国貞えがく


       一

 柳を植えた……その柳の一処ひとところ繁った中に、清水の湧わく井戸がある。……大通り四よツ角かどの郵便局で、東京から組んで寄越よこした若干金なにがしの為替かわせを請取うけとって、三みツ巻まきに包くるんで、ト先まず懐中に及ぶ。
 春は過ぎても、初夏はつなつの日の長い、五月中旬なかば、午頃ひるごろの郵便局は閑かんなもの。受附にもどの口にも他に立集たちつどう人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早てっとりばやくは受取うけとれなかった。
 取扱いが如何いかにも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下あなたが御当人なのですか。」
 などと間伸まのびのした、しかも際立きわだって耳につく東京の調子で行やる、……その本人は、受取口から見た処ところ、二十四、五の青年で、羽織はおりは着ずに、小倉こくらの袴はかまで、久留米くるめらしい絣かすりの袷あわせ、白い襯衣しゃつを手首で留めた、肥った腕の、肩の辺あたりまで捲手まくりでで何とも以もって忙しそうな、そのくせ、する事は薩張さっぱり捗はかどらぬ。態なりに似合わず悠然ゆうぜんと落着済おちつきすまして、聊いささか権高けんだかに見える処ところは、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌しゃべって、時々じろじろと下目しために見越すのが、田舎漢いなかものだと侮あなどるなと言う態度の、それが明あきらかに窓から見透みえすく。郵便局員貴下きか、御心安おこころやすかれ、受取人の立田織次たつたおりじも、同国おなじくにの平民である。
 さて、局の石段を下りると、広々とした四辻よつつじに立った。
「さあ、何処どこへ行ゆこう。」
 何処へでも勝手に行くが可よし、また何処へも行かないでも可いい。このまま、今度の帰省中転ころがってる従姉いとこの家うちへ帰っても可いいが、其処そこは今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣はかまいりは昨日きのう済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日あしただし、好すきなものは晩に食べさせる、と従姉いとこが言った。差当さしあたり何の用もない。何年にも幾日いくかにも、こんな暢気のんきな事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些ちと他愛たわいがないほど、のびのびとした心地ここち。
 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫かっと日が当ると、日中は早はやじりじりと来そうな頃が、近山曇ちかやまぐもりに薄うっすりと雲が懸って、真綿まわたを日光に干ほすような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃ひるごろの蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔やわらかい風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車くるまも見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜おぼろよを浮れ出したような状さまだけれども、この土地ではこれでも賑にぎやかな町の分ぶん。城趾しろあとのあたり中空なかぞらで鳶とびが鳴く、と丁ちょうど今が春しゅんの鰯いわしを焼く匂においがする。 飯を食べに行っても可よし、ちょいと珈琲コオヒイに菓子でも可よし、何処どこか茶店で茶を飲むでも可よし、別にそれにも及ばぬ。が、袷あわせに羽織で身は軽し、駒下駄こまげたは新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金なにがしか貸しても可いい。
「いや、串戯じょうだんは止よして……」
 そうだ! 小北おぎたの許とこへ行ゆかねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊しまって、身体からだが帽子まで堅くなった。
 何故なぜか四辺あたりが視ながめられる。
 こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉へいきち……平へいさんと言うが早解はやわかり。織次の亡き親父と同じ夥間なかまの職人である。
 此処ここからはもう近い。この柳の通筋とおりすじを突当りに、真蒼まっさおな山がある。それへ向って二町ちょうばかり、城の大手おおてを右に見て、左へ折れた、屋並やなみの揃そろった町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
 その男を訪ねるに仔細しさいはないが、訪ねて行ゆくのに、十年越ごしの思出がある、……まあ、もう少し秘ひして置こう。
 さあ、其処そこへ、となると、早や背後うしろから追立おったてられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々ゆうゆうと歩行あるき出したが、取って三十という年紀としの、渠かれの胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気のんきさは、この浪なみが立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。

