風流仏


発端ほったん 如是我聞にょぜがもん


上 一向いっこう専念の修業幾年いくねん

 三尊さんぞん四天王十二童子十六羅漢らかんさては五百羅漢、までを胸中に蔵おさめて鉈なた小刀こがたなに彫り浮かべる腕前に、運慶うんけいも知しらぬ人ひとは讃歎さんだんすれども鳥仏師とりぶっし知る身の心耻はずかしく、其道そのみちに志す事こと深きにつけておのが業わざの足らざるを恨み、爰ここ日本美術国に生れながら今の世に飛騨ひだの工匠たくみなしと云いわせん事残念なり、珠運しゅうん命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈たケを尽してせめては我が好すきの心に満足さすべく、且かつは石膏せっこう細工の鼻高き唐人とうじんめに下目しためで見られし鬱憤うっぷんの幾分を晴はらすべしと、可愛かわいや一向専念の誓を嵯峨さがの釈迦しゃかに立たてし男、齢としは何歳いくつぞ二十一の春是これより風は嵐山らんざんの霞かすみをなぐって腸はらわた断つ俳諧師はいかいしが、蝶ちょうになれれと祈る落花のおもしろきをも眺ながむる事なくて、見ぬ天竺てんじくの何の花、彫りかけて永き日の入相いりあいの鐘にかなしむ程凝こり固かたまっては、白雨ゆうだち三条四条の塵埃ほこりを洗って小石の面おもてはまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水しみずに、瓜うり浸して食いつゝ歯牙香しがこうと詩人の洒落しゃれる川原の夕涼み快きをも余所よそになし、徒いたずらに垣かきをからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀びゃくだんの切り屑くず蚊遣かやりに焼たきて是も余徳とあり難がたかるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉もみじに争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも入いらず、硝子ガラス越しの雪見に昆布こんぶを蒲団ふとんにしての湯豆腐を粋すいがる徒党にも加わらねば、まして島原しまばら祇園ぎおんの艶色えんしょくには横眼よこめ遣つかい一ひトつせず、おのが手作りの弁天様に涎よだれ流して余念なく惚ほれ込み、琴こと三味線しゃみせんのあじな小歌こうたは聞ききもせねど、夢の中うちには緊那羅神きんならじんの声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩びしゅかつまの魂魄こんぱくも乗り移らでやあるべき。かくて三年みとせばかり浮世を驀直まっすぐに渡り行ゆかれければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より備そなわっての稟賦うまれつき、雪をまろめて達摩だるまを作つくり大根を斬きりて鷽うそどりの形を写しゝにさえ、屡しばしば人を驚かせしに、修業の功を積つみし上、憤発ふんぱつの勇を加えしなれば冴さえし腕は愈々いよいよ冴さえ鋭き刀とうは愈いよいよ鋭く、七歳の初発心しょほっしん二十四の暁に成道じょうどうして師匠も是これまでなりと許すに珠運は忽たちまち思い立ち独身者ひとりものの気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の工匠たくみが跡訪とわんと少し許ばかりの道具を肩にし、草鞋わらじの紐ひもの結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。
下 苦労は知らず勉強の徳

 汽車もある世に、さりとては修業する身の痛ましや、菅笠すげがさは街道の埃ほこりに赤うなって肌着はだぎに風呂場ふろばの虱しらみを避け得ず、春の日永き畷なわてに疲れては蝶ちょううららと飛ぶに翼羨うらやましく、秋の夜は淋さびしき床に寝覚ねざめて、隣りの歯ぎしみに魂を驚かす。旅路のなさけなき事、風吹き荒すさみ熱砂顔にぶつかる時眼めを閉ふさぎてあゆめば、邪見じゃけんの喇叭らっぱ気きを注つけろがららの馬車に胆きもちゞみあがり、雨降り切しきりては新道しんどうのさくれ石足を噛かむに生爪なまづめを剥はがし悩むを胴慾どうよくの車夫法外の価ねを貪むさぼり、尚なおも並木で五割酒銭さかては天下の法だとゆする、仇あだもなさけも一日限りの、人情は薄き掛け蒲団ぶとんに襟首えりくびさむく、待遇もてなしは冷ひややかな平ひらの内うちに蒟蒻こんにゃく黒し。珠運しゅうん素もとより貧まずしきには馴なれても、加茂川かもがわの水柔らかなる所に生長おいたちて初はじめて野越え山越えのつらきを覚えし草枕くさまくら、露に湿しめりて心細き夢おぼつかなくも馴れし都の空を遶めぐるに無残や郭公ほととぎす待まちもせぬ耳に眠りを切って破やれ戸どの罅隙すきまに、我は顔がおの明星光りきらめくうら悲しさ、或あるは柳散り桐きり落おちて無常身に染しみる野寺の鐘、つくく命は森林もりを縫う稲妻のいと続き難き者と観ずるに付つけても志願を遂ぐる道遠しと意馬いばに鞭むち打ち励ましつ、漸ようやく東海道の名刹めいさつ古社に神像木仏梁はり欄間らんまの彫りまで見巡みめぐりて鎌倉東京日光も見たり、是より最後の楽たのしみは奈良じゃと急ぎ登り行く碓氷峠うすいとうげの冬最中もなか、雪たけありて裾すそ寒き浅間あさま下ろしの烈はげしきにめげず臆おくせず、名に高き和田わだ塩尻しおじりを藁沓わらぐつの底に踏み蹂にじり、木曾路きそじに入りて日照山ひでりやま桟橋かけはし寝覚ねざめ後になし須原すはらの宿しゅくに着つきにけり。



第一 如是相にょぜそう


書けぬ所が美しさの第一義諦だいいちぎたい

 名物に甘うまき物ありて、空腹すきはらに須原すはらのとろゝ汁殊の外ほか妙なるに飯めし幾杯か滑り込ませたる身体からだを此尽このまま寝さするも毒とは思えど為する事なく、道中日記注つけ終しまいて、のつそつしながら煤すすびたる行燈あんどんの横手の楽落らくがきを読よめば山梨県士族山本勘介やまもとかんすけ大江山おおえやま退治の際一泊と禿筆ちびふでの跡あと、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御おんわざくれ、おかしき計ばかりかあわれに覚えて初対面から膝ひざをくずして語る炬燵こたつに相あい宿やどの友もなき珠運しゅうん、微かすかなる埋火うずみびに脚を烘あぶり、つくねんとして櫓やぐらの上に首投なげかけ、うつららとなる所へ此方こなたをさして来る足音、しとやかなるは踵かかとに亀裂ひびきらせしさき程の下女にあらず。御免なされと襖ふすま越しのやさしき声に胸ときめき、為しかけた欠伸あくびを半分噛かみて何とも知れぬ返辞をすれば、唐紙からかみするると開き丁寧ていねいに辞義じぎして、冬の日の木曾路きそじ嘸さぞや御疲おつかれに御座りましょうが御覧下され是これは当所の名誉花漬はなづけ今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中まっさいちゅう、色もあせずに居おりまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら蔭膳かげぜんを信濃しなのへ向むけて人知らぬ寒さを知られし都の御方おかたへ御土産おみやげにと心憎き愛嬌あいきょう言葉商買しょうばいの艶つやとてなまめかしく売物に香かを添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、世馴よなれて渋らず、さりとて軽佻かるはずみにもなきとりなし、持ち来きたりし包つつみ静しずかにひらきて二箱三箱差し出いだす手てつきしおらしさに、花は余所よそになりてうつゝなく覗のぞき込む此方こなたの眼めを避けて背向そむくる顔、折から透間すきま洩もる風かぜに燈火ともしび動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。我が折おれ深山みやまに是これは何物。


第二 如是体にょぜたい


粋すいの羯羅藍かららんと実じつの阿羅藍あららん

 見て面白き世の中に聞きいて悲しき人の上あり。昔は此この京きょうにして此妓こありと評判は八坂やさかの塔より高く其その名は音羽おとわの滝より響きし室香むろかと云いえる芸子げいこありしが、さる程に地主権現じしゅごんげんの花の色盛者しょうじゃ必衰の理ことわりをのがれず、梅岡うめおか何某なにがしと呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに契ちぎりを込め、浅からぬ中となりしより他よその恋をば贔負ひいきにする客もなく、線香の煙り絶々たえだえになるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、捨撥すてばちにしてからは恐ろしき者にいうなる新徴組しんちょうぐみ何の怖こわい事なく三筋みすじ取っても一筋心ひとすじごころに君さま大事と、時を憚はばかり世を忍ぶ男を隠匿かくまいし半年あまり、苦労の中にも助たすくる神の結び玉たまいし縁なれや嬉しき情なさけの胤たねを宿して帯の祝い芽出度めでたく舒のびし眉間みけんに忽たちまち皺しわの浪なみ立たちて騒がしき鳥羽とば伏見ふしみの戦争。さても方様かたさまの憎い程な気強さ、爰ここなり丈夫おとこの志を遂とぐるはと一ひト群むれの同志どうしを率いて官軍に加わらんとし玉うを止とどむるにはあらねど生死しょうじ争う修羅しゅらの巷ちまたに踏ふみ入いりて、雲のあなたの吾妻里あづまじ、空寒き奥州おうしゅうにまで帰る事は云いわずに旅立たびだち玉う離別わかれには、是これを出世の御発途おんかどいでと義理で暁さとして雄々おおしき詞ことばを、口に云わする心が真情まことか、狭き女の胸に余りて案じ過すごせば潤うるむ眼めの、涙が無理かと、粋すいほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろろする内うち日は消たちて愈〻いよいよとなり、義経袴よしつねばかまに男山おとこやま八幡はちまんの守りくけ込んで愚おろかなと笑わらい片頬かたほに叱しかられし昨日きのうの声はまだ耳に残るに、今、今の御姿おすがたはもう一里先か、エヽせめては一日路いちにちじ程も見透みとおしたきを役立たたぬ此眼の腹立だたしやと門辺かどべに伸び上あがりての甲斐かいなき繰言くりごとそれも尤もっともなりき。一ひト月過ぎ二ふタ月過すぎても此この恨うらみ綿々めんめんろううとして、筑紫琴つくしごと習う隣家となりの妓こがうたう唱歌も我に引き較くらべて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと済すまして貰もらい度たしと無慈悲の借金取めが朝に晩にの掛合かけあい、返答も力無なや男松おまつを離れし姫蔦ひめづたの、斯こうも世の風に嬲なぶらるゝ者ものかと俯うつむきて、横眼に交張まぜばりの、袋戸ふくろどに広重ひろしげが絵見ながら、悔くやしいにつけゆかしさ忍ばれ、方様かたさま早う帰って下されと独言ひとりごと口を洩もるれば、利足りそくも払わず帰れとはよく云えた事と吠付ほえつかれ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、御腹おなかには大事のの我子わがこではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ方様かたさまの紀念かたみ、唐土もろこしには胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と或夜あるよの物語りに聞しに此ありさまの口惜くちおしと腸はらわたを断つ苦しさ。天女も五衰ごすいぞかし、玳瑁たいまいの櫛くし、真珠の根掛ねがけいつか無くなりては華鬘けまんの美しかりける俤おもかげとどまらず、身だしなみ懶ものうくて、光ると云われし色艶いろつや屈托くったくに曇り、好みの衣裳いしょう数々彼に取られ是これに易かえては、着古しの平常衣ふだんぎ一つ、何の焼たきかけの霊香れいきょう薫ずべきか、泣き寄りの親身しんみに一人の弟おととは、有っても無きに劣おとる賭博ばくち好き酒好き、落魄おちぶれて相談相手になるべきならねば頼むは親切な雇婆やといばば計ばかり、あじきなく暮らす中うち月満みちて産声うぶごえ美うるわしく玉のような女の子、辰たつと名付づけられしはあの花漬はなづけ売りなりと、是これも昔は伊勢いせ参宮の御利益ごりやくに粋すいという事覚えられしらしき宿屋の親爺おやじが物語に珠運も木像ならず、涙掃はらって其後そののちを問えば、御待おまちなされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が淋さみしゅうなりました。


