貧民倶楽部


 六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯ありわらはくの夫人貞子ていこの方かたは、麻布あざぶ市兵衛町いちべえちょうの館やかたを二頭立の馬車にて乗出のりいだせり。
 いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭かざせる花もあらなくに、青葉も過すぎて年齢とし四十に近かるべし。小紋縮緬ちりめんの襲着かさねぎに白襟の衣紋えもん正しく、膝ひざの辺あたりに手を置きて、少しく反身そりみの態すがたなり。
 対の扮装いでたちの袖そでを連ねて侍女こしもと二人にん陪乗し、馭者ぎょしゃ台には煙突帽を戴いただきたる蓄髯ちくぜんの漢おのこあり、晏子あんしの馭者の揚々たるにて主公の威権想おもうべし。浅葱あさぎ裏を端折りたる馬丁べっとう二人にん附随つきしたがい、往来狭しと鞭むちを挙げぬ。
 かくて狸穴まみあなの辺ほとりなる狭隘路せまきみちに行懸ゆきかかれば、馬車の前途ゆくてに当って往来の中央まなかに、大の字に寝たる屑屋くずやあり。担になえる籠かごは覆りて、紙屑、襤褸切ぼろきれ、硝子がらすの砕片かけなど所狭ところせまく散乱して、脛すねは地を蹴けり、手は空くうを掴つかみて、呻吟しんぎんせり。
 奮はずみ行く馬の危あやうく鰭爪ひづめに懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗掻かきたる腹立紛れに、鞭を揮ふるいて叱咤しったせり。
「こら、そこを退どかんか馬鹿な奴やつだ。」
 夫人は端然として傍目わきめも振らず、侍女こしもと二人は顔見合せ、吐息といきと共に推出おしだす一言、「おお危い。」
 屑屋は眼まなこを閉じ、歯を切しばり、音するばかり手足を悶もだえて、苦痛に堪えざる風情なりき。
 避よけて通らん術すべも無く、引返すべき次第にあらねば、退のけよ、退すされと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁べっとうは焦立いらだちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと攫つかめば、虫の呼吸いきにて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟すなけむりを揚げぬ。
 この時酒屋の檐下のきしたより婀娜あだたる婦人おんな立出たちいでたり。薄色縮緬の頭巾ずきん目深まぶかに、唐草模様の肩掛ショオルを被きて、三枚襲がさねの衣服きものの裾すそ、寛闊かんかつに蹴開きながら、衝つと屑屋の身近に来きたり、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄ものすごき笑えみを漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下みおろして、「こう、太の字太の字。」「おい。」と眼を開けば、
「もう可いい、起きな。何という不景気な顔色がんしょくだよ。」
「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから儲もうからねえ役廻やくまわりだ。」
 と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼わかものなり。知らず何が故に疾病やまいを装いて、貴婦人の通行を妨げしや。
 頬被ほおかぶりを取りて塵ちりを払い、「危険けんのん々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」
 婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」
「あんまり好よかあねえ。何なんしろ対手あいてが四足二疋だ。」
「踏まれたら因果よ。白馬しろうまを飲む祟たたりだわな。」
「可笑おかしくもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた手拭てぬぐいに頬を包み、
「姉様ねえさん、用は相済あいすみかね。」
「あいよ、折角お稼ぎなさい。」
「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」
 婦人は後うしろに佇たたずみて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらん瞬またたきもせず書き認したため、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きに達いたる口笛を吹鳴らせば、声に応じて駈かけ来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」蓋けだしその名ならむ。
 裾に絡からめば踞つくばいて頸うなじを撫なで、かの紙片かみきれを畳みて真鍮しんちゅうの頸輪くびわに結び附け、
「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとく呟つぶやくがごとく繰返しつ。
「そら、よし、御苦労だね。」
(じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべく馴ならされたれば、猶予ためらう色無く頭こうべを回めぐらし、頷うなずくごとくに尾を掉ふりて、見返りもせで馳走はせ去りぬ。
 三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者の掌てに落ちんか。
「おい、車夫様わかいしゅさん。」
 婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、腕車くるまを曳ひきて近寄りぬ。
「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」
 打頷うちうなずけば轔々りんりんとして走りぬ。
 深窓の美姫びき、紅閨こうけいの艶姐えんそ、綾羅錦繍りょうらきんしゅうの袂たもとを揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李ばいおうとうりの花を咲かせて、暗香あんこう堂に馥郁ふくいくたり。
 在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は麹町こうじまちの姫様ひいさまにて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。
 前面むかいの喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵何某なにがしの未亡人びぼうじん、綾子あやこといえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人を随したがえて、都合五人の茶屋女、塗盆ぬりぼん片手に「ちょいと貴下あなた。」
「御休息おやすみなさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉の腕かいなも露あらわに襷たすき懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の見世物みせものとは冥加みょうが恐しきことぞかし。
 金縁の目金めがねを掛けたる五ツ紋の年少わか紳士、襟を正しゅうして第三区の店頭みせさきに立ちて、肱座ひじつきに眼を着くれば、照子すかさず嬌態しなをして、「御購おもとめ下さいまし、貴下あなた、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これが可ようございますよね。」と牡丹形ぼたんがたの肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、
「はッはッお何程いくらで遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、一閑張いっかんばりのお机にはうつりが好ようございますよ。一円ならお剰銭つりをあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。
「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座を引ひったくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と判然はっきり言われて真赤まっかになり、「それははや何とも。」と蝦蟇口がまぐちを探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅一個ひとつ渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら剰銭つりは要らぬと、腹を見せる目的つもりの処ところ、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。
 年少紳士胆きもを抜かれてうっかりと佇たたずめば、
「御休息おやすみなさいまし。」と茶店の姫様ひいさま。
 はッと思う眼の前さきへ深川夫人衝つと寄って、
「貴下あなた、お茶一ツ。」と差出すに蒼あおくなりて、
「出口はどこでございます。」とは可哀あわれやもう眼が見えぬそうな。
 入替いりかわりて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、令夫人おくさま御苦労でございます。」なかなか場数功者ばかずごうしゃかな。
 照子は軽く挨拶あいさつして、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」
「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれが可よし、それからこれも可しと、〆《しめ》て三個みッつ頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」
 照子は頤おとがいにて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて莞爾にっこと笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」と眼まなこを睜みはりしが、天なるかなと断念あきらめて、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数が懸かかりますまい。」
 我慢強き男というべし。
「御注意難有ありがとう存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。取出とりいだすは折目無き五円紙幣さつ。「これで。」と差出さしいだせば、「はいはい。」と取って澄すましたもの、剰銭つりを出いださん気色も無し。官吏始めて心着き、南無三なむさん失策しくじったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せと謂いい難く、「こりゃ体ていのいい強奪ぶったくりだ。」と泣寝入に引退ひきさがりぬ。後あとに二人は顔見合せ、徳孤とくこならずと笑壺えつぼに入いる。
 店頭に今度は婦人、この会場に入いるものは、位ある有髯ゆうぜん男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、渠かれは何者、肩掛ショオルを被かつぎ、頭巾目深に面を包みて、顔容かおかたちは見えざれども、目は冷ひややかに人を射て、見る者を慄然ぞっとせしむ。
 照子の顔をじろりと視ながめ、「おい、姉様ねえさん。こりゃ何程いくらだい。」
 冴さえたる月に一片の雲懸かかれり。照子は顰ひそみぬ。
「ちょいとお婆様ばあさん。」
 婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様呼よばわり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳が疎うといのか、この襯衣しゃつを買って進あげよう。」 と答えざれども無頓着むとんじゃく、鳶色とびいろの毛糸にて見事に編成あみなしたる襯衣を手に取り、閉糸とじいとをぷつりと切りぬ。
 これのみにても眼覚めざましきに、肩掛ショオルをぱっと脱棄ぬぎすてたり。慈善会場の客も主あるじも愕然がくぜんとして視ながむれば、渠はするすると帯を解きて、下〆《したじめ》を押寛おしくつろげ、臆おくする色なく諸肌もろはだ脱ぎて、衆目の視みる処、二布ふたのを恥じず、十指の指ゆびさす処、乳房を蔽おおわず、膚はだえは清き雪を束つかね、薄色友禅の長襦袢ながじゅばんの飜ひるがえりたる紅裏もみうらは燃ゆるがごとく鮮麗あざやかなり。世に馴なれては見えたまえど、もとより深窓に生育おいたちて、乗物ならでは外おもてに出いでざる止事無やんごとなき方々なれば、他人事ひとごとながら恥らいて、顔を背け、頭かしらを低たれ、正面より見るものなし。
 秋水を佩はける将校もあり、勲章くんしょうを帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の裸美らび自若として突立つったちたるは、傍若無人の形状ありさまかな。
「何だ。」「何者だ。」「野蛮極きわまる。」「狂人きちがいだ。」と一時に動揺どよめく声の下より朗ほがらかに歌うものあり。
 色は天下の艶えんたり、心はすなわち女中の郎。
 喝采やんやと手を拍うつもの五七人。
 婦人は毀誉きよを耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、膚はだえを蔽い、肩を納め、帯を占しめ、肩掛ショオルを取りて颯さと羽織り、悠々として去らんとせり。
「盗人ぬすっと待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱を蒙こうむりて、堪こらえ堪えし腹立声。
「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。
 照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と遣込やりこむれば、濶歩おおまたに引返し、「だから最初はじめに聞いたじゃないか、価値ねだんが解わかれば払うのさ。」
 憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しき懸かけを謂いう。
 婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭剰銭つりを下さい。」
「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は真面目まじめなり。
「先刻さっき五円払いました。」
 照子は聞くより怒気心頭を衝つきて面おもてを赤め、
「騙局かたりです、失敬な。夫人おくさん巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、
「はい、引渡しましょう。秋や定。」と急込せきこむにぞ、側に侍さぶらいける侍女こしもと二人にん、ばらばらと立懸くるを、遮って冷笑あざわらい、
「こうこう騒ぎなさんな。塵埃ほこりが煽たつによ。お前様方まえさんがたは美くしい手で恐しい掴取つかみどりをしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡して去いったじゃないか、そこで私あっしの買物が二円さ、可よしかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人の呆あきるるを、それ見よと畳懸たたみかけ、
「銅貨じゃ重いわ。二十銭銀貨ドルで呉くんな。」と空嘯そらうそぶきつつ小膝を拍うち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」 夫人はギクリ、照子は無言。
 天下泰平町内安全、産ある者は仁者じんしゃとなり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ大当おおあたり。
 就中なかんずく喫茶店は、貴婦人社会にさるものありと衆ひとも識しりたる深川綾子、花の盛さかりの春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉の雫しずく滴たるごとき愛嬌あいきょうを四方に振撒ふりまき、多恨多情の八方睨はっぽうにらみに大方の君子を殺して黄金こがねの汁を吸取ること長鯨ちょうげいが百川ひゃくせんを吸うがごとし。助すけて働く面々も、すぐり抜きたる連中れんじゅうが腕に縒より否襷たすきを懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階総出そうで大出来なり。
 されば一皿べいの菓子、一盞さんの珈琲コオヒイに、一円、二円と擲なげうちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、入交いりかわり、立替る、随喜の輩ともがら数うるに勝たうべからず。
 収入満と唸うなるといえども、常住の寡慾かよくに肖にもやらで、慈善の慾よくは極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身を粉こにし、骨を折る、賢媛けんえん、閨秀けいしゅうの難有ありがたさよ。
 さるにても暢気のんきの沙汰さたかな。我に諂へつらい我に媚こぶる夥多あまたの男女を客として、貴とうとき身を戯たわむれに謙へりくだり、商業を玩弄もてあそびて、気随きままに一日を遊び暮らす。これをしも社会が渠等かれらに与うるに無形の桂冠けいかんをもってする爾しかき慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。
 渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳に酬むくゆる寸志のみ、また怪あやしむに足らざるなり。
 閑話休題それはさておき。
 とんとん拍子に乗のりが来て、深川夫人は嫣然顔にこにこがお、人いきりに面熱ほてりて、瞼めのふちほんのり、生際はえぎわに膏あぶらを浮べ、四十有余あまりの肥大でっかい紳士に御給仕をしたまいながら、「あら貴下あなた、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄騒動さわぎのはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。
 在原夫人と照子嬢は散々に罵倒ばとうされて、無念の唇を噛かみたまえば、この神聖なる慈善会を、汚けがし犯すは何等の外道げどうと、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて固唾かたずを飲んで聞ききたまえり。
 件くだんの婦人は落着払い、その冷ひややかなる眼色めつきにて、ずらりと四辺あたりを見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は性急せっかちだっさ。」
 飽くまで侮る一言ひとことに、年齢少としわかにて気嵩きがさの照子は、手巾ハンケチを噛占かみしめて、口惜涙くやしなみだを、ついほろほろ。
 夫人はさすが年紀としの功、こは癈疾かったいと棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に剰銭つりを出いださるれば、丁寧に員かずを検し、繻子しゅすの帯にきゅっと挿はさみぬ。 これを見て照子は声震わし、「あの男は其方そちの何だえ。親類かい、知己ちかづきかい。」
 いいも終らざるに婦人おんなは答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお前様まえさんに解るまい。くわしく謂いえば亭主のことさ。」
 照子は眼中に涙を湛たたえて、屹きっと婦人おんなを凝視みつめながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人密ひそかにその袂たもとを控え、眼注めくばせして停とめらる。振切って、
「いえ、可ようございます。これ、それではあの近視眼ちかめは……いえ、謂わして下さいよ。他人ひとの金銭に其方そちが関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」
 と、ぽんと一本参りたまえば、待構えし体ていにて平然と、「ありゃ私あっしの男妾おとこめかけさ、意気地いくじの無い野郎さね。」一同聞いて唖然あぜんたり。
 渠かれがいう処のしらじらしさ、虚言うそは見透きて明あきらかなれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、悄しおれて首こうべを低たれたまいぬ。
 この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心に頷うなずきながら、突立つったちたる婦人おんなの背せなを、しなやかに不意打して、
「モシ貴女あなた。」
「エー。」と振返るに引被ひっかぶせて、
「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と風流みやびに屈かがむ柳腰。
 屹きっと視みて、「フフ、此奴こいつはちっと骨がある。」
 兵法ひょうほうに曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が物馴ものなれたる扱あつかいに、妖艶ようえんなる妖精ばけものは火焔かえんを収め、静々と導かれて、階下したなる談話室兼事務所に行ゆけり。
 群集は崩れ、雑沓ざっとう鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく鎮撫ちんぶに帰しぬ。
 野分のわきの後あとは寂寞閑ひっそりかん。
 夫人も令嬢も太いたく得意を減殺げんさいされて、気焔大おおいに衰えたり。
 それより照子、鬱々うつうつとして愉たのしまず、愁眉しゅうび容易に開けざるにぞ、在原夫人は語ことばを尽して、賺すかしても、慰めても頭痛がするとて額を押おさえ、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて侍女等こしもとども、
「姫様ひいさまこういらっしゃいまし。」一まず彼室かなたの休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる招牌かんばん隠れたれば、店頭蕭条しょうじょうとして秋暮の歎たんあり。
 これではならぬ、と御迎おむかえの使者相望めば、御機嫌を見計らいて侍女こしもとは慰むる。「あんなあばずれのいった言ことは、ナニ、蚊かが鳴いたのだと思召おぼしめしまし。御気分が癒なおりましたら、二階へお出いで遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の夫人おくさまばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという顔色かおつき。
「それに、姫様。」と侍女は仔細しさいらしく小声になり、
「福助あれがもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」 と乳ちの下三寸に銃口つつぐちを向ければ、
「それじゃ行ゆこうか。」とは罪がなし。
 御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。貴女あなたでなければならぬそうです。」
「度々御苦労ね、今直じきに。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、此方こなたの侍女追縋おいすがりて、
「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、新駒屋しんこまやかね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」
「あいよ。」と嬉しそうに、慌あわただしく立上れば、御使者おつかい番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったり坐すわり、「私はもう。」と失望落胆。半巾ハンケチをびりりと喰裂きて、「車夫に、支度したくを。直ぐ帰る。」
 これがそれ慈善会中に第一流の貴女レデーなり。

