雪靈續記


        一

 機會きくわいがおのづから來きました。
 今度こんどの旅たびは、一體いつたいはじめは、仲仙道線なかせんだうせんで故郷こきやうへ着ついて、其處そこで、一事あるようを濟すましたあとを、姫路行ひめぢゆきの汽車きしやで東京とうきやうへ歸かへらうとしたのでありました。――此この列車れつしやは、米原まいばらで一體分身いつたいぶんしんして、分わかれて東西とうざいへ馳はしります。
 其それが大雪おほゆきのために進行しんかうが續つゞけられなくなつて、晩方ばんがた武生驛たけふえき(越前ゑちぜん)へ留とまつたのです。強しひて一町場ひとちやうばぐらゐは前進ぜんしん出來できない事ことはない。が、然さうすると、深山しんざんの小驛せうえきですから、旅舍りよしやにも食料しよくれうにも、乘客じようかくに對たいする設備せつびが不足ふそくで、危險きけんであるからとの事ことでありました。
 元來ぐわんらい――歸途きとに此この線せんをたよつて東海道とうかいだうへ大𢌞おほまはりをしようとしたのは、……實じつは途中とちうで決心けつしんが出來できたら、武生たけふへ降おりて許ゆるされない事ことながら、そこから虎杖いたどりの里さとに、もとの蔦屋つたや(旅館りよくわん)のお米よねさんを訪たづねようと言いふ……見みるる積つもる雪ゆきの中なかに、淡雪あはゆきの消きえるやうな、あだなのぞみがあつたのです。で其その望のぞみを煽あふるために、最もう福井ふくゐあたりから酒さけさへ飮のんだのでありますが、醉よひもしなければ、心こゝろも定きまらないのでありました。
 唯たゞ一夜や、徒いたづらに、思出おもひでの武生たけふの町まちに宿やどつても構かまはない。が、宿やどりつゝ、其處そこに虎杖いたどりの里さとを彼方かなたに視みて、心こゝろも足あしも運はこべない時ときの儚はかなさには尚なほ堪たへられまい、と思おもひなやんで居ゐますうちに―― 汽車きしやは着つきました。
 目めをつむつて、耳みゝを壓おさへて、發車はつしやを待まつのが、三分ぷん、五分ふん、十分ぷん十五分ふん――やゝ三十分ぷん過すぎて、やがて、驛員えきいんに其その不通ふつうの通達つうたつを聞きいた時ときは!
 雪ゆきが其そのまゝの待女郎まちぢよらうに成なつて、手てを取とつて導みちびくやうで、まんじ巴ともゑの中空なかぞらを渡わたる橋はしは、宛然さながらに玉たまの棧橋かけはしかと思おもはれました。
 人間にんげんは増長ぞうちやうします。――積雪せきせつのために汽車きしやが留とまつて難儀なんぎをすると言いへば――旅籠はたごは取とらないで、すぐにお米よねさんの許もとへ、然さうだ、行いつて行ゆけなさうな事ことはない、が、しかし……と、そんな事ことを思おもつて、早はや壁かべも天井てんじやうも雪ゆきの空そらのやうに成なつた停車場ステエシヨンに、しばらく考かんがへて居ゐましたが、餘あまり不躾ぶしつけだと己おのれを制せいして、矢張やつぱり一旦いつたんは宿やどに着つく事ことにしましたのです。ですから、同列車どうれつしやの乘客じようかくの中うちで、停車場ステエシヨンを離はなれましたのは、多分たぶん私わたしが一番いちばんあとだつたらうと思おもひます。
 大雪おほゆきです。

「雪ゆきやこんこ、
 霰あられやこんこ。」

 大雪おほゆきです――が、停車場前ステエシヨンまへの茶店ちやみせでは、まだ小兒せうにたちの、そんな聲こゑが聞きこえて居ゐました。其その時分じぶんは、山やまの根笹ねざさを吹ふくやうに、風かぜもさららと鳴なりましたつけ。町まちへ入はひるまでに日ひもとつぷりと暮果くれはてますと、