第三 如是性にょぜしょう


上 母は嵐あらしに香かの迸はしる梅

 山家やまがの御馳走ごちそうは何処いずくも豆腐湯波ゆば干鮭からざけ計ばかりなるが今宵こよいはあなたが態々わざわざ茶の間に御出掛おでかけにて開化の若い方には珍らしく此この兀爺はげじいの話を冒頭あたまから潰つぶさずに御聞おききなさるが快ければ、夜長の折柄おりからお辰たつの物語を御馳走に饒舌しゃべりりましょう、残念なは去年ならばもう少し面白くあわれに申し上あげて軽薄けいはくな京の人イヤ是これは失礼、やさしい京の御方おかたの涙を木曾きそに落さ落おとさせよう者を惜しい事には前歯一本欠けた所とこから風が洩もれて此春以来御文章おふみさまを読よむも下手になったと、菩提所ぼだいしょの和尚おしょう様に云いわれた程なれば、ウガチとかコガシとか申す者は空抜うろぬきにしてと断りながら、青内寺せいないじ煙草たばこ二三服馬士まご張ばりの煙管きせるにてスパリリと長閑のどかに吸い無遠慮に榾ほださし焼くべて舞い立つ灰の雪袴ゆきんばかまに落ち来きたるをぽんと擲はたきつ、どうも私幼少から読本よみほんを好きました故ゆえか、斯こういう話を致しますると図に乗っておかしな調子になるそうで、人我にんがの差別しゃべつも分り憎くなると孫共まごどもに毎度笑われまするが御聞おききづらくも癖ならば癖ぞと御免おゆるしなされ。さてもそののち室香むろかはお辰を可愛かわゆしと思うより、情じょうには鋭き女の勇気をふり起して昔取ったる三味しゃみの撥ばち、再び握っても色里の往来して白痴こけの大尽、生なまな通人つうじんめらが間あいの周旋とりもち、浮うかれ車座のまわりをよくする油さし商売は嫌いやなりと、此度このたびは象牙ぞうげを柊ひいらぎに易かえて児供こどもを相手の音曲おんぎょく指南しなん、芸は素もとより鍛錬を積つみたり、品行みもちは淫みだらならず、且かつは我子わがこを育てんという気の張はりあればおのずから弟子にも親切あつく良い御師匠おししょう様と世に用いられて爰ここに生計くらしの糸道も明き細いながら炊煙けむり絶たえせず安らかに日は送れど、稽古けいこする小娘が調子外れの金切声かなきりごえ今も昔わーワッとお辰のなき立つ事の屡しばしばなるに胸苦しく、苦労ある身の乳も不足なれば思い切って近き所へ里子にやり必死となりて稼かせぐありさま余所よその眼めさえ是これを見て感心なと泣きぬ。それにつれなきは方様かたさまの其後そののち何の便たよりもなく、手紙出そうにも当所あてどころ分らず、まさかに親子笈おいづるかけて順礼にも出られねば逢あう事は夢に計ばかり、覚めて考うれば口をきかれなかったはもしや流丸それだまにでも中あたられて亡くなられたか、茶絶ちゃだち塩絶しおだちきっとして祈るを御存知ない筈はずも無かろうに、神様も恋しらずならあり難くなしと愚痴と一所いっしょにこぼるゝ涙流れて止とどまらぬ月日をいつもも憂いに明あかし恨うらみに暮らして我わが齢としの寄るは知ねども、早い者お辰はちょろろ歩行あるき、折ふしは里親と共に来てまわらぬ舌に菓子ねだる口元、いとしや方様に生き写しと抱き寄せて放し難く、遂ついに三歳みっつの秋より引き取って膝下ひざもとに育そだつれば、少しは紛まぎれて貧家に温ぬくき太陽ひのあたる如ごとく淋さびしき中にも貴き笑わらいの唇に動きしが、さりとては此子このこの愛らしきを見様みようとも仕玉したまわざるか帰家かえられざるつれなさ、子供心にも親は恋しければこそ、父様ととさま御帰りになった時は斯こうして為する者ぞと教えし御辞誼おじぎの仕様しよう能よく覚えて、起居たちい動作ふるまいのしとやかさ、能よく仕付しつけたと誉ほめらるゝ日を待まちて居るに、何処どこの竜宮りゅうぐうへ行かれて乙姫おとひめの傍そばにでも居おらるゝ事ぞと、少しは邪推の悋気りんき萌きざすも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なき情じょうなるに、天道怪しくも是これを恵まず。運は賽さいの眼の出所でどころ分らぬ者にてお辰の叔父おじぶんなげの七しちと諢名あだな取りし蕩楽者どうらくもの、男は好よけれど根性図太く誰たれにも彼にも疎うとまれて大の字に寝たとて一坪には足らぬ小さき身を、広き都に置きかね漂泊ただよいあるきの渡り大工、段々と美濃路みのじを歴へて信濃しなのに来きたり、折しも須原すはらの長者何がしの隠居所作る手伝い柱を削れ羽目板を付つけろと棟梁とうりょうの差図さしずには従えど、墨縄すみなわの直すぐなには傚ならわぬ横道おうどう、お吉きち様と呼ばせらるゝ秘蔵の嬢様にやさしげな濡ぬれを仕掛け、鉋屑かんなくずに墨さし思おもいを云いわせでもしたるか、とううそゝのかしてとんでもなき穴掘り仕事、それも縁なら是非なしと愛に暗くらんで男の性質も見み分わけぬ長者のえせ粋すい三国一の狼婿おおかみむこ、取って安堵あんどしたと知らぬが仏様に其年そのとしなられし跡は、山林家いえ蔵くら椽えんの下の糠味噌瓶ぬかみそがめまで譲り受けて村中じゅう寄り合いの席に肩かたぎしつかせての正坐しょうざ、片腹痛き世や。あわれ室香むろかはむら雲迷い野分のわけ吹く頃ころ、少しの風邪に冒されてより枕まくらあがらず、秋の夜冷ひややかに虫の音遠ざかり行くも観念の友となって独り寝覚ねざめの床淋しく、自ら露霜のやがて消きえぬべきを悟り、お辰素性すじょうのあらまし慄ふるう筆のにじむ墨に覚束おぼつかなく認したためて守り袋に父が書き捨すての短冊たんざく一ひトひらと共に蔵おさめやりて、明日をもしれぬ我わがなき後頼りなき此子このこ、如何いかなる境界に落おつるとも加茂かもの明神も御憐愍ごれんみんあれ、其人そのひと命あらば巡めぐり合あわせ玉いて、芸子げいこも女なりやさしき心入れ嬉うれしかりきと、方様の一言ひとことを草葉の蔭かげに聞きかせ玉えと、遙拝ようはいして閉じたる眼をひらけば、燈火ともしび僅わずかに蛍ほたるの如く、弱き光りの下もとに何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもう十とお計りも大きゅうして銀杏いちょう髷まげ結わしてから死にたしと袖そでを噛かみて忍び泣く時お辰魘おそわれてアッと声立て、母様かかさま痛いよよ坊ぼうの父様ととさまはまだ帰かえらないかえ、源げんちゃんが打ぶつから痛いよ、父ととの無いのは犬の子だってぶつから痛いよ。オヽ道理もっともじゃと抱き寄すれば其その儘まますややと睡ねむるいじらしさ、アヽ死なれぬ身の疾病やまい、是これほどなさけなき者あろうか。
下 子は岩蔭いわかげに咽むせぶ清水しみずよ

 格子戸こうしどがららとあけて閉しめる音は静しずかなり。七蔵しちぞう衣装いしょう立派に着飾りて顔付高慢くさく、無沙汰ぶさた謝わびるにはあらで誇り気げに今の身となりし本末を語り、女房にょうぼうに都見物致いたさせかたた御近付おちかづきに連つれて参ったと鷹風おおふうなる言葉の尾につきて、下ぐる頭かしら低くしとやかに。妾わたくしめは吉きちと申す不束ふつつかな田舎者、仕合しあわせに御縁の端に続つながりました上は何卒なにとぞ末長く御眼おめかけられて御不勝ごふしょうながら真実しんみの妹とも思おぼしめされて下さりませと、演のぶる口上に樸厚すなおなる山家やまが育ちのたのもしき所見えて室香むろか嬉敷うれしく、重き頭かしらをあげてよき程に挨拶あいさつすれば、女心の柔やわらかなる情なさけふかく。姉様あねさまの是これほどの御病気、殊更ことさら御幼少おちいさいのもあるを他人任せにして置きまして祇園ぎおん清水きよみず金銀閣見たりとて何の面白かるべき、妾わたしは是これより御傍おそばさらず御看病致しましょと云いえば七蔵顔つら膨ふくらかし、腹の中うちには余計なと思い乍ながら、ならぬとも云い難く、それならば家も狭しおれ丈だケは旅宿に帰るべしといって其その晩は夜食の膳ぜんの上、一酌いっしゃくの酔よいに浮うかれてそゞろあるき、鼻歌に酒の香かを吐き、川風寒き千鳥足、乱れてぽんと町か川端かわばたあたりに止とどまりし事あさまし。室香はお吉に逢あいてより三日目、我子わがこを委ゆだぬる処ところを得て気も休まり、爰ここぞ天の恵み、臨終正念しょうねんたがわず、安やすらかなる大往生、南無阿弥陀仏なむあみだぶつは嬌喉きょうこうに粋すいの果はてを送り三重さんじゅう、鳥部野とりべの一片の烟けむりとなって御法みのりの風に舞い扇、極楽に歌舞の女菩薩にょぼさつ一員いちにん増したる事疑いなしと様子知りたる和尚様おしょうさま随喜の涙を落おとされし。お吉其儘そのままあるべきにあらねば雇い婆ばばには銭かねやって暇ひま取らせ、色々片付かたづくるとて持仏棚じぶつだなの奥に一つの包物つつみものあるを、不思議と開き見れば様々の貨幣かね合せて百円足らず、是はと驚きて能々よくよく見るに、我身わがみ万一の時お辰たつ引き取って玉たまわる方へせめてもの心許こころばかりに細き暮らしの中うちより一銭二銭積み置きて是をまいらするなりと包み紙に筆の跡、読みさして身の毛立つ程悲しく、是までに思い込まれし子を育てずに置おかれべきかと、遂ついに五歳いつつのお辰をつれて夫と共に須原すはらに戻もどりけるが、因果は壺皿つぼざらの縁ふちのまわり、七蔵本性をあらわして不足なき身に長半をあらそえば段々悪徒の食物くいものとなりて痩やせる身代の行末ゆくすえを気遣きづかい、女房うるさく異見いけんすれば、何の女の知らぬ事、ぴんからきりまで心得て穴熊あなぐま毛綱けづなの手品てづまにかゝる我ならねば負くる計ばかりの者にはあらずと駈出かけだしして三日帰らず、四日帰らず、或あるいは松本善光寺又は飯田いいだ高遠たかとおあたりの賭場とばあるき、負まくれば尚なおも盗賊どろぼうに追い銭の愚を尽し、勝てば飯盛めしもりに祝い酒のあぶく銭ぜにを費す、此癖このくせ止めて止まらぬ春駒はるごまの足掻あがき早く、坂道を飛び下おりるより迅すみやかに、親譲りの山も林もなくなりかゝってお吉心配に病死せしより、齢としは僅わずかに十とおの冬、お辰浮世の悲かなしみを知りそめ叔父おじの帰宅かえらぬを困り途方とほうに暮れ居たるに、近所の人々、彼奴きゃつめ長久保ながくぼのあやしき女の許もとに居続いつづけして妻の最期さいごを余所よそに見る事憎しとてお辰をあわれみ助け葬式ともらい済すましたるが、七蔵此後こののち愈いよいよ身持みもち放埒ほうらつとなり、村内の心ある者には爪つまはじきせらるゝをもかまわず遂ついに須原の長者の家敷やしきも、空むなしく庭中うちの石燈籠いしどうろうに美しき苔こけを添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の樅もみの梢こずえ吹く風の音ばかり、今の耳にも替かわらずして、直すぐ其傍そのそばなる荒屋あばらやに住すまいぬるが、さても下駄げたの歯はと人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、何一ひトつ満足なる者なき中にも盃さかずきのみ欠かけず、柴木しばきへし折って箸はしにしながら象牙ぞうげの骰子さいに誇るこそ愚おろかなれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、御嶽おんたけの雪の肌はだ清らかに、石楠しゃくなげの花の顔気高けだかく生れ付ついてもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を聞きいては山抜け雪流なだれより恐ろしくおぞ毛ふるって思い止とまれば、二十はたちを越こして痛ましや生娘きむすめ、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は宿中しゅくじゅうの旅籠屋はたごや廻まわりて、元は穢多えたかも知れぬ客達きゃくだちにまで嬲なぶられながらの花漬売はなづけうり、帰途かえりは一日の苦労の塊かたまり銅貨幾箇いくつを酒に易かえて、御淋おさびしゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと機嫌きげん取りどり笑顔えがおしてまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、先度せんども上田うえだの娼妓じょうろになれと云い掛かかりしよし。さりとては胴慾どうよくな男め、生餌いきえ食う鷹たかさえ暖ぬくめ鳥は許す者を。


第四 如是因にょぜいん


上 忘られぬのが根本こんぽんの情じょう

 珠運しゅうんは種々さまざまの人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵こよい覚えて屋やの角に鳴る山風寒さ一段身に染しみ、胸痛きまでの悲しさ我事わがことのように鼻詰らせながら亭主に礼云いいておのが部屋へやに戻もどれば、忽たちまち気が注つくは床の間に二タ箱買ったる花漬はなづけ、衣きぬ脱ぎかえて転ころりと横になり、夜着よぎ引きかぶればありりと浮ぶお辰たつの姿、首さし出いだして眼めをひらけば花漬、閉とずればおもかげ、是これはどうじゃと呆あきれてまた候ぞろ眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠まごめとうげ越えて中津川なかつがわ迄まで行かんとするに、能よく休までは叶かなわじと行燈あんどん吹き消し意いを静むるに、又しても其その美形、エヽ馬鹿ばかなと活かっと見ひらき天井を睨にらむ眼に、此この度たびは花漬なけれど、闇やみはあやなしあやにくに梅の花の香かおりは箱を洩もれてするると枕まくらに通えば、何となくときめく心を種として咲さきも咲さきたり、桃の媚こび桜の色、さては薄荷はっか菊の花まで今真盛まっさかりなるに、蜜みつを吸わんと飛び来きたる蜂はちの羽音どこやらに聞ゆる如ごとく、耳さえいらぬ事に迷っては愚おろかなりと瞼まぶた堅かたく閉とじ、掻巻かいまき頭こうべを蔽おおうに、さりとては怪けしからず麗うるわしき幻まぼろしの花輪の中に愛嬌あいきょうを湛たたえたるお辰、気高き計ばかりか後光朦朧もうろうとさして白衣びゃくえの観音、古人にも是これ程の彫ほりなしと好すきな道に慌惚うっとりとなる時、物の響ひびきは冴さゆる冬の夜、台所に荒れ鼠ねずみの騒ぎ、憎し、寝られぬ。

