだから、阿母おつかさんは傍そばから『ちやほや』して、そりや貴方、真面目まじめぢや見ちやゐられないお手厚てあつさ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸わかせだ事の、ビイルを冷ひやせだ事のと、あの狭い内へ一個ひとりで幅を為しやがつて、なかなか動いごきさうにも為ないんぢやありませんか。 私は全で生捕いけどりに成つたやうなもので、出るには出られず、這箇こつちの事が有るから、さうしてゐる空そらは無し、あんな気の揉もめた事は有りはしない――本当ほんとにどうせうかと思つた。ええ、なあに、あんな奴は打抛出おつぽりだして措おいて、這箇こつちは掻巻かいまきを引被ひつかぶつて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤じれたくて耐らなくなつて来たから、不如いつそかまはず飛出して了はうかと、余程よつぽどさう念つたものの、丹子たんこの事も、ねえ、考へて見りや可哀かはいさうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼たよりに為てゐるものを、さぞや私の亡ない後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽ひかされて、色々話も有るものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけりやならない事も有るし為るので、到頭遅々ぐづぐづして出損でそこなつて了つたんです。
 さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付いてゐて、それでも不承々々に還かへつたのは可い。すると翌日あくるひは半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡りようけんを極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽きてゐるわ。それを追繰返おつくりかへし、引繰返ひつくりかへし、悪体交あくたいまじりには、散々聴せて、了局しまひは口返答したと云つて足蹴あしげにする。なあに、私は足蹴にされたつて、撲ぶたれたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇こつちだつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、もう一生懸命に稼かせいで、為るだけの事は丁ちやんと為てあるのに、何ぼ慾にきりが無いと謂つても、自分の言条いひじようばかり通さうとして、他ひとには些ちつとでも楽を為せない算段を為る。私だつて金属かねで出来た機械ぢやなし、さうさう駆使こきつかはれてお為にばかり成つてゐちや、這箇こつちの身が立ちはしない。
 別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓いろは堰せいて了ふし、旦那取だんなとりは為ろと云ふ。そんな不可いやな真似まねを為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!
 それぢや私も赫かつとして、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又那奴あいつが遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉つかまつて了つて、其処そこの場図ばつで迯にげるには迯られず、阿母おつかさんは得えたり賢かしこしなんでせう、一処に行け行けと聒やかましく言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へ拽ひつぱられて行つたとお思ひなさい。あの長尻ながちりだから、さあ又還らない、さうして何か所思おもはくでも有つたんでせうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて無闇むやみとお酒を強しひるんでさ。這箇こつちも鬱勃肚むしやくしやばらで、飲めも為ないのに幾多いくらでも引受けたんだけれど、酔ひさうにも為やしない。
 その内に漸々そろそろ又お極きまりの気障きざな話を始めやがつて、這箇こつちが柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆あきれた真似まねを為やがるから、性の付く程諤々つけつけさう言つて遣つたら、さあ自棄やけに成つて、それから毒吐どくつき出して、やあ店番の埃被ほこりかぶりだの、冷飯吃ひやめしくらひの雇人やとひにんがどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇こつちも思切つて随分な悪体あくたいを吐ついて遣つたわ、私は。 さうすると、了局しまひに那奴は何と言ふかと思ふと、幾許いくら七顛八倒じたばたしても金で縛しばつて置いた体だなんぞ、と利きいた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩くらんで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」
 聴ゐる狭山は小気味好こきみよしとばかりに頷うなづけり。
「それで那奴あいつは全然すつかり慍おこつて了つて、それからの騒擾さわぎでさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟えりを持つて引擦ひきずり仆たふされた。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全まるで夢中で、唯ただ那奴の憎らしいのが胸一杯に込上こみあげて、這畜生こんちくしようと思ふと、突如いきなり其処そこに在つたお皿を那奴の横面よこつつらへ叩付たたきつけて遣つた。丁度それが眉間みけんへ打着ぶつかつて血が淋漓だらだら流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙すきを見て、窃そつと飛出した事は飛出したけれど、別に往所ゆきどころも無いから、丹子の阿母おつかさんの処へ駈込かけこんだの。
 ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程よつぽど廻つてゐるんでせう。滊車きしやはもう出ず、気ばかりは急せくけれど、若箇道どつちみち間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些ちつと訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉くはしく言置いて遣りましたら――善い人ね、あの阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫ああ、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念おもつて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何いかに何でも余あんまり情無くて、私はどんなに泣きましたらう。
 それに、私をばあんなに頼たのみに為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎ゐなかへ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所ところを知せてくれ、初中終しよつちゆう旅を出行であるいてゐる体だから、直ぢきに御機嫌伺ごきげんうかがひに出ると、その事をあんなに懇々くれぐれも頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚びつくりして……きつと疾わづらひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛かはいし、あの阿母さんも怜いとしいし。吁ああ、吁!」
 歔欷すすりなきして彼は悶もだえつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更なほさら内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余あんまり遅々ぐづぐづしちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
 女は咽むせびて其処そこに泣伏しぬ。狭山は涙を連𥉌しばたたきて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
 憐あはれむべし、情極じようきはまりて彼等の相擁あひようするは、畢竟ひつきよう尽きせぬ哀歎なげきを抱いだくが如き者ならんをや。
(三)の二

 両箇ふたりは此方こなたにかつ泣きかつ語れる間、彼方あなたの一箇ひとりは徒然つれづれの柱に倚よりて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
 その待人の如何いかなる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに迨およびて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝あやしみの添はるのみなり。
 如何いかなればや、女の顔色も甚はなはだ勝すぐれず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若もし信まことなりとせば、彼は正まさしく彼女かのをんなゆゑに如何いかなる罪をも犯せるならんよ。その罪の故ゆゑに男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為せば、彼等は誠に相愛あひあいするの堅き者ならず哉や。
 知らず、彼等は何なにの故に相率あひひきゐてこの人目稀まれなる山中やまなかには来きたれる。その罪を逭のがれんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或あるひはその愛を全うせんが為か、明あきらかに彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊かくれあそびにあらずして、自おのづから穂に露あらはるるところ有り。さては何等なにらの密会ならん。
 貫一は彼を以もて女を偸ぬすみて奔はしる者ならずや、と先まづ推すいしつつ、尚なほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽たちまち一片の反映は閃きらめきて、朧おぼろにも彼の胸の黯くらきを照せり。
 彼はこの際熱海の旧夢を憶おもはざるを得ざりしなり。
 世上貫一の外ほかに愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾うべなはずして、僅わづかに一瞥べつの富の前に、百年の契を蹂躙ふみにじりて吝をしまざりき。噫ああ我が当時の恨、彼が今日こんにちの悔! 今彼女かのをんなは日夜に栄の衒てらひ、利の誘いざなふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容いれざる愛に随したがつて奔らんと為るか。
 爾思しかおもへる後の彼は、陰ひそかにかの両個ふたりの先に疑ひし如き可忌いまはしき罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷いのるばかりに冀こひねがへり。若しさもあらば、彼は具つぶさに彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念おもひぬ。
 心永く痍きずつきて恋に敗れたる貫一は、殊更ことさらに他の成敗に就いて観みるを欲せるなり。彼は己おのれの不幸の幾許いかばかり不幸に、人の幸さちの幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁えにしの幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交かはせる情なさけの幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍さまたげの幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼ああ、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終つひに如何いかならんかを想ひて。
 昼間の程は勗つとめて籠こもりゐしかの両個ふたりの、夜に入りて後打連うちつれて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益ますます人目を避さくるならんよと念おもへり。 還り来きて多時しばらく酒など酌交くみかはす様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈ともしのみいと瞭さやかに、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟つひに酔ゑひを成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
 為なす事もあらねば、貫一は疾とく臥内ふしどに入りけるが、僅わづかに眊まどろむと為れば直ぢきに、寤さめて、そのままに睡ねむりは失うするとともに、様々の事思ひゐたり。
 夜の静なるを動かして、かの男女なんによの細語ひそめきは洩もれ来きぬ。甚はなはだ幺微かすかなれば聞知るべくもあらねど、娓々びびとして絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩みみわづらはしかり。
 さなきだに寝難いねがたかりし貫一は、益す気の澄み、心の冱さえ行くに任せて、又徒いたづらにとやかくと、彼等の身上みのうへを推測おしはかり推測り思回おもひめぐらすの外はあらず。彼方あなたもその幺微かすかなる声に語り語りて休やまざるは、思の丈たけの短夜たんやに余らんとするなるか。
 乍たちまち有りて、迸ほとばしれるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然がくぜんとして枕を欹そばだてつ。女は遽にはかに泣出なきいだせるなり。
 その時男の声音こわねは全く聞えずして、唯独ひとり女の縦ほしいままに泣音なくねを洩もらすのみなる。寤めたる貫一は弥いやが上に寤めて、自ら故ゆゑを知らざる胸を轟とどろかせり。
 少焉しばし泣きたりし女の声は漸やうやく鎮りて、又湿しめり勝がちにも語り初そめしが、一たび情じようの為に激せし声音は、自おのづから始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却かへりて前さきよりも仄ほのかなり。
 貫一は咳しはぶきも遣らで耳を澄せり。
 或あるひは時に断ゆれども、又続つぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕かひこの糸を吐きて倦うまざらんやうに、限も知らず長く亘わたりぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日あすも明後日あさつても有るを、甚はなはだ忙せはしくも語るもの哉かな。さばかり間遠まどほなりし逢瀬あふせなるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊あきたらぬ恋中こひなかか、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔こんじやくに感無き能はず、枕を引入れ、夜着よぎ引被ひきかつぎて、寐返ねがへりたり。
 何時罷いつやみしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
 貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤はやかりけれど、目覚めしままに起出おきいでし朝冷あさびえを、走り行きて推啓おしあけつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼まなこを驚おどろかして、かの男女なんによは浴ゆあみしゐたり。 貫一ははたと閉とざして急ぎ返りつ。