「爺ぢいさイのウ婆ばゞさイのウ、
 綿雪わたゆき小雪こゆきが降ふるわいのウ、 雨戸あまども小窓こまどもしめさつし。」

 と寂さびしい侘わびしい唄うたの聲こゑ――雪ゆきも、小兒こどもが爺婆ぢいばあに化ばけました。――風かぜも次第しだいに、ぐわううと樹きながら山やまを搖ゆすりました。
 店屋みせやさへ最もう戸とが閉しまる。……旅籠屋はたごやも門もんを閉とざしました。
 家名いへなも何なにも構かまはず、いま其家そこも閉しめようとする一軒けんの旅籠屋はたごやへ駈込かけこみましたのですから、場所ばしよは町まちの目貫めぬきの向むきへは遠とほいけれど、鎭守ちんじゆの方はうへは近ちかかつたのです。
 座敷ざしきは二階にかいで、だゞつ廣ぴろい、人氣にんきの少すくないさみしい家いへで、夕餉ゆふげもさびしうございました。
 若狹鰈わかさがれひ――大だいすきですが、其それが附木つけぎのやうに凍こほつて居ゐます――白子魚乾しらすぼし、切干大根きりぼしだいこの酢す、椀わんはまた白子魚乾しらすぼしに、とろゝ昆布こぶの吸すひもの――しかし、何なんとなく可懷なつかしくつて涙なみだぐまるゝやうでした、何故なぜですか。……
 酒さけも呼よんだが醉よひません。むかしの事ことを考かんがへると、病苦びやうくを救すくはれたお米よねさんに對たいして、生意氣なまいきらしく恥はづかしい。
 兩手りやうてを炬燵こたつにさして、俯向うつむいて居ゐました、濡ぬれるやうに涙なみだが出でます。
 さつと言いふ吹雪ふゞきであります。さつと吹ふくあとを、ぐわうーと鳴なる。……次第しだいに家いへごと搖ゆするほどに成なりましたのに、何なんと言いふ寂寞さびしさだか、あの、ひつそりと障子しやうじの鳴なる音おと。カタタカタ、白しろい魔まが忍しのんで來くる、雪入道ゆきにふだうが透見すきみする。カタタ/\カタ、さーツ、さーツ、ぐわううと吹ふくなかに――見みるるうちに障子しやうじの棧さんがパツツと白しろく成なります、雨戸あまどの隙すきへ鳥とりの嘴程くちばしほど吹込ふきこむ雪ゆきです。「大雪おほゆきの降ふる夜よなど、町まちの路みちが絶たえますと、三日みつかも四日よつかも私わたし一人ひとり――」
 三年以前ねんいぜんに逢あつた時とき、……お米よねさんが言いつたのです。
    ……………………
「路みちの絶たえる。大雪おほゆきの夜よ。」
 お米よねさんが、あの虎杖いたどりの里さとの、此この吹雪ふゞきに……
「……唯たゞ一人ひとり。」――
 私わたしは決然けつぜんとして、身みごしらへをしたのであります。
「電報でんぱうを――」
 と言いつて、旅宿りよしゆくを出でました。
 實じつはなくなりました父ちゝが、其その危篤きとくの時とき、東京とうきやうから歸かへりますのに、(タダイマココマデキマシタ)と此この町まちから發信はつしんした……偶ふとそれを口實こうじつに――時間じかんは遲おそくはありませんが、目口めくちもあかない、此この吹雪ふゞきに、何なんと言いつて外そとへ出でようと、放火つけびか強盜がうたう、人殺ひとごろしに疑うたがはれはしまいかと危あやぶむまでに、さんざん思おもひ惑まどつたあとです。
 ころ柿がきのやうな髮かみを結ゆつた霜しもげた女中ぢよちうが、雜炊ざふすゐでもするのでせう――土間どまで大釜おほがまの下したを焚たいて居ゐました。番頭ばんとうは帳場ちやうばに青あをい顏かほをして居ゐました。が、無論むろん、自分じぶんたちが其その使つかひに出でようとは怪我けがにも言いはないのでありました。