下 思いやるより増長の愛

 裏付股引うらつきももひきに足を包みて頭巾ずきん深々とかつぎ、然しかも下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼ぼたん惣掛そうがけになし其上そのうえ首筋胴の周囲まわり、手拭てぬぐいにて動ゆるがぬ様よう縛り、鹿しかの皮の袴はかまに脚半きゃはん油断なく、足袋二枚はきて藁沓わらぐつの爪つま先に唐辛子とうがらし三四本足を焼やかぬ為ため押し入れ、毛皮の手甲てっこうして若もしもの時の助けに足橇かんじきまで脊中せなかに用意、充分してさえ此この大吹雪、容易の事にあらず、吼立ほえたつる天津風あまつかぜ、山山鳴動して峰の雪、梢こずえの雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間またたくまに路みちを埋うずめ、脛はぎを埋うずめ、鼻の孔あなまで粉雪吹込んで水に溺おぼれしよりまだだ苦し、ましてや准備よういおろかなる都の御お客様なんぞ命惜おしくば御逗留ごとうりゅうなされと朴訥ぼくとつは仁に近き親切。なるほど話し聞きいてさえ恐ろしければ珠運しゅうん別段急ぐ旅にもあらず。されば今日丈だけの厄介やっかいになりましょうと尻しりを炬燵こたつに居すえて、退屈を輪に吹く煙草たばこのけぶり、ぼんやりとして其辺そこら見回せば端なく眼めにつく柘植つげのさし櫛ぐし。さては花漬売はなづけうりが心づかず落し行ゆきしかと手に取るとたん、早はや其人そのひと床ゆかしく、昨夕ゆうべの亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父おじの憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯ただお辰たつ可愛かわいく、おれが仏なら、七蔵しちぞう頓死とんしさして行衛ゆくえしれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省くないしょうよりは貞順善行の緑綬りょくじゅ紅綬紫綬、あり丈たけの褒章ほうしょう頂かせ、小説家には其そのあわれおもしろく書かせ、祐信すけのぶ長春ちょうしゅん等らを呼び生いかして美しさ充分に写させ、そして日本一大々尽だいだいじんの嫁にして、あの雑綴つぎつぎの木綿着を綾羅りょうら錦繍きんしゅうに易かえ、油気少きそゝけ髪に極ごく上々正真伽羅栴檀しょうじんきゃらせんだんの油付つけさせ、握飯にぎりめしほどな珊瑚珠さんごじゅに鉄火箸かなひばしほどな黄金脚きんあしすげてさゝしてやりたいものを神通じんつうなき身の是非もなし、家財売うって退のけて懐中にはまだ三百両余よあれど是これは我身わがみを立たつる基もと、道中にも片足満足な草鞋わらじは捨すてぬくらい倹約つましくして居るに、絹絞きぬしぼりの半掛はんがけ一ひトつたりとも空あだに恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女ぜんにょに結縁けちえんの良き方便もがな、噫ああ思い付ついたりと小行李こごうりとくく小刀こがたな取出し小さき砥石といしに鋒尖きっさき鋭く礪とぎ上げ、頓やがて櫛くしの棟むねに何やら一日掛りに彫り付つけ、紙に包んでお辰来きたらばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様すいさまめ、おかしき所業しょぎょうあてが外れて其晩吹雪尚なおやまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜たまる如ごとく、逢あわざるに思おもいは積りて愈いよいよなつかしく、我は薄暗き部屋の中うち、煤すすびたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破やれぬ畳の上に坐ざし、去歳こぞの春すが漏もりしたるか怪しき汚染しみは滝の糸を乱して画襖えぶすまの李白りはくの頭かしらに濺そそげど、たて付つけよければ身の毛立たつ程の寒さを透間すきまに喞かこちもせず、兎とも角かくも安楽にして居るにさえ、うら寂しく自おのずから悲かなしみを知るに、ふびんや少女おとめの、あばら屋といえば天井も無なかるべく、屋根裏は柴しば焼たく煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口ほくちの如き煤は高山こうざんの樹きにかゝれる猿尾枷さるおがせのようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪引詰ひきつめに結うて、腸はらわた見えたるぼろ畳の上に、香露こうろ凝こる半なかばに璧たま尚なお輭やわらかな細軟きゃしゃな身体からだを厭いといもせず、なよやかにおとなしく坐すわりて居いる事か、人情なしの七蔵め、多分おおかた小鼻怒らし大胡坐おおあぐらかきて炉の傍はたに、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子あいごうしの大どてら着て、充分酒にも暖あたたまりながら分ぶんを知らねばまだ足らず、炉の隅すみに転げて居る白鳥はくちょう徳利どくりの寐姿忌〻いまいましそうに睨ねめたる眼めをジロリと注ぎ、裁縫しごとに急がしき手を止とめさして無理な吩附いいつけ、跡引き上戸の言葉は針、とががしきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄ふるう歟か唇くちびる、それに用捨ようしゃもあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨露あらわれし壁一重ひとえ、たるみの出来たる筵むしろ屏風びょうぶ、あるに甲斐かいなく世を経ふれば貧には運も七分しちぶ凍こおりて三分さんぶの未練を命に生いきるか、噫ああと計ばかりに夢現ゆめうつつ分わかたず珠運は歎たんずる時、雨戸に雪の音さららとして、火は消きえざる炬燵こたつに足の先冷つめたかりき。


第五 如是作にょぜさ


上 我を忘れて而生其心にしょうごしん

 よしや脊せに暖あたたかならずとも旭日あさひきららとさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼めも眩くらむ許ばかりの美しさ、物腥ものぐさき西洋の塵ちりも此処ここまでは飛とんで来ず、清浄しょうじょう潔白実げに頼母敷たのもしき岐蘇路きそじ、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是これも神代を其儘そのままと詰つまらぬ者ものをも面白く感ずるは、昨宵ゆうべの嵐あらし去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運しゅうん梅干渋茶に夢を拭ぬぐい、朝飯はん平常ふだんより甘うまく食いて泥どろを踏まぬ雪沓ゆきぐつ軽かろく、飄々ひょうひょうと立出たちいでしが、折角吾わが志こころざしを彫りし櫛くし与えざるも残念、家は宿の爺おやじに聞ききて街道の傍かたえを僅わずか折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果はたせる哉かな縦もみの木高く聳そびえて外囲い大きく如何いかにも須原すはらの長者が昔の住居すまいと思わるゝ立派なる家の横手に、此頃このごろの風吹き曲ゆがめたる荒屋あばらやあり。近付くまゝに中うちの様子を伺えば、寥然ひっそりとして人のありとも想おもわれず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付つけて聞けば竊々ひそひそと咡ささやくような音、愈いよいよあやしく尚なお耳を澄すませば啜すすり泣なきする女の声なり。さては邪見な七蔵しちぞうめ、何事したるかと彼此あちこちさがして大きなる節ふしの抜けたる所より覗のぞけば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利まり夫人とさえ此この珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷むごらしき縄からげ、後うしろの柱のそげ多きに手荒く縛くくし付け、薄汚なき手拭てぬぐい無遠慮に丹花たんかの唇を掩おおいし心無さ、元結もとゆい空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪恨うらみは長く垂れて顔にかゝり、衣きぬ引まくれ胸あらわに、膚はだえは春の曙あけぼのの雪今や消きえ入らん計ばかり、見るから忽たちまち肉動き肝きも躍って分別思案あらばこそ、雨戸蹴けひらき飛込とびこんで、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥いらつまで忙いそがわしく、手拭を棄すて、縄を解き、懐中ふところより櫛くし取り出いだして乱れ髪梳すけと渡しながら冷え凍こおりたる肢体からだを痛ましく、思わず緊接しっかり抱いだき寄せて、嘸さぞや柱に脊中がと片手に摩なで擦さするを、女あきれて兎角とかくの詞ことばはなく、ジッと此方こなたの顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一ひト足離れ退のくとたん、其辺そこらの畳雪だらけにせし我沓わがくつにハッと気が注つき、訳わけも分らず其そのまゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろろ/\、あわや膝ひざ突かんとしてドッコイ、是は仕したり、蝙蝠傘こうもりがさ手荷物忘れたかと跡あともどりする時、お辰たつ門口に来きたり袖そでを捉とらえて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚おぼえなき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑きくずなんぞの詰つまらぬ者に眼を注ぎ上あがり端はなに腰かければ、しとやかに下げたる頭かしらよくも挙げ得ず。あなたは亀屋かめやに御出おいでなされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救おすくい下されたは真まことにあり難けれど、到底とても遁のがれぬ不仕合ふしあわせと身をあきらめては断念あきらめなかった先程までの愚おろかが却かえって口惜くちおしゅう御座りまする、訳わけも申さず斯こう申しては定めて道理の分らぬ奴やつめと御軽侮おさげすみも耻はずかしゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解といて下さった方に御礼も能よくは致さず、無理な願ねがいを申すも真まことに苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外ほかの言葉に珠運驚き、是これははとんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面つれなき御頼おたのみ、縛った奴やつを打ぶてとでも云いうのならば痩腕やせうでに豆計ばかりの力瘤ちからこぶも出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩絶間たえまなく感心しつめて天晴あっぱれ菩薩ぼさつと信仰して居る御前様おまえさまを、縛ることは赤旃檀しゃくせんだんに飴細工あめざいくの刀で彫ほりをするよりまだ難し、一昨日おとといの晩忘れて行かれたそれれその櫛を見ても合点がてんなされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞ききて、失礼ながら愍然かわいそうな事や、私わたしが神か仏ならば、斯こうもしてあげたい彼ああもしてやり度たいと思いましたが、それも出来ねばせめては心計こころばかり、一日肩を凝らして漸ようやく其彫そのほりをしたも、若もしや御髪おぐしにさして下さらば一生に又なき名誉、嬉うれしい事と態々わざわざ持参して来て見れば他よそにならぬ今のありさま、出過ですぎたかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪あやまりましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼おたのみか、金輪こんりん奈落ならく其様そのような義は御免蒙こうむると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫ほりに彫ほったり、厚あつさは僅わずかに一分いちぶに足らず、幅は漸ようやく二分計ばかり、長さも左さのみならざる棟むねに、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷はっかの花の眼めも及ばぬまで濃こまかきを浮き彫にして香におう計ばかり、そも此人このひとは如何いかなればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳ひとみは通い、竊ひそかに様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、眉まゆ濃からずして末秀ひいで、眼に一点の濁りなきのみか、形状かたちの外ほかにおのずから賎いやしからぬ様露あらわれて、其その親切なる言葉、そもや女子おなごの嬉うれしからぬ事か。
中 仁なさけはあつき心念しんねん口演くえん

 身を断念あきらめてはあきらめざりしを口惜くちおしとは云いわるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、大抵たいていは奥歯噛かみしめて思い切る事ぞかし、到底とても遁のがれぬ不仕合ふしあわせと一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には合あっても人情には外はずれた言葉が御前おまえのその美しい唇くちびるから出るも、思えば苦しい仔細しさいがあってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ腹立はらだたしい三世相さんぜそう、何の因果を誰たれが作って、花に蜘蛛くもの巣お前に七蔵しちぞうの縁じゃやらと、天燈様てんとうさままで憎うてならぬ此この珠運しゅうん、相談の敵手あいてにもなるまいが痒かゆい脊中せなかは孫の手に頼めじゃ、なよなよとした其肢体そのからだを縛ってと云うのでない注文ならば天窓あたまを破わって工夫も仕様しようが一体まあどうした訳わけか、強しいて聞きくでも無なけれど此儘このまま別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば聞きいた上でどうなりと有丈あるたけの力喜んで尽しましょうと云いわれてお辰たつは、叔父おじにさえあさましき難題なんだい云い掛かけらるゝ世の中に赤の他人で是これほどの仁なさけ、胸に堪こたえてぞっとする程嬉うれし悲しく、咽むせ返りながら、吃きっと思いかえして、段々の御親切有り難がとうは御座りまするが妾わたくし身の上話しは申し上ませぬ、否いいや申さぬではござりませぬが申されぬつらさを御お察し下され、眼上めうえと折り合あわねば懲こらしめられた計ばかりの事、諄々くどくどと黒暗くらやみの耻はじを申もうしてあなたの様な情なさけ知りの御方に浅墓あさはかな心入こころいれと愛想あいそつかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意蔑ないがしろにするにはあらず、やさしき御言葉は骨に鏤きざんで七生忘れませぬ、女子おなごの世に生れし甲斐かい今日知りて此この嬉しさ果敢はかなや終り初物はつもの、あなたは旅の御客、逢あうも別れも旭日あさひがあの木梢こずえ離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて三戸野みどの馬籠まごめあたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも叶かなわず、斯こう云う中うちにも叔父様帰られては面倒めんどう、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも御身おんみの為ため、御迷惑かけては済すみませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき願望ねがいありながら、と跡あとの一句は口に洩もれず、薄紅うすくれないとなって顔に露あらわるゝ可愛かわゆさ、珠運の身みになってどうふりすてらるべき。仮令たとい叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘このまま左様ならと指を噉くわえて退のくはなんぼ上方産かみがたうまれの胆玉きもだまなしでも仕憎しにくい事、殊更最前さいぜんも云うた通りぞっこん善女ぜんにょと感じて居る御前おまえの憂目うきめを余所よそにするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も先後あとさきを考えて大方は分って居るから兎とも角かくも私の云事いうことに付ついたがよい、悪気でするではなし、私の詞ことばを立たてて呉くれても女のすたるでもあるまい、斯こうしましょ、是これからあの正直律義りちぎは口つきにも聞ゆる亀屋かめやの亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして埒らちを明あけましょう、親類でも無い他人づらが要いらぬ差出さしでた才覚と思わるゝか知らぬが、妹いもとという者持もっても見たらば斯こうも可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、眼めに見えた艱難かんなんの淵ふちに沈むを見ては居られぬ、何私が善根為したがる慾よくじゃと笑うて気を大きく持もつがよい、さあ御出おいでと取る手、振り払わば今川流、握り占しめなば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類珍重ちんちょう嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時そのときは嘘うそなりしなるべし。
下 弱よわきに施ほどこすに能以無畏のういむい