第四章

 両箇ふたりはやや熱かりしその日も垂籠たれこめて夕ゆふべに抵いたりぬ。むづかしげに暮山ぼさんを繞めぐりし雲は、果して雨と成りて、冷々ひやひやと密下そぼふるほどに、宵の燈火ともしびも影更ふけて、壁に映うつろふ物の形皆寂く、憖なまじひに起きて在るべき夜頃よごろならず。さては貫一も枕まくらに就きたり。
 ラムプを細めたる彼等の座敷も甚はなはだ静に、宿の者さへ寐急ねいそぎて後十一時は鳴りぬ。
 凄すさまじき谷川の響に紛れつつ、小歇をやみもせざる雨の音の中に、かの病憊やみつかれたるやうの柱時計は、息も絶気たゆげに半夜を告げわたる時、両箇ふたりが閨ねやの燈ともしは乍たちまち明あきらかに耀かがやけるなり。
 彼等は倶ともに起出でて火鉢ひばちの前に在り。
「膳ぜんを持つて来ないか」
「ええ」
 女は幺微かすかなる声して答へけれど、打萎うちしをれて、なかなか立ちも遣やらず。
「狭山さん、私わたしは何だか貴方あなたに言残した事が未まだ有るやうな心持がして……」
「吁ああ、もうかう成つちやお互に何も言はないが可いい。言へばやつぱり未練が出る」
 彼は熟じと内向うつむきて、目を閉ぢたり。
「貴方、その指環を私のと取替事とりかへつこして下さいね」
「さうか」
 各おのおのその手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、擐さし了をはりてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
 颯さと鳴りて雨は一時ひとしきり繁しげく灑そそぎ来きたれり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好すきだつたから、きつとそれで……暇いとま……乞ごひに降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴さかなに……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
 お静も今は心を励して、宵の程誂あつらへ置きし酒肴しゆこうの床間とこのまに上げたるを持来もてきて、両箇ふたりが中に膳を据れば、男は手早く燗かんして、その間まに各おのおの服を更あらたむる忙せはしさは、忽たちまち衣きぬの擦すり、帯の鳴る音高く綷※さやさやと乱れ合ひて、転うたた雨濃こまやかなる深夜を驚おどろかせり。
「ええ、もう好すかない!」
 帯緊おびしめながら女はその端はしを振りて身悶みもだえせるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結むすばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈といて下さい、よう」
「何か吉いい事が有るのだ」
「私はもしも遣損やりそこなつて、耻はぢでも曝さらすやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐たまらなかつたんだから、これでもう可いわ」「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺おれはきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
 つと俯ふしたるお静は、男の膝を咬かみて泣きぬ。
「その代り、偶ひよつとしてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂たましひはおまへの陰身かげみを離れないから、必ず心変こころがはりを……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃いつぱい飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏あすこへ行つて飲まう」
 男は先づ起ちて、女の手を把とれば、女はその手に縋すがりつつ、泣く泣く火鉢の傍そばに座を移しても、なほ離難はなれがたなに寄添ひゐたり。
「猪口ちよくでなしに、その湯呑ゆのみに為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
 熱燗あつがんの酒は烈々れつれつと薫くんじて、お静が顫ふるふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
 女の最も悲かりしは、げにこの刹那せつなの思なり。彼は人の為に酒を佐たすくるに嫻ならひし手も、などや今宵の恋の命も、儚はかなき夢か、うたかたの水盃みづさかづきのみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄うたにも似たる身の上哉かなと、漫そぞろに逼せまる胸の内、何に譬たとへん方かたもあらず。
 男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時しばし手にせるままに眺ながめゐれば、よし今は憂くも苦くも、久ひさしく住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅わづかに一盃いつぱいの酒に対するも、又哀別離苦あいべつりくの感無き能はざるなり。
 念おもへ、彼等の逢初あひそめし夕ゆふべ、互に意こころ有りて銜ふくみしもこの酒ならずや。更に両個ふたりの影に伴ひて、人の情なさけの必ず濃こまやかなれば、必ず芳かうばしかりしもこの酒ならずや。その恋中の楽たのしみを添へて、三歳みとせの憂うさを霽はらせしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉よき事積りし後の凶の凶なる今夜の末期まつごに酬むくゆるの、可哀あはれに余り、可悲かなしきに過すぐるを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々ほろほろと散りて零こぼれぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情ふぜいで死んで了ふのが……悔くやしい、私は!」
 聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半なかばを呷あふりて、
「さあ、お静」
 女は何気無く受けながら、思へば、別の盃さかづきかと、手に取るからに胸潰むねつぶれて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者ふつつかものの我儘者わがままものを、能くも愛相あいそを尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。
 私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有ありがたいと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母おつかさんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当ほんとに可恥はづかしいほど行届かないだらけで、これぢや余あんまり済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽たのしみに、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水み……水み……水みづの……泡。 つい心易立こころやすだてから、浸々しみじみお礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
 男は身をも搾しぼらるるばかりに怺こらへかねたる涙を出いだせり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路よみぢの障さはりだ。両箇ふたりが一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」
 涙諸共もろとも飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
 注つげば又呷あふりて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把とりて、顔見合せて、抱緊だきしめて、惜めばいよいよ尽せぬ名残なごりを、いかにせばやと思惑おもひまどへる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
 男は抱いだける女の耳のあたかも唇くちびるに触るる時、現うつつともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
「不如いつそもう早く」
 狭山は直ぢきに枕の下なる袱紗包ふくさづつみの紙入かみいれを取上げて、内より出いだせる一包いつぽうの粉剤こそ、正まさに両個ふたりが絶命の刃やいばに易かふる者なりけれ。
 女は二つの茶碗ちやわんを置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披ひらきて、男の手よりその内に頒わかたれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
 雨はこの時漸く霽はれて、軒の玉水絶々たえだえに、怪禽かいきん鳴過なきすぐる者両三声さんせいにして、跡松風の音颯々さつさつたり。
 狭山はやがて銚子ちようしを取りて、一箇ひとつの茶碗に酒を澆そそげば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音しのびねに、
「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」
 代りて酌する彼の想は、吾手わがて男の胸元むなもとに刺違さしちがふる鋩きつさきを押当つるにも似たる苦しさに、自おのづから洩出もれいづる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏、南無なむ……阿弥陀あみだ……南無阿弥なむあみ……陀だ……仏ぶつ、南無なむ……」
 と両個ふたりは心も消入らんとする時、俄にはかに屋鳴やなり震動しんどうして、百雷一処に堕おちたる響に、男は顛たふれ、女は叫びて、前後不覚の夢か現うつつの人影は、乍たちまち顕あらはれて燈火ともしびの前に在り。
「貴方あなた方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
 男は漸く我に復かへりて、惧おぢ愕おどろける目を瞪みひらき、
「ああ! 貴方あなたは」
「お見覚みおぼえありませう、あれに居る泊客とまりきやくです。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚はなはだ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
 悄然しようぜんとして面おもてを挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個ふたりの姿を眗みまはしつつ、彼の答を待てり。「勿論もちろんこれには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入こみいつたお話は承うけたまはらんでも宜よろしい、但何故ただなにゆゑに貴下方は活いきてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
 男は甚はなはだ微かすかに頷うなづきつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故なにゆゑに添れんのです」
 彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私わたくしの力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手あひてにも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤ごもつともだ、他人の私わたしでさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止とどめ申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯かいしやくもして上げます。
 私わたくしもこの間に入つた以上は、空むなしく手を退ひく訳には行かんのです。貴下方を拯すくふ事が出来るか、出来んか、那一箇どつちかです。幸さいはひに拯すくふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡ない人。この世に亡い人なら、如何いかなる秘密をここで打明けたところが、一向差支無さしつかへなからうと私は思ふ。若もし命の親とすればです、猶更なおさらその者に裹つつみ隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落しやれに貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然ちやんと聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」