       二

 この通とおりは、渠かれが生れた町とは大分間あいだが離れているから、軒のきを並べた両側の家に、別に知己ちかづきの顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店りょてんがある。其処そこへ東京から新任の県知事がお乗込のりこみとあるについて、向った玄関に段々だんだらの幕を打ち、水桶みずおけに真新しい柄杓ひしゃくを備えて、恭うやうやしく盛砂もりずなして、門から新筵あらむしろを敷詰しきつめてあるのを、向側の軒下に立って視ながめた事がある。通り懸がかりのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節せつに上京なされると、電話第何番と言うのが見得みえの旅館へ宿って、葱ねぎの噯おくびで、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
 また夢のようだけれども、今見れば麺麭パン屋になった、丁ちょうどその硝子がらす窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世みせものの小屋が掛かかった。猿芝居、大蛇、熊、盲目めくらの墨塗すみぬり――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓ひとくるわに、蕺草どくだみの花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男くもおとこの見世物があった事を思出す。
 額ひたいの出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人おとなの二倍、やがて一尺、飯櫃形いびつなりの天窓あたまにチョン髷まげを載せた、身の丈たけというほどのものはない。頤あごから爪先の生えたのが、金ぴかの上下かみしもを着た処ところは、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指おやゆびで摘つまみ出しそうな中親仁ちゅうおやじ。これが看板で、小屋の正面に、鼠ねずみの嫁入よめいりに担かつぎそうな小さな駕籠かごの中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額おでこに蚯蚓みみずのような横筋を畝うねらせながら、きょろきょろと、込合こみあう群集ぐんじゅを視ながめて控える……口上言こうじょういいがその出番に、「太夫たゆういの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓あたまを掉立ふりたて、
「唯今ただいま、それへ。」
 とひねこびれた声を出し、頤あごをしゃくって衣紋えもんを造る。その身動きに、鼬いたちの香においを芬ぷんとさせて、ひょこひょこと行ゆく足取あしどりが蜘蛛くもの巣を渡るようで、大天窓おおあたまの頸窪ぼんのくぼに、附木つけぎほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起おもいおこす。
 それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時木戸きどに立った多勢おおぜいの方を見向いて、
「うふん。」といって、目を剥むいて、脳天から振下ぶらさがったような、紅あかい舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然ぞっとして、雲の蒸す月の下を家うちへ遁帰にげかえった事がある。
 人間ではあるまい。鳥か、獣けものか、それともやっぱり土蜘蛛つちぐもの類たぐいかと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母おばあさんが、
「あれはの、二股坂ふたまたざかの庄屋しょうや殿じゃ。」といった。
 この二股坂と言うのは、山奥で、可怪あやしい伝説が少くない。それを越すと隣国への近路ちかみちながら、人界との境さかいを隔へだつ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。
 この辺あたりからは、峰の松に遮さえぎられるから、その姿は見えぬ。最もっと乾いぬいの位置で、町端まちはずれの方へ退さがると、近山ちかやまの背後うしろに海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然ありありと見える。……
 汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場ステエションを出た所の、故郷ふるさとは、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時しばらく茫然ぼうぜんとして彳たたずんだのは、つい二、三日前の事であった。
 腕車くるまを雇って、さして行ゆく従姉いとこの町より、真先に、
「あの山は?」
「二股ふたまたじゃ。」と車夫くるまやが答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端まちはずれまで、小児こどもの時には行ゆかなかったので、唯ただ名に聞いた、五月晴さつきばれの空も、暗い、その山。

       三

 その時は何んの心もなく、件くだんの二股を仰あおいだが、此処ここに来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名くもだいみょうが庄屋をすると、可怪あやしく胸に響くのであった。
 まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫いもむしが髪を結ゆって、緋ひの腰布こしぬのを捲まいたような侏儒いっすんぼしの婦おんなが、三人ばかりいた。それが、見世ものの踊おどりを済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の縁ふちへ両手を掛けて、横に両脚りょうあしでドブンと浸つかる。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。
 そう言えば湯屋ゆやはまだある。けれども、以前見覚えた、両眼りょうがん真黄色まっきいろな絵具の光る、巨大な蜈蜙むかでが、赤黒い雲の如く渦うずを巻いた真中に、俵藤太たわらとうだが、弓矢を挟はさんで身構えた暖簾のれんが、ただ、男、女と上へ割って、柳湯やなぎゆ、と白抜きのに懸替かけかわって、門かどの目印の柳と共に、枝垂しだれたようになって、折から森閑しんかんと風もない。 人通りも殆ど途絶えた。
 が、何処どこともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸がらすどの奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の煽あおったような響ひびきが聞える。……
 立淀たちよどんだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの谺こだまのように聞えた。織次の祖母おおばは、見世物のその侏儒いっすんぼしの婦おんなを教えて、
「あの娘こたちはの、蜘蛛庄屋くもしょうやにかどわかされて、その妼こしもとになったいの。」
 と昔語りに話して聞かせた所為せいであろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上うきあがったように見る目に浅いが、故郷ふるさとの山は深い。
 また山と言えば思出す、この町の賑にぎやかな店々の赫かっと明るい果はてを、縦筋たてすじに暗く劃くぎった一条ひとすじの路みちを隔てて、数百すひゃくの燈火ともしびの織目おりめから抜出ぬけだしたような薄茫乎うすぼんやりとして灰色の隈くまが暗夜やみに漾ただよう、まばらな人立ひとだちを前に控えて、大手前おおてまえの土塀どべいの隅すみに、足代板あじろいたの高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪かみのけを額ひたいに振分ふりわけ、ごろごろと錫しゃくを鳴らしつつ、塩辛声しおからごえして、
「……姫松ひめまつどのはエ」と、大宅太郎光国おおやのたろうみつくにの恋女房が、滝夜叉姫たきやしゃひめの山寨さんさいに捕えられて、小賊しょうぞくどもの手に松葉燻まつばいぶしとなる処ところ――樹の枝へ釣上げられ、後手うしろでの肱ひじを空そらに、反返そりかえる髪を倒さかさに落して、ヒイヒイと咽むせんで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩あくるばんもそのままで、次第に姫松の声が渇かれる。
「我が夫つまいのう、光国どの、助けて給たべ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。
 三晩目みばんめに、漸やっとこさと山の麓ふもとへ着いたばかり。
 織次は、小児心こどもごころにも朝から気になって、蚊帳かやの中でも髣髴ほうふつと蚊燻かいぶしの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚きたない弟子が古浴衣ふるゆかたの膝切ひざぎりな奴を、胸の処ところでだらりとした拳固げんこの矢蔵やぞう、片手をぬい、と出し、人の顋あごをしゃくうような手つきで、銭を強請ねだる、爪の黒い掌てのひらへ持っていただけの小遣こづかいを載せると、目を睜みはったが、黄色い歯でニヤリとして、身体からだを撫なでようとしたので、衝つと極きまりが悪く退すさった頸うなじへ、大粒な雨がポツリと来た。
 忽たちまち大驟雨おおゆうだちとなったので、蒼くなって駈出かけだして帰ったが、家うちまでは七、八町、その、びしょ濡れさ加減かげん思うべしで。 あと二夜ふたよばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
 さて晴れれば晴れるものかな。磨出みがきだした良いい月夜に、駒こまの手綱を切放きりはなされたように飛出とびだして行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕うしろまく一重ひとえ引いた、あたりの土塀の破目われめへ、白々しろじろと月が射した。
 茫ぼっとなって、辻に立って、前夜の雨を怨うらめしく、空を仰あおぐ、と皎々こうこうとして澄渡すみわたって、銀河一帯、近い山の端はから玉たまの橋を町家まちやの屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白まっしろな形で、瑠璃るり色の透すくのに薄い黄金きんの輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行あるいて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行あるいて、丁ちょうどその辻へ来た。