 コレ吉兵衛きちべえ、御お談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七しち様、昔は密男まおとこ拐帯かどわかしも仕してのけたが、穏当おとなしくなって姪子めいっこを売るのではない養女だか妾めかけだか知らぬが百両で縁を切きっで呉くれろという人に遣やる計ばかりの事、それをお辰たつが間夫まぶでもあるか、小間癪こましゃくれて先の知れぬ所へ行ゆくは否いやだと吼顔ほえづらかいて逃にげでも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間一寸ちょっと縛って置おいたのだ、珠運しゅうんとかいう二才野郎がどういう続きで何の故障こしょう。七しち、七、静しずかにしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中しゅくじゅうでの誉者ほまれもの、妙齢としごろになっても白粉おしろい一ひトつ付つけず、盆正月にもあらゝ木の下駄げた一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断能よくも貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切はぎしりを貴様に噛かんで涙をお辰に飜こぼすは、姑しゅうとに凍飯こおりめし食わするような冷い心の嫁も、お辰の話聞きいては急に角つのを折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上あげましょうかと老人としよりの機嫌きげんを取る気になるぞ、それを先度せんども上田の女衒ぜげんに渡そうとした人非人にんぴにんめ、百両の金が何で要いるか知らぬがあれ程の悌順やさしい女を金に易かえらるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情なさけが半分汲くめたならそんな事云いわずに有難涙ありがたなみだに咽むせびそうな者。オイ、亀屋かめやの旦那だんな、おれとお吉きちと婚礼の媒妁役なこうどやくして呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃よして下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介ごやっかいになろうとは申もうしませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きりり此処ここへ御出おだしなされ、七が眼尻めじりが上あがらぬうち温直すなおになされた方が御為おためかと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴やつに頼まれて口をきく計ばかりじゃ、おれは当人じゃ無なければ取計いかねると仰おっしゃるならば其男そのおとこに逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運立出たちいで、つくく見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮あぎと張りて一ト癖確たしかにある悪物しれもの、膝ひざすり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生なま弱々しい顔をして能よくもお辰を拐帯かどわかした、若いには似ぬ感心な腕うで、併しかし若いの、闘鶏しゃもの前では地鶏じどりはひるむわ、身の分限を知しったなら尻尾しりおをさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰おおせ、私も手短く申しましょうならお辰様を売うらせたくなければ御相談。ふざけた囈語ねごとは置おいてくれ。コレ七、静しずかに聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体小癪こしゃくな旅烏たびがらすと振りあぐる拳こぶし。アレと走り出いずるお辰、吉兵衛も共に止とめながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧ちえの無い男、無理に売うらずとも相談のつきそうな者を。フ相談付つかぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉とらえ立上たちあがる裙すそを抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買うりかいするというは今日こんにちの理に外れた事、娼妓じょうろにするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾やかましいわ、老耄おいぼれ、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞しまった、変改へんがいはとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵ののしり小兎こうさぎ攫つかむ鷲わしの眼まなざし恐ろしく、亀屋の亭主も是これまでと口を噤つぐむありさま珠運口惜くちおしく、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐あらしに逢あいて露脆もろく、此方こなたに向いて言葉はなく深く礼して叔父に付添つきそい立出たちいずる二タ足あし三足め、又後うしろふり向きし其そのあわれさ、八幡はちまん命かけて堪忍ならずと珠運七と呼留よびとめ、百両物の見事に投出して、亭主お辰の驚おどろくにも関かまわず、手続てつづき油断なく此この悪人と善女ぜんにょの縁を切りてめでたしし、まずは亀屋の養女分となしぬ。


第六 如是縁にょぜえん


上 種子たね一粒いちりゅうが雨露うろに養わる

 自分妾狂めかけぐるいしながら息子むすこの傾城買けいせいがいを責せむる人心、あさましき中にも道理ありて、七しちの所業誰たれ憎まぬ者なければ、酒呑のんで居ても彼奴きゃつ娘の血を吮すうて居るわと蔭言かげごとされ、流石さすがの奸物かんぶつも此処ここ面白からず、荒屋あばらや一ひトつ遺のこして米塩こめしお買懸かいがかりの云訳いいわけを家主いえぬし亀屋かめやに迷惑がらせ何処どこともなく去りける。珠運しゅうんも思い掛がけなく色々の始末に七日余り逗留とうりゅうして、馴染なじむにつけ亭主ていしゅ頼もしく、お辰たつ可愛かわゆく、囲炉裏いろりの傍はたに極楽国、迦陵頻伽かりょうびんがの笑声わらいごえ睦むつまじければ客あしらいされざるも却かえって気楽に、鯛たいは無なくとも玉味噌たまみその豆腐汁、心協あう同志どし安らかに団坐まどいして食う甘うまさ、或あるいは山茶やまちゃも一時いっときの出花でばなに、長き夜の徒然つれづれを慰めて囲い栗ぐりの、皮剥むいてやる一顆いっかのなさけ、嬉気うれしげに賞翫しょうがんしながら彼も剥むきたるを我に呉くるゝおかしさ。実げに山里も人情の暖あたたかさありてこそ住すめば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば最早もはや幾日か過すぎぬ、奈良という事臆おもい起しては空むなしく遊び居おるべきにあらずとある日支度整え勘定促し立出たちいでんというに亭主ていしゅ呆あきれて、是これは是は、婚礼も済すまぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は置玉おきたまえ。あなたならで誰とゝ云いわれてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は置玉おきたまえ、私約束したる覚おぼえなし。イヤ怪けしからぬ野暮やぼを云いわるゝは都の御方おかたにも似ぬ、今時の若者わかいものがそれではならぬ、さりとては百両投出なげだして七蔵にグッとも云いわせなかった捌さばき方と違っておぼこな事、それは誰しも耻はずかしければ其様そのようにまぎらす者なれど、何も紛まぎらすにも及ばず、爺じじが身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく御お待まちなされと何やら独呑込ひとりのみこみの様子、合点がてんならねば、是是これこれ御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に為様しようなぞとは一厘いちりんも思わず、忍びかねて難義を助たすけたる計ばかりの事、旅の者に女房授けられては甚はなはだ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問音曲おんぎょくのたしなみ無なくとも縫針ぬいはり暗からず、女の道自然と弁わきまえておとなしく、殿御とのごを大事にする事請合うけあいのお辰を迷惑とは、両柱ふたはしらの御神以来図ずない議論、それは表面うわべ、真まことを云えば御前の所行しょぎょうも曰いわくあってと察したは年の功、チョン髷まげを付つけて居ても粋すいじゃ、実まことはおれもお前のお辰に惚ほれたも善よく惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の惚様ほれようの上手なに感心して居るから、媼ばばとも相談して支度出来次第婚礼さする積つもりじゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の鞦しりがい外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも連立つれだって行きゃれ、おれも昔は脇差わきざしに好このみをして、媼も鏡を懐中してあるいた頃ころ、一世一代の贅沢ぜいたくに義仲寺ぎちゅうじをかけて六条様参り一所いっしょにしたが、旅ほど嚊かかが可愛かわゆうておもしろい事はないぞ、いまだに其頃そのころを夢に見て後での話しに、此この間も嫗ばばに真夜中頃ごろ入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は仕したり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる天窓あたまつるりとなでし。
中 実生みしょう二葉ふたばは土塊つちくれを抽ぬく

 我今まで恋と云いう事為したる覚おぼえなし。勢州せいしゅう四日市にて見たる美人三日眼前めさきにちらつきたるが其それは額に黒痣ほくろありてその位置ところに白毫びゃくごうを付つけなばと考えしなり。東京天王寺てんのうじにて菊の花片手に墓参りせし艶女えんじょ、一週間思い詰つめしが是これも其その指つきを吉祥菓きっしょうか持もたせ玉たもう鬼子母神きしぼじんに写してはと工夫せしなり。お辰たつを愛めでしは修業の足しにとにはあらざれど、之これを妻に妾めかけに情婦いろになどせんと思いしにはあらず、強しいて云わば唯ただ何となく愛めでし勢いきおいに乗りて百両は与あたえしのみ、潔白の我わが心中を忖はかる事出来ぬ爺じいめが要いらざる粋立すいだて馬鹿ばか々々し、一生に一つ珠運しゅうんが作意の新仏体を刻まんとする程の願望のぞみある身の、何として今から妻など持もつべき、殊にお辰は叔父おじさえなくば大尽だいじんにも望まれて有福ゆうふくに世を送るべし、人は人、我は我の思わくありと決定けつじょうし、置手紙にお辰宛あて少許すこしばかりの恩を伽かせに御身おんみを娶めとらんなどする賎いやしき心は露持たぬ由を認したため、跡は野となれ山路にかゝりてテクク歩行あるき。さても変物、此この男木作りかと譏そしる者は肉団にくだん奴才どさい、御釈迦様おしゃかさまが女房捨すてて山籠やまごもりせられしは、耆婆きばも匕さじを投なげた癩病らいびょう、接吻くちづけの唇くちびるポロリと落おちしに愛想あいそ尽つかしてならんなど疑う儕輩やからなるべし、あゝら尊し、尊し、銀の猫ねこ捨すてた所が西行さいぎょうなりと喜んで誉ほむる輩ともがら是も却かえって雪のふる日の寒いのに気が付つかぬ詮義せんぎならん。人間元より変な者、目盲めしいてから其その昔拝んだ旭日あさひの美しきを悟り、巴里パリーに住んでから沢庵たくあんの味を知るよし。珠運は立鳥たつとりの跡ふりむかず、一里あるいた頃ころ不図ふと思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく其人そのひとと後うしろ見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえと袂たもと取る様子、慥たしかにお辰と見れば又人も居おらず、四里あるき、五里六里行き、段々遠くなるに連れて迷う事多く、遂ついには其顔見たくなりて寧いっそ帰ろうかと一ひト足後あとへ、ドッコイと一二町ちょう進む内、むかかと其声聞度ききたくて身体からだの向むきを思わずくるりと易かゆる途端道傍みちばたの石地蔵を見て奈良よよ誤ったりと一町たらずあるく向むこうより来る夫婦連づれの、何事か面白相に語らい行くに我もお辰と会話はなし仕度したくなって心なく一間いっけん許ばかり戻もどりしを、愚おろかなりと悟って半町歩めば我しらず迷まよいに三間もどり、十足とあしあるけば四足よあし戻りて、果はては片足進みて片足戻る程のおかしさ、自分ながら訳も分らず、名物栗くりの強飯こわめし売うる家いえの牀几しょうぎに腰打掛うちかけてまずずと案じ始めけるが、箒木ははきぎは山の中にも胸の中にも、有無分明うむぶんみょうに定まらず、此処ここ言文一致家に頼みたし。
下 若木わかき三寸で螻けら蟻ありに害そこのう

 世の中に病やまいちょう者なかりせば男心のやさしかるまじ。髭先ひげさきのはねあがりたる当世才子、高慢の鼻をつまみ眼鏡めがねゆゝしく、父母干渉の弊害を説ときまくりて御異見の口に封蝋ふうろう付玉つけたまいしを一日粗造のブランディに腸加答児カタル起して閉口頓首とんしゅの折柄、昔風の思い付、気に入らぬか知らぬが片栗湯かたくりゆこしらえた、食たべて見る気はないかと厚き介抱かいほう有難く、へこたれたる腹にお母ふくろの愛情を呑のんで知り、是これより三十銭の安西洋料理食う時もケーク丈だけはポッケットに入れて土産みやげとなす様になる者ぞ、ゆめめ美妙なる天の配剤に不足云いうべからずと或人あるひと仰せられしは尤もっともなりけり。珠運しゅうん馬籠まごめに寒あたりして熱となり旅路の心細く二日計ばかり苦くるしむ所へ吉兵衛とお辰たつ尋ね来きたり様々の骨折り、病のよき汐しおを見計らいて駕籠かご安泰に亀屋かめやへ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、藪やぶ医者の薬も瑠璃光薬師るりこうやくしより尊き善女ぜんにょの手に持たせ玉える茶碗ちゃわんにて呑のまさるれば何利きかざるべき、追々おいおい快方に赴き、初めてお辰は我身の為ためにあらゆる神々に色々の禁物たちものまでして平癒せしめ玉えと祷いのりし事まで知りて涙湧わく程嬉うれしく、一ひト月あまりに衰おとろえこそしたれ、床を離れて其その祝義しゅうぎ済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り一間ひとまの中うちに入り何事をか長らく語らいけん、出いずる時女の耳の根ね紅あかかりし。其翌日男真面目まじめに媒妁なこうどを頼めば吉兵衛笑って牛の鞦しりがいと老人としよりの云う事どうじゃゃと云さして、元より其その支度したく大方は出来たり、善は急いで今宵こよいにすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁入いらすればおれも一トつの善よい功徳をする事ぞとホクク喜び、忽たちまち下女下男に、ソレ膳ぜんを出せ椀わんを出せ、アノ銚子ちょうしを出せ、なんだ貴様は蝶ちょうの折り様ようを知らぬかと甥子おいごまで叱しかり飛とばして騒ぐは田舎気質かたぎの義に進む所なり、かゝる中へ一人の男来きたりてお辰様にと手紙を渡すを見ると斉ひとしくお辰あわただしく其男に連立つれだちて一寸ちょっとと出いでしが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も来きたるに吉兵衛焦躁いらって八方を駈廻かけめぐり探索すれば同業の方かたに止とまり居し若き男と共に立去りしよし。牛の鞦しりがい爰ここに外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて猥褻みだらなる行おこないはお辰に限りて無なかりし者をと蜘手くもでに思い屈する時、先程の男来きたりて再また渡す包物つつみもの、開ひらきて見れば、一筆啓上仕つかまつり候そうろう未いまだ御意ぎょいを得ず候そうらえ共お辰様身の上につき御厚情こうせい相掛あいかけられし事承り及びあり難く奉存候ぞんじたてまつりそうろうさて今日貴殿御計おんはからいにてお辰婚姻取結ばせられ候由驚入申おどろきいりもうし候仔細しさい之これあり御辰様儀婚姻には私方かた故障御座候故従来の御礼旁かたがた罷まかり出て相止申あいとめもうすべくとも存ぞんい候え共ども如何いかにも場合切迫致し居おり且かつはお辰様心底によりては私一存にも参り難がたく候様ようの義に至り候ては迷惑に付つき甚はなはだ唐突不敬なれども実はお辰様を賺すかし申し此この婚姻相延あいのべ申候よう決行致し候尚なお又また近日参上仕つかまつり入り込こみたる御話し委細申上もうしあぐべく心得に候え共ども差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候間あいだ御受納下され度たく候不悉ふしつ 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵家従けらい田原栄作たはらえいさくとありて末書に珠運様とやらにも此旨このむね御鶴声かくせい相伝あいつたえられたく候と筆を止とどめたるに加えて二百円何だ紙なり。