第五章

 貫一は気を厳粛おごそかにして逼せまれるなり。さては男も是非無げに声出いだすべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有ありがたう存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹つつみなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町こうじまちの者で、間はざま貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々よくよくこれは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為ふために成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個ふたりの命を拯すくふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝かたじけない」
 彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶おそる狭山は先まづその姿を偸見ぬすみみて、
「何からお話し申して宜よろしいやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰おつしやる――! 何為なぜ添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣つかひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人持もちですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町みなみてんまちようの幸菱こうびしと申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔さやまもとすけと申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋かしわやの愛子と申しまする」
 名宣なのられし女は、消えも遣やらでゐたりし人陰の闇くらきより僅わづかに躙にじり出でて、面伏おもぶせにも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
「然るところ、昨今これに身請みうけの客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負ひきおひの為に、主人から告訴致されまして、活いきてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何いかにとも致方いたしかたが御座いませんゆゑ、無分別むふんべつとは知りつつも、つい突迫つきつめまして、面目次第も御座いません」 彼等はその無分別を慙はぢたりとよりは、この死失しにぞこなひし見苦しさを、天にも地にも曝さらしかねて、俯ふしも仰ぎも得ざる項うなじを竦すくめ、尚なほも為ん方無さの目を閉ぢたり。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消つかひこみだつて、その金額を弁償して、宜よろしく御主人に詑わびたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方こつちでも請出すまでの事。さうして、貴方の引負ひきおひは若干いくらばかりの額たかに成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
 狭山は女を顧みて、二言三言ふたことみこと小声に語合かたらひたりしが、
「何やかやで八百円ぐらゐは要いりますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
 打算し来きたれば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾ころがつてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番ひとつ悉くはしくお話し下さらんか」
 かかる際きはには如何ばかり嬉き人の言ことばならんよ。彼はその偽いつはりと真まこととを思ふに遑いとまあらずして、遣る方も無き憂身うきみの憂きを、冀こひねがはくば跡も留めず語りて竭つくさんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇いさみを作なして、
「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊ことに痴情の果に箇様かような不始末ぶしまつを為出しだしました、何なにともはや申しやうも無い爛死蛇やくざものに、段々と御深切のお心遣こころづかひ、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
 折角の御言おことばで御座いますから、思召おぼしめしに甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。
 実は、只今申上げました三千円の費消つかひこみと申しますのは、究竟つまり遊蕩あそびを致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利ききましたので、それが病付やみつきに成つて、段々と無理を致しまして、長い間に懵々うかうか穴を開けましたのが、積り積つて大分だいぶんに成りましたので御座います。
 然しかるところ、もう八方塞ふさがつて遣繰やりくりは付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛くるしまぎれに相場に手を出したのが怪我けがの元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈いよいよ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂しにものぐるひで、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒おひたふされて了ひまして、三千円と申上げました費消つかひこみも、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
 然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来これまでの勤労つとめに免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度たびの事は格別を以つて赦ゆるし難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」
「成程⁈」
「と申すのには、少し又仔細しさいが御座いますので。それは、主人の家内の姪めひに当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻めあはせやうと云ふ意衷つもりで、前々ぜんぜんからその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延いひのばして御座いましたのを、決然いよいよどうかと云ふ手詰てづめの談はなしに相成あひなりましたので。究竟つまり、費消つかひこみは赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」「大きに」
「其処そこには又千百いろいろ事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞ことわるにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘わがままを申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
「そこへ持つて参つて、此度こんどの不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全まるで仇かたきをば恩で返してくれますやうな、申分まをしぶんの無い主人の所計はからひ。それを乖もどきましては、私は罰ばちが中あたりますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何いかにともその気に成れませんので、已やむを得ず縁談の事は拒絶ことわりを申しましたので御座います」
「うむ、成程」
「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘わがままを言ふのなら、費消つかひこみを償まとへ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵きずが附く事だから、思反おもひかへして主人の指図さしずに従へと、中に人まで入れて、未まだ未だ申してくれましたのを、何処どこまでも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁ああ! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置かきおきも致しましたやうな次第で、既に覚悟を極きはめました際きはまで、心懸こころがかりと申すのは、唯そればかりなので御座いました。
 で又その最中にこれの方の身請騒みうけさわぎが起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉くはしく申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱かかへも同様の取扱とりあつかひを致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼かせげるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡りようけんで、長い間無理な勤を為させまして、散々に搾しぼり取つたので御座います。
 で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒やかましく言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷したやに富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え⁉ 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山唯継ただつぐと云ふ……」
「富山? 唯継!」
 その面色、その声音こわね! 彼は言下ごんかに皷怒こどして、その名に躍をどり被かからんとする勢いきほひを示せば、愛子は駭おどろき、狭山は懼おそれて、何事とも知らず狼狽うろたへたり。貫一は轟く胸を推鎮おししづめても、なほ眼色まなざしの燃ゆるが如きを、両個ふたりが顔に忙せはしく注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
 狭山の打惑うちまどふ傍そばに、女は密ひそかに驚く声を放てり。
「那奴あいつが身請の?」
 問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退ひかされるのを嫌きらつたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那だんなに取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
 女は聞くも穢けがらはしと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣しりめづかひして、「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然まるつきり無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
 狭山は俯うつむきゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤つとめを為てをつても、外の客には出ずに、この人一個ひとりを守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所よその身請を辞ことわつて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
 倐忽たちまちに瞳ひとみを凝こらせる貫一は、愛子の面おもてを熟視して止やまざりしが、やがてその眼まなこの中に浮びて、輝くと見れば霑うるほひて出づるものあり。
「嗚呼ああ……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
 何の故ゆゑとも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個ふたりは空むなしく呆あきるるのみ。
 貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦いつひつぷも、知らず誰たれか爾なんぢに教へて、死に抵いたるまで尚なほこの頼より難がたき義に頼より、守り難かたき節を守りて、終つひに奪はれざる者あるに泣けるなり。
 其の泣く所以ゆゑんなるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇たふとく優くも、高く麗うるはしくも、又は、完まつたくも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度ひとたびは目前まのあたり睹みるを得て、その倒懸の苦を寛ゆるうせん、と心爇やくが如く望みたりしを、今却りて浮萍うきくさの底に沈める泥中の光に値あへる卒爾そつじの歓極よろこびきはまれればなり。
「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日こんにちのこの軽薄極きはまつた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事ひとごととは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」