       四

 湯屋ゆやは郵便局の方へ背後うしろになった。
 辻の、この辺あたりで、月の中空なかぞらに雲を渡る婦おんなの幻まぼろしを見たと思う、屋根の上から、城の大手おおての森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋ひとすじ真白まっしろな雲の靡なびくのは、やがて銀河になる時節も近い。……視ながむれば、幼い時のその光景ありさまを目前まのあたりに見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎うさぎであった時、木賊とくさの中から、ひょいと覗のぞいた景色かも分らぬ。待て、希こいねがわくは兎でありたい。二股坂ふたまたざかの狸たぬきは恐れる。
 いや、こうも、他愛たわいのない事を考えるのも、思出すのも、小北おぎたの許とこへ行ゆくにつけて、人は知らず、自分で気が咎とがめる己おのが心を、我われとさあらぬ方かたへ紛まぎらそうとしたのであった。
 さて、この辻から、以前織次の家のあった、某なにがし……町の方へ、大手筋おおてすじを真直まっすぐに折れて、一丁ちょうばかり行った処ところに、小北の家がある。
 両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側むこうがわだけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水ようじんみずの水溜みずたまりで、石畳みは強勢ごうせいでも、緑晶色ろくしょういろの大溝おおみぞになっている。
 向うの溝から鰌どじょうにょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌しゃべるのは、けだしこの水溜みずたまりからはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰ゆきかえりに、織次は独ひとりでそう考えたもので。
 同一おなじ早饒舌はやしゃべりの中に、茶釜雨合羽ちゃがまあまがっぱと言うのがある。トあたかもこの溝の左角ひだりかどが、合羽屋かっぱや、は面白い。……まだこの時も、渋紙しぶかみの暖簾のれんが懸かかった。
 折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過ゆきすぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出あるきだした時、織次は帽子の庇ひさしを下げたが、瞳ひとみを屹きっと、溝の前から、件くだんの小北の店を透かした。 此処ここにまた立留たちどまって、少時しばらく猶予ためらっていたのである。
 木格子きごうしの中に硝子戸がらすどを入れた店の、仕事の道具は見透みえすいたが、弟子の前垂まえだれも見えず、主人あるじの平吉が半纏はんてんも見えぬ。
 羽織の袖口そでくち両方が、胸にぐいと上あがるように両腕を組むと、身体からだに勢いきおいを入れて、つかつかと足を運んだ。
 軒のきから直ぐに土間どまへ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
 と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦おんなは、下膨しもぶくれの色白で、真中から鬢びんを分けた濃い毛の束たばね髪がみ、些ちと煤すすびたが、人形だちの古風な顔。満更まんざらの容色きりょうではないが、紺の筒袖つつそでの上被衣うわっぱりを、浅葱あさぎの紐で胸高むなだかにちょっと留とめた甲斐甲斐かいがいしい女房ぶり。些ちと気になるのは、この家うちあたりの暮向くらしむきでは、これがつい通りの風俗で、誰たれも怪あやしみはしないけれども、畳の上を尻端折しりばしょり、前垂まえだれで膝を隠したばかりで、湯具ゆのぐをそのままの足を、茶の間と店の敷居で留とめて、立ち身のなりで口早くちばやなものの言いよう。
「何処どこからおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
 と一向いっこう気のない、空くうで覚えたような口上こうじょう。言ことばつきは慇懃いんぎんながら、取附とりつき端はのない会釈をする。
「私だ、立田たつただよ、しばらく。」
 もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢せいのない、塗ったような瞳を流して、凝じっと見たが、
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支ついた。胸を衝つと反らしながら、驚いた風をして、
「どうして貴下あなた。」
 とひょいと立つと、端折はしょった太脛ふくらはぎの包つつましい見得みえものう、ト身を返して、背後うしろを見せて、つかつかと摺足すりあしして、奥の方かたへ駈込みながら、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織おりさんが。」
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
 という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄げたの音。

