春昼後刻


二十四

 この雨は間まもなく霽はれて、庭も山も青き天鵞絨びろうどに蝶花ちょうはなの刺繍ぬいとりある霞かすみを落した。何んの余波なごりやら、庵いおりにも、座にも、袖そでにも、菜種なたねの薫かおりが染しみたのである。
 出家は、さて日ひが出口でぐちから、裏山のその蛇じゃの矢倉やぐらを案内しよう、と老実まめやかに勧めたけれども、この際、観音かんおんの御堂みどうの背後うしろへ通り越す心持こころもちはしなかったので、挨拶あいさつも後日ごじつを期して、散策子は、やがて庵いおりを辞した。
 差当さしあたり、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も陳のべられなかったので、言われた事、話されただけを、不残のこらず鵜呑うのみにして、天窓あたまから詰込つめこんで、胸が膨ふくれるまでになったから、独ひとり静しずかに歩行あるきながら、消化こなして胃の腑ふに落ちつけようと思ったから。
 対手あいても出家だから仔細しさいはあるまい、(さようなら)が些ちと唐突だしぬけであったかも知れぬ。
 ところで、石段を背後うしろにして、行手ゆくてへ例の二階を置いて、吻ほっと息をすると……、
「転寐うたたねに……」
 と先まず口の裏うちでいって見て、小首を傾けた。杖ステッキが邪魔なので腕かいなの処ところへ揺ゆすり上げて、引包ひきつつんだその袖そでともに腕組をした。菜種の花道はなみち、幕の外の引込ひっこみには引立ひったたない野郎姿やろうすがた。雨上りで照々てかてかと日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許あしもと、辷すべって転ばねば可よい。
「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」
 とちょいと顔を上げて見ると、左の崕がけから椎しいの樹が横に出ている――遠くから視ながめると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室あんじつはもう右手めての背後うしろになった。
 見たばかりで、すぐにまた、
「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚さめて、ああ、転寐うたたねだったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時いつか聞いた事がある、狂人きちがいと真人間まにんげんは、唯ただ時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気きちがいだけれど、直ぐ、凪なぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木き静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔えう、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人きちがいなんだと。
 危険々々けんのんけんのん。
 ト来た日にゃ夢もまた同一おんなじだろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。
 夢になら恋人に逢えると極きまれば、こりゃ一層いっそ夢にしてしまって、世間で、誰某たれそれは? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々ちょうちょう二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。 庵室あんじつの客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼たのみ切りにしたのかな。」
 と考えが道草みちくさの蝶に誘さそわれて、ふわふわと玉たまの緒おが菜の花ぞいに伸びた処ところを、風もないのに、颯さっとばかり、横合よこあいから雪の腕かいな、緋ひの襟えりで、つと爪尖つまさきを反らして足を踏伸ふみのばした姿が、真黒まっくろな馬に乗って、蒼空あおぞらを飜然ひらりと飛び、帽子の廂ひさしを掠かすめるばかり、大波を乗って、一跨ひとまたぎに紅くれないの虹を躍おどり越えたものがある。
 はたと、これに空想の前途ゆくてを遮さえぎられて、驚いて心付こころづくと、赤楝蛇やまかがしのあとを過ぎて、機はたを織る婦人おんなの小家こいえも通り越していたのであった。
 音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた停車場ステイションの笛太鼓ふえたいこ、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。
 筋向すじむかいの垣根かきねの際きわに、こなたを待ち受けたものらしい、鍬くわを杖ついて立って、莞爾にこついて、のっそりと親仁おやじあり。
「はあ、もし今帰らせえますかね。」
「や、先刻は。」

二十五

 その莞爾々々にこにこの顔のまま、鍬くわを離した手を揉もんで、
「何んともハイ御ごしんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様かげさまで、私わし、えれえ手柄てがらして礼を聞いたでござりやすよ。」
「別に迷惑にもならなかったかい。」
 と悠々ゆうゆうとしていった時、少なからず風采ふうさいが立上たちあがって見えた。勿論もちろん、対手あいては件くだんの親仁だけれど。
「迷惑処どころではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、私わし大でっかくありがたがられました。」
「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」
「竹ン尖さきで圧おさえつけてハイ、山の根っこさ藪やぶの中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」
「その方が心持こころもちが可いい、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、私わたしが訴人そにんしたんだから、怨うらみがあれば、こっちへ取付とッつくかも分らずさ。」
「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ打騒ぶっさわいで戸障子としょうじへ当あたっただよ。
 私わし先ず庭口にわぐちから入って、其処そこさ縁側えんがわで案内あんねえして、それから台所口だいどこぐちに行ってあっちこっち探索のした処ところ、何が、お前様御勘考ごかんこうさ違わねえ、湯殿ゆどのに西の隅すみに、べいらべいら舌さあ吐はいとるだ。
 思ったより大でっこうがした。
 畜生め。われさ行水ぎょうずいするだら蛙かえる飛込とびこむ古池ふるいけというへ行けさ。化粧部屋覗のぞきおって白粉おしろいつけてどうしるだい。白鷺しらさぎにでも押惚おっぽれたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足の尖さきを爪立つまだって、お殺しでない、打棄うっちゃっておくれ、御新姐ごしんぞは病気のせいで物事ものごと気にしてなんねえから、と女中たちが口を揃そろえていうもんだでね、芸げえもねえ、殺生せっしょうするにゃ当らねえでがすから、藪畳やぶだたみへ潜もぐらして退のけました。 御新姐ごしんぞは、気分が勝すぐれねえとって、二階に寝てござらしけえ。
 今しがた小雨こさめが降って、お天気が上ると、お前様めえさま、雨よりは大きい紅色べにいろの露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下の許とこさ、背戸口せどぐちから御新姐ごしんぞが、紫色の蝙蝠傘こうもりがささして出てござって、(爺じいやさん、今ほどはありがとう。その厭いやなもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、巌殿いわどの方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。
(どうだかね、私わし、内方うちかたへ参ったは些ちいとの間まだし、雨に駈出かけだしても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。
 それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに名越なごえの方さ出ださっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。
(お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。
 その溝さ飛越とびこして、その路みちを、」
 垣の外のこなたと同一おんなじ通筋とおりすじ。
「ハイぶうらりぶうらり、谷戸やとの方へ、行かしっけえ。」
 と言いかけて身体からだごと、この巌殿いわどから橿原かしわばらへ出口の方へ振向いた。身の挙動こなしが仰山ぎょうさんで、さも用ありげな素振そぶりだったので、散策子もおなじくそなたを。……帰途かえるさの渠かれにはあたかも前途ゆくてに当る。
「それ見えるでがさ。の、彼処あすこさ土手の上にござらっしゃる。」
 錦にしきの帯を解いた様な、媚なまめかしい草の上、雨のあとの薄霞うすがすみ、山の裾すそに靉靆たなびく中うちに一張いっちょうの紫むらさき大きさ月輪げつりんの如く、はた菫すみれの花束に似たるあり。紫羅傘しらさんと書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。
 散策子は一目ひとめ見て、早く既にその霞かすみの端はしの、ひたひたと来て膚はだに絡まとうのを覚えた。
 彼処かしことこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、蕨わらびのような親仁おやじの手、無骨ぶこつな指で指ゆびさしして、
「彼処あすこさ、それ、傘かさの陰に憩やすんでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」