第七 如是報にょぜほう


我は飛とび来きぬ他化自在天宮たけじざいてんぐうに

 オヽお辰たつかと抱き付かれたる御方おかた、見れば髯ひげうるわしく面おもて清く衣裳いしょう立派なる人。ハテ何処どこにてか会いたる様ようなと思いながら身を縮まして恐々おそるおそる振り仰ぐ顔に落来おちくる其その人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず扨さては父様ととさまかと早く悟りてすがる少女おとめの利発さ、是これにも室香むろかが名残の風情ふぜい忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、御機嫌ごきげんよろしゅうと言葉後じり力なく送られし時、跡ふりむきて今一言ひとこと交かわしたかりしを邪見に唇囓切かみしめて女々めめしからぬ風ふり誰たが為ためにか粧よそおい、急がでもよき足わざと早めながら、後うしろ見られぬ眼めを恨うらみし別離わかれの様まで胸に浮うかびて切せつなく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは我わが誤り、もう是からは花も売うらせぬ、襤褸つづれも着せぬ、荒き風を其その身体からだにもあてさせぬ、定めしおれの所業しわざをば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り詰つめた心も恋には緩ゆるんで、夜深よふかに一人月を詠ながめては人しらぬ露窄せまき袖そでにあまる陣頭の淋さびしさ、又は総軍の鹿島立かしまだちに馬蹄ばていの音高く朝霧を蹴けって勇ましく進むにも刀の鐺こじり引ひかるゝように心たゆたいしが、一封の手簡てがみ書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎うとくなりしも情合じょうあいの薄いからではなし、軍事の烈はげしさ江戸に乗り込んで足溜あしだまりもせず、奥州おうしゅうまで直押ひたおしに推す程の勢いきおい、自然と焔硝えんしょうの煙に馴なれては白粉おしろいの薫かおり思い出いださず喇叭らっぱの響に夢を破れば吾妹子わぎもこが寝くたれ髪の婀娜あだめくも眼前めさきにちらつく暇いとまなく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には励はげみ、凱歌かちどきの鋭気には乗じ、明あけても暮くれても肘ひじを擦さすり肝きもを焦がし、饑うえては敵の肉に食くらい、渇しては敵の血を飲まんとするまで修羅しゅらの巷ちまたに阿修羅あしゅらとなって働けば、功名一ひトつあらわれ二ツあらわれて総督の御覚おんおぼえめでたく追々おいおいの出世、一方の指揮となれば其任愈いよいよ重く、必死に勤めけるが仕合しあわせに弾丸たまをも受けず皆々凱陣がいじんの暁、其方そのほう器量学問見所あり、何某なにがし大使に従って外国に行き何々の制度能々よくよく取調べ帰朝せば重く挙あげ用もちいらるべしとの事、室香に約束は違たがえど大丈夫青雲の志此時このとき伸のぶべしと殊に血気の雀躍こおどりして喜び、米国より欧州に前後七年の長逗留ながとうりゅう、アヽ今頃いまごろは如何どうして居おるか、生れた子は女か、男か、知らぬ顔に、知られぬ顔、早く頬摺ほおずりして膝ひざの上に乗せ取り、護謨ゴム人形空気鉄砲珍らしき手玩具おもちゃ数々の家苞いえづとに遣やって、喜ぶ様子見たき者と足をつま立だて三階四階の高楼たかどのより日本の方角徒いたずらに眺ながめしも度々なりしが、岩沼卿いわぬまきょうと呼よばせらるる尊たっとき御身分の御方おんかた、是も御用にて欧州に御滞在中、数ならぬ我を見たて御子おんこなき家の跡目に坐すわれとのあり難き仰せ、再三辞いなみたれど許されねば辞いなみ兼かねて承知し、共々嬉うれしく帰朝して我は軽かろからぬ役を拝命する計ばかりか、終ついに姓を冒して人に尊まるゝに付ついてもそなたが母の室香が情なさけ何忘るべき、家来に吩附いいつけて段々糺ただせば、果敢はかなや我と楽たのしみは分わけで、彼岸かのきしの人と聞くつらさ、何年の苦労一トつは国の為ためなれど、一トつは色紙しきしのあたった小袖こそで着て、塗ぬりの剥はげた大小さした見所もなき我を思い込んで女の捨難すてがたき外見みえを捨て、譏そしりを関かまわず危あやうきを厭いとわず、世を忍ぶ身を隠匿かくまい呉くれたる志、七生忘れられず、官軍に馳はせ参さんぜんと、決心した我すら曇り声に云いい出いだせし時も、愛情の涙は瞼まぶたに溢あふれながら義理の詞ことば正しく、予かねての御本望妾わたくしめまで嬉うれしゅう存じますと、無理な笑顔えがおも道理なれ明日知らぬ命の男、それを尚なおも大事にして余りに御髪おぐしのと髯ひげ月代さかやき人手にさせず、後うしろに廻まわりて元結もとゆいも〆力しめちからなき悲しさを奥歯に噛かんできりりと見苦しからず結うて呉れたる計ばかりか、おのが頭かしらにさしたる金簪きんかんざしまで引抜き温ぬくみを添えて売ってのみ、我身のまわり調度にして玉たまわりし大事のの女房に満足させて、昔の憂うきを楽たのしみに語りたさの為ためなりしに、情無なさけなくも死なれては、花園はなぞのに牡丹ぼたん広々と麗うるわしき眺望ながめも、細口の花瓶に唯ただ二三輪の菊古流しおらしく彼が生いけたるを賞ほめ、賞ほめられて二人ふたりの微笑ほほえみ四畳半に籠こもりし時程は、今つくねんと影法師相手に独ひとり見る事の面白からず、栄華を誰たれと共に、世も是迄これまでと思い切って後妻のちぞいを貰もらいもせず、さるにても其子何処どこぞと種々さまざま尋ねたれど漸ようやくそなたを里に取りたる事ある嫗ばばより、信濃しなのの方へ行かれたという噂うわさなりしと聞出ききいだしたる計ばかり、其筋の人に頼んでも何故なにゆえか分らず、我われ外ほかに子なければ年老としおいる丈だけ愈いよいよ恋しく信州にのみ三人も家従けらいをやって捜さがさせたるに、辛からくも田原が探し出いだして七蔵しちぞうという悪者よりそなた貰もらい受けんとしたるに、如何どういう訳か邪魔入いりて間もなくそなたは珠運しゅうんとか云う詰つまらぬ男に、身を救われたる義理づくやら亀屋かめやの亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、一旦いったん帰京かえって二度目にまた丁度ちょうど行き着つきたる田原が聞きいて狼狽ろうばいし、吾わが書捨かきすてて室香に紀念かたみと遺のこせし歌、多分そなたが知しって居るならんと手紙の末に書かきし頓智とんちに釣つり出いだし、それから無理に訳も聞かせず此処ここまで連つれて来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして天晴あっぱれの婿むこ取り、初孫ういまごの顔でも見たら夢の中うちにそなたの母に逢あっても云訳いいわけがあると今からもう嬉うれしくてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、衣裳いしょう着かゆさすれば、先刻さっき内々戸の透すきから見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿布子ぬのこ着せて置おいた親の耻はずかしさ、小間物屋も呼よばせたれば追付おっつけ来くるであろう、櫛くし簪かんざし何なりと好すきなのを取れ、着物も越後屋えちごやに望のぞみ次第云付いいつけさするから遠慮なくお霜しもを使つかえ、あれはそなたの腰元だから先刻さっきの様ように丁寧ていねいに辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。舞踏会ぶとうかいや音楽会へも少し都風みやこふうが分って来たら連つれて行ゆきましょ。書物は読よめるかえ、消息往来庭訓ていきんまでは習ったか、アヽ嬉しいぞ好々よしよし、学問も良い師匠を付つけてさせようと、慈愛は尽つきぬ長物語り、扨さてこそ珠運が望み通り、此この女菩薩にょぼさつ果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。


第八 如是力にょぜりき


上 楞厳呪文りょうごんじゅもんの功も見えぬ愛慾あいよく

 古風作者こふうさくしゃの書かきそうな話し、味噌越みそこし提げて買物あるきせしあのお辰たつが雲の上人うえびと岩沼いわぬま子爵ししゃく様さまの愛娘まなむすめと聞きいて吉兵衛仰天し、扨さてこそ神も仏も御座る世じゃ、因果覿面てきめん地ならしのよい所に蘿蔔だいこは太りて、身持みもちのよい者に運の実がなる程理に叶かなった幸福と無上に有難がり嬉うれしがり、一も二もなく田原の云事いうこと承知して、おのが勧めて婚姻さし懸かけたは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運しゅうんの腹はら聞きかずとも知れてると万端埒らち明け、貧女を令嬢といわるゝように取計とりはからいたる後、先日の百両突戻つきもどして、吾われ当世の道理は知しらねど此様このような気に入らぬ金受取る事大嫌だいきらいなり、珠運様への百両は慥たしかに返したれど其人そのひとに礼もせぬ子爵から此この親爺おやじが大枚たいまいの礼貰もらうは煎豆いりまめをまばらの歯で喰くえと云わるゝより有難迷惑、御返し申もうしますと率直に云えば、否いやそれは悪い合点がてん、一酷いっこくにそう云われずと子爵からの御志、是非御取置おとりおき下され、珠運様には別に御礼を申もうしますが姿の見えぬは御立たちなされたか、ナニ奥の坐敷ざしきに。左様さようなら一寸ちょっとと革嚢カバンさげて行ゆきかゝれば亭主ていしゅ案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖からかみ開きて初対面の挨拶あいさつ了おわりお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃さきごろよりの礼厚く演のべて子爵より礼の餽おくり物数々、金子きんす二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列おきならべてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文ふみ丈だケ受取りて其他には手も付つけず、先日の百両まで其処そこに投出し顔しかめて。御持帰おもちかえり下さい、面白からぬ御所置、珠運の為した事を利を取ろう為ための商法と思われてか片腹痛し、些許ちとばかりの尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫それより段々馴染なじむにつけ、縁あればこそ力にもなりなられて互たがいに嬉敷うれしく心底打明け荷物の多きさえ厭いとう旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然だしぬけに引攫ひきさらい人の恋を夢にして貘ばくに食くわせよという様ような情なさけなきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜きぬけする程恨めしくは存じたれど、只今ただいま承れば御親子ごしんしの間柄、大切の娘御を私風情の賎いやしき者に嫁入よめいらしてはと御家従ごけらいのあなたが御心配なすッて連つれて行ゆかれたも御道理、決して私めが僣上せんじょうに岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申もうしませぬから、金円品物は吃度きっと御持帰り下され、併しかしまざざと夫婦約束までしたあの花漬売はなづけうりは、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽おんたけの雪は消ゆる事もあれ此念このおもいは消きえじ、アヽ否いやなのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果はては取乱とりみだして男の述懐じゅっかい。爰ここぞ肝要、御主人の仰せ受うけて来た所なり。よしや此恋諏訪すわの湖うみの氷より堅くとも春風のぼややと説きやわらげ、凝りたる思おもいを水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔えがおあやしく作り上唇うわくちびる屡しば甞なめながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度また花漬売にならるゝ瀬も無なかるべければ、詰りあなたの無理な御望おのぞみと云者いうもの、あなたも否いやなのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召おぼしめしでも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済すみたるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生なま若い者の感情、追付おっつけ変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何いずれかの貴族の若公わかぎみを納いれらるゝ御積り、是これも人の親の心になって御考おかんがえなされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解おわかりで御座りましょう、箇様かよう申せばあなたとお辰様の情交あいなかを割さく様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就覚束おぼつかなき因縁、男らしゅう思い切られたが双方そのほうの御為おためかと存じます、併しかしお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等これらの餽物おくりもの親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰おっしゃったとて此儘このままにはならず、どうか条理の立様たつよう御分別なされて、枉まげても枉まげても、御受納と舌した小賢こざかしく云迯いいにげに東京へ帰ったやら、其後音沙汰おとさたなし。さても浮世や、猛たけき虎とらも樹きの上の猿さるには侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾われ肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付つけさし、恐惶謹言きょうこうきんげんさせて子爵には一目置いちもくおいた挨拶あいさつさせ差詰さしづめ聟殿むこどのと大切がられべきを、四民同等の今日とて地下じげと雲上うんじょうの等差ちがい口惜し、珠運を易やすく見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札さつで唇にかすがい膏打こううつような処置、遺恨千万、さりながら正四位しょうしい何の某なにがしとあって仏師彫刻師を聟むこには為したがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々そもそも仏師は光孝こうこう天皇是忠これただの親王等の系に出いでて定朝じょうちょう初めて綱位こういを受うけ、中々なかなか賎いやしまるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂凝こりしを彫像と云う程尊たっとむ技を為なす吾われ、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、仮令たとい令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、蝸牛ででむしの角立つのだてて何の益なし、残念や無念やと癇癪かんしゃくの牙きばは噛かめども食付くいつく所なければ、尚なお一段の憤悶ふんもんを増して、果はては腑甲斐ふがいなき此身惜おしからずエヽ木曾川の逆巻さかまく水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相変かわる夜半よわもありし。
下 化城諭品けじょうゆぼんの諫いさめも聴きかぬ執着しゅうじゃく