       五

「さあ、お上あがり遊ばして、まあ、どうして貴下あなた。」
 とまた店口みせぐちへ取って返して、女房は立迎たちむかえる。
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室まを越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂まえだれで、濡ぬれた手をぐいと拭ふきつつ、
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団ざぶとんを持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身たちみで廻る。
「構っちゃ可厭いやだよ。」と衝つと茶の間を抜ける時、襖ふすま二間けんの上を渡って、二階の階子段はしごだんが緩ゆるく架かかる、拭込ふきこんだ大戸棚おおとだなの前で、入いれちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退あとずさりに退すさった。 その茶の室まの長火鉢を挟はさんで、差さしむかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞つくばって、その法然天窓ほうねんあたまが、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶てつびんより低い処ところにしなびたのは、もう七十の上うえになろう。この女房の母親おふくろで、年紀としの相違が五十の上うえ、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子すえっこである所為せいで、それ、黒のけんちゅうの羽織はおりを着て、小さな髷まげに鼈甲べっこうの耳こじりをちょこんと極きめて、手首に輪数珠わじゅずを掛けた五十格好の婆ばばあが背後向うしろむきに坐ったのが、その総領そうりょうの娘である。
 不沙汰ぶさた見舞に来ていたろう。この婆ばばあは、よそへ嫁附かたづいて今は産んだ忰せがれにかかっているはず。忰というのも、煙管きせる、簪かんざし、同じ事を業ぎょうとする。
 が、この婆娘ばばあむすめは虫が好かぬ。何為なぜか、その上、幼い記憶に怨恨うらみがあるような心持こころもちが、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉まゆのない顔を上げて、じろりと額ひたいで見上げたのを、織次は屹きっと唯一目ただひとめ。で、知らぬ顔して奥へ通った。
「南無阿弥陀仏なあまいだぶ。」
 と折から唸うなるように老人としよりが唱となえると、婆娘ばばあむすめは押冠おっかぶせて、
「南無阿弥陀仏なあまいだんぶ。」と生若なまわかい声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣やらず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗さらさの座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇ひまでもございまするしね、怠なまけ仕事に板前いたまえで庖丁ほうちょうの腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯いわしがとれますよ。」と縁えんへはみ出るくらい端近はしぢかに坐ると一緒に、其処そこにあった塵ちりを拾って、ト首を捻ひねって、土間に棄てた、その手をぐいと掴つかんで、指を揉もみ、
「何時いつ、当地こっちへ。」
「二、三日前さ。」
「雑ざっと十四、五年になりますな。」
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、私わっしなんざもう御覧の通り爺じじいになりましたよ。これじゃ途中で擦違すれちがったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
「否いや、些ちっとも変らないね、相あいかわらず意気いきな人さ。」
「これはしたり!」
 と天井抜けに、突出つきだす腕かいなで額ひたいを叩たたいて、
「はっ、恐入おそれいったね。東京仕込じこみのお世辞は強きつい。人ひと、可加減いいかげんに願いますぜ。」
 と前垂まえだれを横に刎はねて、肱ひじを突張つッぱり、ぴたりと膝に手を支ついて向直むきなおる。「何、串戯じょうだんなものか。」と言う時、織次は巻莨まきたばこを火鉢にさして俯向うつむいて莞爾にっこりした。面色おももちは凛りんとしながら優やさしかった。
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、入いれかえますけれど、お一ひとツ。」
 と女房が、茶の室まから、半身を摺ずらして出た。
「これえ、私わっしが事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走ごちそうをしなけりゃ不可いかんね。」
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落ききおとしたらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻すいがらの灰を弾はじいて、はっとしたように瞼まぶたを染めた。