 かく言ひて、貫一は忙々いそがはしく鼻洟はな打擤うちかみつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
「来る度たびに何のかのと申しますのを、体好ていよく辞ことわるんで御座いますけれど、もう憥うるさく来ちや、一頻ひとつきりなんぞは毎日揚詰あげづめに為れるんで、私はふつふつ不好いやなんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独ひとりで利巧ぶつて、可恐おつそろしい意気がりで、二言目ふたことめには金々と、金の事さへ言へば人は難有ありがたがるものかと思つて、俺がかうと思おもや千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆みんなが『御威光』と云ふ仇名あだなを附けて了つて、何処へ行つたつて気障きざがられてゐる事は、そりや太甚ひどいんで御座います」
「ああ、さうですか」
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可いけもしない事を不相変あひかはらず執煩しつくどく、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇こつちも剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局しまひには手を易かへて、内のお袋へ親談ぢかだんをして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸はしの上下あげおろしには言れますし、狭山と切れろ切れろの聒やかましく成りましたのも、それからなので、私は辛つらさは辛し、熟つくづくこんな家業は為る者ぢやないと、何なんにも解らずに面白可笑おもしろをかしく暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余あんまりつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱ふさぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直すぐに身請と云ふのですか」
「さうなので」
「変な奴な! さう云ふ身請の為方しかたが、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
「さうでせう。それで、身請をして他ほかへ囲かこつて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉うれしがらせを言つちやをりましたけれど」
 眉まゆを昂あげたる貫一、なぞ彼の心の裏うちに震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気くちぶりなんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信あてにはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余あんまり内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」
「ははあ」
 彼は遽にはかに何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」
 宮の悔、宮の恨、宮の歎なげき、宮の悲かなしみ、宮の苦くるしみ、宮の愁うれひ、宮が心の疾やまひ、宮が身の不幸、噫ああ、竟つひにこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将はたこの憐あはれむに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
 貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許いかばかり幸さいはひにかつ愚ならざるかを思ひて、又躬みづからの、先には己おのれの愛する者を拯すくふ能はずして、今却かへりて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許いかばかり幸さち無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。
 時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
「そんな捫懌もんちやく最中に、狭山さんの方が騒擾さわぎに成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚びつくらして了つて、唯もう途方に昧くれて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直すぐにさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如いつそ富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈ましだと、初中終しよつちゆう言つてをりますんですから、あんな奴に身を委まかせるの、不好いやは知れてゐます」
「うむ、さうとも」
「さうなんですけれど金ゆゑで両個ふたりが今死ぬのも余あんまり悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏あつちへ行つたつて、直ぢきに迯にげて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少すこしの間ま不好いやな夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈ましだらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取かたりだ……」
「それは詐取かたりだ! さうとも」
 あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳のべぬ。
「詐取かたりで御座いますとも! 情婦をんなを種に詐取を致すよりは、費消つかひこみの方が罪は夐はるかに軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私わたくしは決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委まかせるとは、如何いかなる事にも、余あんまり意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被かぶつてゐる効かひが御座りませんです。私は金に窮つまつて心中なんぞを為た、と人に嗤わらわれましても、情婦をんなの体を売つたお陰で、やうやう那奴あいつ等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好いやで御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個ふたりの命ぐらゐ助ける方は外に幾多いくらも御座いますので。 ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟つまり私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇ひとり残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
 貫一は宛然さながら我が宮の情急じようきゆうに、誠壮まことさかんに、凛りんたるその一念の言ことばを、かの当時に聴くらん想して、独ひとり自ら胸中の躍々として痛快に堪たへざる者あるなり。
 正にこれ、垠はてしも知らぬ失恋の沙漠さばくは、濛々もうもうたる眼前に、麗うるはしき一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚はなはだ饒ゆたかに、甚だ明あきらかに浮びたりと謂はざらん哉や。
 彼は幾ほとんどこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃しばらくも破除はじよするの間いとまを得つ。信まことに得難かりしこの間いとまこそ、彼が宮を失ひし以来、唯ただこれに易かへて望みに望みたりし者ならずと為せんや。
 嗚呼ああ麗うるはしきミレエジ!
 貫一が久渇きゆうかつの心は激く動うごかされぬ。彼は声さへやや震ひて、
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇ひとりの男を熟じつと守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来これから花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴あつぱれなもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
 貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則すなはち貴下方夫婦の宝なのです!
 今後とも、貴方は狭山さんの為には何日いつでも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
 千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念おもつた以上は、勿論もちろんその人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利しやりに成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若もし好いた、惚ほれたと云ふのは上辺うはべばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇こつちは一心に成つて思窮おもひつめてゐる者を、いつか寝返ねがへりを打れて、突放されるやうな目に遭あつたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
 彼の声音こわねは益す震へり。
「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾いたづらな色恋は、為た者の不仕合ふしあはせ、棄てた者も、棄てられた者も、互に好いい事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹みてゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
 それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身はだみに附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎いつも今夜のやうなこの心を持つて、睦むつまじく暮して下さい、私はそれが見たいのです!
 今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」
 聞訖ききをはりし両個ふたりが胸の中は、諸共もろともに潮うしほの如きものに襲はれぬ。
 未まだ服さざりし毒の俄にはかに変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕おどろかれ、愕くとよりは打惑うちまどはれ、惑ふとよりは怪あやしまれて、鬼か、神か、人ならば、如何いかなる人かと、彼等は覚えず貫一の面おもてを見据ゑて、更にその目を窃ひそかに合せつ。 四辺あたりも震ふばかりに八声やこゑの鶏とりは高く唱うたへり。
 夜すがら両個ふたりの運星蔽おほひし常闇とこやみの雲も晴れんとすらん、隠約ほのぼのと隙洩すきもる曙あけぼのの影は、玉の緒を長く座に入りて、光薄るる燈火ともしびの下もとに並べるままの茶碗の一箇ひとつに、小ちひさき蛾が有りて、落ちて浮べり。