        二

「何どう成なるのだらう……とにかくこれは尋常事たゞごとぢやない。」
 私わたしは幾度いくたびとなく雪ゆきに轉ころび、風かぜに倒たふれながら思おもつたのであります。
「天狗てんぐの爲なす業わざだ、――魔まの業わざだ。」
 何なにしろ可恐おそろしい大おほきな手てが、白しろい指紋しもんの大渦おほうづを卷まいて居ゐるのだと思おもひました。 いのちとりの吹雪ふゞきの中なかに――
 最後さいごに倒たふれたのは一ひとつの雪ゆきの丘をかです。――然さうは言いつても、小高こだかい場所ばしよに雪ゆきが積つもつたのではありません、粉雪こゆきの吹溜ふきだまりがこんもりと積つもつたのを、哄どつと吹ふく風かぜが根ねこそぎに其その吹ふく方はうへ吹飛ふきとばして運はこぶのであります。一ひとつ二ふたつの數すうではない。波なみの重かさなるやうな、幾いくつも幾いくつも、颯さつと吹ふいて、むららと位置ゐちを亂みだして、八方はつぱうへ高たかく成なります。
 私わたしは最もう、それまでに、幾度いくたびも其その渦うづにくるると卷まかれて、大おほきな水みづの輪わに、孑孑蟲ぼうふらむしが引ひつくりかへるやうな形かたちで、取とつては投なげられ、掴つかんでは倒たふされ、捲まき上あげては倒たふされました。
 私わたしは――白晝はくちう、北海ほくかいの荒波あらなみの上うへで起おこる處ところの此この吹雪ふゞきの渦うづを見みた事ことがあります。――一度いちどは、たとへば、敦賀灣つるがわんでありました――繪ゑにかいた雨龍あまりようのぐるると輪わを卷まいて、一條ひとすぢ、ゆつたりと尾をを下したに垂たれたやうな形かたちのものが、降ふりしきり、吹煽ふきあふつて空中くうちうに薄黒うすぐろい列れつを造つくります。
 見みて居ゐるうちに、其その一ひとつが、ぱつと消きえるかと思おもふと、忽たちまち、ぽつと、續つゞいて同おなじ形かたちが顯あらはれます。消きえるのではない、幽かすかに見みえる若狹わかさの岬みさきへ矢やの如ごとく白しろく成なつて飛とぶのです。一ひとつ一ひとつが皆みな然さうでした。――吹雪ふゞきの渦うづは湧わいては飛とび、湧わいては飛とびます。 私わたしの耳みゝを打うち、鼻はなを捩ねぢつゝ、いま、其その渦うづが乘のつては飛とび、掠かすめては走はしるんです。
 大波おほなみに漂たゞよふ小舟こぶねは、宙天ちうてんに搖上ゆすりあげらるゝ時ときは、唯たゞ波なみばかり、白しろき黒くろき雲くもの一片いつぺんをも見みず、奈落ならくに揉落もみおとさるゝ時ときは、海底かいていの巖いはの根ねなる藻もの、紅あかき碧あをきをさへ見みると言いひます。
 風かぜの一息ひといき死しぬ、眞空しんくうの一瞬時いつしゆんじには、町まちも、屋根やねも、軒下のきしたの流ながれも、其その屋根やねを壓あつして果はてしなく十重とへ二十重はたへに高たかく聳たち、遙はるかに連つらなる雪ゆきの山脈さんみやくも、旅籠はたごの炬燵こたつも、釜かまも、釜かまの下したなる火ひも、果はては虎杖いたどりの家いへ、お米よねさんの薄色うすいろの袖そで、紫陽花あぢさゐ、紫むらさきの花はなも……お米よねさんの素足すあしさへ、きつぱりと見みえました。が、脈みやくを打うつて吹雪ふゞきが來くると、呼吸こきふは咽むせんで、目めは盲めしひのやうに成なるのでありました。