       六

「さて、どうも更あらたまりましては、何んとも申訳もうしわけのない御無沙汰ごぶさたで。否いえ、もう、そりゃ実に、烏からすの鳴かぬ日はあっても、お噂うわさをしない日はありませんが、なあ、これえ。」
「ええ。」と言った女房の顔色の寂さびしいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。
 平吉は畳たたみ掛かけ、
「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠えんどおい方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印じついんを捺おしますより、事も大層になります処ところから、何とも申訳もうしわけがございやせん。
 何しろ、まあ、御緩ごゆるりなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」
 と膝をすっと手先で撫なでて、取澄とりすました風をしたのは、それに極きまった、という体ていを、仕方で見せたものである。 
「串戯じょうだんじゃない。」と余りその見透みえすいた世辞の苦々にがにがしさに、織次は我知らず打棄うっちゃるように言った。些ちとその言ことばが激しかったか、
「え。」と、聞直ききなおすようにしたが、忽たちまち唇の薄笑うすわらい。
「ははあ、御同伴おつれの奥さんがお待兼まちかねで。」
「串戯じゃない。」
 と今度は穏おだやかに微笑ほほえんで、
「そんなものがあるものかね。」
「そんなものとは?」
「貴下あなた、まだ奥様おくさんはお持ちなさりませんの。」
 と女房、胸を前へ、手を畳にす。
 織次は巻莨まきたばこを、ぐいと、さし捨てて、
「持つもんですか。」
「織さん。」
 と平吉は薄く刈揃かりそろえた頭を掉ふって、目を据すえた。
「まだ、貴下あなた、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下あなた、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様おとっさんに代かわって、一説法ひとせっぽうせにゃならん。例の晩酌ばんしゃくの時と言うとはじまって、貴下あなたが殊ことの外ほか弱らせられたね。あれを一つ遣やりやしょう。」
 と片手で小膝をポンと敲たたき、
「飲みながらが可いい、召飯めしあがりながら聴聞ちょうもんをなさい。これえ、何を、お銚子ちょうしを早く。」
「唯はい、もう燗つけてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折すそはしょりで。
 織次は、酔った勢いきおいで、とも思う事があったので、黙っていた。「ぬたをの……今、私わっしが擂鉢すりばちに拵こしらえて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可いいか、手綺麗てぎれいに装よそわないと食えぬ奴さね。……もう不断ふだん、本場で旨うまいものを食あがりつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入いらない、ああ、入いらないとも。」
 と独ひとりで極きめて、もじつく女房を台所へ追立おったてながら、
「織さん、鰯いわしのぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
 ああ、しばらく。座にその鰯いわしの臭気のない内うち、言わねばならぬ事がある……
「あの、平さん。」
 と織次は若々しいもの言いした。
「此家こちらに何だね、僕ン許とこのを買ってもらった、錦絵にしきえがあったっけね。」
「へい、錦絵。」と、さも年久としひさしい昔を見るように、瞳ひとみを凝じっと上へあげる。
「内うちで困って、……今でも貧乏は同一おんなじだが。」
 と織次は屹きっと腕を拱くんだ。
「私が学校で要いる教科書が買えなかったので、親仁おやじが思切おもいきって、阿母おふくろの記念かたみの錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻かいもどして、蔵しまっといてくれた。その絵の事だよ。」
 時雨しぐれの雲の暗い晩、寂しい水菜みずなで夕餉ゆうげが済む、と箸はしも下に置かぬ前さきから、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請ねだった、新撰物理書しんせんぶつりしょという四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通かよわれぬと言うのではない。科目は教師が黒板ボオルドに書いて教授するのを、筆記帳へ書取かきとって、事は足りたのであるが、皆みんなが持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時金きん八十銭と、覚えている。

       七

 親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火ともしびの赤黒い、火屋ほやの亀裂ひびに紙を貼った、笠の煤すすけた洋燈ランプの下もとに、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場さいくばに立ちもせず、袖そでに継つぎのあたった、黒のごろの半襟はんえりの破れた、千草色ちぐさいろの半纏はんてんの片手を懐ふところに、膝を立てて、それへ頬杖ほおづえついて、面長おもながな思案顔を重そうに支ささえて黙然だんまり。
 ちょっと取着端とりつきはがないから、
「だって、欲ほしいんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間まを伝って、だだッ広い、寒い台所へ行ゆく、と向うの隅すみに、霜しもが見える……祖母おばあさんが頭巾ずきんもなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷つめたい音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
 と聞分ききわけもなく織次がその袂たもとにぶら下った。流ながしは高い。走りもとの破れた芥箱ごみばこの上下うえしたを、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈まめランプが蜘蛛くもの巣の中に茫ぼうとある……「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干うめぼしで可いいからさ。」
 祖母としよりは、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂まえだれで手を拭ふき拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返ひきかえして、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後うしろ向きに、まだ俯向うつむいたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、母親おっかさん、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
 と納戸なんどへ入って、戸棚から持出した風呂敷包ふろしきづつみが、その錦絵にしきえで、国貞くにさだの画が二百余枚、虫干むしぼしの時、雛祭ひなまつり、秋の長夜ながよのおりおりごとに、馴染なじみの姉様あねさま三千で、下谷したやの伊達者だてしゃ、深川ふかがわの婀娜者あだものが沢山たんといる。
 祖母おばあさんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
 と顔を背向そむける。
 祖母としよりは解ほどき掛かけた結目むすびめを、そのまま結ゆわえて、ちょいと襟えりを引合わせた。細い半襟はんえりの半纏はんてんの袖そでの下に抱かかえて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処ところで、
「可哀かわいやの、姉様あねさまたち。私わしが許もとを離れてもの、蜘蛛男くもおとこに買われさっしゃるな、二股坂ふたまたざかへ行ゆくまいぞ。」
 と小さな声して言聞いいきかせた。織次は小児心こどもごころにも、その絵を売って金子かねに代えるのである、と思った。……顔馴染かおなじみの濃い紅くれない、薄紫うすむらさき、雪の膚はだえの姉様あねさまたちが、この暗夜やみのよを、すっと門かどを出る、……と偶ふと寂しくなった。が、紅べに、白粉おしろいが何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍おどった。
「待ってござい、織おりや。」
 ごろごろと静かな枢戸くるるどの音。
 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野あれのと駈廻かけまわる。
 と祖母としよりが軒先から引返して、番傘ばんがさを持って出直でなおす時、
「あのう、台所の燈あかりを消しといてくらっしゃいよ、の。」
 で、ガタリと門かどの戸がしまった。
 コトコトと下駄げたの音して、何処どこまで行ゆくぞ、時雨しぐれの脚あしが颯さっと通る。あわれ、祖母としよりに導かれて、振袖ふりそでが、詰袖つめそでが、褄つまを取ったの、裳もすそを引いたの、鼈甲べっこうの櫛くしの照々てらてらする、銀の簪かんざしの揺々ゆらゆらするのが、真白な脛はぎも露わに、友染ゆうぜんの花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足はだしで田舎の、山近やまぢかな町の暗夜やみよを辿たどる風情ふぜいが、雨戸の破目やぶれめを朦朧もうろうとして透すいて見えた。 それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼まなこを眩くらまして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状さまを、後のちに思えば鬼であろう。
 台所の灯ともしびは、遙はるかに奥山家おくやまがの孤家ひとつやの如くに点ともれている。
 トその壁の上を窓から覗のぞいて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺ゆすって、団扇うちわの骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚しゅろの樹が、その夜は妙に寂しんとして気勢けはいも聞えぬ。
 鼠も寂莫ひっそりと音を潜ひそめた。……
       八