 応接所の戸をぴんと閉めて、人払ひとばらいの上立籠たてこもれるは深川綾子と怪しき婦人おんな。
 綾子は後向うしろむきにて顔は見えず、片手を卓子テエブルに、片手を膝に、端然ちゃんと澄まして、敵の天窓あたまを瞰下みおろしたり。
 以前さきの勢いきおいに似もやらで、婦人おんなは少しく悄しおれし体てい、袖を重ねて俯向うつむきたり。惟おもうに博学多才なる深川夫人が慈善会を代表して、渠かれが暴行を戒めしに、屈服したりしものならんか。弁論今や終局して、綾子は渠が服罪を待たるる様子。
 されども婦人おんなは徹頭徹尾口を結びて開かざるなり。綾子はまた、
「尤もっとも不束ふつつかなものが寄合っていたすのでございますもの、行届かぬがちには相違ございません。少しの過失あやまちがあるからって、直ぐああいう愛想尽あいそづかしをなさいますのは、そりゃ貴女あなた無情つれないではございませんか。
 この会を一呑みになすった先刻さっきの振舞、私も呆れながら感心しました。で、きっと私共の会に対して不平がおありなさるんでしょう、就いては御意見がございましょう、それを承りたいものですね。」
 と真綿で首、
 上靴の爪先つまさきにて床をとんとんと叩きつつ渠が返事を促せど、聾ろうせるがごとく死灰のごとし。
 あたかもこの時「新聞。」と戸を叩きて呼ぶものあり、綾子は椅子をずらしてちょいと振向き、
「後で可いいよ。」
 外おもてより推返おしかえして、「この会のことが出ております。」
「そう、ではこちらへ。」
 小使恭うやうやしく入来いりきたりて卓子テエブルの上にそれを載のせつ、一礼して退出すさりいずるを、と見れば毎晩新聞なり、綾子は傍かたえに推遣おしやりて、
「サ、どうでございます。」といよいよ迫る。
 今まではさも殊勝なりし婦人おんな、電いなずまのごとき眼を新聞に注ぐと斉ひとしく身を反そらし、伸のびを打ち、冷切ひえきったる茶をがぶり、口に含み、嗽うがいして、絨毯じゅうたんの上に、どっと吐出はきいだし、「何だい、しみったれな。貴婦人のお茶一つてい御馳走ごちそうはこんなものか。」
 容子ようすががらりと打って変り、「鷹たかの爪でも出すだろうと面倒ながら交際つきあった。人愉快ひとおもしろくもねえ駄味噌だみそを並べて、あたら寿命を縮めたね、こう、お綾様さん。」
 と、一面識も無き者の我名を呼ぶに綾子は呆れ、婦人おんなの顔を瞻みまもるのみ。委細構わず馴々なれなれしく、「去年、旦那が死歿なくなって、朝夕淋しくお暮しだろう。慈善だの、何だのと、世間体はよしにして、情夫いろおとこでも御稼ぎなさいな。私やもう帰ります。」と、襟掻合かきあわして立上り、「そうそうその新聞のね、三枚目を読んでみな。お前達の薬があるよ。」これを捨台辞すてぜりふにして去らんとするを、綾子は押止おしとどめ、
「御待ちなさい。」
 婦人おんなは冷淡に、「何も用が……」
「いいえ、ございます。」と綾子は熱心。
「何さ、こっちに無いってことさ。そっちに用がおありでも、私やちっとも構いません。」冷々然として言放てば、とめても無益むやくと綾子は強いず、「しかしこのままお別れは残惜のこりおしい。お住居すまいは? せめてお名だけ。」と余儀無く問えば、打笑いて、
「私の家は日本中サと謂いえば豪気だが、どこと定さだまって屋根は持たぬ。差当り四谷よつや近辺の橋の下で犬と寝ている女乞食。」「え!」「丹たんと申す、お転婆さ。」

 婦人慈善会は三日続きの予定なりし、初日よりあやかしがつき二日目の早朝あさまだき、六六館へ出懸くる途次、綾子は内談の条すじありて在原夫人を市兵衛町の館やかたに見舞えり。
 客室きゃくまに通りて待たるれば、侍女こしもとに襖ふすまを開かせ、貞子の方かた静々と立出たちいでらる。
「これは早朝から。」「イエ、どう致して。」「好よいお天気で。」と挨拶終りぬ。
 綾子、袱紗包ふくさづつみを開きて、昨日きのうの毎晩新聞を取出とりいだし、「時に。」と開直りて、「ま、これを。」と仔細しさいありげ。
「何でございます。」と眼を注ぐ、三枚目に左さのごとき雑報あり。

○今朝麻布狸穴まみあなにて、疾病しっぺい、飢餓、交々こもごも起り、往来に卒倒して死に垂々なんなんとせる屑屋あり。交番も程遠く近隣に人無ければ、誰ありて介抱するもの無く、一杯の水を恵むもあらず、屑屋は人心地も無く呻うめきおりぬ。折から二頭立の馬車を駆りて、ここを過ぐるものあり。これ慈善会に赴かんとする在原貞子の途次なりき。しかるに万死の貧民に向って道を譲らざる無礼を責め、無慙むざんなる馬丁べっとうは渠かれを溝際に投飛ばして命縷めいる将まさに絶えなんとする時、馬車は揚々として立去れり。
車中の婦人はこれが始終を見物しながら、貴族たる権威の発表せられしを歓よろこべる色ありきという。

「一体事実でございますか。」と綾子は眉を顰ひそめて問えり。
 貞子の方は言葉縮まり、窮して応こたうる処を知らず。
 読来りて眉動き、読去りて蒼あおくなりぬ。
 見る間に太る額の蒼筋あおすじ、癇癪持かんしゃくもちの頭痛病やみにて、中年以来丸髷まるまげに結いしこと無き難物なれば、何かはもって堪たまるべき。呼鈴よびりんを烈はげしく鳴ならして、「矢島をこれへ。」と御意あれば、畏かしこまりて辷出すべりいづる婢おはしたと入違いりちがいに、昨日きのう馬を馭ぎょせし矢島由蔵、真中の障子を開きて縁側に跪ひざまずき、
「もはや御耳に達しましたか、何ともはや恐入りました。」と続様つづけさまに額を下ぐ。
 夫人は御褥おしとねを辷すべらしたまいつつ、「金次に早速暇いとまを出しゃ、其方そちもきっと謹むが可よかろう。」との御立腹。
「はッ、仰おおせ一応御道理ごもっとも、御言おことばを返しましては恐多くござりまするが、あれが死にましたは何も金次の知ったことではござりませぬ。」
 綾子も夫人もぎょっとして、「ええ、死んだと。」
「はッ、いつも朝御飯を戴いて外おもてへ出ますのが、今日は御玄関が開くとそのまま飛出しました。これが前兆と申すのでございましょうか、誠に争われぬもので、御愁傷様ごしゅうしょうさま。」 と恐入るは、ちと筋道が違うようなり。
 夫人は訝いぶかり、「これこれ、其方そちは血迷うていやるようじゃ、落着いて申すが可い、死んだといやる、何がどうしたのじゃ。」
 矢島も怪訝けげんな顔色かおつきにて、「御手飼の狆ちんが屠犬児いぬころしに。」
「おや……」と夫人は血相変え、火箸ひばしを片手に握りしまま、衝つと立上って矢島を睨附ねめつけ、「ヌ――」とばかり、激怒して口が利けず。
 新聞にてたたかれし口惜くちおしさと、綾子に対して言訳なさと、秘蔵の狆の不幸とが一時いっときに衝突して、夫人の剣幕さながらダイナマイトのごとくなれば、矢島は反返そりかえって両手を前に突出つきいだし、「で……で、下手人はその場を去らず、と……捕えました。死骸しがいは御玄関、きっ……きっと敵かたきを。」と呂律ろれつもしどろ。
「貴女あなたちょいと。」失礼といいもあえず、夫人はずるずると裳もすそを引摺ひきずり、玄関へ駈出かけいだしたまう。「ああだもの。」と歎息して、綾子は後に思案投首。
 撲殺なぐりころして占しめ損い、遁にげんとして馬丁べっとうに見露みあらわされ、書生のために捕えられて、玄関に引摺込ひきずりこまれし、年老いたる屠犬児いぬころしは、破褞袍やれおんぽうを衣きて荒縄の帯を〆《し》め、踵かかとの辺あたりは摺切れたる冷飯草履ひやめしぞうりを片足脱ぎて、花崗石みかげいしの上に平蜘蛛ひらぐも。
 可憐あわれむべしお手飼の狆は、一棒を撲くらってころりと往生し、四足しそくを縮めて横たわりぬ。
 貞子の方は奥より駈出で(見るに眼も眩くれ心も消え、)と絃いとに乗るまでにはあらざるも、式台の戸より隙見すきみして、一方ならぬ御愁傷おなげきなり。書生は殊更にかっぷと唾つばを拳こぶしに打占め、
「不屈ふとどきな奴だ、恣ほしいままに動物を殺傷せっしょうするとは容易ならぬ犯罪だ。金どんどうしてくりょうな。」と件くだんの拳固に、はッはッと気勢きおいを吹く。
 金次は仰山に自然木じねんぼくの杖ステッキを構え、無事に飽倦あぐめる腕を鳴して、
「野郎め、飛んだことをしやがった。平民の野良犬も多いのに、何も選好えりごのみをして華族様の御手飼を殺やらずともの事だ、奥様に知れようものなら、金次一生の越度おちどとならあ、忌々いまいましい。汝うぬ、どうして腹を癒いよう。」と、地板じびたをどしん。
 屠犬児は震上ふるいあがり、「あ、皆様手荒きことをなされますな、畜生の死んだのは取返す法もあれ、人間の身体からだはこれ撲なぐると疵きずが附きまする。」
「知れた事だ。汝等うぬらのような蛆虫うじむしは撲殺したって仔細しさいは無ねえ。金次どうだ。」「撲やっちまえ。」と、拳こぶしと杖ステッキの空くうに躍るを、「待った。」と間なかに割込むは、夫人おくさまの後を追うて、勝手口より出いでたる矢島、「今聞いた、何か、活いかす法もあると謂いったな、なろう事なら活いかして戻せ。汝きさまも無事じゃ、我等も満足、自他の幸福というものじゃ。さ、どうじゃ。」 と平和おだやかに謂出いいいだせば、屠犬児は顔を擡あげて、「何の雑作もござりませぬ。初手からそう出さっしゃれば、訳は無いに、余計なことに御騒ぎなされる。やれやれ。」と起上りて、「襟首を放した、放した。」
 書生も馬丁も没面目、手持不沙汰に控えたり。屠犬児は腰を捻ひねりて、狆を手許てもとに掴寄つかみよせ、
「この骨こつだ。それ。」と懸声して、やっと一番活を入るれば、不思議や四足しそくをびりびりびり。一同これはと驚く処に、
「も一つかい。」とまたごつん。
 たちまち蘇生よみがえりて悲鳴を揚げ、太いたく物に恐れし状さまにて、狆は式台に駈上かけあがれば、やれ嬉しやと奥様は戸を引開け抱いだき上げて、そのまま奥へ、ふいと御入。
 しばらくして、侍女こしもと立出で、「矢島様さんお奥で召します。その人を連れまして庭口からお露地へ。」
 こはそも華族の御身おんみとして、かったいものの屠犬児に、直接じきじき御面会おあいは心得ずと、矢島は思えど、主命なれば、来きたれ、と渠かれを麾さしまねきて、庭口より露地へ廻れば、夫人は縁側に褥しとねを移して、綾子と二人並び坐しつ。引退ひきさがりて腰元一人、三指にて侍はんべれり。
「はッ、御意に依って召連れました。」屠犬児はただおずおず。「これへ近う。」と仰せらる。
 この屠犬児恐しき家業には似もやらで、至極実体者じっていもの、地に平伏ひれふし、
「唯今ただいまは御慮外をいたしまして、恐入ってござります。命を繋つなぐためとは申せ、因業いんごうな活計くらしでござりまして、前世さきのよの罪が思い遣られまする。」と啜上すすりあげて、南無阿弥なむあみと小声にて唱え、「じゃと申して、土を噛かじっては腹おなかが承知いたしませぬ処から、余儀なく悪いことを致しまする。ああ、この世からの畜生道、良いい死目には逢われますまい。果敢はかないことでござります。」
 潸然さんぜんとして溢こぼす涙に真心見えて哀あわれなり。
「老年としよりが罪を造るのも貧ゆえです。ねえ、貴女あなた。」と綾子眼をしばたたけば、貞子は頷うなずきて、「定や、あれを遣わすが可い。」
 侍女こしもとは畏かしこまりて一包の金子かねを持出で、
「御情おなさけだよ、頂戴しな。」と痩やせたる掌てのひらに握らすれば、屠犬児は樹に魚うおを獲たる心地、呆れて窪くぼめる眼を睜みはりぬ。
 綾子は少しく乗出だし、「他ほかに渡世の道が無いでもあるまい。ちっとじゃが資本もとでにして、そういう穢けがらわしい商売は休やめたが可よい。お前はどこの者だえ。」
 溢あふるるばかりの情なさけの露あらわれ、屠犬児は袖を濡ぬらして、「ああ、忝かたじけのうござります。何たる、神様か、仏様か、お庇かげで清く死なれまする。はいはい、私わたくし風情にここと申す住所すみかもござりませぬ。もう御暇おいとまを下されまし。」と揉手もみでをしつつ後退あとじさり。
 御両方おふたかた無言にて頷きたまえば、再び矢島に導みちびかれ、門を出でて三拝せしが、見送る人眼のあらずなれば、ニヤニヤと笑うて、ペロリと舌。
「占めた、占めた。」と呟つぶやきつつ立去る裾をひしと啣くわえて引留めたる一頭の犬あり。
「屠犬児を引張ひっぱるなあ、どこの犬だい、ずうずうしい。」首を捻ひねりて、「ほい、じゃむこう。姉御あねごはどうした。」「ここに居るよ。」
 と辻便所より女乞食、膚はだえの色の真白きに、海松みるのごとき袷あわせを纏まとえば、泥に塗まみれし残のこんの雪。破草人やぶれかがしの笠を被かぶりてよぼよぼと杖つえに縋すがり、呼吸いきづかい苦しげに――見せ懸けたるのみ、実はしからず。
「おい。」と屠犬児を呼よび近附け、「呉れたろう。」「貰もらったよ。姉御の先見露違つゆたがわずだ。」と先刻の包を取出だして、「あててみさっし。」
「片手がものだ。……ね、それ、違いなし違いなし。」
 屠犬児は天窓あたまを掻かきて、「むこうがおめでたいだけにちっとは冥利みょうりが悪わりいようだ。はて、体ていの良いい騙取かたりじゃねえか。」
 女乞食は微笑ほほえみて、「何のお前、罪にならぬ盗人は白日御免の世の中だによ。どう、五円だけ油を掛けよう。」

在原貞子、深川綾子、両夫人の徳に感化して兇悪なる屠犬児心を飜して良民となれり。噫ああ偉おおいなるかな、其仁そのじん禽獣きんじゅうに及ぶ……と無暗むやみにお誉ほめなさるべく候。