 最早もはや、最後さいごかと思おもふ時ときに、鎭守ちんじゆの社やしろが目めの前まへにあることに心着こゝろづいたのであります。同時どうじに峰みねの尖とがつたやうな眞白まつしろな杉すぎの大木たいぼくを見みました。
 雪難之碑せつなんのひのある處ところ――
 天狗てんぐ――魔まの手てなど意識いしきしましたのは、其その樹きのせゐかも知しれません。たゞし此これに目標めじるしが出來できたためか、背せに根ねが生はえたやうに成なつて、倒たふれて居ゐる雪ゆきの丘をかの飛移とびうつるやうな思おもひはなくなりました。 洵まことは、兩側りやうがはにまだ家いへのありました頃ころは、――中なかに旅籠はたごも交まじつて居ゐます――一面識いちめんしきはなくつても、同おなじ汽車きしやに乘のつた人ひとたちが、疎まばらにも、それれの二階にかいに籠こもつて居ゐるらしい、其それこそ親友しんいうが附添つきそつて居ゐるやうに、氣丈夫きぢやうぶに頼母たのもしかつたのであります。尤もつとも其それを心こゝろあてに、頼たのむ。――助たすけて――助たすけて――と幾度いくたびか呼よびました。けれども、窓まど一ひとつ、ちらりと燈火ともしびの影かげの漏もれて答こたふる光ひかりもありませんでした。聞きこえる筈はずもありますまい。
 いまは、唯たゞお米よねさんと、間あひだに千尺せんじやくの雪ゆきを隔へだつるのみで、一人ひとり死しを待まつ、……寧むしろ目めを瞑ねむるばかりに成なりました。
 時ときに不思議ふしぎなものを見みました――底そこひなき雪ゆきの大空おほぞらの、尚なほ其その上うへを、プスリと鑿のみで穿うがつて其その穴あなから落おちこぼれる……大おほきさは然さうです……蝋燭らふそくの灯ひの少すこし大おほきいほどな眞蒼まつさをな光ひかりが、ちららと雪ゆきを染そめ、染そめて、ちららと染そめながら、ツツと輝かゞやいて、其その古杉ふるすぎの梢こずゑに來きて留とまりました。其その青あをい火ひは、しかし私わたしの魂たましひが最もう藻脱もぬけて、虚空こくうへ飛とんで、倒さかさまに下したの亡骸なきがらを覗のぞいたのかも知しれません。
 が、其その影かげが映さすと、半なかば埋うもれた私わたしの身體からだは、ぱつと紫陽花あぢさゐに包つゝまれたやうに、青あをく、藍あゐに、群青ぐんじやうに成なりました。 此この山やまの上うへなる峠たうげの茶屋ちややを思おもひ出だす――極暑ごくしよ、病氣びやうきのため、俥くるまで越こえて、故郷こきやうへ歸かへる道みちすがら、其その茶屋ちややで休やすんだ時ときの事ことです。門もんも背戸せども紫陽花あぢさゐで包つゝまれて居ゐました。――私わたしの顏かほの色いろも同おなじだつたらうと思おもふ、手ても青あをい。
 何なにより、嫌いやな、可恐おそろしい雷かみなりが鳴なつたのです。たゞさへ破われようとする心臟しんぞうに、動悸どうきは、破障子やれしやうじの煽あふるやうで、震ふるへる手てに飮のむ水みづの、水みづより前さきに無數むすうの蚊かが、目め、口くち、鼻はなへ飛込とびこんだのであります。
 其その時ときの苦くるしさ。――今いまも。