二十六

 横に落した紫の傘には、あの紫苑しおんに来る、黄金色こがねいろの昆虫の翼つばさの如き、煌々きらきらした日の光が射込いこんで、草に輝くばかりに見える。
 その蔭かげから、しなやかな裳もすそが、土手の翠みどりを左右へ残して、線もなしに、よろけ縞じまのお召縮緬めしちりめんで、嬌態しなよく仕切ったが、油のようにとろりとした、雨のあとの路みちとの間、あるかなしに、細い褄先つまさきが柔やわらかくしっとりと、内端うちわに掻込かいこんだ足袋たびで留とまって、其処そこから襦袢じゅばんの友染ゆうぜんが、豊かに膝まで捌さばかれた。雪駄せったは一ひとツ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。 前を通ろうとして、我にもあらず立淀たちよどんだ。散策子は、下衆儕げしゅうばらと賭物かけものして、鬼が出る宇治橋うじばしの夕暮を、唯ただ一騎いっき、東へ打うたする思おもいがした。
 かく近づいた跫音あしおとは、件くだんの紫の傘を小楯こだてに、土手へかけて悠然ゆうぜんと朧おぼろげに投げた、艶えんにして凄すごい緋ひの袴はかまに、小波さざなみ寄する微かすかな響きさえ与えなかったにもかかわらず、こなたは一ツ胴震どうぶるいをして、立直たちなおって、我知らず肩を聳そびやかすと、杖ステッキをぐいと振って、九字くじを切りかけて、束々つかつかと通った。
 路は、あわれ、鬼の脱いだその沓くつを跨またがねばならぬほど狭いので、心から、一方は海の方かたへ、一方は橿原かしわばらの山里へ、一方は来こし方かたの巌殿いわどになる、久能谷くのやのこの出口は、あたかも、ものの撞木しゅもくの形なり。前は一面の麦畠むぎばたけ。
 正面に、青麦あおむぎに対した時、散策子の面おもてはあたかも酔えるが如きものであった。
 南無三宝なむさんぼう声がかかった。それ、言わぬことではない。
「…………」
 一散いっさんに遁にげもならず、立停たちどまった渠かれは、馬の尾に油を塗って置いて、鷲掴わしづかみの掌たなそこを辷すべり抜けなんだを口惜くちおしく思ったろう。
「私わたし。」
 と振返って、
「ですかい、」と言いつつ一目ひとめ見たのは、頭かしら禿かむろに歯は豁あらわなるものではなく、日の光射さす紫のかげを籠こめた俤おもかげは、几帳きちょうに宿る月の影、雲の鬢びんずら、簪かざしの星、丹花たんかの唇、芙蓉ふようの眦まなじり、柳の腰を草に縋すがって、鼓草たんぽぽの花に浮べる状さま、虚空にかかった装よそおいである。
 白魚しらおのような指が、ちょいと、紫紺しこんの半襟はんえりを引き合わせると、美しい瞳ひとみが動いて、
「失礼を……」
 と唯ただ莞爾にっこりする。
「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、遁にげ路みちを見て置くのである。
「貴下あなたお呼び留とめ申しまして、」
 とふっくりとした胸を上げると、やや凭もたれかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。
「はあ、何なに、」
 真正直まっしょうじきな顔をして、
「私ですか、」と空とぼける。
「貴下あなたのようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻せんこくは、真まことに御心配下さいまして、」
 徐やおら、雪のような白足袋しろたびで、脱ぎ棄てた雪駄せったを引寄ひきよせた時、友染ゆうぜんは一層はらはらと、模様の花が俤おもかげに立って、ぱッと留南奇とめきの薫かおりがする。 美女たおやめは立直たちなおって、
「お蔭様かげさまで災難を、」
 と襟首えりくびを見せてつむりを下げた。
 爾時そのとき独武者ひとりむしゃ、杖ステッキをわきばさみ、兜かぶとを脱いで、
「ええ、何んですかな、」と曖昧あいまい。
 美女たおやめは親しげに笑いかけて、
「ほほ、私わたしはもう災難と申します。災難ですわ、貴下あなた。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分家うちを明渡あけわたして、何処どこかへ参らなければなりませんの。真個ほんとうにそうなりましたら、どうしましょう。お庇様かげさまで助たすかりましてございますよ。ありがとう存じます。」
「それにしても、私と極きめたのは、」
 と思うことが思わず口へ出た。
 これは些ちと調子はずれだったので、聞き返すように、
「ええ、」