毎晩新聞社にて――清ちゃん行ゆき。

 紙片かみきれに記して読返し、「これじゃ一両がものはあるわね。」
 在原夫人の屠犬児に金子かねを恵みたるは、蓋けだし綾子の勧誘に因れり。
「ああしておいて様子を見ましょう。もし今日のことがまた新聞に出ますようだと、何物か我々社会の挙動を探って世に曝露ばくろしようと企くわだてるものがあるのです。そうした日には私共わたくしどももその心得が無ければなりません。で、試してみたのです。どっちみち今日の恵めぐみは御為おために悪いことはございません。」と座蒲団ざぶとんを撥はねて、「これは早朝から御邪魔申しました。それではなりたけお早く御出おいで下さいまし、一足御先へ。」と座を開けば、
「もうちと宜よろしいじゃございませんか。」「いえ、まだ用事もございます。さようなら六六館あちらで御待ち申します。」貞子は昨日きのうの今日にて気が進まず、「ふとすると失礼致すかも知れません。悪あしからず。」綾子は怪あやしみ、「何ぞ御差支おさしつかえがございますか。」
 貞子夫人は額を押えて、「はい、血の道が起りました。」
 蓋けだし無理ならぬ仰おおせなり。
 病気を強いてとも謂いい難く、「それは不可いけませんね。御大切おだいじになさいまし。しかし大抵なら御待ち申しますから……」
 言葉を残して綾子は静々、「御帰おかえりッ。」と書生が通ずれば、供待ともまちの車夫、踞つくぼうて直す駒下駄を、爪先に引懸ひっかけつ、ぞろりと褄つまを上げて車に乗るを、物蔭より婢おはしたが覗のぞきて、「いつ見ても水が垂るようだ。」
 この腕車くるま勢いきおい好よく我善坊を通る時、出合頭であいがしらに横小路より異様なる行列練出ねりいでたり。
 朽葉色くちばいろに垢あか附きて、見るも忌わしき白木綿の婦人おんなの布を、篠竹しのだけの頭さきに結べる旗に、(厄病神)と書きたるを、北風に煽あおらせ、意気揚々として真先まっさきに歩むは、三十五六の大年増おおどしま、当歳の児こを斜ななめに負うて、衣紋えもん背の半なかばに抜け、帯は毒々しき乳ちの上に捩上よれあがりて膏切あぶらぎったる煤色すすいろの肩露出せり。顔色青き白雲天窓しらくもあたまの膨脹ふくだみて、頸えりは肩に滅入込めいりこみ、手足は芋殻いもがらのごとき七八歳ななつやつの餓鬼を連れたり。次に七十二三の老婆、世に消残る頭かしらの雪の泥塗どろまみれにならんとするまで、太いたく腰の曲りたるは、杖の長たけの一尺なるにて知れかし。這はうがごとくに、よぼよぼ。続くは十五六の女、蒼面そうめん、乱髪、帯も〆《し》めず、衣服も着けず、素肌に古毛布ふるげっとを引絡ひきまといて、破れたる穴の中よりにょッきと天窓を出だせるのみ、歩を移せば脛股けいこすなわち出ず、警吏もしその失体を詰責きっせきせんか、我は貧民と答えて可なり。 その他肥えたる豕いのこあり、喪家そうかの犬の痩やせたるあり。毛虫、芋虫、蛆うじ、百足むかで、続々として長蛇のごとし。
 中陣には音楽家あり。破三味線やぶれざみせん、盲目めしいの琴、南無妙なむみょう太鼓、四ツ竹などを、叩立て、掻鳴かきならして、奇異なる雑音遠くに達いたる。
 棍棒こんぼうを取れる屠犬児いぬころし、籠を担える屑屋、いずれも究竟くっきょうの漢おのこ、隊の左右に翼たり。
 また先刻さきに便所より顕あらわれしお丹といえる女乞食、今この処に殿しんがりせり。
 総勢数えて三十余人、草履あるいは跣足はだしにて、砂を蹴立て、埃ほこりを浴び、一団の紅塵こうじん瞑朦めいもうたるに乗じて、疾鬼しっき横行の観あり。
 綾子は袖にて顔を蔽おおいぬ。
 車夫は飛ぶがごとくに馳はす。
 咄嗟とっさにお丹乞食は、一種異様の光を帯びたる眼をもて屹きっと見送り、「あの邸やしきさ。」と綾子を指ゆびさして、「秀坊を入れとく内は。」傍かたわらの者に囁ささやきぬ。
 一列の疫病神は、天を畏おそれず地を憚はばからず、ましてや人に恥ずる色無く、おもむろに大道筋を練って通り、芝――町なる六六館の門前に到いたれる時、殿しんがりなせるお丹乞食、「ここだよ――ここだよ。」
 声の下、鳴物の音を静めて、常山の蛇くちなわまず鎌首を侵入せり。
 門衛遽あわただしく遮って、「こらこら、ここは寺院てらじゃないぞ。今日葬式とむらいのあるなあ一町ばかり西の方だ。」
 と早口に罵ののしれば、旗を持てる先達せんだつの女房、両足を広げてずいと立ち、
「うんにゃよ、葬礼饗応とむらいぶるまいを貰いに来やしねえ。こちとらこう見えてもね、乞食じゃねえのス、ちと買物をしべえから御通しなさいやし。」と妙な言草。門番呆れて、「汝等きさまら何が買えるもんか。干葉ひばや豆府の滓からを売りやしまいし、面桶めんつう提げて残飯屋へ行ゆくが可いい、馬鹿め。」
 女房聞咎ききとがめて、「何だとえ、馬鹿にしなんな。これでも米を食う虫一疋だ。兵隊屋敷の洗流あらいながしにもしろさ。憚はばかりながら御亭主は鉄道馬車の馬糞まぐそを浚さらいやす、強きつい掙人かせぎにんさね。門番の癖に生意気な、干葉を売らぬもよく出来た。糸爪野郎へちまやろう。」と一通ひととおりの婦人おんなには真似てもみられぬ色気無しの悪口雑言。
「ブッ失敬な奴だ。」と眼まなこを瞋いからし、「たって入りたくば切符を買え、切符を。一枚五十銭だぞ、汝等うぬらに買える理窟は無いわい。」と怒鳴る。
 老婆これを聞きて、よぼよぼと進出すすみいで、「いえもし二分が一分でも無銭ただで遣やろうとおっしゃりましても切符は真平まっぴらでござるよ。聞いて下さいやしこうじゃわいな、お前さん、過日いつか切通きりどおしの枳殻寺からたちでらで施米があると云うから、この足で、鮫さめヶ橋から湯島下くんだりまで、お前様まえさん、小半日懸かかって行ったと思わっしゃれ、そうすると切符を渡して、なお前様、明日あした来い、米と引替えるというではござらぬか。何がお前様、翌あすが日のことを構うていられるようなこちとらではござらぬじゃて。腹が立つまいことか、御察しなされませ。内に寝ていてさえ空腹ひだるうてならぬ処へなまなか遠路とおみちを歩行あるいたりゃ、腰は疼いたむ、呼吸いきは切れる、腹は空へる、精は尽きる、な、お前様、ほんにほんに九死一生で戻りやしたよ。老人としよりの謂いうことと牛の尻の何とやらは外れぬげな、これからも有ることじゃで、忘れてもああいうことはなされますな。明日一両下さるより今の一厘半ぶんきゅうが難有ありがたい儀にござる。ほんのことさ、お前様、なろうならば米よりは御飯おまんまを下さいやし、御飯よりはまた老人としよりにはお粥かゆが好ようござる。何のこれ、嘘は申しませぬ。有りようの処は初鰹はつがつおを戴いてから煮て食うわけには参りませぬじゃ。実まことにはや因果でござる。はいはい南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。」と長談議、何を云うやら他愛たわい無し。 門衛の持余もてあますを見て、微笑えみを含みたるお丹乞食、杖をもって門の柱を、とん。「同宿、構わずに、しけ込めしけ込め。」
「うむ、合点がってんだ。」
 急先鋒きゅうせんぽうの屠犬児、玄関へ乱入する、前面を立塞たちふさぎて喰留むるは護衛の門番、「退すされ、推参な!」というをも聞かず、無二無三に推込おしこめば、
「ええ、此奴こいつ等。」と拳こぶしを揮う。
「ちょっ、面倒だ。」と衝つと寄りて、門番の両手を扼とりしばるは、昔関口流皆伝の柔術家やわらとり、今零落して屠犬児、弥陀平みだへいというは世を忍ぶ仮の名にて、本名あるべき親仁おやじなり。
 捉とらうる処法に合かなえば、門番は立竦たちすくみになりて痛疼いたさに堪たまらず、「暴徒が起った。大た……大……大変、これ、一大事じゃ、来てくれい。」
 と血声を揚ぐるに、何事ならんと二三人靴音高く馳出はせいでつ、この体ていを見て、それと組附く。
 三人懸がかりを悠々とあしらいながら、「ここ構わずに、ソレ入った入った。」
 商品陳列場の通路には、はや毛虫ども、うようよぞろぞろ。手分して一区ごとに三人ぐらいずらりと行渡る。
 お丹乞食は左右を見廻し「もう可よかろう。」というを合図に、
 万口ばんこう一声、「ああ空腹ひだるい。」
 かくして後のち、思い思いに敵を見立てて渡合う。例の口汚くちぎたなの女房は、若手の令嬢組の店頭みせさきに押立おったち、口中得えならぬ臭気においを吐きて、
「姉ねえや、何でも可いから早く呉んねえ。見さる通り子持だによって、そのつもりでの、頭数三人前。」と天外より来きたる分らぬ言分。
 令嬢等呆れ果てて顔見合せ、唖然として言葉無し。
「はて、返事が無ねえの、可よし可し。」と籃かごに籠もりたる菓子を掴つまめば、堪こらえかねて、
「お前何をする失礼な。」と極附きめつけたまうを鼻ではじき、「ふむ、どうもしやあしねえ、下さるものを頂きますのさ。慈善会とやら何とやらといって、御慈悲の会じゃげな。御辞儀無しに貰おうという腹さ、空腹ひもじい腹だね。はははは。」と高笑たかわらい、「そこでお撮つまで召食めしあがる、む、これは旨うめえ。」と舌鼓、「餓鬼泣ほえめえよ。」と小児こどもにも与えて散々に喰散らす、怪けしからぬことなり。
 令嬢方は背後うしろを向き、何かひそひそ囁ささやきしが、店を棄置き、姿を隠せり。
 屑屋はまた貴婦人を捕えて罵詈讒謗ばりざんぼう、「あ、あ良いい匂においだ咽返むせかえるようだ。」と鼻を突出してうそうそと嗅かぎ、「へん、咽むせも返るが呆れも返らあ、阿蘭陀オランダの金魚じゃねえが、香水の中で泳いでやあがる。や、また塗った塗った、その顔は何だい、まるで白粉おしろいで鋳出したようだ。厚きこと土蔵くらの壁に似たりよ、何の真似だろう、火に熱やけぬというお呪詛まじないかも知れねえ。」
 と正面よりお顔を凝視みつめて、我良苦多がらくたの棚下たなおろし。貴婦人は恥じ且つ憤りて、頭こうべを低たれて無念がれば、鼻の先へ指を出して、不作法千万。
「なあ、おかみ様さん、その面の皮一枚いちめえ引ひんめくる方が、慈善会よりよっぽど良いい慈善ほどこしになるぜ。こちとらの大家様さんが高い家賃を取上げて適たまさかに一杯飲ます、こりゃ何も仁なさけじゃねえ、いわば口塞くちふさぎの賄賂まいないさ、怨うらみを聞くまいための猿轡さるぐつわだ。それよりは家賃を廉やすくして私等わっちらが自力で一杯も飲めるようにしてくれた方がほんのこと難有ありがてえや。へこへこ御辞儀をして物を貰うなあちっとも嬉うれしくねえてね。そしてまた無暗むやみに施行ほどこし々々といいなさるが、ありゃお前めえ、人を乞食扱にするのだ。 目下の者を憐あわれむんじゃなくって軽蔑けいべつするのだ。トまず謂いってみたものさ。お前様方めえさんがたが人中で面つらを曝さらして、こんな会をしなさるのは、ああ、あの夫人おくさんは情なさけ深い感心な御方だと人に謂われたいからであろう。
 その時は、誰か頂くものがなければなるまい。してみると貰うて進ぜる方がまだお前達めえたちの面かおを好よくして、名を売ってやる恩人だ。勘定すれば一銭も差引無し、こちとらは鰹節で、お前様方が旨うめえ汁を吸うといったようなものだ。
 そこでそれ、お前達が人に誉ほめられるために私等わっちらに税金をお出しなされる。今日はそれを取上げに来やした。志こころありだけ寄来よこさっせえ。」と大声に喚立わめきたつれば、ここの夫人も辟易へきえきして、休息所へふいと立つ時、
「おっ、臭くせえ、ふわふわ湯具を蹴出すない。」と鼻を掴つまみて舌を吐きぬ。
 ちょいと雛形みほんがこんなもの。三十余人の貧民等、暴言を並べ、気焔きえんを吐き、嵐、凩こがらし、一斉いっときに哄どっと荒れて吹捲ふきまくれば、花も、もみじも、ちりぢりばらばら。
 興を覚まして客は遁出にげだし、貴婦人方は持余して、皆休息所に一縮ひとちぢみ。
 貧民城を乗取のっとりて、
「さあ、これからだよ。売溜うりだめの金子かねはいくらあろうと鐚一銭びたいちもんでも手出てだしをしめえぜ。金子で買って凌しのぐような優長な次第わけではないから、餓かつえてるものは何でも食いな。寒い手合は、そこらにある切きれでも襯衣しゃつでも構わず貰え。」とお丹の下知げじに、狼おおかみは衣ころもを纏まとい、狐きつねは啖くらい、狸たぬきは飲み、梟ふくろう謡えば、烏は躍り、百足むかで、蛇くちなわ、畳を這い、鼬いたち、鼯鼠むささび廊下を走り、縦横交馳こうち、乱暴狼藉ろうぜき、あわれ六六館の楼上は魑魅魍魎ちみもうりょうに横奪おうだつされて、荒唐蕪涼ぶりょうを極めたり。
 この時最寄もよりの交番より巡査真黒まっくろになりて駈附かけつけつ、暴行を制せんとすれば、お丹先んじて声を懸け、
「おい、皆みんな静まった。」
 一同直ちに粛然とせり。
 巡査は気を抜かれていささか手持不沙汰、今更疾呼しっこしても張合無ければ、少々声音こわねに加減をして、
「汝等きさまら、ここをどこだと思ってる。」
 お丹衝つと進みて、「はい芝区――町、六六館。」
「そないなことは謂わずとも知っちょるわい。」
「でも御訊おきき遊ばしたからさ。」
 巡査は頬を膨らして、「黙れ。場所柄も弁別わきまえず乱暴をいたしおる。棄置かれぬ奴等だ。華族方の尊威を汚けがすのみならず、恣ほしいままにここの売物を啖くらいよったは盗人どろぼうだぞ。」
 と睨付ねめつくれば、火事はどこだという顔色かおつき。
「へい、さようかね。」と頓興声とんきょうごえ。
「さようかねとは何だ。」「でも貰って食べたんですわ。」
「誰が汝等きさまらに遣るというもんか。」お丹真顔になりて、「だがね、皆みんなで頂戴いたしますというと黙ってどこかへお隠れなすったから可いいのだろうと思いまして……」
 巡査はじれ込み、「一体全体ここをどこだと思っちょるんだ。」「くどいねえ、芝区――町、六六館です。」 巡査弱って、「こりゃ、無茶だ。」「何でございますと。」「考えてみい、世が世なら、汝きさま達が拝むと即座に眼が潰つぶれるような御夫人方だ、何だって汚らわしい乞食風情に御言語おことばを下さるものか。」
 お丹は感じ入りたる状さまして、「さようでしたかい、さようとは存じませず、まあ。飛んだことをいたしました。つい一言ひとことならぬとおっしゃれば可いのにさ。ねえ、旦那。しかし出来たことなら詮方しかたがございません。」
「仕方がないって済まされんぞ。それにこの会は何も汝等きさまらに施行ほどこしをするんじゃない、収入額あがりだかは育児院へ寄附に相成るのだ。」
「だって物事はそう規則通りには参りません、旦那、医者を御覧なさいな。急病人の方へは先に駈附けるじゃございませんか。育児院は、ナニ、養生をしてるので、私等わたしどもは九死一生、餓死うえじに、凍死こごえじにをしようとする大病人、ちょいとそれ繰廻くりまわしを附けて下すっても可よかろうと思いましてね。」と手前勝手の一理窟。
「そんならなぜそのように神妙に御慈悲を願わない。」
「はい、貧乏人に式作法はございません。」
「汝うぬ、言いたい三昧ざんまいなことをいやあがる。何なんしろ家宅侵入だ。処分するぞ。」
 といってみたものなり。これだけの人数を食客いそうろうに背負込しょいこみては警察大難儀おおなんぎ。
 お丹片頬かたほに微笑えみを含み、「じゃあ御拘引おつれ下さいますかね。」巡査少し慌てて、「どこへ。」「はてさ、御役所へ。」「何い。」と眼まなこを睜みはれば、お丹笑い出し、「実はね、宿六滅法不景気で、山の神や、小児連中こどもれんじゅう、顎あごが干上るもんですから、多時しばらくお扶持ふちを頂いて来いって、こんなに申しますので、お言語ことばは渡わたりに舟、願ったり叶かなったりでございます。」
「何もたって拘引こういんするとは言わん。」
「いいえ、御遠慮には及びません、どうぞお拘引つれなすって。」
 警官は持余しぬ。さりとて不問にも帰し難ければ、「ともかくも戸外おもてへ出ろ。」と数珠形じゅずなりに引立てて戸外へ出ずれば、今まで荒れに荒れた屠犬児、神妙に畏かしこまりて、「へいへい私わたくしも御一所に。」
 護送されたる一列の貧民は、果報拙つたなくして御扶持を頂くことを得ざりき。渠等かれらは青山の僻地へきちなる権田原ごんだわらにて放鳥はなしどりとなりぬ。「はいさようなら。」と巡査に別れて、お丹は一同とともに直ぐ目の下なる鮫さめヶ橋の塒ねぐらに帰れり。