        三

 白しろい梢こずゑの青あをい火ひは、また中空なかぞらの渦うづを映うつし出だす――とぐろを卷まき、尾をを垂たれて、海原うなばらのそれと同おなじです。いや、それよりも、峠たうげで屋根やねに近ちかかつた、あの可恐おそろしい雲くもの峰みねに宛然そつくりであります。
 此この上うへ、雷かみなり。
 大雷おほかみなりは雪國ゆきぐにの、こんな時ときに起おこります。
 死力しりよくを籠こめて、起上おきあがらうとすると、其その渦うづが、風かぜで、ぐわうと卷まいて、捲まきながら亂みだるゝと見みれば、計知はかりしられぬ高たかさから颯さつと大瀧おほだきを搖落ゆりおとすやうに、泡沫あわとも、しぶきとも、粉こなとも、灰はひとも、針はりとも分わかず、降埋ふりうづめる。「あつ。」
 私わたしは又また倒たふれました。
 怪火あやしびに映うつる、其その大瀧おほだきの雪ゆきは、目めの前まへなる、ヅツンと重おもい、大おほきな山やまの頂いたゞきから一雪崩ひとなだれに落おちて來くるやうにも見みえました。
 引挫ひつしがれた。
 苦痛くつうの顏かほの、醜みにくさを隱かくさうと、裏うらも表おもても同おなじ雪ゆきの、厚あつく、重おもい、外套ぐわいたうの袖そでを被かぶると、また青あをい火ひの影かげに、紫陽花あぢさゐの花はなに包つゝまれますやうで、且かつ白羽二重しろはぶたへの裏うらに薄萌黄うすもえぎがすツと透とほるやうでした。
 ウオヽヽヽ!
 俄然がぜんとして耳みゝを噛かんだのは、凄すごく可恐おそろしい、且かつ力ちからある犬いぬの聲こゑでありました。
 ウオヽヽヽ!
 虎とらの嘯うそぶくとよりは、龍りうの吟ぎんずるが如ごとき、凄烈せいれつ悲壯ひそうな聲こゑであります。
 ウオヽヽヽ!
 三聲みこゑを續つゞけて鳴ないたと思おもふと……雪ゆきをかついだ、太ふとく逞たくましい、しかし痩やせた、一頭いつとうの和犬わけん、むく犬いぬの、耳みゝの青竹あをだけをそいだやうに立たつたのが、吹雪ふゞきの瀧たきを、上うへの峰みねから、一直線いつちよくせんに飛下とびおりた如ごとく思おもはれます。忽たちまち私わたしの傍そばを近々ちかかと横よこぎつて、左右さいうに雪ゆきの白泡しらあわを、ざつと蹴立けたてて、恰あたかも水雷艇すゐらいていの荒浪あらなみを切きるが如ごとく猛然まうぜんとして進すゝみます。
 あと、ものの一町いつちやうばかりは、眞白まつしろな一條いちでうの路みちが開ひらけました。――雪ゆきの渦うづが十とヲばかりぐるると續つゞいて行ゆく。…… 此これを反對はんたいにすると、虎杖いたどりの方はうへ行ゆくのであります。
 犬いぬの其その進すゝむ方はうは、まるで違ちがつた道みちでありました。が、私わたしは夢中むちうで、其そのあとに續つゞいたのであります。
 路みちは一面いちめん、渺々べううと白しろい野原のはらに成なりました。
 が、大犬おほいぬの勢いきほひは衰おとろへません。――勿論もちろん、行ゆくあとにに道みちが開ひらけます。渦うづが續つゞいて行ゆく……
 野のの中空なかぞらを、雪ゆきの翼つばさを縫ぬつて、あの青あをい火ひが、蜿々うねねと螢ほたるのやうに飛とんで來きました。
 眞正面まつしやうめんに、凹字形あふじけいの大おほきな建たてものが、眞白まつしろな大軍艦だいぐんかんのやうに朦朧もうろうとして顯あらはれました。と見みると、怪あやし火びは、何なんと、ツツツと尾をを曳ひきつゝ。先さきへ斜なゝめに飛とんで、其その大屋根おほやねの高たかい棟むねなる避雷針ひらいしんの尖端とつたんに、ぱつと留とまつて、ちららと青あをく輝かゞやきます。
 ウオヽヽヽヽ
 鐵てつづくりの門もんの柱はしらの、やがて平地へいちと同おなじに埋うづまつた眞中まんなかを、犬いぬは山やまを乘のるやうに入はひります。私わたしは坂さかを越こすやうに續つゞきました。
 ドンと鳴なつて、犬いぬの頭突づつきに、扉とびらが開あいた。
 餘あまりの嬉うれしさに、雪ゆきに一度いちど手てを支つかへて、鎭守ちんじゆの方はうを遙拜えうはいしつゝ、建たてものの、戸とを入はひりました。
 學校がくかう――中學校ちうがくかうです。
 唯ト、犬いぬは廊下らうかを、何處どこへ行いつたか分わかりません。 途端とたんに……
 ざつつと、あの續つゞいた渦うづが、一ひとツづゝ數萬すうまんの蛾がの群むらがつたやうな、一人ひとりの人ひとの形かたちになつて、縱隊一列じうたいいちれつに入はひつて來きました。雪ゆきで束つかねたやうですが、いづれも演習行軍えんしふかうぐんの裝よそほひして、眞先まつさきなのは刀たうを取とつて、ぴたりと胸むねにあてて居ゐる。それが長靴ながぐつを高たかく踏ふんでづかりと入はひる。あとから、背嚢はいなう、荷銃になひづつしたのを、一隊いつたい十七人にんまで數かぞへました。