新続金色夜叉



第一章

 生れてより神仏かみほとけを頼み候事さふらふこととては一度も無御座候ござなくさふらへども、此度このたびばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命わがいのちを縮め候代さふらふかはりに、必ず此文は御目おんめに触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸さいはひに此の一念通じ候て、ともかくも御披おんひらかせ被下候くだされさふらはば、此身は直ぐ相果あひはて候とも、つゆ憾うらみには不存申候ぞんじまをさずさふらふ。元より御憎悪強おんにくしみつよき私わたくしには候さふらへども、何卒なにとぞ是これは前非を悔いて自害いたし候一箇ひとりの愍あはれなる女の、御前様おんまへさまを見懸みかけての遺言ゆいごんとも思召おぼしめし、せめて一通ひととほり御判読ごはんどく被下候くだされさふらはば、未来までの御情おんなさけと、何より嬉うれしう嬉う存上ぞんじあげまゐらせ候。
 扨さてとや、先頃に久々とも何とも、御生別おんいきわかれとのみ朝夕あさゆふに諦あきらめ居をり候御顔おんかほを拝し、飛立つばかりの御懐おんなつかしさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦こころぐるしき御目おんめもじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効さふらふかひも無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折ただそのをりの形見には、涙の隙ひまに拝しまゐらせ候御姿おんすがたのみ、今に目に附き候て旦暮あけくれ忘わすれやらず、あらぬ人の顔までも御前様おんまへさまのやうに見え候て、此頃は心も空に泣暮し居りまゐらせ候。
 久ひさしう御目おんめもじ致さず候中さふらふうちに、別の人のやうに総すべて御変おんかはり被成なされ候も、私わたくしには何なにとやら悲く、又殊ことに御顔の羸やつれ、御血色の悪さも一方ひとかたならず被為居候ゐらせられさふらふは、如何いかなる御疾おんわづらひに候や、御見上おんみあげ申すも心細く存ぜられ候へば、折角御養生被遊あそばされ、何は措おきても御身は大切に御厭おんいとひ被成候なされさふらふやう、くれぐれも念じ上あげ候。それのみ心に懸り候余さふらふあまり、悲き夢などをも見続け候へば、一入ひとしほ御案おんあんじ申上まゐらせ候。 私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを顧かへりみず、先頃推おして御許おんもとまで参さんし候胸の内は、なかなか御目もじの上の辞ことばにも尽し難がたくと存候ぞんじさふらへば、まして廻らぬ筆には故わざと何も記しるし申さず候まま、何卒なにとぞ々々宜よろしく御汲分おんくみわけ被下度候くだされたくさふらふ。さやうに候へば、其節そのせつの御腹立おんはらだちも、罪ある身には元より覚悟の前とは申しながら、余あまりとや本意無ほいなき御別おんわかれに、いとど思は愈まさり候さふらふて、帰りて後は頭痛つむりいたみ、胸裂むねさくるやうにて、夜の目も合はず、明る日よりは一層心地悪あしく相成あひなり、物を見れば唯涙ただなみだこぼれ、何事とも無きに胸塞むねふさがり、ふとすれば思迫おもひつめたる気に相成候て、夜昼と無く劇はげしく悩み候ほどに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、午過ひるすぎより蓐とこに就き候まま、今日まで懕々ぶらぶら致候いたしさふらふて、唯々懐なつかしき御方おんかたの事のみ思続おもひつづけ候さふらふては、みづからの儚はかなき儚き身の上を慨なげき、胸は愈いよいよ痛み、目は見苦みぐるしく腫起はれあがり候て、今日は昨日きのふより痩衰やせおとろへ申候まをしさふらふ。
 かやうに思迫おもひつめ候気さふらふきにも相成候上あひなりさふらふうへに、日毎に闇やみの奥に引入れられ候やうに段々心弱り候へば、疑うたがひも無く信心の誠顕まことあらはれ候て、此の蓐とこに就つき候が元にて、はや永からぬ吾身とも存候ぞんじさふらふまま、何卒なにとぞこれまでの思出には、たとひ命ある内こそ如何いかやうの御恨おんうらみは受け候とも、今はの際きはには御前様おんまへさまの御膝おんひざの上にて心安く息引取いきひきとり度たくと存候へども、それは愜かなはぬ罪深き身に候上は、もはや再び懐なつかしき懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無くて、此儘このまま相果て候事かと、諦あきらめ候より外無く存じながら、とてもとても諦めかね候苦しさの程は、此心このこころの外に知るものも、喩たとふるものも無御座候ござなくさふらふ。是これのみは御憎悪おんにくしみの中にも少すこしは不愍ふびんと思召おぼしめし被下度くだされたく、かやうに認したため居をり候内さふらふうちにも、涙こぼれ候て致方無いたしかたなく、覚えず麁相そそういたし候て、かやうに紙を汚よごし申候。御容おんゆるし被下度候くだされたくさふらふ。
 さ候へば私事わたくしこと如何いかに自ら作りし罪の報むくいとは申ながら、かくまで散々の責苦せめくを受け、かくまで十分に懺悔致ざんげいたし、此上は唯死ぬるばかりの身の可哀あはれを、つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり空むなしく相成候が、余あまりに口惜くちをしく存候故ぞんじさふらふゆゑ、一生に一度の神仏かみほとけにも縋すがり候て、此文には私一念を巻込め、御許おんもとに差出さしいだしまゐらせ候。 返す返すも悔くやしき熱海の御別おんわかれの後の思、又いつぞや田鶴見たずみ子爵の邸内にて図らぬ御見致候ごけんいたしさふらふ而来このかたの胸の内、其後そののち途中とちゆうにて御変おんかはり被成候なされさふらふ荒尾様あらをさまに御目おんめに懸り、しみじみ御物語おんものがたり致候事いたしさふらふことなど、先達而中せんだつてじゆう冗くどうも冗うも差上申候さしあげまをしさふらふ。毎度の文にて細こまかに申上候へども、一通の御披おんひらかせも無之これなきやうに仰せられ候へば、何事も御存無ごぞんじなきかと、誠に御恨おんうらめしう存上候ぞんじあげさふらふ。百度千度ももたびちたび繰返くりかへし候ても、是非に御耳に入れまゐらせ度存候たくぞんじさふらへども、今此の切なく思乱れ居をり候折さふらふをりから、又仮初かりそめにも此上に味気無あぢきなき昔を偲び候事は堪難たへがたく候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。
 何卒なにとぞ余所よそながらも承うけたまはり度たく存上候ぞんじあげさふらふは、長々御信おんたよりも無く居らせられ候御前様おんまへさまの是迄これまで如何いかに御過おんすごし被遊候あそばされさふらふや、さぞかし暴あらき憂世うきよの波に一方ひとかたならぬ御艱難ごかんなんを遊あそばし候事と、思ふも可恐おそろしきやうに存上候ぞんじあげさふらふを、ようもようも御おんめでたう御障無おんさはりなう居らせられ、悲き中にも私の喜よろこびは是一つに御座候。
 御前様おんまへさまの数々御苦労被遊候間あそばされさふらふあひだに、私とても始終人知らぬ憂思うきおもひを重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、唯儚ただはかなき儚き月日を送りまゐらせ候。吾身わがみならぬ者は、如何いかなる人も皆みな可羨うらやましく、朝夕の雀鴉すずめからす、庭の木草に至る迄まで、それぞれに幸さいはひならぬは無御座ござなく、世の光に遠き囹圄ひとやに繋つながれ候悪人さふらふあくにんにても、罪ゆり候日さふらふひの楽たのしみは有之候これありさふらふものを、命有らん限は此の苦艱くげんを脱のがれ候事さふらふこと愜かなはぬ身の悲しさは、如何に致候いたしさふらはば宜よろしきやら、御推量被下度候くだされたくさふらふ。申すも異な事に候へども、抑そもそも始より我わたくし心には何とも思はぬ唯継ただつぐに候へば、夫婦の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、却かへつて憎き仇あだのやうなる思も致し、其傍そのそばに居り候も口惜くちをしく、倩つくづく疎うとみ果て候へば、三四年前ぜんよりは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の涜けがれも漸やうやく今は浄きよく相成、益ますます堅く心の操みさをを守り居りまゐらせ候。先頃荒尾様より御譴おんしかりも受け、さやうな心得は、始には御前様に不実の上、今又唯継に不貞なりと仰せられ候へども、其の始の不実を唯今思知り候ほどの愚おろかなる私が、何とて後の不貞やら何やら弁わきまへ申すべきや。愚なる者なればこそ人にも勾引かどはかされ候て、帰りたき空さへ見えぬ海山の果に泣倒れ居り候を、誰一箇たれひとりも愍あはれみて救はんとは思召し被下候くだされさふらはずや。御前様にも其の愚なる者を何とも思召おぼしめし被下候くだされさふらはずや。愚なる者の致せし過あやまちも、並々の人の過も、罪は同きものに御座候や、重きものに御座候や。 愚なる者の癖に人がましき事申上候やうにて、誠に御恥おんはづかしう存候ぞんじさふらへども、何とも何とも心得難こころえがたく存上候ぞんじあげさふらふは、御前様おんまへさま唯今ただいまの御身分に御座候ござさふらふ。天地は倒さかさまに相成候とも、御前様おんまへさまに限りてはと、今猶いまなほ私は疑ひ居り候ほど驚入おどろきいりまゐらせ候。世に生業なりはひも数多く候に、優き優き御心根にもふさはしからぬ然さやうの道に御入おんいり被成候なされさふらふまでに、世間は鬼々おにおにしく御前様おんまへさまを苦め申候まをしさふらふか。田鶴見様方たずみさまかたにて御姿おんすがたを拝し候後さふらふのち始はじめて御噂承おんうはさうけたまはり、私は幾日いくかも幾日も泣暮し申候。これには定て深き仔細しさいも御座候はんと存候へども、玉と成り、瓦かはらと成るも人の一生に候へば、何卒なにとぞ昔の御身に御立返おんたちかへり被遊あそばされ、私の焦れ居りまゐらせ候やうに、多くの人にも御慕おんしたはれ被遊候あそばされさふらふ御出世の程をば、偏ひとへに偏ひとへに願上ねがいあげまゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし居り候も少からぬを見るにつけ、何故なにゆゑ御前様おんまへさまには然さやうの善からぬ業わざを択よりに択りて、折角の人に優すぐれし御身を塵芥ちりあくたの中に御捨おんすて被遊候あそばされさふらふや、残念に残念に存上ぞんじあげまゐらせ候。
 愚なる私の心得違こころえちがひさへ無御座候ござなくさふらはば、始終しじゆう御側おんそばにも居り候事とて、さやうの思立おもひたちも御座候節ござさふらふせつに、屹度きつと御諌おんいさめ申候事も叶かなひ候ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御身までも世の廃すたり物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、今更御申訳おんまをしわけの致しやうも無之これなく、唯そら可恐おそろしさに消えも入度いりたく存ぞんじまゐらせ候。御免おんゆるし被下度くだされたく、御免し被下度くだされたく、御免し被下度候。
 私は何故なにゆゑ富山に縁付き申候や、其気そのきには相成申候や、又何故御前様の御辞おんことばには従ひ不申まをさず候や、唯今ただいまと相成候て考へ申候へば、覚めて悔くやしき夢の中のやうにて、全く一時の迷とも可申まをすべく、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。二つ有るものの善きを捨て、悪あしきを取り候て、好んで箇様かようの悲き身の上に相成候は、よくよく私に定り候運と、思出おもひいだし候ては諦あきらめ居り申候。
 其節御前様の御腹立おんはらだち一層強く、私をば一打ひとうちに御手に懸け被下候くだされさふらはば、なまじひに今の苦艱くげんは有之間敷これあるまじく、又さも無く候はば、いつそ御前様の手籠てごめにいづれの山奥へも御連れ被下候くだされさふらはば、今頃は如何なる幸さいはひを得候事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ考居かんがへをり申候。 嬉くも御赦おんゆるしを得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を眺ながめ、昔の哀かなしき御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ胸轟むねとどろき、書く手も震ひ申候。今も彼かの熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽たのしみを持ち候ものは一人も有之これあるまじく、其代そのかはりには又、私如わたくしごとき可憐あはれの跡を留め候て、其の一夜いちやを今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
 世をも身をも捨て居り候者にも、猶なほ肌身放はだみはなさず大事に致候宝は御座候。それは御遺置おんのこしおきの三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是これのみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事憶出おもひだし候中に、うつつとも無く十年前ぜんの心に返り候て、苦き胸も暫しばしは涼すずしく相成申候。最も所好すきなるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪いろさめ、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡なき後には棺の内に歛をさめもらひ候やう、母へは其それを遺言に致候覚悟に御座候。
 ある女世に比無たぐひなき錦にしきを所持いたし候処さふらふところ、夏の熱き盛さかりとて、差当さしあたり用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さず、其内に秋過ぎ、冬来ふゆきたり候て、一枚の曠着はれぎさへ無き身貧に相成候ほどに、いよいよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は何処いづこの人手に渡り候とも知れず、日頃それのみ苦に病み、慨なげき暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、彼かの錦をば華はなやかに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて散々さんざんひけらかし候上に、恥まで与へ候を、彼女かのをんなは其身の過あやまりと諦あきらめ候て、泣く泣く無念を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の繋かかり候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、憎くも、悔くやしくも、恨うらめしくも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。
 先達而せんだつては御許おんもとにて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。毎日のやうに御出おんいで被成候なされさふらふて、御前様の御世話おんせわ万事被遊候あそばされさふらふ御方おんかたの由よしに候へば、後にて御前様さぞさぞ御大抵ならず御迷惑被遊候あそばされさふらふ御事おんことと、山々御察おんさつし申上候へども、一向さやうに御内合おんうちあひとも存ぜず、不躾ぶしつけに参上いたし候段は幾重にも、御詫申上おんわびまをしあげまゐらせ候。
 尚なほ数々かずかず申上度まをしあげたく存候事ぞんじさふらふことは胸一杯にて、此胸の内には申上度事まをしあげたきことの外は何も無御座候ござなくさふらへば、書くとも書くとも尽き申間敷まをすまじく、殊ことに拙つたなき筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていくらも、大切の事をば書洩かきもらし候が思残おもひのこりに御座候。惜き惜き此筆止とどめかね候へども、いつの限無く手に致し居り候事も叶かなひ難がたく、折から四時の明近あけちかき油も尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや恋こひしき御名を認したため候て、これまでの御別おんわかれと致しまゐらせ候。 唯今ただいまの此の気分苦く、何とも難堪たへがたき様子にては、明日は今日よりも病重き事と存候ぞんじさふらふ。明後日は猶重くも相成可申あひなりまをすべく、さやうには候へども、筆取る事相叶あひかなひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ度たく存候ぞんじさふらへば、覚束無おぼつかなくも何なりとも相認あひしたため可申候まをすべくさふらふ。
 私事空むなしく相成候とも、決して余よの病にては無之これなく、御前様おんまへさま御事おんことを思死おもひじにに死候しにさふらふものと、何卒なにとぞ々々御愍おんあはれみ被下くだされ、其段そのだんはゆめゆめ詐いつはりにては無御座ござなく、みづから堅く信じ居候事に御座候。
 明日みようにちは御前様おんまへさま御誕生日ごたんじようびに当り申候へば、わざと陰膳かげぜんを供へ候て、私事も共に御祝おんいはひ可申上まをしあぐべく、嬉うれしきやうにも悲きやうにも存候。猶くれぐれも朝夕ちようせきの御自愛御大事に、幾久く御機嫌好ごきげんよう明日を御迎おんむかへ被遊あそばされ、ますます御繁栄に被為居候ゐらせられさふらふやう、今は世の望も、身の願も、それのみに御座候。
 まづはあらあらかしこ。