 台所と、この上框あがりがまちとを隔ての板戸いたどに、地方いなかの習慣ならいで、蘆あしの簾すだれの掛ったのが、破れる、断きれる、その上、手の届かぬ何年かの煤すすがたまって、相馬内裏そうまだいりの古御所ふるごしょめく。
 その蔭に、遠い灯あかりのちらりとするのを背後うしろにして、お納戸色なんどいろの薄い衣きぬで、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母としよりの背後影うしろかげを、凝じっと見送る状さまに彳たたずんだ婦おんながある。
 一目見て、幼い織次はこの現世うつしよにない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
 その小児こどもに振向ふりむけた、真白な気高い顔が、雪のように、颯さっと消える、とキリキリキリ――と台所を六角ろっかくに井桁いげたで仕切った、内井戸うちいどの轆轤ろくろが鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
 流ながしの処ところに、浅葱あさぎの手絡てがらが、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪くろかみのおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと通とおった横顔が仄見ほのみえて、白い拭布ふきんがひらりと動いた。
「織坊おりぼう。」
 と父が呼んだ。
「あい。」
 ばたばたと駈出して、その時まで同じ処ところに、画えに描かいたように静じっとして動かなかった草色くさいろの半纏はんてんに搦附からみつく。
「ああ、阿母おっかのような返事をする。肖然そっくりだ、今の声が。」
 と膝へ抱く。胸に附着くッつき、
「台所に母様おっかさんが。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
「祖母おばあさんの手伝いして。」
 親父は、そのまま緊乎しっかと抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書を皆みんな読むとね、母様おっかさんのいる処ところが分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可いい。……おいでよ、父上おとっさん。」
 と手を引張ひっぱると、猶予ためらいながら、とぼとぼと畳に空足からあしを踏んで、板の間まへ出た。
 その跫音あしおとより、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚しゅろの骨がばさりと覗のぞいて、其処そこに、手絡てがらの影もない。 織次はわっと泣出した。
 父は立ちながら背せなを擦さすって、わなわな震えた。
 雨の音が颯さっと高い。
「おお、冷つめてえ、本降ほんぶり、本降。」
 と高調子たかぢょうしで門を入ったのが、此処ここに差向さしむかったこの、平吉の平へいさんであった。
 傘からかさをがさりと掛けて、提灯ちょうちんをふっと消す、と蝋燭ろうそくの匂においが立って、家中うちじゅう仏壇の薫かおりがした。
「呀や! 世話場せわばだね、どうなすった、父とっさん。お祖母としよりは、何処どこへ。」
 で、父が一伍一什いちぶしじゅうを話すと――
「立替たてかえましょう、可惜あったらものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干いくらに買うか知れないけれど、差当さしあたり、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処ここにあれば可いい訳わけだ、と先ず言った訳わけだ。先方さきの買直かいねがぎりぎりの処ところなら買戻かいもどすとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
 と太ひどく書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯ただ立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子かねの出来るまで、僕が預かって置けば可ようがしょう。さ、それで極きまった。……一ツ莞爾にっこりとしてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児こどもに学問なんぞさせねえが可いいじゃないかね。くだらない、もうこれ織公おりこうも十一、吹韛ふいごばたばたは勤まるだ。二銭三銭の足たしにはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜ひじきの代だいが浮いて出ようというものさ。……実の処ところ、僕が小指レコの姉なんぞも、此家ここへ一人二度目妻にどめのを世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児こどもに本を買って遣やる苦労をするようじゃ、末すえを見込んで嫁入きてがないッさ。ね、祖母としよりが、孫と君の世話をして、この寒空さむぞらに水仕事だ。
 因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
 ――その姉と言うのが、次室つぎのまの長火鉢の処ところに来ている。――