二十七

「先刻さっきの、あの青大将あおだいしょうの事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」
 と棄鞭すてむちの遁構にげがまえで、駒の頭かしらを立直たてなおすと、なお打笑うちえみ、
「そりゃ知れますわ。こんな田舎いなかですもの。そして御覧の通り、人通りのない処ところじゃありませんか。
 貴下あなたのような方かたの出入ではいりは、今朝けさッからお一人しかありませんもの。丁ちゃんと存じておりますよ。」
「では、あの爺じいさんにお聞きなすって、」
「否いいえ、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拝おがみました。」
「じゃあ、私が青大将を見た時に、」
「貴下あなたのお姿が楯たてにおなり下さいましたから、爾時そのときも、厭いやなものを見ないで済みました。」
 と少し打傾うちかたむいて懐なつかしそう。
「ですが、貴女あなた、」とうっかりいう、
「はい?」
 と促うながすように言いかけられて、ハタと行詰ゆきつまったらしく、杖ステッキをコツコツと瞬またたき一ひとツ、唇を引緊ひきしめた。
 追っかけて、
「何んでございますか、聞かして頂戴ちょうだい。」
 と婉然えんぜんとする。
 慌あわて気味に狼狽まごつきながら、
「貴女あなたは、貴女あなたは気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」
「あら、こんなに甲羅こうらを干ほしておりますものを。」
「へい、」と、綱つなは目めを睜みはって、ああ、我ながらまずいことを言った顔色がんしょく。
 美女たおやめはその顔を差覗さしのぞく風情ふぜいして、瞳ひとみを斜めに衝つと流しながら、華奢きゃしゃな掌たなそこを軽かろく頬に当てると、紅くれないがひらりと搦からむ、腕かいなの雪を払う音、さらさらと衣摺きぬずれして、
「真個まったくは、寝ていましたの……」
「何んですッて、」
 と苦笑にがわらい。
「でも爾時そのときは寝ていやしませんの。貴下あなた起きていたんですよ。あら、」 とやや調子高ちょうしだかに、
「何を言ってるんだか分らないわねえ。」
 馴々なれなれしくいうと、急に胸を反そらして、すッきりとした耳許みみもとを見せながら、顔を反向そむけて俯向うつむいたが、そのまま身体からだの平均を保つように、片足をうしろへ引いて、立直たちなおって、
「否いいえ、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下あなたのお姿を拝みますと、急に心持こころもちが悪くなって、それから寝たんです。」
「これは酷ひどい、酷ひどいよ、貴女あなたは。」
 棄すて身みに衝つつと寄り進んで、
「じゃ青大将の方が増ましだったんだ。だのに、わざわざ呼留よびとめて、災難を免のがれたとまで事を誇大こだいにして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの御住居おすまいだと聞いたにつけても、いよいよ極きまりが悪くって、此処ここだって、貴女あなた、こそこそ遁にげて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟おおげさに礼を言って、極きまりを悪がらせた上に、姿とは何事です。幽霊ゆうれいじゃあるまいし、心持こころもちを悪くする姿というがありますか。図体ずうたいとか、状さまとかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったは些ちと烈はげしい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。
 要いらんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く――勧進帳かんじんちょうでも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の巌殿いわどへ引返ひっかえして、山越やまごえで出奔しゅっぽんする分ぶんの事です。」
 と逆寄さかよせの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりの処ところ、負けまい気の、魔まものの顔を見詰みつめていたので、横ざまに落しつけるはずの腰が据すわらず、床几しょうぎを辷すべって、ずるりと大地へ。
「あら、お危あぶない。」
 というが早いか、眩まばゆいばかり目の前へ、霞かすみを抜けた極彩色ごくさいしき。さそくに友染ゆうぜんの膝を乱して、繕つくろいもなくはらりと折敷おりしき、片手が踏み抜いた下駄げた一ツ前壺まえつぼを押して寄越よこすと、扶たすけ起すつもりであろう、片手が薄色の手巾ハンケチごと、ひらめいて芬ぷんと薫かおって、優やさしく男の背そびらにかかった。

二十八

 南無観世音大菩薩なむかんぜおんだいぼさつ………助けさせたまえと、散策子は心の裏うち、陣備じんぞなえも身構みがまえもこれにて粉こなになる。
「お足袋たびが泥だらけになりました、直じき其処そこでござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。お脱ぬぎ遊ばせな。」
 と指をかけようとする爪尖つまさきを、慌あわただしく引込ひっこませるを拍子ひょうしに、体たいを引いて、今度は大丈夫だいじょうぶに、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰を懸かける。暖あたたかい草が、ちりげもとで赫かっとほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、「構わんです、構わんです、こんな足袋たびなんぞ。」
 ヤレまた落語の前座ぜんざが言いそうなことを、とヒヤリとして、漸やっと瞳ひとみを定さだめて見ると、美女たおやめは刎飛はねとんだ杖ステッキを拾って、しなやかに両手でついて、悠々ゆうゆうと立っている。
 羽織はおりなしの引ひっかけ帯おび、ゆるやかな袷あわせの着こなしが、いまの身じろぎで、片前下かたまえさがりに友染ゆうぜんの紅くれない匂においこぼれて、水色縮緬みずいろちりめんの扱帯しごきの端はし、ややずり下さがった風情ふぜいさえ、杖ステッキには似合わないだけ、あたかも人質に取られた形――可哀かわいや、お主しゅうの身がわりに、恋の重荷おもにでへし折れよう。
「真個ほんとに済みませんでした。」
 またぞろ先せんを越して、
「私わたし、どうしたら可いいでしょう。」
 と思い案ずる目を半なかば閉じて、屈託くったくらしく、盲目めくらが歎息たんそくをするように、ものあわれな装よそおいして、
「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。
 貴下あなたのお姿を見て、それから心持こころもちが悪くなりましたって、言通ことばどおりの事が、もし真個まったくなら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下あなたのお姿を見て、それから心持が悪く……」
 再び口の裏うちで繰返して見て、
「おほほ、まあ、大概たいがいお察し遊ばして下さいましなね。」
 と楽にさし寄って、袖そでを土手へ敷いて凭もたれるようにして並べた。春の草は、その肩あたりを翠みどりに仕切って、二人の裾すそは、足許あしもとなる麦畠に臨んだのである。
「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」
「はい、」
「ね、貴下あなた、」
「はい、」
 と無意味に合点がってんして頷うなずくと、まだ心が済まぬらしく、
「言ことばとがめをなすってさ、真個ほんとにお人が悪いよ。」
 と異おつに搦からむ。
 聊いささか弁べんぜざるべからず、と横に見向いて、
「人の悪いのは貴女あなたでしょう。私わたしは何も言ことばとがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに伺うかがいました。」
「そして、腹をお立てなすったんですもの。」
「否いや、恐縮をしたまでです。」
「そこは貴下あなた、お察し遊ばして下さる処ところじゃありませんか。
 言ことばの綾あやもございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」
「裏だと……お待ちなさいよ。」
 ええ、といきつぎに目を瞑ねむって、仰向あおむいて一呼吸ひといきついて、
「心持こころもちが悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持が善よくなった――事になる――可いい加減かげんになさい、馬鹿になすって、」
 と極きめつける。但ただし笑いながら。
 清すずしい目で屹きっと見て、
「むずかしいのね? どう言えばこうおっしゃって、貴下あなた、弱いものをおいじめ遊ばすもんじゃないわ。私わたしは煩わずらっているんじゃありませんか。」 草に手をついて膝をずらし、
「お聞きなさいましよ、まあ、」
 と恍惚うっとりしたように笑えみを含む口許くちもとは、鉄漿かねをつけていはしまいかと思われるほど、婀娜あだめいたものであった。
「まあ、私に、恋しい懐なつかしい方かたがあるとしましょうね。可ようござんすか……」