 午後四時頃、麹町永田町なる深川夫人の邸やしきの庭へ、垣より潜入くぐりいりたる茶褐色の犬あり。
「おや、どこから来たのだろう。」
 と呟つぶやきつつ縁側に出いでたるは、年紀としの頃十六七、色白の丸ぽちゃにて可愛らしき女むすめ、髪は結立ゆいたての銀杏返いちょうがえし、綿銘仙の綿入を着て唐縮緬とうちりめんの帯御太鼓結むすび、小間使といふ風なり。名を秀ひでという、どこかで聞いたことのあるような。
「奥様御覧遊ばせ、お松どんちょいとお出いでよ。三太夫様さん、吉造様さん。」
 と珍しからぬ一匹の犬に、夫人をはじめ、朋輩ほうばいの女中、御家老より車夫に到るまで、家族のありたけ呼立てしが、返事をするもの一人も無し。
 理ゆえあるかな、今宵は館やかたに来客ありとて、饗応もてなしの支度、拭掃除ふきそうじ、あるいは室の装飾に、いずれも忙殺されつつあり。
「ああ、誰も……」と前後を見廻し、屹きっと頷うなずき、帯の間に秘持かくしもてる紙片かみきれを取出だしつ、くるくると紙捻こよりにして、また左右に眼を配り、人のあらぬを見定めて。「じゃむこう。」うわっ。
「おいで、おいで。」と手招きすれば、先より気色を窺うかがいたる、(じゃむこう)衝つと来たる。頭こうべを撫で、かの紙片を首環くびわに結附ゆいつけ、指にてぐいと押込むとたんに、後架かわやの戸ぱたりと開く。見返れば綾子夫人、「秀、何をしている。」
 秀はおどおど、「はい、何、あの……まあ、ちょいと御覧遊ばせ、飛んだ良い犬でございますねえ。飼われているのかして綺麗ですよ。上手にちんちんを致します、それそれ。あら、御廻おまわりも旨うまいこと、ほほほほ。」とわざとらしく笑い、「おやおや、犬に夢中になってサ、まあどうも飛んだ失礼、ただいま御手水おちょうずを差上げます。」
 あたふた飛んで来て柄杓ひしゃくを取れば、両手を出して濯ゆすぎながら、跪坐ついいる秀をじっと御覧じ、「秀。」屹としたる御召に、少し顔の色を変えて「はい……い。」綾子は声に力を籠こめて、「お謂いいでないよ。」語は一句、無量の意味を含めたり。
 小間使は情を解せず、返事に行詰ゆきつまりて無言なり。
「お謂いいでないよ。」と繰返して、「今に御客も来るし、今朝のね、彼の件はきっと謂わないだろうね。」と幾多の危懼きぐ、憂慮を包める声音こわね、==お謂でないよ==は符牒ふちょうのようなり。ただ秘密あれば従って符牒あり。彼とこれとは背と腹のごとし。両々相待ちて(彼の件)という物体となる。(なぞと拈ひねる奴さ)
 ==今朝のね、彼あの件こと==というに到りて、小間使は直ちに呑込み、「何の奥様、誰が饒舌しゃべりますもんですか。」「ああ、そうだろうとは思うけれども、きっとかえ。」
 秀は誓うがごとく、「はい、きっと。」
「きっとだよ。」御念の入ること夥おびただし。
 夫人が態度の厳粛なりしは、犬の手品を見附けたる故にはあらで、「きっと。」をいわんとて、屹きっとせるなりと、小間使は観察しつ。ほっと一呼吸ひといき、汗を入れぬ。心の内で、「まず可よかった。」「あら、口笛の音ねがするよ。」と綾子は耳を欹そばたてたり、戸外そとにて喨々りょうりょうと二声三声、犬は疾風のごとく駈出だして、「変だ。」と思うまに見えずなりぬ。
「秀。」
 小間使はまたギクリ。
「飼主が戸外おもてに居たと見えるよ、犬を内へ入れたのは何だか気懸きがかりではないかい。」「はい、気味が悪うございますねえ。」
「皆みんなにそう申して夜分は気を着けるが可よい。」「三太夫様さんに申しましょう。」
 おや、風説うわさをすれば、三太夫、罷出まかりいでて、「はッ番町の姫様ひいさま、御入来おんいりにござりまする。」
 先登せんとう第一は小浜照子、在原夫人その後より、追次取次来る客は皆慈善会にて見たりし顔なり。蓋けだし今宵の集会は、前日の慰労と兼て将来の方向を談ぜんため。
 なおかつ今度は貧民に容易ならざる汚辱を蒙こうむり、大おおいに貴婦人社会の体面を傷きずつけたれば、この際屹きっと決心する処なかるべからずと、綾子が檄げきを飛ばせるなりき。
「大分賑にぎやかじゃの。」
 と唐突だしぬけに襖ふすまを開け、貴婦人、令嬢、列席の大一座、燈火の光、衣服の文あや、光彩燦爛さんらんたる中へ、着流きながしに白縮緬しろちりめんのへこおびという無雑作なる扮装いでたちにて、目まじろきもせで悠然ゆらりと通る、白髪天窓しらがあたまの老紳士、これは御前ごぜんと一同が座を譲るこそ道理なれ。裏の木戸口を隔へだてにて、庭続の隣家の殿、かつて政事をも預りしが行年ここに五十六、我老おいたりと冠かんを挂かけて幕の裡うちに潜ひそみたまえど、時々黒頭巾出没して、国五郎という身で人形を使わせらる。下座語げざがたりの懐へ、どろんと消え、ひょいと出る、早替はやがわりの達人と、浮世床にて風説うわさの高き、正三位しょうさんみ勲くん何等、大木戸伯爵と申すはこれなり。 綾子が夫、在世のみぎりは伯のために無二の忠臣なりければ、それが死去せし後のちも未亡人びぼうじんに目を懸けたまい、深川家一切の後見をせり。
 ごく気の軽かろき御前にて、案内も請こわで御意のまま木戸口より御入おんいりある。
「あ、いずれもそのままそのまま。」と避けんとする者を手もて制し、好よき処に座を占めて、「これが勝手じゃ構わずと大事ない。私わしが来たからとてそう改まっては不可いかんじゃ。このとおり寝衣ねまきのままじゃがの、実はもう寝ようと思いおった処、若い人の声が聞えるもんじゃで、急に浮世が恋しゅうなっての、とうとう娑婆しゃばへ出て参った。」と呵々かかと笑い、葉巻をはたきてまた咬くわえ、「さて、何か、家うちの御主人から聞けば慈善会へ毛虫が集たかったそうじゃな。いや、定めし御困りじゃったろ。怪けしからん、また毎晩新聞で悪口あっこうを申したってな、悪い奴らじゃ。」
 と烟草たばこを差置き、唇を両三度手巾ハンケチにて押拭おしぬぐい、その手をすぐに返して髯ひげを扱しごく。
 年紀としは孫ほどの照子、強請ねだるがごとき口吻くちぶりにて、
「御前、どうか遊ばして下さいよ。私等わたくしどもは口惜くやしくて口惜くて仕様が無いの、ああいう乱暴な貧民は何人あろうと、一人々々ふん縛じばるわけには参りませんか。」
「不可いけません、そういたすとまた新聞で散々悪体を申すだろうじゃございませんか。」とは在原夫人、御自分経験おぼえがあればなり。
「新聞が邪魔になるのは私等わしらに限らぬと見える。御夫人方にも目の瘤こぶじゃの。面倒なら停止をさそうか。」「そういたして頂きましょうか、ねえ。貴女あなた。」と在原夫人左右に問えば、「そうね、それが可ようございましょう。」とのこらず同感。
「いいえ、悪うございましょう。」と綾子一人にん異議を唱えて、
「それでは、非あらを蔽おおうのです、それにあの新聞も、在原の夫人おくさんが屠犬児いぬころしに御恵みなすったことなどは、大層誉ほめたではございませんか。今停止をさせたでは卑怯ひきょうに当りますよ。」
「さようじゃの。」
 と伯爵は頷うなずきたまえり。
「仕様がありませんね、どういたしましょう。」「こうしてはどうです。」「それも不可いけません。」「やはり仕様がありません。」などと小田原評定ひょうじょう果し無し。
 伯爵は懊悩うるさがり、「そんなに急あせらんでもまあ可ええわい。心配なさるな、どうにかなる。時に、才子は今夜来ていないかの。」綾子「百田様ももたさん?」伯は「うう」「は、参っております。」「どこへ行った。」とありける時、
「御前いらっしゃいまし。」と敷居越ごしに一礼する二十四五の好男子、伯爵太いたく渠かれを愛して才子々々と召たまう。実の名は時次郎といえり。深川家とは親類交際つきあい、しばしば出入して家人のごとし。これこの家の後見が、渠かれを挙あげて綾子の世継とせんずる内意あるによる。
 今宵も席の周旋に来きたりいるなり。
「さ、ここへ入れ。」と傍かたわらに座を給たまい、「婦人方の席へ我おれ一人孤城落日という処じゃ。や、何方どなたも沸切にえきらぬ堅い談話はなしはまたの日するとして面白く談話はなそうではないか。なあ。」と見返れば、「それが可ようございましょう。」時次郎は御意次第。
 照子は一番に大賛成、「御前また戦いくさの談話を遊ばせな。あの貴下あなたが命からがらで御遁おにげ遊ばす処が一番愉快おもしろい。」
 伯爵は苦笑にがわらい。「うふふふ、我わしを如燕じょえんになさる。そういうことをいわるると恐怖おっかない談話をするぞ、怪談を。」と仰おおする折しも、庭にて犬の鳴く声頻しきりなり。「夫人おくさん、大層吼ほえおるな。」
 とさすがは後見気を着けたまえば、
「は、先刻さっき怪訝おかしな……犬が入りました。」
「ちょっと、私わたくしが……あの見て参じます。」と茶の道に侍さぶろうたる小間使の秀、御次へスルリ、辷出すべりいでて東の縁の雨戸一枚外して取るや否や、わんと飛付くを、叱しっ――叱りながら、ちょいと妙な手附をして、帰天斎手品の早業はやわざ「じゃむこう、御苦労だね。」とごく小声。犬は一散に引返ひっかえして、垣を潜くぐりて出でたる外には、提灯ちょうちん提げて彳たたずむ女。
「見せな。」と渠を引寄せて頸環くびわに結べる紙片かみきれを取り、灯影ほかげに透かして、読めば曰いわく、
小田原評定に過ぎず候
「可よし。」と呟つぶやきて提灯ふっと消し、「これは可いいとして、お秀の身に、もしひょっと……ああ、気に懸かかる。」
 と垣に寄添い、うっかりとする背後うしろに靴音、はっと見返る眼の前さきへ、紅燈一閃せん、衝つと立つは、護衛のために見巡る巡査。
 婦人おんなはちょいと小腰を屈かがめ、「旦那、四谷へはどう参ります。」

じゃむこうに御託おことづけの昼間の書信慥たしかに落手いたし候、好材料に候えども、お前様身に取りては極めて危険なものを見られ候。いかなる難儀あらむも計り難く候あいだ、屹度きっと御用心なさるべく候。(彼の件)を見届け候以上は此この家に最早用は無之これなく且つ居ては御身おんみ危あやうく候まま、明日にも暇ひまをお取りなさるべく候――

 細字さいじをもって認したためたる警戒は、此方こなたより「小田原評定云々うんぬん。」と記しやりたる書信を引換ひきかえに、「じゃむこう」の首輪を経て小間使秀の手中に落ちたり。廊下人無き処にて秀は読過一遍、「ああ、そうだ。おお、恐怖こわいことね。早速お暇を頂こう。ちょうど可い久濶ひさしぶりで祖母様おばあさんの顔も見られる。」
 紙片かみきれは寸断し去って袂たもとに葬り、勝手許もとに退さがらんと歩み来きたる、片隅の闇中くらがりより、黒きもの、ぬっと出いづ。お秀「きゃっ!」と飛退とびすされば、とんきょう声で「ばあっ。」と驚かす。善よからぬ洒落しゃれなり。
 小間使は腹を立て、「誰だい、ひと、愉快おもしろくもない、お巫山戯ふざけでないよ。」と叱言こごとを謂いう。
「そんなに怒りたまうな。僕だ、僕だ。」と傍そばに寄るは百田なり。「おや、貴下あなたですね。」とお秀は俯向うつむき、思えらく、「そんなら怒るのではなかったっけ。」什麼生そもさんこの心中は、――少しあのナンと知るべし。時次郎は馴なれ馴れしく、「堪忍おしよ。驚いたろう可哀そうに。」「は、い。」とただ逆気のぼせる。
「あのね、お前にね。」と突然お秀の袂を捕えて、ちょいと小あたりにあたって見れば、小間使はもう真赤まっか、こいつものになると、時次郎は声を密ひそめ、「内証で相談がある。まあ、ちょいとちょいと。」曳ひかるる袖を払わんとはせで、「御串戯ごじょうだんを。」と口の内、夢路を辿たどりて小蔭の暗闇くらがり。時次郎はひたと寄添い、
「すこしお依頼たのみがある。肯きいてくれないか。」お秀は虫の音ね「どういたしまして。」
「肯きくかい。」「いいえ。」「ン、じゃ嫌か。」「どうですか。」と四辺あたりを見る。「悪く初心ぶるな、もう知ってる癖に。」「あら、存じませんよ。」と手をもじもじ。 生殺与奪の権は我が掌中にあり、時次郎時分は可よしと、「何むずかしいことは無いのさ。こうすればそれで可い。」とやにわに帯に手を懸くれば、わなわな震えて、「あれ。」と竦すくむ。「おっと驚くべからず、この男色気無しだ。秀様さん実はね、大木戸の御前が例の串戯じょうだんに妖怪談話ばけものばなしをお始めなすって、もとこの邸は旗本の居た所で、癇癪持かんしゃくもちの殿様がお妾めかけを殺したっさ、久しいものだがその妄念が残っていて、今でも廊下へ幽霊が出ると謂って、婦人方を恐怖こわがらせた奴よ。黙って聞いていれば何事も無かったのに、照子様さんが、それ御存じの知ったかぶりだ。(御前、そんなことがあるもんですか、科学上から)ナンノッテ滅茶々々に打破ぶっこわしたもんだ。すると御前も負けぬ気で、(それでは幽霊の出るという邸の廊下のはずれまで貴嬢あなた一人で行って来ることが出来ますか)(何時なんどきでも)というので、ね、秀様、今に番町のがここへ行やって来るのさ。あんまり生意気だから一番ひとつ威おどしてやろうと思って、私があすこに隠れていたがね、男がやると差合さしあいだ、ちょうど可いからお前に頼む、ね、幽霊にならないか。愉快おもしろいよ。」
 と口説くように言含むる、あのナンノが依頼たのみなれば、秀は嬉しき思入れ、「しかし可ようございますかね。悪戯いたずらをいたしても。」「構うもんか、内の夫人おくさんも御隣のも呑込んでお在いでなさるるから可い、そこで帯をお解きといったんだ。そのままじゃあ落おちが来ないよ。そうして思切って髪も毀こわしな。」「まア髪を。」お秀は鬢びんを圧おさえて顰ひそみぬ。「今度結う時は島田にするさ、その方がうつりが可い。」「何とでもおっしゃいまし。」「それとも丸髷に結わしてみようか。」「もう、よござんす。」とむっとする。「おやまた怒ったか、笑ってくれ、拝む。拝む、おっと笑った、さてさて御機嫌が取悪とりにくいぞ。またもや御意の変らぬうちだ。」と抱竦だきすくめて元結もとゆいふッつり。
「あれ、不可いけませんよう。」「可いてことさ。」せりあううちに後毛おくれげはらはら、さっと心も乱髪みだれがみ、身に振かかる禍まがつびのありともあわれ白露や、無分別なるものすなわちこれなり。
 お秀はただほっとして「あら、嫌否いや、私はもうどうしょうねえ。」と身を悶もだゆる間まに帯解けて、衣服きものも脱がされ、襦袢じゅばん一つ、してやったりと躍る胸を、時次郎は色にも見せず、「寒いか、埋合うめあわせはきっとなあ。」「はい。」と震える。背せなを叩きて、「風邪を感ひくな。」
 杉戸遣戸やりどの隙間より凩こがらし漏れて冷ひややかに、燈籠の灯影ほかげ明滅して、拭磨ふきみがかれたる板敷は、白く、青き、光を放てり。
 奥座敷にて多人数が笑語の声の断続して柱に響くも物寂ものさびぬ。
 廊下に長く揺曳ようえいせる婦人の影は朦朧もうろうとして描ける幽霊に髣髴さもにたり。
 忽爾こつじ跫然きょうぜんとして廊下の端に、殺気を帯びて、人影露あらわる、近づくを見れば小浜照子。影を隠して秀は潜ひそみぬ。
 既にして間近に来きたれり、あたかもこの時四隣しりん寂寞せきばく気結きけつ沈声ちんせい、陰々として、天井黒く壁白し。
 照子は屹きっと眼を注ぎぬ。
 異様の姿、するりと出づ。
 きゃっ……と一声、あっ……と一声、続いて起る金切声、「来て下さい来て下さい。」
 呼ぶ時遅し五六人、今の二人の魂消たまぎりしに何事ならんと駈附けつ、真先まっさきなるは時次郎、「照子様、どうなさいました、幽霊が出ましたかね。」と笑いながらふとむこうを見て、「や……妙なものが僵たおれている。何だ。やはり人らしい。しかも女だ。誰だろう。」
 肩と鳩尾みずおちに手を懸けて後抱うろろだきに引起す、腕を伝うて生暖なまぬるきもの、たらたらたら。「ええ」と引込ひっこめ臭においを嗅かぎ、「腥なまぐさいな。」と呟つぶやく時、綾子は引摺ひきずりたる小袖の裳もすそ、濡れて、冷く、脛はぎに触るるに、「あれ、気味の悪い。」と撮つまみ上げ、裾裏すそうらを返して見て、 かれこれ同時に、「血、血、血!……」
「血」「血」「血」と貴婦人方は鸚鵡返おうむがえし、皆五六尺飛退とびすさる。
 時次郎は熟とっくと検けんし、「うむ、心臓むねに小刀ナイフが。……」言懸けて照子を視みれば、眦まなじり釣って顔色蒼あおく、唇は戦わななけり。召したる薄色の羽織の片袖血潵ちしぶきを浴びて紅くれないの雫しずく滴る。
「モシ照子様。」と突く真似をして「お殺やんなすったね。」と時次はいう。
 照子は心気昂進こうしんして、あえてものをも言わざりし。この時ようやく、太き呼吸いき、「ああ、幽霊。」と投出すようなり。
「幽霊。……」と時次郎は呟き、「なるほど幽霊と見える、怪けしからん風体です。夫人おくさま、燈火あかりをずっと、はい、宜よろしい。おや、御邸の。」
 綾子も覗のぞきて、「秀だよ。」と只呆ひたあきれ。
「どうしてこんな。」とさも訝いぶかしげに時次が謂えば、「まあ、あられもない扮装なりをしてどうしたというのだろう。好よく御覧、秀に限ってそういう取乱した風をする婦人おんなじゃないよ。」「何ぞが妖ばけたのではございませんか。」と誰方どなたか罪の無いことをおっしゃる。
「いえ、妖ばけたのに相違はありませんが、これはやはり、秀自身が妖けたのです。照子様、もしやおどかしはしませんでしたか。」
「ああ、ひょいと飛出して吃驚びっくりさせたよ、私夢中で……」と震えていらせらる。
「なる、それで解りました。夫人おくさま、小間使が好奇心で、照子様をおどしたので、謂わば自業自得というものです。」「そうね、もういけなかろうか、可哀そうに。しかし失礼な、私の大切な御客様をおどそうなんて、飛んでもない。大方通魔とおりまに魅入られて、ふいと気が違ったのかも知れないよ、照子様さんには済まないけれども、ああ可哀そう。」
 と熱き露、清すずしき眼より溢あふるる処へ、後馳おくればせの伯爵悠々と参りたまい、「何じゃ騒しいな。ふ、ふ、あ、あ、それは結構。何さ、しかし心配には及ばぬよ。殺されたものは損、照子殿は豪えらい功てがらじゃ、妖物ばけものを斬きったとあれば立派なものじゃ。けれどもな、少々は金が要るじゃ。」と頤おとがいにて死骸しがいを指したまい、「これが親許おやもとは。」綾子答えて、「鮫ヶ橋に老婆一人、黒瀬縫とか承わりました。」「うむ、さようか。それに手当をしてやれ。老婆だとあればさぞ愚痴っぽく泣くじゃろの。」「御意にござります。」と時次が申す。
「それがちと面倒じゃ。可よし、可、これは駿河台の御隠居を煩わすとするじゃ。説法が旨うまいで、因果を含めるに可いいわい。」「仏ぶつを御学び遊ばして御道徳抜群にいらせられますれば、至極よろしゅうござりましょう。」「お前これから駿河台へ行っての、次第わけを申して御老体御苦労じゃが、鮫ヶ橋まで御出向おでむきのあるように、なりたけ内証での、そこを旨く、可いか。」「はッ。」「何でも怨む者さえ無ければ物ごとは円く納おさまる。検屍けんしにはあのナンノをな、それから、ナニはナニして、ナンノを、ナンノを。」
 ナンノで皆解ると見え、時次郎は委細承知。「畏かしこまりました。」
「さ、これで可よし。皆様みなさん、あちらで。」と手を揮ふってのたまうを好よき汐時しおどきと、いずれもするするはらはらと裳もすそを捌さばきて御引取。
 後に残る三人は眼と眼と眼にて、薄雪とは似ても非なる三人笑。
 伯爵は鷹揚おうように、
「綾。」
「は。」
「首尾よく殺したな。」と怪しき御言葉。
 時次郎手を支つかえて、「恐悦に存じまする。」