 痩やせたりやや、病気揚句あげくを恋に責せめられ、悲かなしみに絞られて、此身細々と心引立ひきたたず、浮藻うきも足をからむ泥沼どろぬまの深水ふかみにはまり、又は露多き苔道こけみちをあゆむに山蛭やまびるひいやりと襟えりに落おつるなど怪しき夢計ばかり見て覚際さめぎわ胸あしく、日の光さえ此頃このごろは薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の様よう恨む珠運しゅうん、旅路にかりそめの長居ながい、最早もはや三月みつき近くなるにも心付つかねば、まして奈良へと日課十里の行脚あんぎゃどころか家内やうちをあるく勇気さえなく、昼は転寝うたたね勝がちに時々怪けしからぬ囈語うわごとしながら、人の顔見ては戯談じょうだん一ひトつ云わず、にやりともせず、世は漸ようやく春めきて青空を渡る風長閑のどかに、樹々きぎの梢こずえ雪の衣脱ぎ捨て、家々の垂氷たるひいつの間にか失うせ、軒伝う雫しずく絶間たえまなく白い者班まばらに消えて、南向みなみむきの藁わら屋根は去年こぞの顔を今年初めて露あらわせば、霞かすむ眼めの老おいも、やれ懐かしかったと喜び、水は温ぬるみ下草は萌もえた、鷹たかはまだ出ぬか、雉子きじはどうだと、終ついに若鮎わかあゆの噂うわさにまで先走りて若い者は駒こまと共に元気付づきて来る中に、さりとてはあるまじき鬱ふさぎ様よう。此この跡ががらりと早変りして、さてもも和御寮わごりょは踊る振ふりが見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の大陽気おおようきにでも成なられまい者でもなしと亀屋かめやの爺おやじ心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の片輪かたわ田の中に踏込んだ様ようにじっとして、くよよして居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に廻めぐり合あうかもしれぬ、目印の柳の下で平常ふだん魚は釣つれぬ代り、思いよらぬ蛤はまぐりの吸物から真珠を拾い出すと云う諺ことわざがあるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は他ほかにもある者を、と詞ことばおかしく、兀頭はげあたまの脳漿のうみそから天保度てんぽうどの浮気論主意書うわきろんしゅいがきという所を引抽ひきぬき、黴かびの生はえた駄洒落だじゃれを熨斗のしに添そえて度々進呈すれど少しも取り容いれず、随分面白く異見を饒舌しゃべっても、却かえって珠運が溜息ためいきの合あいの手の如ごとくなり、是では行かぬと本調子整々堂々、真面目まじめに理屈りくつしんなり諄々くどくどと説諭すれば、不思議やさしも温順おとなしき人、何にじれてか大薩摩おおざつまばりばりと語気烈はげしく、要いらざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、関かまわず置おけば当世時花はやらぬ恋の病になるは必定、如何どうにかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも寧いっそ、経帷子きょうかたびらで吾家わがやを出立しゅったつするようにならぬ内追払おっぱらおうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら兎とも角かくも、我口わがくちから事仕出しいだした上は我わが分別で結局つまりを付つけねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき気象きしょうぞかし。年としは老とるべきもの流石さすが古兵ふるつわものの斥候ものみ虚実の見所誤らず畢竟ひっきょう手に仕業しわざなければこそ余計な心が働きて苦くるしむ者なるべしと考えつき、或日あるひ珠運に向って、此日本一果報男め、聞玉ききたまえ我昨夜の夢に、金襖きんぶすま立派なる御殿の中うち、眼めもあやなる美しき衣裳いしょう着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ其その鬢付びんつき襟足えりあしのしおらしさ、後うしろからかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば唯ただは置おけぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろろと伺いより椽側えんがわに片手つきてそっと横顔拝めば、驚おどろいたりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更憂うれいを含む工合ぐあい凄味すごみあるに総毛立そうけだちながら尚なお能よくそこら見廻みまわせば、床に掛かけられたる一軸誰たれあろうおまえの姿絵故ゆえ少し妬ねたくなって一念の無明むみょう萌きざす途端、椽の下から顕あらわれ出いでたる八百八狐はっぴゃくやぎつね付添つきそいて己おれの踵かかとを覗ねらうから、此奴こやつたまらぬと迯出にげだす後うしろから諏訪法性すわほっしょうの冑かぶとだか、粟あわ八升も入る紙袋かんぶくろだかをスポリと被かぶせられ、方角さらに分らねば頻しきりと眼玉を溌々ぱちぱちしたらば、夜具の袖そでに首を突込つっこんで居たりけりさ、今の世の勝頼かつよりさま、チト御驕おおごりなされ、アハヽヽと笑い転ころげて其儘そのまま坐敷ざしきをすべり出いでしが、跡は却かえって弥いや寂さびしく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、其事そのこと彼事かのこと寂然じゃくねんと柱に凴もたれながら思ううち、瞼まぶた自然とふさぐ時ありりとお辰の姿、やれまてと手を伸のばして裙すそ捉とらえんとするを、果敢はかなや、幻の空に消えて遺のこるは恨うらみ許ばかり、爰ここにせめては其面影おもかげ現うつつに止とどめんと思いたち、亀屋の亭主ていしゅに心添そえられたるとは知らで自みずから善事よきこと考え出いだせし様ように吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる一間ひとま欲ほしとならばお辰住居すまいたる家尚なお能よからん、畳さえ敷けば細工部屋にして精々せいぜい一ト月位住すまうには不足なかるべし、ナニ話に来るは謝絶ことわると云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を賄まかなうより外に人を通わせぬよう致しますか、然しかし余り牢住居ろうずまいの様ようではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞丈だけは節々せつせつ上あげましょう、ハテ要いらぬとは悪い合点がてん、気の尽つきた折は是非世間の面白可笑おかしいありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が笑えまし気げに恋人の住すみし跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる良よき木なく百方索さがしたれど見当らねば厚き檜ひのきの大きなる古板を与えぬ。


第九 如是果にょぜか


上 既すでに仏体ぶったいを作りて未得みとく安心あんしん

 勇猛ゆうみょう精進潔斎怠らず、南無帰命頂礼なむきみょうちょうらいと真心を凝こらし肝胆かんたんを砕きて三拝一鑿いっさく九拝一刀、刻み出いだせし木像あり難や三十二相そう円満の当体とうたい即仏そくぶつ、御利益ごりやく疑うたがいなしと腥なまぐさき和尚様おしょうさま語られしが、さりとは浅い詮索せんさく、優鈿うでん大王だいおうとか饂飩うどん大王だいおうとやらに頼まれての仕事しわざ、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に木片ききれの飛込とびこむも構わず、恐れ惶かしこみてこそ作りたれ、恭敬三昧きょうけいざんまいの嬉うれしき者ならぬは、御本尊様の前の朝暮ちょうぼの看経かんきんには草臥くたびれを喞かこたれながら、大黒だいこくの傍そばに下らぬ雑談ぞうだんには夜の更ふくるをも厭いとい玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、石鹸シャボン玉泡沫ほうまつ夢幻むげんの世に楽を為せでは損と帳場の金を攫つかみ出して御歯涅おはぐろ溝どぶの水と流す息子なりしとかや。珠運しゅうんは段々と平面板ひらいたに彫浮ほりうかべるお辰たつの像、元より誰たれに頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、唯ただ恋しさに余りての業、一刀いっとう削けずりては暫しばらく茫然ぼうぜんと眼めを瞑ふさげば花漬はなづけめせと矯音きょうおんを洩もらす口元の愛らしき工合ぐあい、オヽそれれと影を促とらえて再また一ひト刀かたな、一ト鑿のみ突いては跡ずさりして眺ながめながら、幾日の恩愛扶たすけられたり扶けたり、熱に汗蒸れ垢あか臭き身体からだを嫌いやな様子なく柔やさしき手して介抱し呉くれたる嬉しさ今は風前の雲と消えて、思おもいは徒いたずらに都の空に馳はする事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて此家このいえを出し其折そのおり、留とどめられたる袖そで思い切きって振払いしならばかくまでの切なる苦くるしみとはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、吾われから吾を弁わきまえ難く、恍惚うっとりとする所へ著あらわるゝお辰の姿、眉付まゆつき媚なまめかしく生々いきいきとして睛ひとみ、何の情じょうを含みてか吾わが与あたえし櫛くしにジッと見とれ居る美しさ、アヽ此処ここなりと幻像まぼろしを写して再また一鑿ひとのみ、漸ようやく二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の襤褸つづれをも著きせねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の花綴衣はなつづりぎぬ麗しく引纏ひきまとわせたる全身像惚ほれた眼からは観音の化身けしんかとも見れば誰たれに遠慮なく後光輪ごこうまで付つけて、天女の如ごとく見事に出来上り、吾われながら満足して眷々ほれぼれとながめ暮くらせしが、其夜の夢に逢瀬おうせ平常いつもより嬉しく、胸あり丈たケの口説くぜつ濃こまやかに、恋知しらざりし珠運を煩悩ぼんのうの深水ふかみへ導きし笑窪えくぼ憎しと云えば、可愛かわゆがられて喜ぶは浅し、方様かたさまに口惜しい程憎まれてこそ誓文せいもん移り気ならぬ真実を命打込うちこんで御見せ申もうしたけれ。扨さては迷惑、一生可愛かわゆがって居様いようと思う男に。アレ嘘うそ、後先揃そろわぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく睨にらんで打ぶつ真似にちょいとあぐる、繊麗きゃしゃな手首緊しっかりと捉とらえて柔やわらかに握りながら。打ぶたるゝ程憎まれてこそ誓文せいもん命掛かけて移り気ならぬ真実をと早速の鸚鵡おうむ返し、流石さすがは可笑おかしくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、此この手を。離さぬが悪いか。ハイ。これははく大きに失礼と其儘そのまま離してひぞる真面目まじめ顔を、心配相に横から覗のぞき込めば見られてすまし難がたく其眼を邪見に蓋ふたせんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと男詞おとこことば、後あとは協音きょうおんの笑わらい計ばかり残る睦むつまじき中に、娘々むすめむすめと子爵の鏽声さびごえ。目め覚さむれば昨宵ゆうべ明放あけはなした窓を掠かすめて飛ぶ烏からす、憎や彼奴あれめが鳴いたのかと腹立はらだたしさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には遙はるか劣りて身を掩おおう数々の花うるさく、何処どこの唐草からくさの精霊ばけものかと嫌いやになったる心には悪口も浮うかみ来きたるに、今は何を着すべしとも思い出いだせず工夫錬り練り刀を礪とぎぬ。
下 堅く妄想もうそうを捏でつして自覚妙諦みょうたい

 腕を隠せし花一輪削り二輪削り、自己おのが意匠の飾かざりを捨て人の天真の美を露あらわさんと勤めたる甲斐かいありて、なまじ着せたる花衣脱ぬがするだけ面白し。終ついに肩のあたり頸筋くびすじのあたり、梅も桜も此この君の肉付にくづきの美しきを蔽おおいて誇るべき程の美しさあるべきやと截たち落おとし切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、是これを隠す菊の花、香も無き癖くせに小癪こしゃくなりきと刀急せわしく是も取って払い、可笑おかしや珠運しゅうん自ら為したる業わざをお辰たつの仇あだが為したる事の様ように憎み今刻み出いだす裸体はだかみも想像の一塊いっかいなるを実在まことの様に思えば、愈々いよいよ昨日は愚おろかなり玉の上に泥絵具どろえのぐ彩りしと何が何やら独り後悔慚愧ざんきして、聖書の中へ山水天狗楽書やまみずてんぐらくがきしたる児童が日曜の朝字消護謨じけしゴムに気をあせる如ごとく、周章狼狽ろうばい一生懸命刀とうは手を離れず、手は刀を離さず、必死と成なって夢我むが夢中、きらめく刃やいばは金剛石の燈下に転まろぶ光きらら截切たちきる音は空そら駈かくる矢羽やばねの風を剪きる如く、一足退すさって配合つりあいを見み糺ただす時は琴ことの糸断えて余韵よいんのある如く、意こころ糾々きゅうきゅう気昂々こうこう、抑そも幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験修錬しゅれん、渦うずまき起って沸々ふつふつと、今拳頭けんとうに迸ほとばしり、倦うむも疲つかれも忘れ果て、心は冴さえに冴さえ渡る不乱不動の精進波羅密しょうじんはらみつ、骨をも休めず筋をも緩めず、湧わくや額に玉の汗、去りも敢あえざる不退転、耳に世界の音も無なく、腹に饑うえをも補わず自然おのずと不惜身命ふじゃくしんみょうの大勇猛だいゆうみょうには無礙むげ無所畏むしょい、切屑きりくず払う熱き息、吹き掛け吹込ふっこむ一念の誠を注ぐ眼の光り、凄すさまじきまで凝り詰むれば、爰ここに仮相けそうの花衣はなごろも、幻翳げんえい空華くうげ解脱げだつして深入じんにゅう無際むさい成就じょうじゅ一切いっさい、荘厳しょうごん端麗あり難き実相美妙みみょうの風流仏ふうりゅうぶつ仰ぎて珠運はよろろと幾足うしろへ後退あとずさり、ドッカと坐ざして飛散りし花を捻ひねりつ微笑びしょうせるを、寸善尺魔すんぜんしゃくまの三界さんがいは猶如ゆうにょ火宅かたくや。珠運さま珠運さまと呼声よびごえ戸口にせわし。