二十九

「恋しい懐なつかしい方かたがあって、そしてどうしても逢あえないで、夜も寐ねられないほどに思い詰めて、心も乱れれば気も狂いそうになっておりますものが、せめて肖にたお方でもと思うのに、この頃はこうやって此処ここらには東京からおいでなすったらしいのも見えません処ところへ、何年ぶりか、幾月越いくつきごしか、フトそうらしい、肖にた姿をお見受け申したとしましたら、貴下あなた、」
 と手許てもとに丈たけのびた影のある、土筆つくしの根を摘つみ試こころみ、
「爾時そのときは……、そして何んですか、切せつなくって、あとで臥ふせったと申しますのに、爾時そのときは、どんな心持こころもちでと言って可いいのでございましょうね。
 やっぱり、あの、厭いやな心持になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ。」
 一言いちごんもなく……しばらくして、
「じゃ、そういう方かたがおあんなさるんですね、」と僅わずかに一方いっぽうへ切抜きりぬけようとした。
「御存じの癖くせに。」
 と、伏兵ふくへい大いに起る。
「ええ、」
「御存じの癖に。」
「今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。」
 うたゝ寐ねに恋しき人を見てしより、その、みを、という名も知らぬではなかったけれども、夢のいわれも聞きたさに。
「それでも、私が気疾きやみをしております事を御存じのようでしたわ。先刻さっき、」
「それは、何、あの畑打はたうちの爺じいさんが、蛇をつかまえに行った時に、貴女あなたはお二階に、と言って、ちょっと御様子を漏もらしただけです。それも唯ただ御気分が悪いとだけ。
 私の形を見て、お心持が悪くなったなんぞって事は、些ちっとも話しませんから、知ろう道理どうりはないのです。但ただ礼をおっしゃるかも知れんというから、其奴そいつは困ったと思いましたけれども、此処ここを通らないじゃ帰られませんもんですから。こうと分ったら穴へでも入るんだっけ。お目にかかるのじゃなかったんです。しかし私が知らないで、二階から御覧なすっただけは、そりゃ仕方がない。」
「まだ、あんな事をおっしゃるよ。そうお疑いなさるんなら申しましょう。貴下あなた、このまあ麗うららかな、樹も、草も、血があれば湧わくんでしょう。朱しゅの色した日の光にほかほかと、土も人膚ひとはだのように暖あたたこうござんす。竹があっても暗くなく、花に陰もありません。燃えるようにちらちら咲いて、水へ散っても朱塗しゅぬりの杯さかずきになってゆるゆる流れましょう。海も真蒼まっさおな酒のようで、空は、」
 と白い掌たなそこを、膝に仰向あおむけて打仰うちあおぎ、
「緑の油のよう。とろとろと、曇くもりもないのに淀よどんでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形も柔やわらかな天鵞絨びろうどの、ふっくりした括枕くくりまくらに似ています。そちこち陽炎かげろうや、糸遊いとゆうがたきしめた濃いたきもののように靡なびくでしょう。雲雀ひばりは鳴こうとしているんでしょう。鶯うぐいすが、遠くの方で、低い処ところで、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、申分もうしぶんのない、目を瞑ねむれば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の日中ひなかなんでございますがね、貴下あなた、これをどうお考えなさいますえ。」「どうと言って、」
 と言ことばに連れられた春のその日中ひなかから、瞳ひとみを美女たおやめの姿にかえした。
「貴下あなたは、どんなお心持がなさいますえ、」
「…………」
「お楽たのしみですか。」
「はあ、」
「お嬉うれしゅうございますか。」
「はあ、」
「お賑にぎやかでございますか。」
「貴女あなたは?」
「私は心持が悪いんでございます、丁ちょうど貴下あなたのお姿を拝みました時のように、」
 と言いかけて吻ほと小さなといき、人質のかの杖ステッキを、斜めに両手で膝へ取った。情なさけの海に棹さおさす姿。思わず腕組をして熟じっと見る。

三十

「この春の日の日中ひなかの心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして寂さびしいことは。やっぱり、夢に賑にぎやかな処ところを見るようではござんすまいか。二歳ふたつか三歳みッつぐらいの時に、乳母うばの背中から見ました、祭礼おまつりの町のようにも思われます。
 何為なぜか、秋の暮より今、この方ほうが心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を絞しぼり出されるようですわ。苦しくもなく、切せつなくもなく、血を絞られるようですわ。柔やわらかな木の葉の尖さきで、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、肌はだが蕩とろけるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えて行ゆきそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言って嬉うれしいんでもありません。
 あの貴下あなた、叱しかられて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ寂さびしさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。
 ああ遣やって、田圃たんぼにちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、張合はりあいを持っているんでしょう。見た処ところでも、しょんぼりした脚あしにも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかり魂たましいを抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、蝶々ちょうちょうにでもなりそうですね。心細いようですね。
 暖あたたかい、優やさしい、柔やわらかな、すなおな風にさそわれて、鼓草たんぽぽの花が、ふっと、綿わたになって消えるように魂たましいがなりそうなんですもの。極楽というものが、アノ確たしかに目に見えて、そして死んで行ゆくと同一おなじ心持こころもちなんでしょう。
 楽しいと知りつつも、情なさけない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。
 そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。
 私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くも痒かゆくもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、長閑のどかで、麗うららかで、美しくって、それでいて寂さびしくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が砂原すなはらのようで、前生ぜんせの事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、焦じれッたくって、口惜くやしくッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとり地じの底へ引込ひきこまれると申しますより、空へ抱だき上げられる塩梅あんばいの、何んとも言えない心持こころもちがして、それで寝ましたんですが、貴下あなた、」 小雨こさめが晴れて日の照るよう、忽たちまち麗うららかなおももちして、
「こう申してもやっぱりお気に障さわりますか。貴下あなたのお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、貴下あなたどうなさいましたの。」
 身動みじろぎもせず聞き澄すんだ散策子の茫然ぼんやりとした目の前へ、紅白粉べにおしろいの烈しい流ながれが眩まばゆい日の光で渦うずまいて、くるくると廻っていた。
「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」
 と掌てのひらで目を払って、
「で、そこでお休みになって、」
「はあ、」
「夢でも御覧になりましたか。」
 思わず口へ出したが、言い直した、余り唐突だしぬけと心付こころづいて、
「そういうお心持こころもちでうたた寐ねでもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」
「やっぱり、貴下あなたのお姿を見ますわ。」
「ええ、」
「此処ここにこうやっておりますような。ほほほほ。」
 と言い知らずあでやかなものである。
「いや、串戯じょうだんはよして、その貴女あなた、恋しい、慕したわしい、そしてどうしても、もう逢あえない、とお言いなすった、その方かたの事を御覧なさるでしょうね。」
「その貴下あなたに肖にた、」
「否いいえさ、」
 ここで顔を見合わせて、二人とも挘むしっていた草を同時に棄てた。
「なるほど。寂しんとしたもんですね、どうでしょう、この閑しずかさは……」
 頂いただきの松の中では、頻しきりに目白めじろが囀さえずるのである。