五月二十五日
おろかなる女ゟより
恋こひしき恋き
生別いきわかれの御方様おんかたさま
まゐる

第二章

 隣に養へる薔薇ばらの香かの烈はげしく薫くんじて、颯さと座に入いる風の、この読尽よみつくされし長き文ふみの上に落つると見れば、紙は冉々せんせんと舞延びて貫一の身を縈めぐり、猶なほも跳をどらんとするを、彼は徐しづかに敷据ゑて、その膝ひざに慵ものうげなる面杖つらづゑ拄つきたり。憎き女の文なんど見るも穢けがらはしと、前さきには皆焚棄やきすてたりし貫一の、如何いかにしてこたびばかりは終つひに打拆うちひらきけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその故ゆゑを譲せめて、自ら知らざるを愧はづるなりき。
 彼はやがて屈かがめし身を起ししが、又直ただちに重きに堪たへざらんやうの頭かしらを支へて、机に倚よれり。
 緑濃こまやかに生茂おひしげれる庭の木々の軽々ほのかなる燥気いきれと、近き辺あたりに有りと有る花の薫かをりとを打雑うちまぜたる夏の初の大気は、太はなはだ慢ゆるく動きて、その間に旁午ぼうごする玄鳥つばくらの声朗ほがらかに、幾度いくたびか返しては遂つひに往きける跡の垣穂かきほの、さらぬだに燃ゆるばかりなる満開の石榴ざくろに四時過の西日の夥おびただしく輝けるを、彼は煩わづらはしと目を移して更に梧桐ごどうの涼すずしき広葉を眺めたり。 文の主ぬしはかかれと祈るばかりに、命を捧げて神仏かみほとけをも驚かししと書けるにあらずや。貫一は又、自ら何の故ゆゑとも知らで、独ひとりこれのみ披ひらくべくもあらぬ者を披き見たるにあらずや。彼を絡まとへる文は猶解けで、巌いはほに浪なみの瀉そそぐが如く懸かかれり。
 そのままに専ひたと思入るのみなりし貫一も、漸やうやく悩なやましく覚えて身動みじろぐとともに、この文殻ふみがらの埓無らちなき様を見て、やや慌あわてたりげに左肩ひだりがたより垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片ひとひらを手繰たぐらんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累かさね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
 かかる間まも彼は自おのづと思に沈みて、その動す手も怠たゆく、裂きては一々読むかとも目を凝こらしつつ。やや有りて裂了さきをはりし後は、あだかも劇はげしき力作に労つかれたらんやうに、弱々よわよわと身を支へて、長き頂うなじを垂れたり。
 されど久ひさしきに勝たへずやありけん、卒にはかに起たんとして、かの文殻の委おきたるを取上げ、庭の日陰に歩出あゆみいでて、一歩に一ひとたび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞めぐりては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々すんずんに作なしけるを、又引捩ひきねぢりては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦くるしく、後様うしろさまに唯有とある冬青もちの樹に寄添へり。
 折から縁に出来いできたれる若き女は、結立ゆひたての円髷まるわげ涼しげに、襷掛たすきがけの惜くも見ゆる真白の濡手ぬれてを弾はじきつつ、座敷を覗のぞき、庭を窺うかがひ、人見付けたる会釈の笑ゑみをつと浮べて、
「旦那だんな様、お風呂が沸きましたが」
 この姿好く、心信こころまめやかなるお静こそ、僅わづかにも貫一がこの頃を慰むる一いつの唯一ただいつの者なりけれ。

(二)の二

 浴ゆあみすれば、下立おりたちて垢あかを流し、出づるを待ちて浴衣ゆかたを着せ、鏡を据すうるまで、お静は等閑なほざりならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業をんなわざの効無かひなくも、身に称かなはん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委ゆだぬるなり。されども、彼は別に奥の一間ひとまに己おのれの助くべき狭山さやまあるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主あるじにも負へるなり。如此かくのごとく孰いづれ疎おろそかならぬ主あるじと夫とを同時に有もてる忙せはしさは、盆と正月との併あはせ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未いまだ覚めやらぬ夢の中うちにて、その夢心地には、如何いかなる事も難かたしと為るに足らずと思へるならん。寔まことに彼はさも思へらんやうに勇いさみ、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面おもては為に謂いふばかり無く輝ける程に、常にも愈まして妖艶あでやかに見えぬ。 暫しばし浴後ゆあがりを涼みゐる貫一の側に、お静は習々そよそよと団扇うちはの風を送りゐたりしが、縁柱えんばしらに靠もたれて、物をも言はず労つかれたる彼の気色を左瞻右視とみかうみて、
「貴方あなた、大変にお顔色かほつきがお悪いぢや御座いませんか」
 貫一はこの言ことばに力をも得たらんやうに、萎なえ頽くづれたる身を始て揺ゆすりつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然はつきりせんねえ」
「惺然はつきりあそばせよ。麦酒ビイルでも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
「貴方そんな事を有仰おつしやらずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角私わたくしが冷ひやして置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて⁈」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
「狭山は、貴方、麦酒ビイルなんぞを戴いただける今の身分ぢや御座いませんです」
「そんなに堅く為せんでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」
 お静は些ちよと涙含なみだぐみし目を拭ぬぐひて、
「この上の気楽が有つて耐たまるものぢや御座いません」
「けれども有物あるものだから、所好すきなら飲んでもらはう。お前さんも克いくのだらう」
「はあ、私もお相手を致しますから、一盃いつぱい召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑なつみかんでも剥むきませう――林檎りんごも御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
「いや、お前さん独ひとりで」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」
「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好いやですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今ただいま直ぢきに持つて参りますから、其処そこにゐらつしやいまし」
 気軽に走り行きしが、程無く老婢ろうひと共に齎もたらせる品々を、見好げに献立して彼の前に陳ならぶれば、さすがに他の老婆子ろうばしが寂さびしき給仕に義務的吃飯きつぱんを強しひらるるの比にもあらず、やや難捨すてがたき心地もして、コップを取挙とりあぐれば、お静は慣れし手元に噴溢ふきこぼるるばかり酌して、
「さあ、呷ぐうとそれを召上れ」
 貫一はその半なかばを尽して、先まづ息いこへり。林檎を剥むきゐるお静は、手早く二片ふたひらばかり剡そぎて、
「はい、お肴さかなを」
「まあ、一盃上げやう」
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些ちつとお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽はれますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
「お倒れなすたつて宜よろしいぢや御座いませんか。本当に今日は不好いやな御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
 彼は覚えず薄笑うすわらひして、
「薬だつてさうは利きかんさ」
「どうあそばしたので御座います。何処どこぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
「へい、お酌。ああ、余あんまりお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余あんまり又――頂戴……ああ恐入ります」
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知みずしらずの、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体じつていの人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為せんね。それは如何いかなる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏あすこで逢あはなければ、何処どこの誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私わたくしがかうだとか、……や、不思議だ! どうか、まあ渝かはらず一生かうしてお附合つきあひを為たいと思ふ。けれども私は高利貸だ。世間から鬼か蛇じやのやうに謂いはれて、この上も無く擯斥ひんせきされてゐる高利貸だ。お前さん方もその高利貸の世話に成つてゐられるのは、余り栄みえでも無く、さぞ心苦く思つてゐられるだらう、と私は察してゐる。のみならず、人の生血を搾しぼつてまでも、非道な貨かねを殖こしらへるのが家業の高利貸が、縁も所因ゆかりも無い者に、設たとひ幾らでも、それほど大事の金をおいそれと出して、又体まで引取つて世話を為ると云ふには、何か可恐おそろしい下心でもあつて、それもやつぱり慾徳渾成ずくで恩を被きせるのだらうと、内心ぢやどんなにも無気味に思つてゐられる事だらう、とそれも私は察してゐる。 さあ、コップを空あけて、返して下さい」
「召上りますの?」
「飲む」
 酒気は稍やや彼の面おもてに上のぼれり。
「お静さんはどう思ふね」
「私わたくし共は固もとより命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで助たすかつてをりますので御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも遊あそばしてお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります」
「忝かたじけない。然し、私は天引三割の三月縛みつきしばりと云ふ躍利をどりを貸して、暴あらい稼かせぎを為てゐるのだから、何も人に恩などを被せて、それを種に銭儲かねまうけを為るやうな、廻り迂くどい事を為る必要は、まあ無いのだ。だから、どうぞ決けしてそんな懸念けねんは為て下さるな。又私の了簡では、元々些ほんの酔興で二人の世話を為るのだから、究竟つまりそちらの身さへ立つたら、それで私の念は届いたので、その念が届いたら、もう剰銭つりを貰もらはうとは思はんのだ。と言つたらば、情無い事には、私の家業が家業だから、鬼が念仏でも言ふやうに、お前さん方は愈いよいよ怪く思ふかも知れん――いや、きつとさう思つてゐられるには違無い。残念なものだ!」
 彼は長吁ちよううして、
「それも悪木あくぼくの蔭に居るからだ!」
「貴方、決けして私共がそんな事を夢にだつて思ひは致しません。けれども、そんなに有仰おつしやいますなら、何か私共の致しました事がお気に障さはりましたので御座いませう。かう云ふ何なんにも存じません粗才者ぞんざいものの事で御座いますから」
「いいや、……」
「いいえ、私は始終言はれてをります狭山に済みませんですから、どうぞ行届きませんところは」
「いいや、さう云ふ意味で言つたのではない。今のは私の愚痴だから、さう気に懸けてくれては甚はなはだ困る」
「ついにそんな事を有仰おつしやつた事の無い貴方が、今日に限つて今のやうに有仰ると、日頃私共に御不足がお有あんなすつて」
「いや、悪かつた、私が悪かつた。なかなか不足どころか、お前さん方が陰陽無かげひなたなく実に善く気を着けて、親身のやうに世話してくれるのを、私は何より嬉く思つてゐる。往日いつか話した通り、私は身寄も友達も無いと謂つて可いくらゐの独法師ひとりぼつちの体だから、気分が悪くても、誰たれ一人薬を飲めと言つてくれる者は無し、何かに就けてそれは心細いのだ。さう云ふ私に、鬱ふさいでゐるから酒でも飲めと、無理にも勧めてくれるその深切は、枯木に花が咲くやうな心持が、いえ、嘘うそでも何でも無い。さあ、嘘でない信しるしに一献差ひとつさすから、その積で受けてもらはう」
「はあ、是非戴かして下さいまし」
「ああ、もうこれには無い」
「無ければ嘘なので御座いませう」
「未まだ半打はんダースの上うへ有るから、あれを皆注いで了はう」
「可うございますね」
 貫一が老婢を喚ぶ時、お静は逸早いちはやく起ち行けり。