第十 如是本末究竟等にょぜほんまつくきょうとう


上 迷迷迷めいめいめい、迷まよいは唯識所変ゆいしきしょへんゆえ凡ぼん

 下碑げじょが是非御来臨おいでなされというに盗まれべき者なき破屋あばらやの気楽さ、其儘そのまま亀屋かめやへ行けば吉兵衛待兼顔まちかねがおに挨拶して奥の一間へ導き、扨さて珠運しゅうん様、あなたの逗留とうりゅうも既に長い事、あれ程有ありし雪も大抵は消きえて仕舞しまいました、此頃このごろの天気の快よさ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道そのみち勉強の為ために諸国行脚あんぎゃなさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計ばかり居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無なかろうが若い人の癖とてあのお辰たつに心を奪うばわれ、然しかも取残された恨うらみはなく、その木像まで刻むと云いうは恋に親切で世間に疎うとい唐土もろこしの天子様が反魂香はんごんこう焼たかれた様ような白痴たわけと悪口を叩たたくはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢あわぬ昔と諦あきらめて奈良へ修業に行いって、天晴あっぱれ名人となられ、仮初かりそめながら知合しりあいとなった爺じいの耳へもあなたの良よい評判を聞せて貰もらい度たい、然し何もあなたを追立おいたてる訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗のぞけば像も見事に出来た様子、此この上長く此地に居いられても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付つけてお前可愛かわゆく、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様よいよう昨夕ゆうべ聢しかと考えて見たが、何どうでも詰らぬ恋を商買しょうばい道具の一刀に斬きって捨すて、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行ゆかれた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事仕した覚おぼえはないが、是これが罪になって地獄の鉄札てっさつにでも書かかれはせぬかと、今朝けさも仏様に朝茶上あげる時懺悔ざんげしましたから、爺が勧めて爺が廃よせというは黐竿もちざお握らせて殺生せっしょうを禁ずる様ような者で真に云憎いいにくき意見なれど、此ここを我慢して謝罪わびがてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物いきもの杓子定規しゃくしじょうぎの理屈で平押ひらおしには行ゆかず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺参まいりして御先祖様の墓に樒しきみ一束手向たむくる易やすさより孫娘に友禅ゆうぜんを買かって着きせる苦しい方が却かえって仕易しやすいから不思議だ、損徳を算盤そろばんではじき出したら、珠運が一身二一添作にいちてんさくの五も六もなく出立しゅったつが徳と極るであろうが、人情の秤目はかりめに懸かけては、魂の分銅ふんどう次第、三五さんごが十八にもなりて揚屋酒あげやざけ一猪口ひとちょくが弗箱ドルばこより重く、色には目なし無二無三むざん、身代しんだいの釣合つりあい滅茶苦茶めちゃくちゃにする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの迷まよいも矢張やっぱり人情、そこであなたの合点がてんの行様ゆくよう、年の功という眼鏡めがねをかけてよくく曲者くせものの恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い切きらせましょう。先まず第一に何を可愛かわゆがって誰たれを慕したうのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の考かんがえでは恐らく女に溺おぼれる男も男に眩くらむ女もなし、皆々手製の影法師に惚ほれるらしい、普通なみなみの人の恋の初幕しょまく、梅花の匂においぷんとしたに振向ふりむけば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では西行さいぎょうも凡夫ぼんぷも変かわりはなけれど、白痴こけは其女の影を自分の睛ひとみの底に仕舞込しまいこんで忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い挨拶あいさつの一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、愛敬詞あいきょうことばを執着しゅうじゃくの耳の奥で繰り返し玉い、尚なお因縁深ければ戯談じょうだんのやりとり親切の受授うけさずけ男は一寸ちょっと行ゆくにも新著百種の一冊も土産みやげにやれば女は、夏の夕陽ゆうひの憎や烈はげしくて御暑う御座りましたろと、岐阜団扇ぎふうちわに風を送り氷水に手拭てぬぐいを絞り呉くれるまでになってはあり難さ嬉うれしさ御馳走ごちそうの瓜うりと共に甘うまい事胃の腑ふに染渡しみわたり、さあ堪たまらぬ影法師殿むくくと魂入り、働き出し玉う御容貌ごきりょうは百三十二相そうも揃そろい御声おんこえは鶯うぐいすに美音錠びおんじょう飲ましたよりまだ清く、御心ごしんもじ広大無暗むやみに拙者せっしゃを可愛かわゆがって下さる結構尽づくめ故ゆえ堪忍ならずと、車を横に押し親父おやじを勘当しても女房に持つ覚悟極きめて目出度めでたく婚礼して見ると自分の妄像もうぞうほど真物ほんものは面白からず、領脚えりあしが坊主ぼうずで、乳の下に焼芋の焦こげた様ようの痣あざあらわれ、然も紙屑屋かみくずやとさもしき議論致されては意気な声も聞ききたくなく、印付しるしつきの花合はなあわせ負まけても平気なるには寛容おおようなる御心おこころ却かえって迷惑、どうして此様このような雌めすを配偶つれあいにしたかと後悔するが天下半分の大切おおぎり、真実まことを云いえば一尺の尺度ものさしが二尺の影となって映る通り、自分の心という燈ともしびから、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も恨うらみもあるもの、お辰めとても其如そのごとく、おまえの心から製こしらえた影法師におまえが惚ほれて居る計ばかり、お辰の像に後光まで付つけた所では、天晴あっぱれ女菩薩にょぼさつとも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃゃ、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、此爺このじいも今日悟って憎くなった迷うなな、爰ここにある新聞を読よめ、と初はじめは手丁寧後は粗放そほうの詞ことばづかい、散々にこなされて。おのれ爺じじいめ、えせ物知ものしりの恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと呼捨よびすて片腹痛しと睨にらみながら、其事そのことの返辞はせず、昨日頼み置おきし胡粉ごふん出来て居るかと刷毛はけ諸共もろともに引𢪸ひきもぐように受取り、新聞懐中して止むるをきかず突つと立たって畳ざわりあらく、馴なれし破屋あばらやに駈戻かけもどりぬるが、優然として長閑のどかに立たてる風流仏ふうりゅうぶつ見るより怒いかりも収り、何はさておき色合程よく仮に塗上ぬりあげて、柱にもたれ安坐あんざして暫しばらく眺ながめたるこそ愚おろかなれ。吉兵衛の詞ことば気になりて開く新聞、岩沼令嬢と業平侯爵なりひらこうしゃくと題せる所をふと読下せば、深山みやまの美玉都門びぎょくともんに入いってより三千の碔砆ぶふに顔色なからしめたる評判嘖々さくさくたりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に潮ちょうして其その一顰一笑いっぴんいっしょうを得んと欲ほっせしが預かねて今業平いまなりひらと世評ある某侯爵は終ついに子爵の許諾ゆるしを経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称空むなしからざる好男子なるは人の知所しるところなれば令嬢の艶福えんぷく多い哉かな侯爵の艶福も亦また多い哉かな艶福万歳羨望せんぼうの到いたりに勝たえず、と見るる面色赤くなり青くなり新聞紙引裂ひきさき捨すて何処いづくともなく打付うちつけたり。
下 恋恋恋れんれんれん、恋こいは金剛不壊こんごうふえなるが聖せい

 虚言うそという者誰たれ吐つきそめて正直は馬鹿ばかの如ごとく、真実は間抜まぬけの様ように扱わるゝ事あさましき世ぞかし。男女なんにょの間変らじと一言ひとこと交かわせば一生変るまじきは素もとよりなるを、小賢こさかしき祈誓三昧きしょうさんまい、誠少き命毛いのちげに情なさけは薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の中うち慨なげかわしと昔の人の云いいたるが、夫それも牛王ごおうを血に汚けがし神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は熊野くまのを茶にして罰ばちを恐れず、金銀を命と大切だいじにして、一ひとつ金きん千両也なり右借用仕候段実正みぎしゃくようつかまつりそうろうだんじっしょうなりと本式の証文遣やり置き、変心の暁は是これが口を利ききて必ず取立とりたてらるべしと汚き小判こばんを枷かせに約束を堅かためけると、或書あるしょに見えしが、是これも烏賊いかの墨で文字書き、亀かめの尿いばりを印肉に仕懸しかくるなど巧たくみ出いだすより廃すたれて、当時は手早く女は男の公債証書を吾名わがなにして取り置おき、男は女の親を人質ひとじちにして僕使めしつかうよし。亭主ていしゅ持もつなら理学士、文学士潰つぶしが利く、女房持もたば音楽師、画工えかき、産婆三割徳ぞ、ならば美人局つつもたせ、げうち、板の間挊かせぎ等の業《わざ》出来て然《しか》も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに詫付《かこつけ》華族の若様のゴールの指輪一日に五六位《いつつむつくらい》取る程の者望むような世界なれば、汝《なんじ》珠運《しゅうん》能々《よくよく》用心して人に欺《あざむ》かれぬ様《よう》すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと冷笑《あざわらい》しが、なる程、我《われ》正直に過《すぎ》て愚《おろか》なりし、お辰《たつ》を女菩薩《にょぼさつ》と思いしは第一の過《あやま》り、折疵《おれきず》を隠して刀には樋《ひ》を彫るものあり、根性が腐って虚言《うそ》美しく、田原が持《もっ》て来た手紙にも、御《おん》なつかしさ少時《しばし》も忘れず何《いず》れ近き中《うち》父様《ととさま》に申し上《あげ》やがて朝夕《ちょうせき》御前様《おまえさま》御傍《おそば》に居《お》らるゝよう神かけて祈り居《お》りなどと我を嬉《うれ》しがらせし事憎し憎しと、怨《うらみ》の眼尻《まなじり》鋭く、柱にもたれて身は力なく下《さげ》たる頭《かしら》少し上《あげ》ながら睨《にら》むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像寛々かんかんとして大空に月の澄《すめ》る如《ごと》く佇《たたず》む気高さ、見るから我胸の疑惑耻はずかしく、ホッと息吐つき、アヽ誤《あやま》てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、去《さり》し日亀屋かめやの奥坐敷ざしきに一生の大事と我も彼も浮《うき》たる言葉なく、互《たがい》に飾らず疑わず固めし約束、仮令《たとい》天《あま》飛ぶ雷が今落おちればとて二人が中は引裂《ひきさか》れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく他《あだ》し聟《むこ》がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運貰もらいたれば、何《ど》の命何どの身体《からだ》あって侯爵に添うべきや、然《しか》も其時、身を我に投懸《なげかけ》て、艶《つや》やかなる前髪惜気おしげもなく我膝《わがひざ》に押付《おしつけ》、動気《どうき》可愛《かわゆ》らしく泣き俯《ふ》しながら、拙《つたな》き妾《わたくし》めを思い込まれて其程《それほど》までになさけ厚き仰せ、冥加《みょうが》にあまりてありがたしとも嬉しとも此《この》喜び申すべき詞《ことば》知らぬ愚《おろか》の口惜し、忘れもせざる何日《いつ》ぞやの朝、見所もなき櫛《くし》に数々の花彫付ほりつけて賜《たま》わりし折より、柔《やさ》しき御心ゆかしく思い初《そめ》、御小刀《おこがたな》の跡匂におう梅桜、花弁《はなびら》一片《ひとひら》も欠《かか》せじと大事にして、昼は御恩賜《おんめぐみ》頭《かしら》に挿《さ》しかざせば我為《わがため》の玉の冠、かりそめの立居《たちい》にも意《き》を注《つけ》て落《おち》るを厭《いと》い、夜は針箱の底深く蔵《おさ》めて枕《まくら》近く置《おき》ながら幾度《いくたび》か又開あけて見て漸《ようや》く睡《ねむ》る事、何の為とは妾《わたくし》も知らず、殊更其日叔父おじの非道《ひどう》、勿体《もったい》なき悪口計ばかり、是も妾《わたくし》め故《ゆえ》思わぬ不快を耳に入れ玉うと一一《いちいち》胸先《むなさき》に痛く、さし詰《つむ》る癪《しゃく》押《おさ》えて御顔打守うちまもりしに、暢《のび》やかなる御気象、咎《とが》め立《だて》もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと埒《らち》あき、重々の御恩荷にのうて余る甲斐《かい》なき身、せめて肩揉もめ脚擦さすれとでも僕使《つかい》玉わばまだしも、却《かえっ》て口きゝ玉うにも物柔かく、御手水《おちょうず》の温湯《ぬるゆ》椽側《えんがわ》に持《もっ》て参り、楊枝《ようじ》の房少しむしりて塩一小皿ひとこざらと共に塗盆《ぬりぼん》に載《の》せ出《いだ》す僅計《わずかばかり》の事をさえ、我夙起はやおきの癖故に汝《そなた》までを夙起《はやおき》さして尚《なお》寒き朝風につれなく袖《そで》をなぶらする痛わしさと人を護《かば》う御言葉、真《しん》ぞ人間五十年君に任せて露惜おしからず、真実《まこと》あり丈《たけ》智慧《ちえ》ありたけ尽《つく》して御恩を報ぜんとするに付《つけ》て慕わしさも一入《ひとしお》まさり、心という者一つ新《あらた》に添《そう》たる様《よう》に、今迄《いままで》は関《かま》わざりし形容《なりふり》、いつか繕う気になって、髪の結様《ゆいよう》どうしたら誉《ほめ》らりょうかと鏡に対《むか》って小声に問い、或夜《あるばん》の湯上《ゆあが》り、耻《はずか》しながらソッと薄化粧《うすげしょう》して怖怖《こわごわ》坐敷《ざしき》に出《いで》しが、笑《わらい》片頬《かたほ》に見られし御眼元めもと何やら存《あ》るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、単《ひとえ》に身嗜《みだしなみ》計《ばかり》にはあらず、勿体《もったい》なけれど内内《ないない》は可愛《かわゆ》がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下《あなた》との問答、婚礼せよせぬとの争い、不図《ふと》立聞《たちぎき》して魂魄《たましい》ゆららと足定さだまらず、其儘《そのまま》其処《そこ》を逃出《にげいだ》し人なき柴部屋《しばべや》に夢の如《ごと》く入《いる》と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは我身《わがみ》の為《ため》を思われてながら吉兵衛様の無礼過《なめすぎ》た言葉恨めしく、水仕女《みずしめ》なりともして一生御傍おそばに居られさいすれば願望《のぞみ》は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように聞取《ききと》られて疎《うと》まれなば取り返しのならぬ暁《あかつき》、辰は何になって何に終るべきと悲《かなし》み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、小児《こども》の捉《とっ》た小雀《こすずめ》を放して遣《や》った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、貴下《あなた》はそれより黙言《だんまり》で亀屋を御立《おたち》なされしに、十日も苅《か》り溜《ため》し草を一日に焼《やい》たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を歎《なげき》しに、馬籠《まごめ》に御病気と聞く途端、アッと驚く傍《かたわら》に愚《おろか》な心からは看病するを嬉《うれし》く、御介抱申もうしたる甲斐《かい》ありて今日の御床上とこあげ、芽出度《めでたい》は芽出度《めでたけ》れど又もや此儘《このまま》御立《おたち》かと先刻《さっき》も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁続つぎ度《たく》ば其人様の髪一筋知れぬように抜《ぬい》て、おまえの髪と確《しっか》り結び合《あわ》せ喼喼きゅうきゅう如律令にょりつりょうと唱となえて谷川に流し捨すてるがよいとの事、憎や老嫗としよりの癖に我を嬲なぶらるゝとは知しりながら、貴君あなたの御足おんあしを止度とめたさ故に良事よいこと教おしられしよう覚おぼえて馬鹿気ばかげたる呪まじないも、試やって見ようかとも惑う程小さき胸の苦くるしく、捨すてらるゝは此身の不束ふつつか故か、此心の浅き故かと独り悔くやしゅう悩んで居おりましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙吾わが衣物きものを透とおせしは、そもや、嘘うそなるべきか、新聞こそ当あてにならぬ者なれ、其それを真まことにして信まことある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位貴たっとく、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ妬ねたましや、我われ位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、較くらべられては敵手あいてにあらず。扨さてこそ子爵が詞通ことばどおり、思想も発達せぬ生なま若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと頻しきりに迷い沈みけるが思いかねてや一声烈はげしく、今ぞ知しったり移ろい易やすき女心、我を侯爵に見替みかえて、汝おのれ一人の栄華を誇ほこる、情なさけなき仰せ、此この辰が。 アッと驚き振仰向ふりあおむけば、折柄おりから日は傾きかゝって夕栄ゆうばえの空のみ外に明るく屋やの内静しずかに、淋し気に立つ彫像計ばかり。さりとては忌々いまいまし、一心乱れてあれかこれかの二途ふたみちに別れ、お辰が声を耳に聞ききしか、吉兵衛の意見ひししと中あたりて残念や、妄想もうぞうの影法師に馬鹿にされ、有ありもせぬ声まで聞し愚おろかさ、箇程かほどまでに迷わせたるお辰め、汝おのれも浮世の潮に漂う浮萍うきくさのような定さだめなき女と知らで天上の菩薩ぼさつと誤り、勿体もったいなき光輪ごこうまで付つけたる事口惜し、何処いずこの業平なりひらなり癩病なりんぼなり、勝手に縁組、勝手に楽たのしめ。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、慥たしかに其その声、是もまだ醒さめぬ無明むみょうの夢かと眼めを擦こすって見れば、しょんぼりとせし像、耳を澄すませば予かねて知る樅もみの木の蔭かげあたりに子供の集りて鞠まりつくか、風の持来もてくる数え唄うた、