三十一

「またこの橿原かしわばらというんですか、山の裾すそがすくすく出張でばって、大きな怪物ばけものの土地の神が海の方へ向って、天地に開いた口の、奥歯へ苗代田なわしろだ麦畠むぎばたけなどを、引銜ひっくわえた形に見えます。谷戸やとの方は、こう見た処ところ、何んの影もなく、春の日が行渡ゆきわたって、些ちと曇くもりがあればそれが霞かすみのような、長閑のどかな景色でいながら、何んだか厭いやな心持こころもちの処ですね。」
 美女たおやめは身を震わして、何故なぜか嬉うれしそうに、
「ああ、貴下あなたもその(厭いやな心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても差支さしつかえございませんのね。」
「可ようございます。ははははは。」
 トちょっと更あらたまった容子ようすをして、うしろ見られる趣おもむきで、その二階家にかいやの前から路みちが一畝ひとうねり、矮ひくい藁屋わらやの、屋根にも葉にも一面の、椿つばきの花の紅くれないの中へ入って、菜畠なばたけへ纔わずかに顕あらわれ、苗代田なわしろだでまた絶えて、遥かに山の裾すその翠みどりに添うて、濁った灰汁あくの色をなして、ゆったりと向うへ通じて、左右から突出つきでた山でとまる。橿原かしわばらの奥深く、蒸むし上あがるように低く霞かすみの立つあたり、背中合せが停車場ステイションで、その腹へ笛太鼓ふえたいこの、異様に響く音ねを籠こめた。其処そこへ、遥かに瞳ひとみを通かよわせ、しばらく茫然ぼうぜんとした風情ふぜいであった。「そうですねえ、はじめは、まあ、心持こころもち、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、」
「何んの声です?」
「はあ、私が臥ふせりまして、枕に髪をこすりつけて、悶もだえて、あせって、焦じれて、つくづく口惜くやしくって、情なさけなくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。先刻さっきの、あの雨の音、さあっと他愛たわいなく軒のきへかかって通りましたのが、丁ちょうど彼処あすこあたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。
 あの停車場ステイションの囃子はやしの音に、何時いつか気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場ステイションの人ごみの上へだけは、細こまかい雨がかかっているように思われますもの。まだ何処どこにか雨気あまけが残っておりますなら、向うの霞かすみの中でしょうと思いますよ。
 と、その細い、幽かすかな、空を通るかと思う雨の中に、図太い、底力そこぢからのある、そして、さびのついた塩辛声しおからごえを、腹の底から押出おしだして、
(ええ、ええ、ええ、伺うかがいます。お話はお馴染なじみの東京世渡草よわたりぐさ、商人あきんどの仮声こわいろ物真似ものまね。先ず神田辺かんだへんの事でござりまして、ええ、大家たいけの店前みせさきにござります。夜よのしらしら明けに、小僧さんが門口かどぐちを掃はいておりますると、納豆なっとう、納豆――)
 と申して、情なさけない調子になって、
(ええ、お御酒みきを頂きまして声が続きません、助けて遣やっておくんなさい。)
 と厭いやな声が、流れ星のように、尾を曳ひいて響くんでございますの。
 私は何んですか、悚然ぞっとして寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度は些ちっと近くなって。
 それから段々あの橿原かしわばらの家うちを向い合いに、飛び飛びに、千鳥ちどりにかけて一軒一軒、何処どこでもおなじことを同一おなじところまで言って、お銭あしをねだりますんでございますがね、暖あたたかい、ねんばりした雨も、その門附かどづけの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる歩行あるいて来ますようです。
 その納豆納豆――というのだの、東京というのですの、店前みせさきだの、小僧が門口かどぐちを掃いている処ところだと申しますのが、何んだか懐なつかしい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、身体からだを煮られるような心持がして我慢が出来ないで、掻巻かいまきの襟えりへ喰くいついて、しっかり胸を抱だいて、そして恍惚うっとりとなっておりますと、やがて、些ちと強く雨が来て当ります時、内うちの門かどへ参ったのでございます。
(ええ、ええ、ええ、)
 と言い出すじゃございませんか。
(お話はお馴染なじみの東京世渡草よわたりぐさ、商人あきんどの仮声こわいろ物真似ものまね。先ず神田辺かんだへんの事でござりまして、ええ、大家たいけの店さきでござります。夜よのしらしらあけに、小僧さんが門口かどぐちを掃いておりますと、納豆納豆――)
 とだけ申して、
(ええ、お御酒みきを頂きまして声が続きません、助けて遣やっておくんなさい。) と一分ぶ一厘りんおなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私の門かどへ来ましたまでに、遠くから丁ちょうど十三度たび聞いたのでございます。」

三十二

「女中が直ぐに出なかったんです。
(ねえ、助けておくんなさいな、お御酒みきを頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)
 厭いやな咳せきなんぞして、
(遣やっておくんなさいよ、飲み過ぎて切せつねえんで、助けておくんなさい、お願ねげえだ。)
 と言って独言ひとりごとのように、貴下あなた、
(遣やり切きれねえや、)ッて、いけ太々ふとぶとしい容子ようすったらないんですもの。其処そこらへ、べッべッ唾つばをしっかけていそうですわ。
 小銭こぜにの音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、
(光みつかい、光や、)
 と呼んで、二階の上あがり口へ来ましたのを、押留おしとめるように、床とこの中から、
(何んだね、)
 と自分でも些ちと尖々とげとげしく言ったんです。
(門附かどづけでございます。)
(芸人げいにんかい!)
(はい、)
 ッて吃驚びっくりしていました。
(不可いけないよ、遣やっちゃ不可いけない。
 芸人なら芸人らしく芸をして銭おあしをお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って乞食こじきをおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言ってお遣やり。いけ洒亜々々しゃあしゃあ失礼じゃないか。)
 とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようで極きめつけますと、窃そっと跫音あしおとを忍んで、光みつやは、二階を下りましたっけ。
 お恥はずかしゅうございますわ。
 甲高かんだかかったそうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階おもてにかいにいたんですから。
(何んだって、)
 と門口かどぐちで喰くってかかるような声がしました。
 枕をおさえて起上おきあがりますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。
 嘲あざけるように、
(病人なら病人らしく死んじまえ。治なおるもんなら治ったら可よかろう。何んだって愚図ぐずついて、煩わずらっているんだ。)
 と赭顔あからがおなのが白い歯を剥むき出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。
(おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらして床とこを放はなれて倒れました。段へ、裾すそを投げ出して、欄干らんかんにつかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、門附かどづけは何処どこへ参りましたか。雨も上って、また明あかるい日が当りました。何んですかねえ、十文字に小児こどもを引背負ひっしょって跣足はだしで歩行あるいている、四十恰好かっこうの、巌乗がんじょうな、絵に描かいた、赤鬼あかおにと言った形のもののように、今こうやってお話をします内うちも考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに――
 またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向ひなたへ出て来たんでございます。
 否いいえ、はじめてお目にかかりました貴下あなたに、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」 と言いかけて、心を籠こめて見詰めたらしい、目の色は美しかった。
「貴下あなた、真個ほんとうに未来というものはありますものでございましょうか知ら。」
「…………」
「もしあるものと極きまりますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処そこにいるんなら。さっさと其処へ行ゆけば宜よろしいんですけれども、」
 と土筆つくしのたけの指ゆび白しろう、またうつつなげに草を摘つみ、摘み、
「きっとそうと極きまりませんから、もしか、死んでそれっきりになっては情なさけないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、煩わずらって、段々消えて行ゆきます方が、いくらか増ましだと思います。忘れないで、何時いつまでも、何時までも、」
 と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと白歯しろはで噛かんだ。
 トタンに慌あわただしく、男の膝越ひざごしに衝つとのばした袖そでの色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、活々いきいきとして蓮葉はすはなものいい。
「いけないわ、人の悪い。」
 散策子は答えに窮きゅうして、実は草の上に位置も構わず投出なげだされた、オリイブ色の上表紙うわびょうしに、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。