 一人の父は納豆を売りに朝疾とく起きて出行いでゆきぬ。後は孤みなしごなる女の児こ、年紀としは七歳ななつばかりなるが、大人の穿切はききらしたる草履を引摺ひきずり、ばたばたと駈かけて来て、小石に躓つまずき、前へのめり、しばらくは起きも上らず。「あれ」と婦人おんなの声、木賃宿の戸を開けて、内より出づる一人の美人、顔美麗うるわしく姿優なり。片手に洗髪あらいがみを握りながら走り寄りて、女の児を抱起だきおこして「危いねえ。」と労いたわる時、はじめてわっと泣出だせり。「おお可哀そうに痛かったかい、まあまあお召が砂だらけだ。どこも擦剥すりむきはしなかったの。え、掌てのひらを、どれお見せ、ほんとにねえ。」と何を持ちしか汚穢むさき手に、温あたたき口を接つけて、呼吸いきを吹懸け撫でてやり、「さあ、もう可いからお泣きでないよ。おお、泣止なきやみましたね、好いい児こ好い児。何を御褒美に上げようかしら、ああ良いい品ものがあったっけ、姉様ねえさんとさあ一所に光来おいで。」と手を曳ひきて家に入いり、黒くなりたる櫃ひつの上に、美しき手毬てまりのありしを、女の児に与うれば、気味悪そうに手に取りて、「こりゃ何。」と怪訝顔けげんがお。「手毬だよ。知らないの。」「手毬って何。」とさっぱり解らず。
 美人は優しき眼にてじっと視みれば、いかさまかかる遊戯品は知らぬも道理の扮装みなりなり。不便ふびんなものよと思うにぞ、
「これはね、こうするものだよ、見ておいで。」と袂たもとを啣くわえて一ひい二ふウ三みい四よウ、都の手振なよやかに、柳の腰つきしなやかなるを、女の児は傍目わきめも触ふらず、首傾けて恍惚みとれいる。
 ここはいずこぞ鮫ヶ橋、白日闇はくじつあんの木賃宿にしかき姿あるは怪あやしむべし。
 火鉢に懸けたる土瓶の煮ゆる音、ジュー。
 二三十つきたる美人はこれに心着きて手を留とどめ、
「おや、忘れていた、もう煮詰ったようだ。」と蓋ふたを取れば、煎薬の香芬々ふんぷん。すぐに下して、「お前ねえ。」と女の児を見返れば、頻しきりに毬を弄もてあそべり。美人は微笑えみを含みて、「つけますかい。」
「いいえ。」と少し嬌羞はにかむ。
「戻ってまた教えて進あげよう。お前がお在いででちょうど可い。誰も居ないから留守しておくれ。妾わたしはね、この御薬を持って裏のお婆様ばあさんの処へちょいと行って来る。」「あいあい。」と頷うなずけば、手早く髪を束つかねて櫛くしにて押おさえ、土瓶片手に出行いでゆきけり。
 入違いに二人の男、どかどかと上込あがりこみ、いきなり一人が匍匐はらばいになれば、一人は顎あごを膝に載せて脛すねを抱え、「ねえ、おい素敵に草臥くたびれたな。」
「まったくさ、ドテやゲバを取ろうとって、あくせく掙かせぐ気が知れねえ。」
「知れねえと謂いえばどうもいまだに知れねえ。」「何が。」「この木賃宿の所有主もちぬしがよ。」「やっぱり姉御あねごが持ってるのだろう、御庇おかげでこちとらは屋根代いらずだ。」「でも始終ここに居ないじゃねえか。」
「だって時々出張でばって来らあ。」
「そりゃそうと此家うちの姫様ひいさまは何の妖ばけたのだろう。」
「怪あやしいほど美いい女だな。しかしなんぼ何でも木賃宿にいらっしゃるものを、姫様とはつかぬ語呂だぜ。」「うんにゃ、あのまた気高い処から言語ことば付の鷹揚な処から容子ようすがまるで姫様よ。おいら気が臆おくれて口が利悪ききにくい。」「その癖優しい嬢こだ。」「可愛らしいぜ。いつかも見りゃ一心不乱に毛糸の編物さ。」
「何でも姉御がかくまっておくらしいな。」「うむ、そうさ。だが処もあろうのにここは非道ひどいや、もうおいら達あ、姉御が世話をする婦人おんなだから指一本もさしもせず、またささしもしねえが、煎詰せんじつめた破落漢あぶれものばかり集る処へどういう気だろう。」「何でもいいやい、お丹姉さんの遊ばすことだ。」「でも気に懸かかるかしてこの頃は毎晩泊とまりに来て、御両人様抱ッこで寝るぜ。」「何、抱ッこで寝るッ、若い奴等、気の悪わりい談話はなしをしてるな。」と表の戸がらりと開け、乱髪の間より鬼の面をぬっと出すは、これ鉄蔵という人間の顔なり。これに怖おびえてかの女の児は遁出にげだしたり。
「へん、新造を抱きたがる癖に、一廉ひとかどお年寄の気でやあがる。」
 鉄蔵はのさのさ入りて大胡坐おおあぐら。「これでも子持の親父様とっさんだ。」「そういやあ竹坊はどうした。二三日ち見えねえぜ。」「彼奴あいつあ、こかしたよ。」と平気で謂いう。「そりゃ旨うめえことをした。」「いかさま棄てる神あればかい。土橋のいうあの御面相で買手があったか。」鉄蔵は澄すまして煙草たばこの粉こをすぱすぱ、「何女郎じゃねえ。」という声、戸外おもてに洩もれて、(不審立聴く)一個ひとりの婀娜的あだもの、三枚襲がさねに肩掛ショオルを着て縮緬ちりめんの頭巾目深まぶかなり。
 一人は起返りて、「ふむ、それでは茶屋か。」
「いんや。」
 一人は膝を立直し、「温泉か。」
「大違い。」
「はてな、田舎へでも。」「やっぱり市中さ、新網しんあみの仁三にさによ。」「ふむ、野師やしの親方。」「うむ、そうだ。」「彼奴あいつも呆あきれた茶人だなあ。」鉄蔵は真面目まじめな顔「なに妾めかけじゃねえて。」「はあ、あの女むすめなら見世物に出すかも知れねえ、大方そうだろう。」「似寄の者さ。」と言懸けて少し猶予ためらい「あのの、家うちの阿魔あまに犬の皮をの。」二人、「ええ――」と反返そりかえる。
 鉄蔵は落着払い、「妙なものを拵こせえさしてそれをば見世物に出そうというのよ。」
「途方もねえ。」「恐おっそろしい。」
「勿論、女あまもなに泣面べそは掻かかないで一昨日おととい去いった。」と煙管きせるをこつこつ。
 背後うしろにすっくと突立つったつお丹、一部始終を聞きしなり。一声鋭く、「鉄、談話はなしがある。奥へ来や。」

 お丹突然いきなり、「畜生――」と一喝して長羅宇ながらうの煙管を押取おっとり、火鉢の対面むこうに割膝して坐りたる鉄の額を砕けよと一つ撲ぶつ。
 不意を啖くらって眼まなこ眩くらみ「痛いてえ。」と傷を圧おさえしが、血を視みて、「えッ非道ひどいことを。」
 梟眼きょうがん赫かっと睜みひらけば、お丹も顔色蒼あおずみて真白き面おもてに凄味すごみを帯び、眉間みけんに透とおる癇癪筋かんしゃくすじ、星眼鋭く屹きっと睨にらみ、「ム、悔くやしいか。人間ならくってかかんな、対手あいてになろう。犬、畜生、人非人ひとでなし、四這よつばいになれ、尻尾を掉ふれ。」
 詈ののしる剣幕に胆きもを抜かれ、鉄蔵茫然とする処を飛かかって咽喉のんどを扼やくし、「ええ、賭博ばくちに負けたか、食えねえか、それほど金子かねが欲ほしくばな、盗賊どろぼうをしな、人を殺せ、けだものに女むすめを売るとは、野郎本気の沙汰じゃねえ、どれ、性根を着けてやろうよ。」 と急所を取って突廻せば、鉄蔵は虫の呼吸いき、「姉あねえ、御免ねえ、苦あ、苦あ、放してくんねえてば、苦しい、むむ。」と苦み掙もがくを煙管の乱打、「死ぬる死ぬる。」と呻うめき叫ぶを殺しかねざる気色なり。
「お前非道いよ、まあお待ち。」とお丹の腕に縋すがりたるは今戸外おもてより帰りし美人。
「いえ、お放しなさいまし、この大それた人非人ひとでなし。活いかしちゃあおかれません。」「そう謂いわずにさ、口でいっても解るではないかねえ。ようさ、私に預けておくれってば。」と身を楯たてにして、鉄を庇かばい、宥なだめても制とどめても頭かしらを掉ふって肯がえんぜず、「よう、頼むよ。後生だから。」と心弱き美人は声曇らすに、お丹ようやく手を弛ゆるべ、衝つと座に直りて煙管を杖、片手に煙草を引寄せたり。
 美人は鉄を労いたわりて、「お前、何悪いことをしやったえ。お丹はあの通り気短きみじかだから恐怖こわいよ。私が詫わびをしてあげる。」
 と抱起さんとすれば、鉄蔵慌てて身を起し、「ええ、勿体ねえ。お前様まえさん、私わっちの身体からだは汚けがれておりやす。」
「まあ眉間から血が出て。」と懐紙ふところがみにて押拭おしぬぐう、優しさと深切が骨身に浸しみこむ、鉄はぶるぶる。「もう、可うございます。いえもう何ともありません。」と後退あとずさり。
 幅狭き布子ぬのこの上掻うわがえを引張ひっぱり合せて、膝小僧を押包み、煮染めたような手拭てぬぐいにて、汗を拭ふき拭き畏かしこまり、手をつきて美人の顔、じっと見詰むる眼に涙。
「ああ、あ、娘もちょうどお前様の妙齢としごろで、……で……」
 と男泣き、此奴こいつ生れて最初はじめてなるべし。
 お丹はこれを見て莞爾にっことし、「泣いてくれるか、え、鉄しおらしいの、おお、よく泣く、もっと泣きな。」
 かく謂いつつ立上りて、するりと帯を解き、三枚襲がさねを颯さと脱ぎて、顎あごで押えて袖畳そでだたみ、一つに纏まとめてぽいと投出し、
「もう可いからお泣きでない。通貨なまが無いからそれを曲入まげて、人身御供ひとみごくうを下げておいで、仁三が何か言句もんくをいおう。謂ったら私の名をいいな。」薄着になりし情なさけの厚さ。
 鉄は左右無そうなく手に取らず、「飛んでもないこと姉御どうしてこれが借りられよう。罰が中あたる。」とためらえば、「何だな、お前のようでもない。」美人もまた、「どういう次第わけだか知らないけれど、折角あんなにお謂いのだから持って行くが可いよ。」
「どうも済まねえ。実はその家主の少禿すこはげががみがみいって癪しゃくに障ってしようがねえもんで、つい。」「くどいわね。何でも可いから早くしなよ。」「済まねえ済まねえ実はその。」「くどいてばさ。」
 と言放てば、「む、そんなに謂ってくんなさりゃ己おれも男だ借りやしょう。」と肩を聳そびやかし、眼まなこを据え、「この様ざまだから済なせやせん、そのかわりにゃ姉御、俺おらあ死にます。」這般しゃはんの決心十を併さば、もって一郷を動すに足るべし。