 うろつく者ものには、傍目わきめも觸ふらず、肅然しゆくぜんとして廊下らうかを長ながく打うつて、通とほつて、廣ひろい講堂かうだうが、青白あをじろく映うつつて開ひらく、其處そこへ堂々だううと入はひつたのです。
「休やすめ――」
 ……と聲こえする。
 私わたしは雪籠ゆきごもりの許ゆるしを受うけようとして、たどどと近ちかづきましたが、扉とびらのしまつた中なかの樣子やうすを、硝子窓越がらすまどごしに、ふと見みて茫然ばうぜんと立たちました。
 眞中まんなかの卓子テエブルを圍かこんで、入亂いりみだれつゝ椅子いすに掛かけて、背嚢はいなうも解とかず、銃じうを引ひきつけたまゝ、大皿おほざらに裝よそつた、握飯にぎりめし、赤飯せきはん、煮染にしめをてんんに取とつて居ゐます。
 頭かしらを振ふり、足あしぶみをするのなぞ見みえますけれども、聲こゑは籠こもつて聞きこえません。
 ――わあ――
 と罵のゝしるか、笑わらふか、一ひとつ大聲おほごゑが響ひゞいたと思おもふと、あの長靴ながぐつなのが、つかかと進すゝんで、半月形はんげつがたの講壇かうだんに上のぼつて、ツと身みを一方いつぱうに開ひらくと、一人ひとり、眞まつすぐに進すゝんで、正面しやうめんの黒板こくばんへ白墨チヨオクを手てにして、何事なにごとをか記しるすのです、――勿論もちろん、武裝ぶさうのまゝでありました。 何なんにも、黒板こくばんへ顯あらはれません。
 續つゞいて一人ひとり、また同おなじ事ことをしました。
 が、何なんにも黒板こくばんへ顯あらはれません。
 十六人にんが十六人にん、同おなじやうなことをした。最後さいごに、肩かたと頭かしらと一團いちだんに成なつたと思おもふと――其その隊長たいちやうと思おもふのが、衝つゝと面おもてを背そむけました時とき――苛いらつやうに、自棄やけのやうに、てんんに、一齊いちどきに白墨チヨオクを投なげました。雪ゆきが群むらがつて散ちるやうです。
「氣きをつけ。」
 つゝと鷲わしが片翼かたつばさを長ながく開ひらいたやうに、壇だんをかけて列れつが整とゝのふ。
「右みぎ向むけ、右みぎ――前まへへ!」
 入口いりくちが背後はいごにあるか、……吸すはるゝやうに消きえました。
 と思おもふと、忽然こつねんとして、顯あらはれて、むくと躍をどつて、卓子テエブルの眞中まんなかへ高たかく乘のつた。雪ゆきを拂はらへば咽喉のど白しろくして、茶ちやの斑まだらなる、畑將軍はたしやうぐんの宛然さながら犬獅子けんじし……
 ウオヽヽヽ!
 肩かたを聳そばだて、前脚まへあしをスクと立たてて、耳みゝが其その圓天井まるてんじやうへ屆とゞくかとして、嚇くわつと大口おほぐちを開あけて、まがみは遠とほく黒板こくばんに呼吸いきを吐はいた――
 黒板こくばんは一面いちめん眞白まつしろな雪ゆきに變かはりました。
 此この猛犬まうけんは、――土地とちではまだ、深山みやまにかくれて活いきて居ゐる事ことを信しんぜられて居ゐます――雪中行軍せつちうかうぐんに擬ぎして、中なかの河内かはちを柳やなヶ瀬せへ拔ぬけようとした冒險ばうけんに、教授けうじゆが二人ふたり、某中學生それのちうがくせいが十五人にん、無慙むざんにも凍死とうしをしたのでした。――七年前ねんぜん―― 雪難之碑せつなんのひは其その記念きねんださうであります。
 ――其その時とき、豫かねて校庭かうていに養やしなはれて、嚮導きやうだうに立たつた犬いぬの、恥はぢて自みづから殺ころしたとも言いひ、然しからずと言いふのが――こゝに顯あらはれたのでありました。
 一行いつかうが遭難さうなんの日ひは、學校がくかうに例れいとして、食饌しよくせんを備そなへるさうです。丁度ちやうど其その夜よに當あたつたのです。が、同おなじ月つき、同おなじ夜よの其その命日めいにちは、月つきが晴はれても、附近ふきんの町まちは、宵よひから戸とを閉とぢるさうです、眞白まつしろな十七人にんが縱横じうわうに町まちを通とほるからだと言いひます――後あとで此これを聞ききました。
 私わたしは眠ねむるやうに、學校がくかうの廊下らうかに倒たふれて居ゐました。
 翌早朝よくさうてう、小使部屋こづかひべやの爐ゐろりの焚火たきびに救すくはれて蘇生よみがへつたのであります。が、いづれにも、然しかも、中なかにも恐縮きようしゆくをしましたのは、汽車きしやの厄やくに逢あつた一人にんとして、驛員えきゐん、殊ことに驛長えきちやうさんの御立會おたちあひに成なつた事ことでありました。



青空文庫より引用