三十三

「こっちへ下さいよ、厭いやですよ。」
 と端はしへかけた手を手帳に控えて、麦畠むぎばたけへ真正面まっしょうめん。話をわきへずらそうと、青天白日せいてんはくじつに身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
 と唯ただ笑う。
「絵をお描かきになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、些ちと拝見いたしたいもんです。」
 手を放はなしたが、附着くッついた肩も退のけないで、
「お見せ申しましょうかね。」
 あどけない状さまで笑いながら、持直もちなおしてぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁ページは、この人の手にあたかも蝶の翼つばさを重ねたようであったが、鉛筆で描かいたのは……
 一目ひとめ見て散策子は蒼あおくなった。
 大小濃薄のうはく乱雑に、半なかばかきさしたのもあり、歪ゆがんだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○《まる》と□《しかく》△《さんかく》ばかり。
「ね、上手じょうずでしょう。此処等ここいらの人たちは、貴下あなた、玉脇たまわきでは、絵を描かくと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時いつまでもこうしていますのに、唯ただいては、谷戸口やとぐちの番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
 大層評判が宜よろしゅうございますから……何なんですよ、この頃に絵具えのぐを持出もちだして、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
 この円まるいのが海、この三角が山、この四角しかくいのが田圃たんぼだと思えばそれでもようござんす。それから○《まる》い顔にして、□《しかく》い胴にして△《さんかく》に坐っている、今戸焼いまどやきの姉様あねさんだと思えばそれでも可ようございます、袴はかまを穿はいた殿様だと思えばそれでも可よいでしょう。
 それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色かおつきをしても可いいんですし、名を知らない死んだ人の戒名かいみょうだと思って拝おがんでも可いいんですよ。」 ようよう声が出て、
「戒名かいみょう、」
 と口が利ける。
「何なに、何んというんです。」
「四角院円々三角居士しかくいんまるまるさんかくこじと、」
 いいながら土手に胸をつけて、袖そでを草に、太脛ふくらはぎのあたりまで、友染ゆうぜんを敷乱しきみだして、すらりと片足片褄かたづまを泳がせながら、こう内うちへ掻込かきこむようにして、鉛筆ですらすらとその三体さんたいの秘密を記しるした。
 テンテンカラ、テンカラと、耳許みみもとに太鼓たいこの音。二人の外ほかに人のない世ではない。アノ椿つばきの、燃え落ちるように、向うの茅屋かややへ、続いてぼたぼたと溢あふれたと思うと、菜種なたねの路みちを葉がくれに、真黄色まっきいろな花の上へ、ひらりと彩いろどって出たものがある。
 茅屋かややの軒へ、鶏にわとりが二羽舞上まいあがったのかと思った。
 二個ふたつの頭かしら、獅子頭ししがしら、高いのと低いのと、後あとになり先になり、縺もつれる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許あしもとからそなたへ続く青麦の畠はたけの端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子れんじし。
 汚れた萌黄もえぎの裁着たッつけに、泥草鞋どろわらじの乾いた埃ほこりも、霞かすみが麦にかかるよう、志こころざして何処どこへ行ゆく。早はやその太鼓を打留うちやめて、急足いそぎあしに近づいた。いずれも子獅子の角兵衛かくべえ大小だいしょう。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷くのやの出口を突切つッきり、紅白の牡丹ぼたんの花、はっと俤おもかげに立つばかり、ひらりと前を行ゆき過ぎる。
「お待ちちょいと、」
 と声をかけた美女たおやめは起直おきなおった。今の姿をそのままに、雪駄せったは獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐よこずわりになる。
 ト獅子は紅くれないの切きれを捌さばいて、二つとも、立って頭かしらを向けた。
「ああ、あの、児こたち、お待ちなね。」
 テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の面おもに撥ばちが飛んで、ぶるぶると細こまかに躍おどる。
「アリャ」
 小獅子は路みちへ橋に反そった、のけ様ざまの頤あぎとふっくりと、二ふたかわ目めに紅こうを潮ちょうして、口許くちもとの可愛かわいらしい、色の白い児こであった。