(二)の三

 話頭わとうは酒を更あらたむるとともに転じて、
「それはまあ考へて見れば、随分主人の面つらでも、友達の面でも、踏躙ふみにじつて、取る事に於ては見界みさかひなしの高利貸が、如何いかに虫の居所が善かつたからと云つて、人の難儀――には附込まうとも――それを見かねる風ぢやないのが、何であんな格がらにも無い気前を見せたのかと、これは不審を立てられるのが当然あたりまへだ。
 けれども、ねえ、いづれその訳が解る日も有らうし、又私といふ者が、どう云ふ人間であるかと云ふ事も、今に必ず解らうと思ふ。それが解りさへしたら、この上人の十人や二十人、私の有金の有たけは、助けやうが、恵まうが、少すこしも怪む事は無いのだ。かう云ふと何か酷ひどく偉がるやうで、聞辛ききづらいか知らんけれど、これは心易立こころやすだてに、全く奥底の無いところをお話するのだ。
 いやさう考込まれては困る。陰気に成つて可かんから、話はもう罷やめに為せう。さうしてもつと飲み給へ、さあ」
「いいえ、どうぞお話をお聞せなすつて下さいまし」「肴さかなに成るやうな話なら可いがね」
「始終狭山ともさう申してをるので御座いますけれど、旦那様は御病身と云ふ程でも無いやうにお身受申しますのに、いつもかう御元気ごげんきが無くて、お険むづかしいお顔面かほつきばかりなすつてゐらつしやるのは、どう云ふものかしらんと、陰ながら御心配申してをるので御座いますが」
「これでお前さん方が来てくれて、内が賑にぎやかに成つただけ、私も旧もとから見ると余程よつぽど元気には成つたのだ」
「でもそれより御元気がお有あんなさらなかつたら、まあどんなでせう」
「死んでゐるやうな者さ」
「どうあそばしたので御座いますね」
「やはり病気さ」
「どう云ふ御病気なので」
「鬱ふさぐのが病気で困るよ」
「どう為てさうお鬱ぎあそばすので御座います」
 貫一は自ら嘲あざけりて苦しげに哂わらへり。
「究竟つまり病気の所為せゐなのだね」
「ですからどう云ふ御病気なのですよ」
「どうも鬱ぐのだ」
「解らないぢや御座いませんか! 鬱ぐのが病気だと有仰おつしやるから、どう為てお鬱ぎ遊あそばすのですと申せば、病気で鬱ぐのだつて、それぢや何処どこまで行つたつて、同じ事ぢや御座いませんか」
「うむ、さうだ」
「うむ、さうだぢやありません、緊しつかりなさいましよ」
「ああ、もう酔つて来た」
「あれ、未だお酔ひに成つては可けません。お横に成ると御寐おやすみに成るから、お起きなすつてゐらつしやいまし。さあ、貴方」
 お静は寄よりて、彼の肘杖ひぢづゑに横よこたはれる背後うしろより扶起たすけおこせば、為せん無げに柱に倚よりて、女の方を見返りつつ、
「ここを富山唯継ただつぐに見せて遣りたい!」
「ああ、舎よして下さいまし! 名を聞いても慄然ぞつとするのですから」
「名を聞いても慄然ぞつとする? さう、大きにさうだ。けれど、又考へて見れば、あれに罪が有る訳でも無いのだから、さして憎むにも当らんのだ」
「ええ、些ほんの太好いけすかないばかりです!」
「それぢや余り差ちがはんぢやないか」
「あんな奴は那箇どつちだつて可いんでさ。第一活いきてゐるのが間違つてゐる位のものです。
 本当に世間には不好いやな奴ばかり多いのですけれど、貴方、どう云ふ者でせう。三千何百万とか、四千万とか、何でも太たいした人数ひとかずが居るのぢや御座いませんか、それならもう少し気の利きいた、肌合はだあひの好い、嬉うれしい人に撞見でつくはしさうなものだと思ひますのに、一向お目に懸りませんが、ねえ」
「さう、さう、さう!」
「さうして富山みたやうなあんな奴がまあ紛々然うじやうじやと居て、番狂ばんくるはせを為て行あるくのですから、それですから、一日だつて世の中が無事な日と云つちや有りは致しません。どうしたらあんなにも気障きざに、太好いけすかなく、厭味いやみたらしく生れ付くのでせう」
「おうおう、富山唯継散々だ」
「ああ。もうあんな奴の話をするのは馬鹿々々しいから、貴方、舎よしませうよ」
「それぢやかう云ふ話が有る」
「はあ」
「一体男と女とでは、だね、那箇どつちが情合が深い者だらうか」
「あら、何為なぜで御座います」
「まあ、何為なぜでも、お前さんはどう思ふ」
「それは、貴方、女の方がどんなに情が」
「深いと云ふのかね」
「はあ」
「信あてにならんね」
「へえ、信にならない証拠でも御座いますか」
「成程、お前さんは別かも知れんけれど」
「可よう御座いますよ!」
「いいえ、世間の女はさうでないやうだ。それと云ふが、女と云ふ者は、慮かんがへが浅いからして、どうしても気が移り易やすい、これから心が動く――不実を不実とも思はんやうな了簡も出るのだ」
「それはもう女は浅捗あさはかな者に極きまつてゐますけれど、気が移るの何のと云ふのは、やつぱり本当に惚ほれてゐないからです。心底から惚れてゐたら、些ちつとも気の移るところは無いぢや御座いませんか。善く女の一念と云ふ事を申しますけれど、思窮おもひつめますと、男よりは女の方が余計夢中に成つて了ひますとも」「大きにさう云ふ事は有る。然し、本当に惚れんのは、どうだらう、女が非わるいのか、それとも男の方が非いのか」
「大変難むづかしく成りましたのね。さうですね、それは那箇どつちかが非わるい事も有りませう。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは齢としに在るので御座いますね」
「はあ、齢に在ると云ふと?」
「私共わたくしどもの商買しようばいの者は善くさう申しますが、女の惚れるには、見惚みぼれに、気惚きぼれに、底惚そこぼれと、かう三様みとほり有つて、見惚と云ふと、些ちよいと見たところで惚込んで了ふので、これは十五六の赤襟あかえり盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可いのですから、全まるで酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から二十はたちそこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装なりの奇おつなのなんぞには余あんまり迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未まだ未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、究竟つまりお肚なかの中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も据すわり、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら洒落気しやれつきの奴でも、さうさう上調子うはちようしに遣つちやゐられるものぢやありません。其処そこは何と無く深厚しんみりとして来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い切掛きれかけ島田の中うちは』と云ふ唄うたの文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて心しんが一人前いちにんまへに成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難ですね」
 お静は一笑してコップを挙げぬ。貫一は連しきりに頷うなづきて、
「誠に面白かつた。見惚みぼれに気惚に底惚か。齢としに在ると云ふのは、これは大きにさうだ。齢に在る! 確に在るやうだ!」
「大相感心なすつてゐらつしやるぢや御座いませんか」
「大きに感心した」
「ぢやきつと胸に中あたる事がお有あんなさるので御座いますね」
「ははははははは。何為なぜ」
「でも感心あそばし方が凡ただで御座いませんもの」
「ははははははは。愈いよいよ面白い」
「あら、さうなので御座いますか」
「はははははは。さうなのとはどうなの?」
「まあ、さうなのですね」
 彼は故ことさらに瞪みはれる眼まなこを凝こらして、貫一の酔ゑひて赤く、笑ひて綻ほころべる面おもての上に、或者を索もとむらんやうに打矚うちまもれり。
「さうだつたらどうかね。はははははは」
「あら、それぢや愈いよいよさうなので御座いますか!」
「ははははははははは」
「可けませんよ、笑つてばかりゐらしつたつて」
「はははははは」