 打撲うちみ、挫くじき、整骨ほねつぎ、困る人には施行ほどこし療治いたし候。西の内二枚半に筆太に、書附けたる広告の見ゆる四辻よつつじへ、侠いなせな扮装いでたちの車夫一人、左へ曲りて鮫ヶ橋谷町の表通おもてどおり、軒並の門札かどふだを軒別に覗のぞきて、「黒瀬ぬい、と、ええ、黒瀬と、さっぱり知れねえぞ、こっちは土方職、次は車力、引越荷車仕候つかまつりそろか、お次は何だ、鋳掛屋かい、差替りまして蝙蝠傘直こうもりがさなおし、さあさあ解らねえ。ふむまた売卜乾坤堂うらないけんこうどう、天門堂とすれば可い、一番ひとつみてもらいたいくらいだ、向むこうは仕立屋、何、仕立物いたしますか、これは耳寄、仕立屋に(ぬい)が居ようも知れねえ。試ためしだ、ちょいと聞いてみよう。」 所外おもてより、「あい、御免ねえ。」
 内にて女の声、「何でございますえ。」
「ええ、少々伺いたいもんで、もし、この辺に黒瀬というのは。」「さっぱり存じませんね、裏へ廻って御聞きなさい。」「これは御世話。」
 と取って返す辻の角、茶綾子ちゃりんずの被布を召したる切髪の気高き老婦人、腕車くるまの傍かたえに彳たたずみたるが、「三吉々々。」と召したまい、「知れたか。」「どうもへい。」と天窓あたまを掻かけば、
「不可いかんのう、早くしや早くしや、小児こどもが集たかって煩悩うるさいからの。」
 と見れば貧民の童男、童女どうにょ、多人数ず老婦人の身辺にありて、物珍しげに天窓より爪先つまさきまでじろりじろり。
「餓鬼等何を見るんでえ。」と三吉眼まなこを刮むきて疾呼しっこすれば、わいわいと鯨波ときを揚げて蜘蛛くもの子の散るがごとし。
「これから裏っ手の方を探します。少々どうぞ。」とまた駈出かけだして、三吉裏手へ回れる時は、宿鴉しゅくあしきりに鳴きて鐘声交々こもごも起る、鮫ヶ橋一落の晩景うたた陰惨の趣あり。
「さて難儀なんぎだ、弱り切るぜ。ほんにさ、猫の額ほどな処で二十六間けんと尋ねたが分らねえ。あたかも芥子粒けしつぶを選分えりわけるような仕事だ。そうしてまた意地悪く幾たびでもこの総後架そうごうかに行当たるには恐れる。雪隠で詰腹つめばらを切る体ていだね、誠にはやなんとも謂われねえ臭気においだぞ、豪傑に支つかえたと見えてここらじとじとする。薄汚うすぎたねえ。」と爪立てしてひょい、「南無三なむさん、踏んだ。」と渋面造って退すさる顔へ何やらん冷ひやりとする。
「ほい、これは。」
 ずぶ濡ぬれの破褞袍やれぬのこ、蓋けだし小児の尿汁にょうじゅうを洗わずして干したるもの、悪臭鼻を抉えぐって髄ずいに徹とおる。「やれ情無い、ヘッヘッ。」と虫唾むしずを吐けば、「や、膳ぜんの上へ唾つばを吐くぞ。」と右手めてなる小屋にて喚わめく声せり。
 三吉慌てて駈出かけいだし、立停たちどまって胸を撫で、「ありゃ何だ。やっぱり人間が住んでたのか。ヘンよしてもくりゃ、憚はばかりながら、犬の小屋としか思われねえ。さてまた意地悪く一軒も燈明あかりを点つけぬぞ、夜だか昼だか一向無茶だ。」と四廻あたりをきょろきょろ、「ふむ、此家ここでもう一度尋ねてみべい。」
 倒れ懸けたる表の戸、手をもて開くるを要せず、身を斜ななめにして容易たやすく入いるに、いまだ燈火を点ぜざれば、ただこれ暗澹あんたん物色を弁ぜず。悪臭縷々るる来きたりて人を襲えり。
「ちょいと御免なさい、御免なしい。」と三吉的処あてども無しに声を懸けて、奥より人の出づるを待てば、
「誰方どなたへ。」と唐突だしぬけに打驚き、「少しものが。……」と謂えば「何だの。」と立ちたる膝の辺あたりに声するに、三吉また驚きて、
「おや、黒闇くらやみがものを言うぜ。」と反返そりかえりしも道理なり。
 鮫ヶ橋界隈かいわいの裏長屋は、人を容いるる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし。土間無く、天井無く、障子襖ふすま無く、壁一重にて隣を分ち、大戸一枚道路を隔てる、戸に接してわづかに三畳乃至ないし五六畳の一室あるのみ。三吉が膝とほぼ直角をなして(はてむずかしい形容だ、)打臥うちふしたる天窓あたまありしが、この時むくと起直りて、「団扇うちわの骨はいまだに仕上りませぬ。」と皺枯声しわがれごえ、「いえさ、ちと御聞き申したいんで。」「何、何、我おらあ、今年はもう七十五になっての、耳が疎うといに依って大きな声で謂わっしゃい。」「こりゃ大難だ。婆様ばあさんあのの。」「あいあい。」「あののお前、黒瀬ぬいという婆様を知らねえかい。」「あい、知っておりやす。したがお前様は親類みよりの人かね。」「ウンヤ、秀坊というその娘っ子のことでちと用があるんだ。」半ばは聞取得ず。「ま、待たっしゃれ今燈明を点つける。」と膝行いざり歩きて、燧火マッチか、附木か、探す様子。江戸児えどっこ焦じれ込み、「こう早く教えてくんねえ。御前様が待っていなさらあ。」
 促せたげても頓着とんじゃくせず、何とか絶えず独言ひとりごちつつ鉄葉ブリキの洋燈ランプに火屋ほや無しの裸火、赤黒き光を放つと同時に開眸かいぼう一見、三吉慄然りつぜんとして「娑婆しゃばじゃねえ。」
 今まで我にものを謂いし老婆は活いきたる骸骨がいこつなりき。ずたずたになれる筵むしろの上に、襤褸切ぼろきれ、藁屑わらくず、椀わん、皿、鉢、口無き土瓶、蓋ふた無き鍋なべ、足の無き膳ぜん、手の無き十能、一切の道具什物じゅうもつは皆塵塚ちりづかの産物なるが、点々散乱してその怪異いうべからず。古物千歳を経て霊ありというものあるいはこれか。老婆の他ほかにまた一人あり。味噌漉みそこしに襤褸を纏まといて枕とし、横様よこさまに臥して動かざるは、あたかも死したる人のごとし。
 老婆はそれを指ゆびさして、「この死人しびとがその黒瀬ぬいでござんやす。」
 三吉蒼あおくなりて、「何、死んだと?」「はいさ、お前様、昨日きのうから腹が痢くだって、正午過ひるすぎに眼を落しました、誰も葬るものがござらぬで、な、お前さん。」と突然三吉の袂たもとを掴つかみて、
「懸合かかりあいだ。始末さっせえ。」「滅相なことを謂わあ、飛んでもねえ。こう、これさ離せといえば。」「うんにゃ、離さねえ。どうでも懸合だ。」と武者振着く。
「ええ、死神のような奴、取附かれて堪たまるものか。」力に任して突飛ばせば、婆々ばばあへたばる、三吉遁にげる、出合頭であいがしらに一人の美人、(木賃宿のあの人の)宵月の影鮮麗あざやかなり。
 擦違うて三吉、「や。」と立停たちどまるを、美人は知らずに行過ぎて、件くだんの老婆の家に入れば、何思いけん後をつけて、三吉は戸外おもてに潜ひそみぬ。
「ちょいとお婆様ばあさん、あの病人はどうしたえ。」と美人が見舞う、その声音こわねに耳を澄して、「いよいよそれじゃ。」と三吉四辻へ引返せば、老婦人は待飽倦まちあぐみ、亭として佇たたずみつつ手にせる蝙蝠傘こうもりがさを打掉うちふるごとに、はっと散りてはまた集る、飯に寄る蠅、群る小児、持余してぞ居られける。
「三吉。どうしたものじゃ余り遅いの。」と御機嫌好よからず。三吉頻しきりに天窓あたまを掻かきて「へい、どうもお待遠様、誠に相済みません、しかし、御前様やっとのことで知れました。」「ああ、解ったと申すか。」「へい。ところでその、黒瀬という婆々ばばあはもう死歿なくなりました。」「えほんとうに?」「まったくでございます。」「そんなら用は無い、もう帰邸かえるとしようの。」「ま、お待ち遊ばせ。」と三吉は得々として、「大変なものを見附けました。もし、御前様、光子様を。」
 いう事いまだ終らず、老婦人は顔色がんしょく動き、「何といやる。」車夫ますます得々として、「えい、奥様を見付けたのでございます。方々探して知れなかったも道理、こんな処に隠れていらっしゃるんだもの、今日の御足おみあしは徒むだにはなりませなんだ。いかが計はからいましょう。」 老婦人はしばし沈吟ちんぎんして、「可よし、すぐに引摺ひきずって来い、連れて帰る。」「いえ、森に居る鳥は、籠かごの中に居るように手軽くは押おさえられませぬ。少し手間が取れますがお待ち遊ばしますか。」
 老婦人は空を仰ぎ、「日和癖ひよりくせじゃ、また曇った。」
「降りませんうちに、じゃあこうなさいまし、そこらで車夫を呼んで参りますから、御前様は一足お先へ、私はお後から奥様を引張ひっぱって帰ります。」
「よきように計え。」
 とあれば、三吉走行きて屈竟くっきょうの壮佼わかものを雇来やといきたり、
「若衆わかいしゅ、駿河台するがだいだよ、可いか、頼んだぞ、さあお召し。」
 老夫人は蹴込けこみへ片足、「脱心ぬかるまいぞ。」
 三吉は腕を叩きて、「確たしかに、請合いました。」「よくせい。」とひらりと召す。梶棒かじぼうを挙げて一町ばかり馳出はせいだせる前面むかいより、颯さと駈来かけきたる一頭の犬あり。わんと吼ほゆるを除よけて通る、腕車くるまと行違い遣過やりすごして、立停たちどまるはお丹なり。
 鼠縮緬ねずみちりめんの頭巾の裡うちより、冷ひややかなる瞳を放ちて「フウ、駿河台の猫股婆ねこまたばば、縄張中うちへ踏込んだな。」
 お丹かく呟つぶやくや否や、鼬いたちのごとく道を走り、跡を追い、辻車に飛乗って、呆るる客待の車夫の手に帯の間より財布を投付け、
「何でも可い、その、あの腕車くるま、早く追越せ。」

「なに、目を落したとえ、それはまあ。」と三吉が見て奥様と称となえし美人。汚き畳へ駈上かけあがれば、
「うむ。」と腰を伸のばして老婆は起き、「やれ、汚穢むそうござります。」藁屑わらくずを掻寄かきよせて一処ひとつに集め、
「せめてこの上へ、貴女あなた、御衣服おめしものが台無しでや。」
 槌つちで庭掃く追従ついしょうならで、手をもて畳を掃くは真実まこと。美人は新仏しんぼとけの身辺に坐りて、死顔を恐怖こわごわ覗のぞき、
「可哀相なことをしたねえ。今朝私が薬を飲ましに来た時の容体ではまだこんな急なこともあるまいと思っていたに。お婆様ばあさんなぜ取返しのならぬことをしてくれたえ。しばらくでも介抱した私やほんとに名残なごりが惜おしい。」と愁然しゅうぜんとして襦袢じゅばんの袖、御目おんめを赤く染そめたまえば、老婆も貰泣もらいなきする処へ、三吉会釈も無くずッと入り、
「奥様、御迎いッ。」
「ええ。」と美人は顧みて、「あれ。」と身を震わし、おがみ手をしかと合せて、「こうだから、よ、よ、三吉。」とおろおろ声、蛇に狙ねらわるる蛙のごとし。
「いいえ、不可いけません。御前様のおっしゃりつけです。どうしても御連れ申します。」「そうはいわずに見遁みのがしておくれ、頼むわねえ。」「なりません素直になさらなきゃあ、是非が無ねえ、お気の毒だが手籠てごめにする。」
 と手に唾つばして躍りかかれば、「あれ、後生だから後生だから。」
 謂いつつ燈ともしをふっと消す、後は真暗まっくら、美人は褄つまを引合せて身を擦抜けんと透すきを窺うかがい、三吉は捕えんと大手を広げておよび腰、老婆は抜かして四よつン這ばい、いずれも黙だんまり。三吉やがて呼吸を計り、ここぞと飛附き空くうを抱いだき、はずみ抜けして膝を折り、老婆の背せなに両手をつけば、べったりと潰つぶれてうむと呻うめくを、例の死骸と思うにぞ三吉は胆きもを冷ひやして、「ひゃあ死人に魔が魅さした。」
 と飛退とびのく隙ひまに雀の子は、荒鷲あらわしの翼つばさを潜くぐりて土間へ飛下り素足のまま、一散に遁出にげいだすを、遁のがさじと追縋おいすがり、裏手の空地の中央なかばにて、暗夜やみにも著しるき玉の顔かんばせ、目的めあてに三吉衝つと寄りて曳戻ひきもどすを振切らんと、美人したたか身を急あせれば、髷まげ崩れ、装なり乱れ、帯はするする、裳もすそははらはら、いとしどけなくなれるに恥じて、はや一歩ひとあしも移し得ず、肩をすぼめて地にひれふし、活いきたる心地更に無し。
 三吉は左手ゆんでを伸べて白き頸うなじを掻掴かいつかみ、「ええ、しぶとい、さあ立て、立たねえとこうするぞ。」と高く翳かざせる右手めての拳こぶしを、暗中よりしっかと扼やくして、抑留おさえとめたる健腕あり。
 拳は宙に立ちたるまま上へも下へも動かばこそ、三吉ぎょっとして、「や、汝うぬは。」「天狗てんぐだ。」と呵々からからと笑い、「二才めばたばたすると二つに裂くぞ。」
 かく謂うは誰たぞ、飲鬼窟がきくつの健児、老いたる屠犬児いぬころし弥陀平なり。

 駿河台の老婦人は、あわれ玉の輿こしに乗らせたまうべき御身分なるに、腕車くるまに一人乗のりの軽々かろがろしさ、これを節倹しまつゆえと思うは非なり。
 仰々しく馬車を走らして往来を妨げんは、老人の娑婆塞しゃばふさげと後指うしろゆび指されんも憂たてし、髪切払いて仏に仕うる身の徒歩歩かちあるきこそ相応ふさわしけれ、つまりは腕車も不用なれど、家名に対してそうもならねば、止やむことを得ず三吉の健脚を労するだに心苦しく思おぼすとなむ。
 読者御存じの都合ありて、間に合せの車夫に腕車を曳ひかせ、今や鮫ヶ橋より帰館の途次、四ツ谷見附に出でて、お堀端を走ること十間ばかり、ふと顕あらわれたる中年増ちゅうどしま、行違いざま、慌あわただしく「あれ若い衆しゅ様さん、心棒が抜けてるよ。」車夫は仰天して立停たちどまりぬ。「ああ危い。」と年増は溜息ためいき。
「どうも姉様ねえさん難有ありがとう。」車夫は輪軸を検せんとて梶棒を下すを暗号あいずに、おでん燗酒かんざけ、茄小豆ゆであずき、大福餅の屋台店みせに、先刻さきより埋伏まいふくして待懸けたる、車夫、日雇取ひようとり、立ン坊、七八人、礫つぶてのごとくばらりと出で、腕車の周囲めぐりを押取巻おっとりまく。
「や、や、狼藉ろうぜき。」と驚きたまう老婦人の両の御手おんてを左右より扼とりしばりて勿体無くも引下ろせば、一人は背後うしろより抱竦だきすくめ、他は塩ッ辛き手拭を口に捻込ねじこみ猿轡さるぐつわ。老婦人を載せたる車夫は不意の出来事に呆れて立ちしが、手籠てごめに逢わるるを見るに忍びず、「やい此奴こいつ等、何をしやがるんでえ。」と客贔屓びいき。
「若い衆! 大目に見ておくれ、この御客は私が買うよ。」
 と年増は紙幣さつを取出とりいだして二三枚握らすれば、車夫はにわかに笑顔になり、「ちと、もし、御手伝を致しましょう。」現金な野郎なり。「それ、これで。」と年増が解きて投与うる扱帯しごきにて老婦人の眼をぐるぐる巻にし、仰向あおむけに突転ばして、「姉御、荷造が出来た。」といえば、
「引担ひっかつげ。」「おっと合点。」
 軽かろやかに肩に懸け、「ほい、水気が無ねえから素敵に軽い。」「まるで苧殻おがらだ、」「お精霊様の、おむかえおむかえ。」とつッぱしる。
 これ皆お丹がなせる業わざなり。
 狼藉者の一隊はさすがに警官を憚はばかりて、大坂を下りんとする交番の此方こなたに猶予ためらいぬ。「それ目潰めつぶし。」とお丹の指揮さしずに手空てあきの奴等、一足先に駈出かけいだして、派出所の前にずらりと並び、臆面おくめんもなく一斉に尾籠びろうの振舞、さはせぬ奴は背後うしろより手を拍たたきて、「鳴るは滝の水。」と囃はやし立つる前代未聞の悪戯いたずらに、巡査何とて黙すべき。「こらっ――」
 見張員と休息員と無頼漢等を引挟ひっぱさんで、片手に一人ずつ引掴ひッつかめば、洩もれたる者も逃げんとはせず。
「へん他人ひとの家うちへ垂込みやしめえし、何のこれ往来だ。」「田圃たんぼにしてみや肥料こやしになるぜ。」
 としらふで冷罵おひゃれば、巡査は全身の怒気いかり頭上に上りて、「無礼者め。」ともう血眼ちまなこ、二ツ三ツ撲なぐりつける。
「ヤ撲ぶったな。ああ、痛え。」「おお、痛え。済まねえやい、木や土で造こせえた木偶にんぎょうじゃねえ。」「血のある人間だ、さあどうする。」とくってかかる混雑紛れ、お丹等老婦人を見咎みとがめられず、やすやすと通抜けたり。

「はてな、地獄の戸が開あいた。」
 車夫三吉を取挫とりひしぎて、美人を労いたわりたる屠犬児いぬころしは、訝いぶかしげに傾聴せり。
 渠かれが立てる処より間遥はるかに隔りたる建物の戸を開閉あけたてする音なるが、一種特別の響ひびきあれば、闇夜やみにも屠犬児は識別せるなり。
「誰だ誰だ。」と呼ばわれば、答は無く、ややありて二人三人みたりの跫音あしおとの小刻こきざみに近付きつ、「私だよ。」というはお丹の声、「おやどうしなすった。」お丹は闇中くらがりを透すかし見て、「談話はなしの邪魔がいるようだね。」「いえ、こりゃお姫様ひいさま。」「光子様は分ってる、まだ一人いやしないか。」「ほい梟ふくろうのようだ。居おりますよ。」「誰だい。」「これはね、駿河台のそれ猫股婆の車夫なんで、私が折よく乗合わせなかろうもんなら、光子様を手籠てごめにして連れて行く処でごぜえましたぜ。」「だから私が貴女あなたに外へ御出掛けなさいますなと申すのに、とうとう見付られておしまいなすった。」光子は「堪忍しておくれ。」と侘わびしげにいう。
「まあ、可ようございます。ちょっと、其奴そいつを縛っちまいな。」「ちゃんと可いように拵こせえてありやす。」「そりゃ早い手廻てまわしだね、ではね、お前。」と後うしろに控えし壮佼わかものを見返りて、「どこかへ明日まで封じておきな。」「あいあい親方請取ろうか。」「そら渡すぞ。」と屠犬児が片手で突けば、飛んで来る、三吉を引抱ひんだきて、壮佼わかものは闇夜やみに消えぬ。
「貴女あなた御心配には及びません。ここにお置き申すも今夜っきり、明日は立派に駿河台の若殿様にお逢わせ申す。」「ほんとうかい。」「何、嘘をいいますものか。」「嬉しいねえ。」と光子はいそいそ。
「そのかわり、今夜の中うちにどんな恐しい事がありましょうとも眼を塞ふさいで我慢なさい、過日いつかお茶の水で身を投げて死のうとなすった、その気でね。」と意味ありげに言含め、「そこでの、黒瀬の婆様ばあさんを葬ってやろうと思って用意をしたお棺はね、ちと道具に使用処つかひどころがある、後でここへ持たしてお寄来よこし。」 屠犬児は怪あやしみて、「それじゃ死体はどうなさいます。」「あれはね、筵むしろに包んで担ぎ出して、番町の小浜という邸やしきへ行って、玄関見附に大きな松の木があるから好よさそうな枝を見繕って、ぶら下げて来るように、権と八に一役おつけ。」「はて怪けしからねえ。何のためだね。」「ちと思わくのあることさ。光子様さんは私と一所に、地獄で妙な人に逢わせるよ。」