三十四

「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをして引ひっくりかえらなくっても可いいんだよ、可いんだよ。」
 と圧おさえつけるようにいうと、ぴょいと立直たちなおって頭かしらの堆うずたかく大きく突出つきでた、紅くれないの花の廂ひさしの下に、くるッとした目を睜みはって立った。 ブルブルッと、跡あとを引いて太鼓が止やむ。
 美女たおやめは膝をずらしながら、帯に手をかけて、揺ゆり上げたが、
「お待ちよ、今お銭あしを上あげるからね、」
 手帳の紙へはしり書がきして、一枚手許てもとへ引切ひききった、そのまま獅子をさし招いて、
「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その角かどの二階家へ行って取っておいで。」
 留守へ言いつけた為替かわせと見える。
 後馳おくればせに散策子は袂たもとへ手を突込つきこんで、
「細こまかいのならありますよ。」
「否いいえ、可ようござんすよ、さあ、兄あにや、行って来な。」
 撥ばちを片手で引ひッつかむと、恐る恐る差出さしだした手を素疾すばやく引込ひっこめ、とさかをはらりと振って行ゆく。
「さあ、お前こっちへおいで、」
 小さな方を膝許ひざもとへ。
 きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、凝じっと見て、
「幾歳いくつなの、」
「八歳やッつでごぜえス。」
「母おっかさんはないの、」
「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」
「お前は知らないでもね、母様おっかさんの方は知ってるかも知れないよ、」
 と衝つと手を袴越はかまごしに白くかける、とぐいと引寄ひきよせて、横抱きに抱くと、獅子頭ししがしらはばくりと仰向あおむけに地を払って、草鞋わらんじは高く反そった。鶏とりの羽はねの飾かざりには、椰子やしの葉を吹く風が渡る。
「貴下あなた、」
 と落着おちついて見返って、
「私の児こかも知れないんですよ。」
 トタンに、つるりと腕かいなを辷すべって、獅子は、倒さかさにトンと返って、ぶるぶると身体からだをふったが、けろりとして突立つッたった。
「えへへへへへ、」
 此処ここへ勢いきおいよく兄獅子が引返ひきかえして、
「頂いたい、頂いたい。」
 二つばかり天窓あたまを掉ふったが、小さい方の背中を突いて、テンとまた撥ばちを当てる。
「可いいよ、そんなことをしなくっても、」
 と裳もすそをずりおろすようにして止とめた顔と、まだ掴つかんだままの大おおきな銀貨とを互たがいに見較みくらべ、二個ふたりともとぼんとする。時に朱盆しゅぼんの口を開いて、眼まなこを輝かがやかすものは何。
「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」
 とその○□△を楽書らくがきの余白へ、鉛筆を真直まっすぐに取ってすらすらと春の水の靡なびくさまに走らした仮名かなは、かくれもなく、散策子に読得よみえられた。
君とまたみるめおひせば四方よもの海うみの
水の底をもかつき見てまし
 散策子は思わず海の方かたを屹きっと見た。波は平たいらかである。青麦につづく紺青こんじょうの、水平線上雪ゆき一山いっさん。
 富士の影が渚なぎさを打って、ひたひたと薄く被かぶさる、藍色あいいろの西洋館の棟むね高たかく、二、三羽鳩はとが羽はねをのして、ゆるく手巾ハンケチを掉ふり動かす状さまであった。 小さく畳たたんで、幼おさない方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした頤おとがいで、合点々々がてんがてんをすると見えたが、いきなり二階家の方へ行ゆこうとした。
 使つかいを頼まれたと思ったらしい。
「おい、そっちへ行ゆくんじゃない。」
 と立入たちいったが声を懸けた。
 美女たおやめは莞爾にっこりして、
「唯ただ持って行ってくれれば可いいの、何処どこへッて当あてはないの。落したら其処そこでよし、失くしたらそれッきりで可いいんだから……唯ただ心持こころもちだけなんだから……」
「じゃ、唯ただ持って行きゃ可いいのかね、奥さん、」
 と聞いて頷うなずくのを見て、年紀上としうえだけに心得顔こころえがおで、危あぶなっかしそうに仰向あおむいて吃驚びっくりした風ふうでいる幼い方の、獅子頭ししがしらを背後うしろへ引いて、
「こん中へ入れとくだア、奴やっこ、大事にして持ッとんねえよ。」
 獅子が並んでお辞儀じぎをすると、すたすたと駈け出した。後白浪あとしらなみに海の方かた、紅くれないの母衣ほろ翩翻へんぽんとして、青麦の根に霞かすみ行ゆく。