       九

 そこへ、祖母としよりが帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶あいさつもせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
 織次は飛んで獅子の座へ直なおった勢いきおい。上から新撰に飛付とびつく、と突つんのめったようになって見た。黒表紙には綾あやがあって、艶つやがあって、真黒な胡蝶ちょうちょうの天鵝絨びろうどの羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流せせらぎのように動いて、何がなしに、言いようのない強い薫かおりが芬ぷんとして、目と口に浸込しみこんで、中に描かいた器械の図などは、ずッしり鉄くろがねの楯たてのように洋燈ランプの前に顕あらわれ出いでて、絵の硝子がらすが燐ばっと光った。 さて、祖母としよりの話では、古本屋は、あの錦絵にしきえを五十銭から直ねを付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと断ことわる。欲ほしい物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端みせさきに腰を掛けて、時雨しぐれに白髪しらがを濡らしていると、其処そこの亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処ここにそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆たけべらの折返しの跡をつけた、古本の出物でものがある。定価から五銭引いて、丁ちょうどに鍔つばを合わせて置く。で、孫に持って行って遣やるが可いい、と捌さばきを付けた。国貞くにさだの画が雑ざっと二百枚、辛かろうじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
 平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
「織坊おりぼう、母様おっかさんの記念かたみだ。お祖母ばあさんと一緒に行って、今度はお前が、背負しょって来い。」
「あい。」
 とその四冊を持って立つと、
「路みちが悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
 と祖母としよりも莞爾にっこりして、嫁の記念かたみを取返す、二度目の外出そとではいそいそするのに、手を曳ひかれて、キチンと小口こぐちを揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許ひざもとに残しながら、出しなに、台所を竊そっと覗のぞくと、灯ともしびは棕櫚しゅろの葉風はかぜに自おのずから消えたと覚おぼしく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
 雨は小止こやみで。
 織次は夜道をただ、夢中で本の香かを嗅かいで歩行あるいた。
 古本屋は、今日この平吉の家うちに来る時通った、確か、あの湯屋ゆやから四、五軒手前にあったと思う。四辻よつつじへ行ゆく時分に、祖母としよりが破傘やぶれがさをすぼめると、蒼あおく光って、蓋ふたを払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く澄すんで、兎うさぎのような雲が走る。
 織次は偶ふと幻に見た、夜店の頃の銀河の上の婦おんなを思って、先刻さっきとぼとぼと地獄へ追遣おいやられた大勢の姉様あねさんは、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
 一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着くッついたが、店も大戸おおども閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は寂しんとして何処どこにも灯ひの影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
 と祖母としよりがせかせかござって、
「御許ごゆるさい、御許さい。」
 と遠慮らしく店頭みせさきの戸を敲たたく。
 天窓あまどの上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
 と言う太い声。箱のような仕切戸しきりどから、眉の迫った、頬の膨ふくれた、への字の口して、小鼻の筋から頤おとがいへかけて、べたりと薄髯うすひげの生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜くやしさを、織次は如何いかにしても忘れられぬ。
 絵はもう人に売った、と言った。
 見知越みしりごしの仁じんならば、知らせて欲ほしい、何処そこへ行って頼みたい、と祖母としよりが言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後えちごへ行ゆく飛脚だによって、脚あしが疾はやい。今頃はもう二股ふたまたを半分越したろう、と小窓に頬杖ほおづえを支ついて嘲笑あざわらった。 縁えんの早い、売口うれくちの美いい別嬪べっぴんの画えであった。主ぬしが帰って間まもない、店の燈許あかりもとへ、あの縮緬着物ちりめんぎものを散らかして、扱帯しごきも、襟えりも引ひっさらげて見ている処ところへ、三度笠さんどがさを横っちょで、てしま茣蓙ござ、脚絆穿きゃはんばき、草鞋わらじでさっさっと遣やって来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価ねをつけて、ずばりと買って、濡ぬらしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯うわおびを結び添えて、雨の中をすたすたと行方ゆくえ知れずよ。……
「分ったか、お婆々ばば。」と言った。