 先刻さきに兇徒きょうとの手籠てごめに逢いしは、黄昏たそがれの頃なりき。されば早や夜ならむ、居おる処は、天か、地か、はたまた土蔵か、穴蔵か、眼は開きたれども一物いちぶつを弁ぜず、闇くらきことあたかも盲せるごとくなるに、老婦人はただ自失せり。
 されど心豪ごうにして気韻高き性さがなれば、はしたなく声を立てず、顛倒てんどうして座を乱さず、端然としていたまえり。
 まことや既に仏果を得て、勇猛精近の行おこない堅固に、信心不退転の行者なれば、爾しかき黒暗闇こくあんあんの裡うちに処しても真如しんにょの鏡に心を照てらせば、胸間霽はれたる月のごとく、松の声せず鏡の音無きも結句静処を得たりと観じ、寂寞せきばくとして水晶の数珠爪繰つまぐりて泰然たり。
 ややありて戸の外に物凄ものすごき婦人おんなの声して、
「駿河台の御隠居様、貴女あなたは御嫁女およめごの光子様を余り非道に遊ばしたゆえ、地獄へ御連れ申しました。ここをどこだと御思い遊ばす。」
 言下ごんかに老婦人は色を作なしぬ。
 婦人の声は後うしろに廻り右よりまた左より、同一言を繰返せり。それより寂せきとして天地に声無し。
 すべての人、光明に逢えば眼に愉快を感じ、闇中にある時は心に苦痛を見る。もしそれ老婦人をしてかくてあることを久しからしめば、終ついに必ず狂せむ。不意に音あり、戸は開きぬ。同時に照射入さしいる燈火の影に乱髪、敝衣へいいの醜面漢、棍棒こんぼうを手にして面前に来きたれり。
 老婦人は見ざるがごとく、秋毫しゅうごうも騒げる色無し。渠かれはあえて害を加えんとはせで、燈火をそこに差置きたるまま、身を飜ひるがえして戸外に去りぬ。
 と見れば、四方は荒壁なる五坪ばかりの土間の中に筵むしろの上に載せられたるものあり。
 つい眼の前には板戸のごとき大肉俎おおまないたの据すえられしに、犢こうし大の犬の死体四足しそくを縮めて横よこたわれるを、いまだ全く裂尽さけつくさで、切開きたる脇腹より五臓六腑溢出あふれいで、血は一面に四辺あたりを染めたり。ここかしこに犬の首、猫の面つら、手とも謂わず足とも謂わず切断して棄てたるが、三々五々相交あいまじわる。
 また四斗樽しとだる三箇を備えて、血と臓物を貯えしが、皆ことごとく腐敗して悪臭生温なまぬるく呼吸を圧し、敷きたる筵は湿気に濡れ、じとじとと濡うるおいたり。
 地に転まろびたる犬の首は、歯露あらわれ舌を吐き、串に刺したる猫の面は、眼まなこを閉ふさがず髯ひげ動く。渠等かれらが妄執瞑めいせず、帰せず、陰々たる燈火に映じて動出うごきいださんばかりなる、ここ屠犬児の働場はたらきばにして、地獄は目前の庖廚ほうちゅうたり。
 眼のごとく髪のごとく口のごとく頬のごとく一切その人の姿のごとき猫股婆もぎょっとして、色を失い、身を震わし、固く結べる唇より一語ようやく黙を破れり。
 渠は呟つぶやきぬ、「浅ましや。」
 とたんに外面そともに女の声して呵々からからと打笑いぬ。

 試こころみに問う、天下の人いかに、外に忠実なる僕しもべのごときは、内に暴戻ばうれいなる旦那なり。出いでては仁慈優愛なるもの、入いっては残忍酷薄こくはくにて、隣家となりの娘に深切なるもの、己おのが細君には軽薄なり。我子の嫁には鬼のごときも、他人の妻には仏のごとく、動物憐護を説く舌は、かえって奴婢ぬひを叱責しっせきせずや。乞食に米銭を擲なげうつ仁者じんしゃ、悩める親に滋味を供せず。芸者に粋すいな御客人、至って野暮な御亭主なり。弟子に経綸けいりんを教うる人、家庭の教育整い難し。友の棺ひつぎを送るもの、親類の不幸を弔わず、役所に出でては尻尾を振り、宅へ帰れば頭を振る。なお金銭におけるごとく、+《プラス》-《マイナス》出入でいりの相違は天地懸隔けんかく、月鼈げつべつ雲泥うんでい、駿河台の老婦人もまたこの般の人なりき。 外部より刺戟しげきを与えて、内心の悔悟をうながせしお丹は時分を見計いて、老婦人の前に出いで相対して座を占めぬ。
「お初に御目に懸かかります。」
 老婦人はものをも言わず威儀を整え儼然げんぜんたり。お丹はおもむろに説出ときいだしぬ。「今晩は、貴女あなたの御威勢にも憚はばかりませずとんだ失礼をいたしました。しかし止やむことを得ません次第、まあ御聞き下さいまし。実は先々月の中旬なかごろでござりました、夜更よふけにお茶の水橋を通りまして、品格ひんの好いい、美麗うつくしい、お年紀としの若い御婦人が身を投げようと遊ばす処を危あやうくお止め申したのが、もし、御隠居様、貴女の御邸の光子様でございます。とかように申せば、なぜあの方が死のうとなすったかは貴女のお胸にございましょう。私も驚きました、御慈悲深い、お情深い、殊に仏学をお修めなすって、道徳抜群という風説うわさの高い貴女のお嫁御があんなに薄命でお在いでなさろうとは、はい、夢にも思いはしませんでした。」
 と屹きっと老婦人の面おもてを見たる瞳は閃然せんぜんとして星のごとく、渠かれは太いたく愁色しゅうしょくありき。恐怖の色も顕あらわれながら、黙して一言ひとことも応答いらえをなさず。
 お丹はまた語を続けぬ、「しかし死のうとなさったまでには、大抵のお酷いじめようではございますまい、よっぽど御骨折でございましたろうねえ。」
 罵殺ばさつ一番、老婦人は強いて平気を装いつ、毫ごうも屈する状かたち無し。
 お丹は冷ひややかなる微笑えみを含みて、「私も初はじめのうちは御実家おさとへお戻りのあるように、勧めてはみましたけれど、あなた方の重い御身分では、姑御しゅうとめごが邪慳じゃけんだからって、ついちょいと軽々しく、産うみの親御に顔は合わされぬとおっしゃるので、ま、ただいままで私が大切だいじにおかくまい申しました。」
 ちょいと句切って睨ねめッ競くら、双方しばらく無言なり。
 急に声を励まして、「そんなにお憎にくしみの光子様をなぜまた連戻そうとなさいますね。馬車で公然と御迎えになりますれば、私は喜んであの方をお渡し申します。車夫に手籠てごめにさせようなんて飛んでもないことを遊ばす処では連れて帰ってまた虐いじめようという御思慮おかんがえとしか思われません。それは貴女虫が好よ過ぎると申すんです。及ばずながら私が光子様をお庇かばい申せば、夜叉やしゃ、羅刹らせつを駆かり集めて、あなた方と喧嘩けんかをしてなりと毛頭御渡し申しませんが、事を好んでするではなし。ナニ、お望のぞみならば差上げましょう。その代りただでは不可いけません、邪慳な姑をさらりと罷やめて、慈愛な母親になってやる、と私の前で御誓い下さい。」
 渠は依然として黙を修しゅせり。
 お丹は詰寄りて、「さもなければ質として、御手の御数珠を私が預あずかりましょう、どっちか一つ御返事なさい。貴女、まあどうでございます。」と咄々とつとつ人に迫り来きたる。
 ここに到りて老婦人はもはや黙することを得ず、凜りんたるさりながらやや震ふるいを帯びたる声にてはじめて一言、「華族じゃぞ。」
 老婦人はこれより前さき、惨絶残尽さんぜつざんじんなる一場じょうの光景を見たりし刹那せつな、心挫くじけ、気阻はばみて、おのがかつて光子を虐待ぎゃくたいせしことの非なるを知りぬ。なお且つ慙愧ざんき後悔して孝順なる新婦を愛恋の念起りしなり。されど剛愎ごうふく我慢なるその性さがとして今かく虜とりこの辱はずかしめを受け、賤婦せんぷの虐迫に屈従して城下の盟ちかいを潔しとせず、断然華族の位置を守りてお丹の要求を却しりぞけたるなり。「御承知下さいませんか、どちらもいけませんか。」
 老婦人は屹きっとして「華族じゃぞ。」
「何なんでございます。」
 老婦人は始終一徹、
「華族じゃぞ。」平民にものはいわずとまた黙せり。
 お丹少しく怒いかりを帯びて、戸外おもてに向い、「こう一件を連れて入へえんな。」
 ややありて黒く痩やせたる小男と、青く肥ふとりたる大男と、両々光子を挟さしはさみて、引立々々入来いりきたれり。
「そこへ。」とお丹が座を示せば、老婦人の前に光子を押据え、牛頭馬頭ごずめず左右に屹立きつりつせり。
 光子は涙浮びたる眼を開きて、わずかに老婦人を瞥見べっけんせるのみ、打戦うちおののきて手足を竦すくめ、前髪こぼれて地に敷くまで、首こうべを垂れて俯向うつむきぬ。
 老婦人は顔をも背けず正面に光子を瞰下みおろしいよいよますます傲然たり。
 お丹は小刻こきざみに座を進め、「サ、犠牲いけにえに捧げます。お打ち遊ばせ、お抓つめり遊ばせ、この頃ようようなくなりましたこのお身体からだに生疵なまきずをまたいくらでもお付けなさい。どんなにでもお責めなさいな。ちっとも故障は申しません。そのかわりに、お邸へ連れてお帰りになりますからは、若殿様と御両人おふたりを快く添わしてあげて、これまでのような非道なことは忘れてもなさらぬように、それとも不縁に遊ばすなら、光子様に自由を与えて、決して干渉をなさらぬように、お憎みのありったけ、今晩いじめ切っておしまいなさい。お動きなすって御成敗がなさり悪にくくば、縛りましょう、釣上げましょう、さあさあ、どうとも御望み次第。」
 と胴を据えたる詰問つめひらき、老婦人は死灰のごとし。
 お丹焦じれて、「何もそんなに尋常ぶって、御辞退にも及びますまい。餓ひもじい腹なら食べるが可いいのさ。」
 老婦人は奥歯を噛切かみしめ、御気色みけしき荒く、「華族じゃぞ。」「華族がどうした。」「華族じゃぞ。」「フム解りました。料理の塩梅あんばいが悪いから、華族様のお口には合あわぬとおっしゃるのでございましょ。これは実まことに私が粗相。どう、そんなら汁に加減をしようか。鉄、熊、押えろ、動かすな。」
 声に応じて牛頭馬頭は光子を仰様のけざまに引倒し、一人が両手、一人が両足、取って押えて動かさず。「ああれ。」光子は虫の声。
 老婦人は心の内、「華族じゃぞ。」
 お丹はひしと光子の胸に片膝乗懸け、笞しもとを挙げて打たんとしつ、老婦人を睨殺げいさつして、「留めはすまいね。」
 無言。
 力を籠こめて、「留めはすまいね。」
 老婦人は蒼あおくなりて、「華族じゃぞ。」
 かくまでしたらば我がを折らんとかねてより思いしには似で、飽くまで老婦人の剛情なるに、後へ退ひかれぬ羽目になり、止やむことを得ず手を下おろしつ。お丹がその時の心中いかに。
 光子は苦悶くもんして悲鳴を揚げ、右に左に枕を代えて、長き黒髪地を掃きしが、最後の一撃は手元狂いて打処うちどころや悪あしかりけむ、うむとのけぞりて渠かれは絶せり。
「ほい。」「これは。」と二人は吃驚びっくり。
 お丹は脈を伺いて、「ああ失策しまった。」と叫びしが、気を変えて冷笑あざわらい、「おい婆様ばあさん、お前の口に合うように料理をしたばかりに、とうとうこの嬢こを殺したよ。」
 といいつつ震えている二人を顧み、「あのう、押入に繋つないだ車夫くるまやを出してやんな。おい婆様ばあさん。」
 老婦人を後目しりめに懸け、「もう用はこれなし、帰けえしてやる。」

 駿河台のお邸にては、夜よに入いりても御前様の御帰館無きより、心当こころあたりを問合せ、御親類中へ使者を向くるに、いずくにも見えさせたまわず、皆目御立寄おたちよりこれなきよし。
 さては珍事じゃ大変じゃと、邸内一統煤掃すすはきという見得で騒出さわぎだし、家令はまず何はともあれ、警察へ届けて出る。御奥の老女は御神籤おみくじを下おろしに行ゆく。 主しゅう思おもいのお婢はしたはお稲荷様いなりさまへお百度を踏みにと飛出して、裏町へ回り焼芋を二銭買い、袂たもとへ納いれて御堂みどうに赴き、お百度をいいまえに歩行あるきながらそれをむしゃむしゃ、またと得難き忠臣なり。
 家扶は探検使として差向けらる、書生二人を引従ひきしたがえ、御前様のお出先は、何しろ四谷、最寄もより近所は草を分けても穿鑿せんさくせんと、杖ステッキを携え、仕込杖しこみづえを脇挟み、さも事々しく打立ちてお茶の水を渡ると家扶の武智「敵は本能寺じゃ、続き召され。」と芳原さしてどろんとなる。
 府下の処々ところどころより旧藩士の面々が御家の大事と早車にて乗附くる。御出入おでいりの商人、職人、盆栽のお見出しに預りたる植木屋までが、驚破すわ鎌倉と馳はせ参じ、玄関狭しと詰懸け詰懸け、夜よ一夜ひとよ眠らで明くる頃、門内へ引込みたる母衣懸ほろがけの人力車、彼はと見れば、こりゃどうじゃ。
「御帰館おかえり――」と叫ぶにつれ、老婦人衝つと出いでて、式台に成らせたまえば、一同眼の覚めたる心地して、万歳を哄どっと唱え、左右にずらりと平伏するを、見向みむきもせで、足疾あしばやに仏室ぶつまの内、隔へだての障子を閉切りたまいぬ。
「はて、面妖めんような。只事ただごとでない。」と家令を先に敷居越し、恐る恐る襖ふすまを開きて、御容顔を見奉れば、徹夜の御目おんめ落窪おちくぼみて、御衣服おめしものは泥まぶれ、激しき御怒おいかりの気色顕あらわれたり。
「はッ恐れながら。」と冒頭まえおきして、さて御機嫌を伺えば、枯れたる声を絞らせたまい、「退さがりや、退りや。」と取っても附けず。
 家令は少しくにじり出で、畳を額に埋うずみながら、「これは仰おおせとも覚えませぬ。一晩御帰邸相成りませぬで一統の者の心痛いかばかり、まずは御安泰にて恐悦に存じまする。さりながら御顔の色も尋常ただならず、一同安心のなりまするよう、仔細しさい御申聞おんもおしきけのほどを、はッはッ。」とさようしからばで言上するのを、老婦人は皆まで聞かず、「退りやと申すに。」「はッ御意に逆いまするか、しからば是非に及びませぬ。」と家令は居直り、「御目通おめどおり叶かなわぬ遠慮さっしゃい。」と郷右衛門めかしておおせを伝え、直ちに御前を退散して、御供の車夫に様子をたたけば、三吉がらてきという鬱ふさいだ顔色、ほっとせし気味にて長歎息ためいき吐つき、「何だってお前様まえさん、滅茶苦茶に真闇まっくらだあ、どうも人間業わざじゃねえぜ。己おらあ恐怖おっかなかったのなんのって、お前様対手むこうが天狗だと名告なのるから堪たまるめえじゃねえか、いまだに震ふるいが留まらねえや。」とがたがた胴震、「ね、この通りだ。全体己おらあ呼吸いきがあるのかよく見てくんねえ。生きていようか、ねえ、おい。」
 と他愛たわいの無きこといい寝入に前後も知らず早や鼾いびき。仔細は更に解らねども怪我も無ければまず安心と、上下一呼吸ひといき吐つく間もあらせず、眼まなこ鋭く、頬ほお瘠やせて髯ひげ蓬々ぼうぼうと口を蔽おおい、髪は蓬おどろと乱懸みだれかかりて、手足の水腫みずぶくれに蒼味を帯びたる同一おなじような貧民一群、いまだ新らしき棺桶かんおけを、よいしょと背負込しょいこみ、門の内に入いると斉ひとしく、一人が巻持てる紙旗を颯さと開けば、(塚町光子様御遺骸ごいがい)と墨黒に書きたるを、真先まっさきに押立てて、憚はばかる色なく、玄関に横附にして異口同音、「頼む、頼む。」「どうれ。」と出て来た取次はこの体ていを見て呆果あきれはて、ただもう「えッ。」と謂いいたるのみ、蛙のごとく眼をぱちくり。「何でも可いい。」「隠居殿が御承知だ。」「鮫ヶ橋から奥様の死骸を届けに来たのだ。」「ぐずぐずせずに取次げやい。」と口々に呼ばわれば、「何だ何だ騒々しい。」と書生二人飛んで出いでしが、あまりのことに辟易へきえきして、茫然ぼうぜんと見物せり。
「ええ華族様は気の長いもんだ。」「素直に待ってちゃあ埒らちが明かねえ。」「蹈込ふんごめ。」と土足のまま無体に推込おしこむ、座敷の入口、家令と家扶は襷たすきを綾取あやどり、袴はかまの股立ももだち掻取かいとりて、大手を広げて立塞たちふさがり、「汝うぬ、昼盗賊ひるどろぼう狼藉者ろうぜきもの。」「さあ一足でも入るが最後、手は見せぬぞ。」
 と叱附しかりつくるを耳にも懸けず、口を揃え、
「やいやい隠居はどこへ隠れた、昨夜ゆうべの死骸を持って来たぞ。受取れ受取れ。」と呼ぶ声、隅から隅まで鳴渡る。
 家令家扶堪えかね、目配めくばせして、「山本、熊田、其奴そやつ等撲たたけ。」と昔取りたる杵柄きねづかにて柔術やわらも少々心得たれば、や、と附入りて、えい、といいさま、一人を担いで見事に投げる。
 これに気を得て勇いさみをなし、二人の書生は腕を叩き拳こぶしを揮ふるうて躍懸おどりかかれば、撲うたれぬ前さきに、「あ痛いつ、」「お痛いて。」と皆ばたばた。
 算を乱して仰向あおむけにどたりと倒れ、畳を蹴立けたて、障子を揺ゆすぶり、さア殺せ、苦くるしいわい、切ないわい、死ぬぞ、のたるぞ、と泣喚なきわめくに、手の附けようもあらざれば、持余したる折こそあれ、奥にて呼ぶ声、叫ぶ声、廊下をとどろと走る音、襖ふすまの開閉あけたて騒がしく、屋根を転覆かえした混雑に、あれはと驚く家令の前へ、腰元一人転こけつ、まろびつ、蒼くなりて走り出いで、いきせき奥を指さして、
「大た、大た、大変です。もし、御前様が御自害じゃ。」
「あ!」と家令は腰を抜かす。
 疫病神どもこれを聞くより、そら遁にげろと、跳起はねおきて、棺は棄置き、雲を霞。
 鮫ヶ橋に馳はせ戻りて、一部始終を告げ知らせばお丹、「ふむ。」といったきり。しばらくものも謂わざりしが、やがて歎息して、「ああ、遣過ぎた。あの婆様ばあさんもさすがだの、わざと私が殺してみせて、活いかして光子様さんを棺に入れて駿河台へやったのは、隠居がいくら強情でも、柔順すなおに宅うちへ入れるであろうと思った思案は浅かったよ。その身に懸かかったことからして、あの婆様が死んでみりゃ、可哀そうに光子様はあれっきり……チョッ惜おしいことを。」