三十五

 さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼処かしこから鳩の舞うのを見た、浜辺の藍色あいいろの西洋館の傍かたわらなる、砂山の上に顕あらわれた。
 其処そこへ来ると、浪打際なみうちぎわまでも行ゆかないで、太いたく草臥くたびれた状さまで、ぐッたりと先ず足を投げて腰を卸おろす。どれ、貴女あなたのために(ことづけ)の行方ゆくえを見届けましょう。連獅子れんじしのあとを追って、というのをしおに、まだ我儘わがままが言い足りず、話相手の欲しかったらしい美女びじょに辞して、袂たもとを分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。
 一先ひとまず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、久能谷くのやを離れて街道を見ると、人の瀬を造って、停車場ステイションへ押懸おしかける夥おびただしさ。中にはもう此処等ここいらから仮声こわいろをつかって行ゆく壮佼わかものがある、浅黄あさぎの襦袢じゅばんを膚脱はだぬいで行ゆく女房がある、その演劇しばいの恐しさ。大江山おおえやまの段か何か知らず、とても町へは寄附よりつかれたものではない。
 で、路と一緒に、人通ひとどおりの横を切って、田圃たんぼを抜けて来たのである。
 正面にくぎり正しい、雪白せっぱくな霞かすみを召した山の女王にょおうのましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、畚びくや、馬秣まぐさのように散ちらばったかじめの如き、いずれも海に対して、我われは顔がおをするのではないから、固もとより馴れた目を遮さえぎりはせぬ。
 かつ人ひと一人ひとりいなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。長閑のどかさはしかし野にも山にも増まさって、あらゆる白砂はくさの俤おもかげは、暖あたたかい霧に似ている。 鳩は蒼空あおぞらを舞うのである。ゆったりした浪なみにも誘さそわれず、風にも乗らず、同一処おなじところを――その友は館やかたの中に、ことことと塒ねぐらを踏んで、くくと啼なく。
 人はこういう処ところに、こうしていても、胸の雲霧くもきりの霽はれぬ事は、寐ねられぬ衾ふすまと相違そういはない。
 徒いたずらに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛たわいなくほろほろと崩れると、また傍かたわらからもり添える。水を掴つかむようなもので、捜さぐればはらはらとただ貝が出る。
 渚なぎさには敷満しきみちたが、何んにも見えない処でも、纔わずかに砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。
 水の底を捜したら、渠かれがためにこがれ死じにをしたと言う、久能谷くのやの庵室あんじつの客も、其処そこに健在であろうも知れぬ。
 否いな、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば四方よもの海の、水の底へも潜くぐろうと、(ことづけ)をしたのであろう。
 この歌は、平安朝に艶名えんめい一世いっせを圧あっした、田たかりける童わらべに襖あおをかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれた情なさけに感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……名媛めいえんの作と思う。
 言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、御堂みどうの柱に、うたた寐ねの歌を楽書らくがきしたとおなじ玉脇の妻、みを子である。
 深く考うるまでもなく、庵いおりの客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の契ちぎりがあったらしい。
 男は真先まっさきに世間外せけんがいに、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身を以もって直ただちに幽冥ゆうめいに趣おもむいたもののようであるが、婦人おんなはまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の鬱悶うつもんを漏もらした、未来があるものと定さだまり、霊魂の行末ゆくすえが極きまったら、直ぐにあとを追おうと言った、言ことばの端はしにも顕あらわれていた。
 唯ただその有耶無耶うやむやであるために、男のあとを追いもならず、生長いきながらえる効かいもないので。
 そぞろに門附かどづけを怪しんで、冥土めいどの使つかいのように感じた如きは幾分か心が乱れている。意気張いきばりずくで死んで見せように到っては、益々ますます悩乱のうらんのほどが思い遣やられる。
 また一面から見れば、門附かどづけが談話はなしの中に、神田辺かんだへんの店で、江戸紫えどむらさきの夜あけがた、小僧が門かどを掃はいている、納豆なっとうの声がした……のは、その人が生涯の東雲頃しののめごろであったかも知れぬ。――やがて暴風雨あらしとなったが――
 とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、以もって未来の有無を占うらなおうとしたらしかったに――頭陀袋ずだぶくろにも納めず、帯にもつけず、袂たもとにも入れず、角兵衛がその獅子頭ししがしらの中に、封じて去ったのも気懸きがかりになる。為替かわせしてきらめくものを掴つかませて、のッつ反そッつの苦患くげんを見せない、上花主じょうとくいのために、商売冥利みょうり、随一ずいいち大切な処ところへ、偶然受取うけとって行ったのであろうけれども。 あれがもし、鳥にでも攫さらわれたら、思う人は虚空こくうにあり、と信じて、夫人は羽化うかして飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び引返ひきかえしてその音信おとずれは伝えまい。
 従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目を留とめて、
君とまたみる目めおひせば四方よもの海うみの……
と我にもあらず口ずさんだ。
 更に答えぬ。
 もしまたうつせ貝がいが、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささ貝がいの花吹雪は、いつも私語ささやきを絶えせぬだろうに。されば幼児おさなごが拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは同一おなじである。
 小貝こがいをそこで捨てた。
 そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、辷すべり落ちても埋うもれはせぬ。
 しばらくして、その半眼はんがんに閉じた目は、斜めに鳴鶴なきつるヶ岬さきまで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、不知火しらぬいにはっきり覚めた。
 とそれは獅子頭ししがしらの緋ひの母衣ほろであった。
 二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、小坪こつぼの崕がけまで、人影一ツ見えぬ処ところへ。
 停車場ステイションに演劇しばいがある、町も村も引っぷるって誰たれが角兵衛に取合とりあおう。あわれ人の中のぼうふらのような忙せわしい稼業の児こたち、今日はおのずから閑かんなのである。
 二人は此処ここでも後あとになり先になり、脚絆きゃはんの足を入れ違いに、頭かしらを組んで白波しらなみを被かつぐばかり浪打際なみうちぎわを歩行あるいたが、やがてその大きい方は、五、六尺渚なぎさを放はなれて、日影の如く散乱ちりみだれた、かじめの中へ、草鞋わらじを突出つきだして休んだ。
 小獅子は一層活溌かっぱつに、衝つと浪を追う、颯さっと追われる。その光景、ひとえに人の児この戯たわむれるようには見えず、かつて孤児院の児が此処ここに来て、一種の監督の下に、遊んだのを見たが、それとひとつで、浮世の浪に揉もみ立てられるかといじらしい。但ただその頭かしらの獅子が怒り狂って、たけり戦う勢いきおいである。
 勝かつでは可よい!
 ト草鞋わらじを脱いで、跣足はだしになって横歩行よこあるきをしはじめた。あしを濡らして遊んでいる。
 大きい方は仰向あおむけに母衣ほろを敷いて、膝を小さな山形に寝た。
 磯いそを横ッ飛とびの時は、その草鞋わらじを脱いだばかりであったが、やがて脚絆きゃはんを取って、膝まで入って、静かに立っていたと思うと、引返ひきかえして袴はかまを脱いで、今度は衣類きものをまくって腰までつかって、二、三度密そっと潮しおをはねたが、またちょこちょこと取って返して、頭かしらを刎退はねのけ、衣類きものを脱いで、丸裸になって一文字に飛込とびこんだ。陽気はそれでも可よかったが、泳ぎは知らぬ児こと見える。唯ただ勢いきおいよく、水を逆に刎はね返した。手でなぐって、足で踏むを、海水は稲妻いなずまのように幼児おさなごを包んでその左右へ飛んだ。――雫しずくばかりの音もせず――獅子はひとえに嬰児みどりごになった、白光びゃくこうは頭かしらを撫なで、緑波りょくはは胸を抱いだいた。何らの寵児ちょうじぞ、天地あめつちの大きな盥たらいで産湯うぶゆを浴びるよ。 散策子はむくと起きて、ひそかにその幸福を祝するのであった。
 あとで聞くと、小児心こどもごころにもあまりの嬉うれしさに、この一幅いっぷくの春の海に対して、報恩ほうおんの志こころざしであったという。一旦いったん出て、浜へ上って、寝た獅子の肩の処ところへしゃがんでいたが、対手あいてが起返おきかえると、濡れた身体からだに、頭かしらだけ取って獅子を被かついだ。
 それから更に水に入った。些ちと出過ですぎたと思うほど、分けられた波の脚あしは、二線ふたすじ長く広く尾を引いて、小獅子の姿は伊豆いずの岬に、ちょと小さな点になった。
 浜にいるのが胡坐あぐらかいたと思うと、テン、テン、テンテンツツテンテンテン波に丁ちょうと打込うちこむ太鼓、油のような海面うなづらへ、綾あやを流して、響くと同時に、水の中に立ったのが、一曲、頭かしらを倒さかさまに。
 これに眩めくるめいたものであろう、啊呀あな忌いまわし、よみじの(ことづけ)を籠こめたる獅子を、と見る内に、幼児おさなごは見えなくなった。
 まだ浮ばぬ。
 太鼓が止やんで、浜なるは棒立ちになった。
 砂山を慌あわただしく一文字に駈けて、こなたが近ちかづいた時、どうしたのか、脱ぎ捨てた袴はかま、着物、脚絆きゃはん、海草の乾からびた状さまの、あらゆる記念かたみと一緒に、太鼓も泥草鞋どろわらじも一ひとまとめに引ひっかかえて、大きな渠かれは、砂煙すなけむりを上げて町の方かたへ一散いっさんに遁にげたのである。
 浪なみはのたりと打つ。
 ハヤ二、三人駈けて来たが、いずれも高声たかごえの大笑い、
「馬鹿な奴だ。」
「馬鹿野郎。」
 ポクポクと来た巡査に、散策子が、縋すがりつくようにして、一言ひとこというと、
「角兵衛が、ははは、そうじゃそうで。」
 死骸しがいはその日終日ひねもす見当らなかったが、翌日しらしらあけの引潮ひきしおに、去年の夏、庵室あんじつの客が溺れたとおなじ鳴鶴なきつるヶ岬さきの岩に上あがった時は二人であった。顔が玉たまのような乳房ちぶさにくッついて、緋母衣ひほろがびっしょり、その雪の腕かいなにからんで、一人は美びにして艶えんであった。玉脇の妻は霊魂れいこんの行方ゆくえが分ったのであろう。
 さらば、といって、土手の下で、分れ際ぎわに、やや遠ざかって、見返った時――その紫の深張ふかばりを帯のあたりで横にして、少し打傾うちかたむいて、黒髪くろかみの頭かしらおもげに見送っていた姿を忘れぬ。どんなに潮うしおに乱れたろう。渚なぎさの砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅くれない、渚の雪、浪なみの緑。



青空文庫より引用