第三章

 惜くもなき命は有り候さふらふものにて、はや其それより七日なぬかに相成候あひなりさふらへども、猶なほ日毎ひごとに心地苦くるしく相成候やうに覚え候のみにて、今以つて此世このよを去らず候へば、未練の程の御おんつもらせも然さぞかしと、口惜くちをしくも御恥おんはづかしく存上参ぞんじあげまゐらせ候。御前様おんまへさまには追々おひおひ暑あつさに向ひ候へば、いつも夏まけにて御悩み被成候事なされさふらふこととて、此頃このごろは如何いかに御暮おんくらし被遊候あそばされさふらふやと、一入ひとしほ御案おんあんじ申上参まをしあげまゐらせ候。 私事わたくしこと人々の手前も有之候故これありさふらふゆゑ、儀しるしばかりに医者にも掛り候へども、もとより薬などは飲みも致さず、皆みな打捨うちすて申候まをしさふらふ。御存じの此疾このわづらひは決して書物の中には載せて在るまじく存候を、医者は訳無くヒステリイと申候。是もヒステリイと申候外は無きかは不存申候ぞんじまをさずさふらへども、自分には広き世間に比無たぐひなき病の外の病とも思居り候ものを、さやうに有触れたる名を附けられ候は、身に取りて誠に誠に無念に御座候。
 昼の中うちは頭重つむりおもく、胸閉ぢ、気疲劇きづかれはげしく、何を致候も大儀たいぎにて、別わけて人に会ひ候が憥うるさく、誰たれにも一切いつせつ口くちを利きき不申まをさず、唯独ただひとり引籠ひきこもり居り候て、空むなしく時の経たち候中さふらふうちに、此命このいのちの絶えず些ちとづつ弱り候て、最期さいごに近く相成候が自おのづから知れ候やうにも覚おぼえ申候まをしさふらふ。
 夜よに入いり候ては又気分変り、胸の内俄にはかに冱々さえざえと相成あひなり、なかなか眠ねぶり居り候空は無之これなく、かかる折に人は如何やうの事を考へ候ものと思召被成おぼしめしなされ候や、又其人私に候はば何と可有之候これあるべくさふらふや、今更申上候迄にも御座候はねば、何卒なにとぞ宜よろしく御判おんはんじ被遊度あそばされたく、夜一夜よひとよ其事のみ思続け候て、毎夜寝もせず明しまゐらせ候。
 さりながら、何程思続け候とても、水を覓もとめて逾いよいよ焔ほのほに燃やかれ候に等ひとしき苦艱くげんの募り候のみにて、いつ此責このせめを免のがるるともなく存ながらへ候さふらふは、孱弱かよわき女の身には余あまりに余に難忍しのびがたき事に御座候。猶々なほなほ此のやうの苦くるしき思を致候いたしさふらふて、惜むに足らぬ命の早く形付かたづき不申まをさざるやうにも候はば、いつそ自害致候てなりと、潔く相果て候が、逈はるかに愈ましと存付ぞんじつき候さふらへば、万一の場合には、然さやうの事にも可致いたすべくと、覚悟極めまゐらせ候。
 さまざまに諦あきらめ申候まをしさふらへども、此の一事は迚とても思絶ち難く候へば、私わたくし相果あひはて候迄さふらふまでには是非々々一度、如何に致候ても推おして御目おんめもじ相願ひ可申まをすべくと、此頃は唯其事ただそのことのみ一心に考居かんがへをり申候まをしさふらふ。昔より信仰厚き人達は、現うつつに神仏かみほとけの御姿おんすがたをも拝をがみ候やうに申候へば、私とても此の一念の力ならば、決して愜かなはぬ願にも無御座ござなくと存参ぞんじまゐらせ候。
(三)の二

 昨日さくじつは見舞がてらに本宅の御母様おんははさま参まゐられ候。是これは一つは唯継事ただつぐこと近頃不機嫌ふきげんにて、とかく内を外に遊びあるき居り候処さふらふところ、両三日前の新聞に善からぬ噂出うはさいで候より、心配の余あまり様子見に参られ候次第にて、其事に就き私へ懇々こんこんの意見にて、唯継の放蕩致候ほうとういたしさふらふは、畢竟ひつきよう内うちのおもしろからぬ故ゆゑと、日頃の事一々誰が告げ候にや、可恥はづかしき迄に皆知れ候て、此後は何分心を用ゐくれ候やうにと被申候まをされさふらふ。私事わたくしこと其節そのせつ一思ひとおもひに不法の事を申掛け、愛想あいそを尽され候やうに致し、離縁の沙汰さたにも相成候あひなりさふらはば、誠に此上無き幸さいはひと存付ぞんじつき候へども、此姑このしうとめと申候人まをしさふらふひとは、評判の心掛善き御方にて、殊ことに私をば娘のやうに思ひ、日頃ひごろの厚き情なさけは海山にも喩たとへ難きほどに候へば、なかなか辞ことばを返し候段にては無之これなく、心弱しとは思ひながら、涙の零こぼれ候ばかりにて、無拠よんどころなく身みの不束ふつつかをも詑わび申候まをしさふらふ次第に御座候。
 此命このいのち御前様おんまへさまに捨て候ものに無御座候ござなくさふらはば、外には此人の為に捨て可申まをすべくと存候ぞんじさふらふ。此の御方を母とし、御前様おんまへさまを夫と致候て暮し候事も相叶かなひ候はば、私は土間に寐いね、蓆むしろを絡まとひ候さふらふても、其楽そのたのしみは然さぞやと、常に及ばぬ事を恋こひしく思居りまゐらせ候。私事相果て候はば、他人にて真まことに悲みくれ候は、此世に此の御方一人おんかたひとりに御座あるべく、第一然さやうの人を欺き、然やうの情なさけを余所よそに致候いたしさふらふ私は、如何いかなる罰を受け候事かと、悲く悲く存候に、はや浅ましき死様しにやうは知れたる事に候へば、外に私の願の障さはりとも相成不申あひなりまをさずやと、始終心に懸り居り申候まをしさふらふ。
 思へば、人の申候ほど死ぬる事は可恐おそろしきものに無御座候ござなくさふらふ。私は今が今此儘このままに息引取り候はば、何よりの仕合しあはせと存参ぞんじまゐらせ候。唯後ただあとに遺のこり候親達の歎なげきを思ひ、又我身生れ効がひも無く此世の縁薄く、かやうに今在る形も直ぢきに消えて、此筆このふで、此硯このすずり、此指環、此燈このあかりも此居宅このすまひも、此夜も此夏も、此の蚊の声も、四囲あたりの者は皆永く残り候に、私独ひとり亡なきものに相成候て、人には草花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ儚はかなさなどを考へ候へば、返す返す情無く相成候て、心ならぬ未練も出いで申候まをしさふらふ。


青空文庫より引用