湯槽の朝
三月廿八日、午前五時ころ、伊豆湯ケ島温泉湯本館の湯槽にわたしはひとりして浸つてゐた。
温まるにつれて、昨夜少し過した酒の醉がまたほのかに身體に出て來るのを覺えた。わたしは立つて窓のガラスをあけた。手を延ばせば屆きさうな所に溪川の水がちよろろと白い波を見せて流れてゐた。ツイ其處だけは見ゆるが、向う岸は無論のこと、だううとひどい音をたてゝゐる溪の中流すらも見えぬ位ゐ深い霧であつた。
流石に溪間の風は冷たい。わたしはまた湯に入つて後頭部を湯槽の縁に載せ、いまあけたガラス戸の方に向つて、出て行く湯氣、入つて來る霧の惶しい姿を見るともなく仰いでゐた。
何しろ深い霧である。そして頻りとそれの動いてゐるのが見えて來た。くるりりと大きな渦を卷きながら流れ走つてゐるらしい。
三分か五分かゞ過ぎた。わたしはまた立つて其處の低い窓に腰かけた。今度は溪の流が見えて來た。天城山の雪解のため常より水の増してゐる激流は大きな岩と岩との間をたゞ眞白になつて泡だち渦卷きながら流れてゐる。その雪白な荒瀬のなかのところろにうすらかな青みの宿つてゐるのをすらわたしは認めた。夜はいよよ明けて來たのである。
また湯槽に歸つた。溪に見入つてゐた間に霧はよほど薄らいでゐた。と共にしゆつつと流れ走る速度の速さはよく見えた。そして終にその流の斷間々々に向う岸の、切りそいだ樣に聳えてゐる崖山の杉の木の青いのが見えて來た。
宿醉はいよよ出て來た。霧を見るのをやめ、眼を瞑ぢてをると、だううと流れ下つてゐる瀬の音が、何となく自身の身體の中にでも起つてゐる樣に思ひなされて來た。
三度び窓に腰かけた。其儘その窓を乘り越えて溪端の岩の上にでも立ちたいほどの身體のほてりである。然し、流石に雪解の風は冷たい。
『一體、今日の天氣はどうなのだらう』
わたしは杉の森の茂つて居る崖山の端に空を求めた。が、其處はまだ霧が深くつて何ものも見えなかつた。
もう一度湯の中に入つた。
のぼせたせゐか、暫しの間わたしは瀬の音も霧も忘れてゐた。
サテもう出ようと湯槽の縁に眼を開くと、丁度さうして仰ぐにいゝ具合になつてゐる向う岸の崖山の端のところを相變らず霧は走つてゐた。が、もう其處の霧も薄らいでゐた。そして薄らいだ霧のなかゝら何とも言へぬ鮮かなみづみづしい空の色が見えて來た。それこそ滴るやうな水色の空であつた。わたしはふららと先刻眞白な荒瀬の渦の中に見た水の深みのうすみどりを思ひ浮べてしみみといかにも早春らしいその空の色に見入つた。
青空文庫より引用