       十

 断念あきらめかねて、祖母としよりが何か二ツ三ツ口を利くと、挙句あげくの果はてが、
「老耄婆もうろくばばあめ、帰れ。」
 と言って、ゴトンと閉めた。
 祖母としよりが、ト目を擦こすった帰途かえりみち。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中ふところへ小口こぐちを半分差込さしこんで、圧おさえるように頤おとがいをつけて、悄然しょんぼりとすると、辻つじの浪花節なにわぶしが語った……
「姫松ひめまつ殿がエ。」
 が暗やみから聞える。――織次は、飛脚に買去かいさられたと言う大勢の姉様あねさんが、ぶらぶらと甘干あまぼしの柿のように、樹の枝に吊下つりさげられて、上あげつ下おろしつ、二股坂ふたまたざかで苛さいなまれるのを、目のあたりに見るように思った。
 とやっぱり芬ぷんとする懐中ふところの物理書が、その途端に、松葉の燻いぶる臭気においがし出した。
 固もとより口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時いまどき町を通るものか。足許あしもとを見て買倒かいたおした、十倍百倍の儲もうけが惜おしさに、貉むじなが勝手なことを吐ほざく。引受ひきうけたり平吉が。
 で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻かいもどしてくれた錦絵にしきえである。
 が、その後のち、折を見て、父が在世ざいせの頃も、その話が出たし、織次も後のちに東京から音信たよりをして、引取ひきとろう、引取ろうと懸合かけあうけれども、ちるの、びるので纏まとまらず、追っかけて追詰せりつめれば、片音信かただよりになって埒らちが明かぬ。
 今日こそ何んでも、という意気込いきごみであった。
 さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨てんじょうにらみの上睡うわねむりで、ト先ず空惚そらとぼけて、漸やっと気が付いた顔色がんしょくで、
「はあ、あの江戸絵えどえかね、十六、七年、やがて二昔ふたむかし、久しいもんでさ、あったっけかな。」
 と聞きも敢あえず……
「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故なぜかこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易たやすくは我が手に入いらない因縁いんねんのように、寝覚めにも懸念して、此家ここへ入るのに肩を聳そびやかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立いらだち焦あせる。 平吉は他処事よそごとのように仰向あおむいて、
「なあ、これえ。」
 と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤あごで呼んで、
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
「唯はい、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然はっきり言った。
「難有ありがとう、お琴ことさん。」
 とはじめて親しげに名を言って、凝じっと振向くと、浪なみの浅葱あさぎの暖簾越のれんごしに、また颯さっと顔を赧あからめた処ところは、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤おもかげが幽かすかに似通にかよう。……
「お一つ。」
 とそこへ膳を直なおして銚子ちょうしを取った。変れば変るもので、まだ、七八ななやツ九ここのツばかり、母が存生ぞんしょうの頃の雛祭ひなまつりには、緋ひの毛氈もうせんを掛けた桃桜ももさくらの壇の前に、小さな蒔絵まきえの膳に並んで、この猪口ちょこほどな塗椀ぬりわんで、一緒に蜆しじみの汁つゆを替えた時は、この娘が、練物ねりもののような顔のほかは、着くるんだ花の友染ゆうぜんで、その時分から円まるい背を、些ちと背屈せこごみに座る癖くせで、今もその通りなのが、こうまで変った。
 平吉は既もう五十の上、女房はまだ二十はたちの上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の前ぜんの家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半よわの嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処ところでは肖ふさわしくなって、女房ぶりも哀あわれに見える。
 これも飛脚に攫さらわれて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。
 いや、何んにつけても、早く、とまた屹きっと居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨よこにらみをした平吉が、
「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
 と幾度いくだびも一人で合点のみこみ、
「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁きんじょがっぺき、親類中の評判で、平吉が許とこへ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集たかるほどに、丁とんと片時かたときも落着いていた験ためしはがあせん。」
 と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
「手前てまえじゃ、まあ、持物もちものと言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下あなたから預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢ゆびあか、手擦てずれ、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩けんかになる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所よその蔵に秘しまってありますわ。ところが、それ。」
 と、これも気色けしきばんだ女房の顔を、兀上はげあがった額越ひたいごしに、ト睨やって、
「その蔵持くらもちの家うちには、手前が何でさ、……些ちとその銭式レコしきの不義理があって、当分顔の出せない、といったような訳わけで、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式レコしきの事ですからな。
 それに、織さん、近頃じゃ価ねが出ましたっさ。錦絵にしきえは……唯たった一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下あなたにも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価ねは惜おしまぬ、ね、価ねは惜まぬから手放さないか、と何度なんたびも言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚はばかりながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可いいものですかい。 けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲あがれ、熱い処ところを。ね、御緩ごゆっくり。さあ、これえ、お焼物やきものがない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒ごしゅに尾頭おかしらは附物つきものだわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦おんなだ。へへへへへ、鰯いわしを焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
 と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額ひたいをぬすみ見る女房の様さまは、湯船ゆぶねへ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦おんならしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
 坐り直って、
「あなたえ。」
 と怨うらめしそうな、情なさけない顔をする。
 ぎょろりと目を剥むき、険けんな面つらで、
「これえ。」と言った。
 が、鰯いわしの催促をしたようで。
「今、焼いとるんや。」
 と隣室となりの茶の室まで、女房の、その、上の姉が皺しなびた声。
「なんまいだ。」
 と婆ばばが唱となえる。……これが――「姫松殿ひめまつどのがえ。」と耳を貫く。……称名しょうみょうの中から、じりじりと脂肪あぶらの煮える響ひびきがして、腥なまぐさいのが、むらむらと来た。
 この臭気しゅうきが、偶ふと、あの黒表紙に肖然そっくりだと思った。
 とそれならぬ、姉様あねさんが、山賊の手に松葉燻まつばいぶしの、乱るる、揺ゆらめく、黒髪くろかみまでが目前めさきにちらつく。
 織次は激はげしくいった。
「平吉、金子かねでつく話はつけよう。鰯いわしは待て。」



青空文庫より引用