一寸ちょと百突ついて渡わたいた受取うけとったた一つでは乳首啣くわえて二つでは乳首離はないて三つでは親の寝間を離れて四つにはより糸こより初そめ五いつつでは糸をとりそめ六つでころ機織はたおりそめて――

と苦労知らぬ高調子、無心の口々長閑のどかに、拍子取り連つれて、歌は人の作ながら声は天の籟おと美しく、慾よくは百ついて帰そうより他なく、恨うらみはつき損ねた時罪も報むくいも共に忘れて、恋と無常はまだ無き世界の、楽しさ羨うらやましく、噫ああ無心こそ尊たっとけれ、昔は我も何しら糸の清きばかりの一筋なりしに、果敢はかなくも嬉しいと云う事身に染初しみそめしより、やがて辛苦の結ぼれ解とけぬ濡苧ぬれおの縺もつれの物思い、其色そのいろ嫌よと、眼めを瞑ふさげば生憎あいにくにお辰の面影ありりと、涙さしぐみて、分疏いいわけしたき風情、何処どこに憎い所なし。なる程定めなきとはあなたの御心、新聞一枚に堅き約束を反故ほごとなして怒り玉うかと喞かこたれて見れば無理ならねど、子爵の許もとに行ゆきてより手紙は僅わずかに田原が一度持もって来きたりし計ばかり、此方こなたから遣やりし度々の消息、初はじめは親子再会の祝いわい、中頃は振残ふりのこされし喞言かこちごと、人には聞きかせ難がたきほど耻はずかしい文段もんだんまでも、筆とれば其人の耳に付つけて話しする様ような心地して我しらず愚おろかにも、独居ひとりいの恨うらみを数うる夜半よわの鐘はつらからで、朧気おぼろげながら逢瀬おうせうれしき通路かよいじを堰せく鶏とりめを夢の名残の本意ほいなさに憎らしゅう存じ候そろなど書かいてまだ足らず、再書かえすがき濃々こまごまと、色好み深き都の若佼わこうどを幾人いくたりか迷わせ玉うらん御標致ごきりょうの美しさ、却かえって心配の種子たねにて我をも其等それらの浮うきたる人々と同じ様ように思おぼし出いずらんかと案あんじ候そうろうては実げにに頼み薄く口惜くちおしゅう覚えて、あわれ歳月としつきの早く立たてかし、御おんおもかげの変りたる時にこそ浅墓あさはかならぬ我わが恋のかわらぬ者なるを顕あらわしたけれと、無理なる願ねがいをも神前に歎なげき聞きこえ候そろと、愚痴の数々まで記して丈夫そうな状袋を択えらみ、封じ目油断なく、幾度か打うちかえしし見て、印紙正しく張り付つけ、漸く差し出いだしたるに受取うけとったと計ばかりの返辞もよこさず、今日は明日はと待つ郵便の空頼そらだのめなる不実の仕方、それは他あだし婿がね取らせんとて父上の皆為なされし事。又しても妄想もうぞうが我を裏切うらぎりして迷わする声憎しと、頭かしらを上あぐれば風流仏悟り済すました顔、外には
清水きよみずの三本柳の一羽の雀すずめが鷹たかに取られたチチャポンン一寸ちょっと百ついて渡いた渡いた

の他音もなし、愈々いよいよ影法師の仕業に定まったるか、エヽ腹立はらだたし、我最早もはやすっきりと思い断ちて煩悩ぼんのう愛執あいしゅう一切棄すつべしと、胸には決定けつじょうしながら、尚なお一分いちぶんの未練残りて可愛かわゆければこそ睨にらみつむる彫像、此時このとき雲収り、日は没いりて東窓の部屋の中うちやゝ暗く、都すべての物薄墨色になって、暮残りたるお辰白き肌浮出うきいずる如く、活々いきいきとした姿、朧おぼろ月夜に真まことの人を見る様ように、呼ばゞ答もなすべきありさま、我わが作りたる者なれど飽あくまで溺おぼれ切きったる珠運ゾッと総身の毛も立たちて呼吸いきをも忘れ居たりしが、猛然として思い飜かえせば、凝こったる瞳ひとみキラリと動く機会はずみに面色忽たちまち変り、エイ這顔しゃっつらの美しさに迷う物かは、針ほども心に面白き所あらば命さえ呉くれてやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、其その生白なましらけたる素首そっくび見みるも穢けがらわしと身動きあらく後向うしろむきになれば、よゝと泣声して、それまでに疑われ疎うとまれたる身の生甲斐いきがいなし、とてもの事方様かたさまの手に惜おしからぬ命捨すてたしと云いうは、正しく木像なり、あゝら怪しや、扨さては一念の恋を凝こらして、作り出いだせしお辰の像に、我魂の入いりたるか、よしや我身の妄執もうしゅうの憑のり移りたる者にもせよ、今は恩愛切きって捨すて、迷わぬ初はじめに立帰たちかえる珠運に妨さまたげなす妖怪ようかい、いでいで仏師が腕の冴さえ、恋も未練も段々きだきだに切捨きりすてくれんと突立つったちて、右の手高く振上ふりあげし鉈なたには鉄をも砕くべきが気高く仁やさしき情なさけ溢あふるる計ばかりに湛たたゆる姿、さても水々として柔かそうな裸身はだかみ、斬きらば熱血も迸ほとばしりなんを、どうまあ邪見に鬼々おにおにしく刃やいばの酷むごくあてらるべき、恨うらみも憎にくみも火上の氷、思わず珠運は鉈なた取落とりおとして、恋の叶わず思おもいの切れぬを流石さすが男の男泣き、一声呑のんで身をもがき、其儘そのままドウと臥ふす途端、ガタリと何かの倒るゝ音して天より出いでしか地より湧わきしか、玉の腕かいなは温く我頸筋くびすじにからまりて、雲の鬢びんの毛匂におやかに頬ほほを摩なでるをハット驚き、急せわしく見れば、有ありし昔に其儘そのままの。お辰かと珠運も抱だきしめて額ひたいに唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、問とわば拙つたなく語らば遅し。玄げんの又また玄げん摩訶不思議まかふしぎ。


団円 諸法実相


帰依仏きえぶつの御利益ごりやく眼前にあり

 恋に必ず、必ず、感応かんのうありて、一念の誠御心みこころに協かない、珠運しゅうんは自おのが帰依仏きえぶつの来迎らいごうに辱かたじけなくも拯すくいとられて、お辰たつと共に手を携え肩を駢ならべ優々と雲の上に行ゆきし後あとには白薔薇ホワイトローズ香におい薫くんじて吉兵衛きちべえを初め一村の老幼芽出度めでたしとさゞめく声は天鼓を撃つ如ごとく、七蔵しちぞうがゆがみたる耳を貫けば是これも我慢の角つのを落おとして黒山こくざんの鬼窟きくつを出いで、発心ほっしん勇ましく田原と共に左右の御前立おんまえだちとなりぬ。
 其後そののち光輪ごこう美うるわしく白雲に駕のって所々しょしょに見ゆる者あり。或ある紳士の拝まれたるは天鵞絨ビロウドの洋服裳すそ長く着玉いて駄鳥だちょうの羽宝冠に鮮あざやかなりしに、某なにがし貴族の見られしは白襟えりを召めして錦の御帯おんおび金色こんじき赫奕かくえくたりしとかや。夫それに引変え破やぶれ褞袍おんぼう着て藁草履わらぞうりはき腰に利鎌とがまさしたるを農夫は拝み、阿波縮あわちぢみの浴衣ゆかた、綿八反めんはったんの帯、洋銀の簪かんざし位ぐらいの御姿を見しは小商人こあきんどにて、風寒き北海道にては、鰊にしんの鱗うろこ怪しく光るどんざ布子ぬのこ、浪なみさやぐ佐渡さどには、色も定かならぬさき織を着て漁師共の眼めにあらわれ玉いけるが業平侯爵なりひらこうしゃくも程ほど経て踵かかと小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶ちぐうせられけるよし。是これ皆一切経いっさいきょうにもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の化身けしんにして少しも相違なければ、拝みし者誰たれも彼も一代の守本尊まもりほんぞんとなし、信仰篤あつき時は子孫繁昌はんじょう家内和睦わぼく、御利益ごりやく疑うたがいなく仮令たとい少々御本尊様を恨めしき様ように思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には素もとより持前もちまえの仏性ほとけしょうを出いだし玉いて愛護の御誓願ごせいがん空むなしからず、若もし又また過あやまってマホメット宗しゅうモルモン宗しゅうなぞの木偶もくぐう土像などに近づく時は現当二世げんとうにせの御罰おんばちあらたかにして光輪ごこうを火輪かりんとなし一家いっけをも魂魂こんぱくをも焼滅やきほろぼし玉うとかや。あなかしこ穴あな賢かしこ。


青空文庫より引用