 光子は尼になりきという。

 麹町の華族、小浜正道氏の門内に、ひたと犬の鳴きたる夜よあり。番人幾たびも見巡まわりしが、何事も無くて夜は明けぬ。
 門長屋の兵六老爺ひょうろくおやじ、大手を開けに朝疾とく起出でて、眼と鼻を摩こすりながら、御家の万代よろずよを表して、千歳ちとせの翠みどり濃こまやかなる老松おいまつの下を通りかかれば、朝霜解けた枝より、ぽたり。
 兵六震い上りて、「おお、冷つめてえ。老人としよりに冷水ひやみず、堪たまったもんじゃねえ。」と呟つぶやきつつ、打仰ぎて一目見るより、ひええ! と反そって飛退とびすさり、下駄を脱ぎて、手に持ちはしたれども、腰の骨の蝶番ちょうつがいがっくり弛ゆるみてただの一足も歩かれず、くしゃりと土下座して、へたへたになり、衣服きものをすっぽりと引被ひきかぶりて、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。 門外に靴音して、朝巡回あさまわりの巡査、松の木の縊死いしを認めて、戸を叩き、「開門、開門。」
 と音訪おとなう処へ、新聞配達、牛乳配達、往来を掃きに出でたる向むかいの親仁おやじ、隣の小僧、これを見付けて寄集り、「なるほどこれじゃ、道理で恐しく犬が吠えた。」
「もし、こりゃやっぱり喰詰めたのでございましょうね。」
「さればさ、年寄だからどの道色気ではねえて。」と、くだらぬ下馬評。
「貴下あなた、この邸はいつでも晩おそく戸を開けますか。」と巡査は問う。「いいえ、旦那、兵六という門番が名代なだいの疾起はやおきなんで、今朝はどうしたというのでしょう。」
「何でも敲たたくが可いい。」とんとん。老爺おやじは念仏三昧ねんぶつさんまい。
「どうでもしてくれ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」とんとん、「勝手にしろさ、毀こわさば毀せだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」がんがんがん、「そりゃ、えらくなって来た。この腰が立つか立たぬか。もうこうなったら根競こんくらべだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
 外には焦じれて二三人一同に、どしんどしんどしん。兵六老爺胆きもを据えてびくともせず。いよいよ烈はげしく敲立たたきたつるに、玄関をがらりと開けて、執事の日下部くさかべ、「門番の衆、門番の衆、開門。」と呼立つる。
「これは大変奥と表で挟討はさみうちだ。そりゃ可いいが天窓あたまの上にござるぶらんこがどうもはや、今朝は我おらが一生の厄難だ。殺さば殺せさ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
 呼べど叫べど答ざれば、「老爺おやじめ、また疝気せんきでも起しおったな。」走出でて門を開けばはや往来には人の山、津浪のごとく流込むに、「こりゃ何事じゃ。」と執事はきょろきょろ。「貴下あなたはお邸の方かな。松の木に縊死くびくくりがあるで。」と巡査に謂いわれてまた驚き、婆々ばばあの死骸を見て三度吃驚びっくり「やれ首を縊くくった、松の木が。」と慌あわただしく触込んだり。
「凶事がある前兆しらせじゃよ、昨夜ゆうべは夢見が悪かった。早速護摩ごまでも焚たかせねばお邸から縊死くびくくりを出してどうするものじゃ。」と令夫人おくさまは大きに担ぐ。殿様のごときは黒くなりて、「一度あることは二度というぞ。あの松の木今の間に伐きり倒せ。」と苛立いらだちたまう。
 照子は腰元を召して、「門内に変死があるというね。どんな様子だかお前行って見ておくれ。」次第によらば、枯骨ここつを拾わん思召おぼしめし、慈善家は違ったものなり。
 腰元やがて復命すらく、「乞食より汚穢きたない婆々ばばあです、さうして塩茄子しおなすびのように干乾ひからびておりますよ。おお、胸の悪い、私が今参りました時は死骸の懐中を検しらべておりました。もし、姫様ひいさま書附がございましてね、町所ちょうどころが、ああ何とやら、皆みんなが申しましたっけ。何でも鮫ヶ橋の者だそうで、名が……そうそう黒瀬ぬい。」「黒瀬ぬい――私は聞いたような。」としばらく考え、「あのそれじゃ。」と顔真蒼まっさお。
「おや、御存じ。」と腰元に顔を見られて少しく狼狽うろたえ、「直ぐ出懸けるよ。」とふいと立つ。「どちらへ。」「深川様のお邸まで。」「それではお召替遊ばしまし。」「なに、これで可い。」と紫地の行燈袴あんどんばかま、学校行の扮装いでたちそのまま。
 もはや時刻と例のごとく、車夫は玄関に待懸けたり。照子はわくせく気を急あせらし、腰元附添い駈出かけいでて、永田町へ……
「御急ぎッ。――」

 門内の群集を分けて車上の照子は、老婆の死骸に面おもてを背けつ、それより深川家の式台まで矢を射るごとく乗附けて、かねて別懇のなかといい、殊に心の急せきたれば、案内も謂こわで夫人の居間。
「夫人あなた、今日は。」と立ちながらまず挨拶あいさつ。
 綾子はぞろりと外出そとでの装なり、繻珍しゅちんの丸帯を今〆しめて、姿見に向いたるが、帯留の黄金きん金具をぱちんと懸けつつ振返りて、「おや、照子様さん。飛んだ事ですねえ。」と先せんを取られて謂いいそそくれ、「え。」と照子は希有けぶな顔色かおつき。
「私も今出懸けましょうと思って、御覧の通りちょいと支度をいたした処です、御一所にまいりましょうか。」
 一つも解らぬことを対手あいては丸呑まるのみにして、承知之助、照子は呆れて、「夫人あなたどこへ、そうして何が、あの何でございますの。」
 とぼっとしたことをいう。
「駿河台の御隠居様が、今朝急病で御逝去おなくなりなすったって。」「ええ。」「訃音しらせがありましたよ。あら、貴嬢あなたは御存じではなかったの、まあ御坐り遊ばせ。」
 と友禅の座蒲団ざぶとんを直して、桐火桶きりひおけを推出おしだしたまい、
「何ですか大層お急せきだことね。まア落着いて。」
 と気を着けられて、照子はほっと呼吸いき、「夫人あなた、この間のね、秀の祖母様ばあさんというのはたしか。」「黒瀬ぬい。それがどうしましたえ。」と懸念げなり。
「夫人あなたどう致しましょう、その婆様ばあさんがね、家うちの松の木で首を釣ったの。」綾子も色を変じて、「ほんとうですか。」「今頃はどんなでしょう、私の来た時でさえ門の内は人で一杯。」と照子は後うしろ見らるる風情、そわそわして落着かず。
 綾子はじっと俯向うつむきしが、ややありて潜ひそみたる顔を上げ、「照子様さん、内証ですよ、高い声では申されぬが、駿河台の御隠居様の急病というのは、まあまあ表向おもてむきで、実は何か、鮫ヶ橋の方のものに間接にお殺されなすったようです。私共が願ってあすこへ行っておもらい申した、それから事が起ったそうで、申訳もありません、今の貴嬢あなたの御談話おはなしといいどうも私の考えでは、鮫ヶ橋は容易ならぬ処です。いつかそれ慈善会を打毀うちこわした、あの恐しい女乞食も鮫ヶ橋の者ですよ。こう申せば何ですが、四ツ谷の空の一方には、妖あやしい雲が立上って穏おだやかならぬ兆候きざしが見えて、今にも破裂しそうで、気に懸かかってなりません。打棄うっちゃっておいてはお互の身の上でしょう。私の思いますには、彼等の心の和やわらぐように折角恩を被きせて、ねえ貴嬢。」と何やらん囁ささやかれしが、小声にて聞取れず。照子が辞して帰りし後のち、深川夫人は腕車くるまを命じ、所々方々奔走あり。流石さすがは綾子、半日にて多数の貴婦人を一致せしめし。
 その結果。

 寺院は随一の華主とくいなる豆府とうふ屋の担夫かつぎ一人、夕巡回ゆうまわりにまた例の商売あきないをなさんとて、四ツ谷油揚坂あぶらげざかなる宗福寺に来きたりけるが、数十輛の馬車、腕車わんしゃ、梶棒かじぼうを連ね輪を駢ならべて、肥馬嘶いななき、道を擁し、馭者ぎょしゃ、馬丁べっとう、車夫の輩ともがら、手に手に桝ますを取りて控えたる境内には、一百有余の俵を積み、白米筵むしろに山をなせり。
 音楽妙たえに、読経の声清く、庫裡くりも本堂も人ならざる処無き意外の光景にひたと呆れぬ。
 これ蓋けだし深川綾子の建案にて、麹町の姫様ひいさま檀那だんなとなり、あまたの貴婦人これを扶たすけ、大法会を修しゅして縊死いしの老婆を追善し、併せて鮫ヶ橋の貧民の男女を論ぜず、老少を問わず、天窓数あたまかず一人に白米一斗、無慮一百石を散ぜんとする未曾有みぞうの施行せぎょうなりき。
「へい、真平まっぴら御免なさい。少々どうぞ。」と豆府屋おずおず、群集を分けて入いらんとすれば、比々として排ならべる車に支つかえて、台を担うて歩むべからず。膝の辺あたりに手を下げて、「若い衆しゅ頼むよ、通してくんねえ。」車夫は傲然ごうぜんとして、「べらんめえ、この混雑の中へ入へえれるもんか、眼を開けてものをいいなよ。顔を洗えさ。邪魔だ邪魔だ。」と推出おしいだしぬ。 豆府屋蹌踉よろよろして踏ふみこたえ、「がみがみ謂いうない、こっちあ商売だ。」と少しく勃然むっとする。「何い、商売がどうしたと。」大喝一番腕まくりして向い来きたるに、ぎょっとして飛退とびすさり、怨めしげに法会を視ながめて多時しばしは去りもやらず、彼がその日の収入に大おおいなる影響あればなり。
 時に年老いたる屑屋くずやあり。包を背負うたる洗濯婆ばばあり。おなじく境内に入いらんとせしが、また車のために抑留さる。
「おやおや大変だ。弱ったことの、洗濯物をうんと仕上げて持って来たのに、こりゃまあどうじゃ。」と老婆は呟つぶやく。傍かたわらより件くだんの屑買くずや、「私わしゃまた一日ついたちと十五日が巡回日まわりびで今日も遣やって来たのじゃが、この様子では入ってから商あきないは出来ぬらしい、やれさても。」と大きに愚痴こぼす。
「え、薄汚い、悪臭い、貧乏神が夫婦連めおとづれでやって来やあがった。とッとと退のいたり、邪魔にならあ。」と馬丁べっとうの喚散わめきちらせば、
「やれやれ情なさけない、のう、お前様まえさん。」老爺おやじ頷うなずき、「御慈悲をば頼んでみるじゃ。」と二人は土下座をして平突張へッつくばり、「はいはい申兼もうしかねましたことなれど、この洗濯賃を的あてにして、今日はまだ御膳ごぜんを頂戴いただきましねえ。」「私わしも今日が書入日かきいれびでござりまする。この御寺に、月に二斎を楽たのしみにいたしております。どうぞ一番ひとつ御上人様へ御取次下されまし。」
 皆まで謂わせず、「何だ御取次い、糞でも啖くらえ、華族様御直おじきの馬丁だわ。やい、門番扱いにしやあがる。死損いめ。」妙な処で威張ったもの。
 老婆は額を地に擦付すりつけ、「はいはい、誠に早や推付おしつけがましゅうございまするが、御見懸け申せば、はいはい、どうやら御施米おせまいがござる様子、少々ずつ御遣し下されまし。」「へい、御願おねがいでござりまする。」と二人は手を合わせて拝みぬ。
 馬丁面おもてを和やわらげて、「ふん何か、きさま達は鮫ヶ橋の者か。」こちらは正直「いえ、青山でござりまする。」「私は麻布の今井町でござります。」「ン、それでは不可いけねえ。なあおい。」と謂えば一人が頷き、「今日は鮫ヶ橋に施行が出るんだあ、他所よそのものじゃ埒らちがあかねえ。」
「そうおっしゃらずに。」「もし御慈悲。」「ふん。」と鼻を空にして構い附けず。主命を辱しむること、見よ、かくのごとし、既に仁恵といういずくんぞ越人えつじんと秦人しんじんとを分たん、されどもこれを則おきてと謂わば、また論ずるに足らざるなり。
 二人は取附く島も無く、落胆がっかりして、「ああ情なさけない、我おらあ素手では帰けえられましねえ。」「私わしもさ今日を的あてにして昨夕ゆうべから何も食わねえ。」と声を放ちて泣き出いだせば、
「やい、愚図々々してるとこうだぞ。」足を揚げて老爺おやじを蹴飛ばし、襟を掴つかみて老婆を突遣つきやる。地に転まろびてようよう起たち、力無ければ争い得ず、悄然しょうぜんとして立去るを、先刻さきより見たる豆府屋は、同病相憐の情に堪えず、
「こう老爺様じいさんまあ待ちねえ、婆様ばあさんちょいと。」と呼留めて、売溜うりだめの財布より銅貨四銭取出とりいだし、二人の手に頒わかち与えて、「親方持だから資本もとでへは手が出せぬ。余りちっとだが芋でも買いねえ。」二人は再三辞退して、ようやくこれを受納め、「ああ、お若いに御奇特な。」「やれ嬉しや、難有ありがたい。」 と打って変って喜悦の涙、襤褸つづれの袖を分ちけり。
 時既に黄昏たそがれぬ。正午頃より今に至るまで、米を計りて待構えたる鮫ヶ橋の貧民等恩に浴せんとて来きたる者無く、貧童一人にんの影だに見えず。さなきだに葬礼法会ありしと聞けば、魚うおの腸はらわたに寄する鳶とびのごとく十里を遠しとせざる輩やからが、しかも丁寧に告知らせしに、召めしに応ぜざるはそもいかに、貴婦人方は本意ほいなげなり。
 心利きたる馬丁べっとう等、素早く坂を駈下かけおりて、谷町通に大音に、「御救米おすくいまいが出るになぜ来こない。」「下され物だ下され物だ。辞退は失礼に当るぞ。」「早く出ろ、直ぐに来い。」と声嗄かるるまで触流すを、ござんなれと待居たる、究竟くっきょうの破落漢あぶれもの、軒下あるいは塀の蔭よりばらばらと飛出とびいだして、お使番を引僵ひきたおし、蹴って踏んで撲くらわして、「此奴等こいつら、人を乞食にしやあがる。へん、よしてもくりや、余計なお世話だ。」
「早く帰って汝等うぬらの主人に(あばよ)といえッて、お丹様のお言ことばだい。」
 黄昏の頃油揚坂より続々として曳出ひきいだす、馬車、腕車数十輛、失望、不平、癇癪かんしゃくなどいう不快なる熟字を載せたるは、これ貴婦人の帰途かえるさにて、徒むだになりたる百余俵の施与米を荷車に積みて逆戻り、笑止なりける次第なり。
 轔々りんりん、轟々ごうごう、轣轆れきろくとして次第に駈行かけゆき、走去る、殿しんがりに腕車一輛、黒鴨仕立くろがもじたて華やかに光琳こうりんの紋附けたるは、上流唯一の艶色えんしょくにて、交際社会の明星と呼ばるる、あのそれ深川綾子なり。
 夫人は過日の慈善会以来、世に不如意あるを知初しりそめつ、かねてより人類の最下層に鬱積うっせきせし、失望不平の一大塊、頃日けいじつ不思議の導火を得て、世の幸福を受けつつある婦人級と衝突なし、今にも破裂爆発して、玉石一様ならしめんと、企つるをば密ひそかに識しり、独り自身みずから胸を痛めて予防の策を講ずる折から、この度の出来事を好機として、暗に鮫ヶ橋の貧民等と和を整えん予算なりしに、天を怨み、地を恨み、宇宙間の万象を一切讐敵あだとして、世にすねたる神仏の継子等ままッこら、白米一斗の美禄を納いれず、御使番を取拉とりひしぎて表あらわに開戦を布告せり。
 もしそれ下界の阿修羅王、八万四千の眷属けんぞくを率いて、蒼海そうかいを踏み、須弥山しゅみせんを挟さしはさみ、気焔きえん万丈ばんじょう虚空を焼きて、星辰せいしんの光を奪い、白日闇はくじつあんの毒霧に乗じて、戟ほこを掉ふるい、斧おのを振い、一度ひとたび虚空に朝せんか、持国広目ありとというとも、これよりして多事ならんと、思去り思来たりて、綾子は車上に憂悶ゆうもんせり。
 夫人は瞑目めいもく沈吟ちんぎんして、腕車はいずこを走るやらんしばらくは現うつつなり。
「ええッ此奴こいつ。」と度外れの大声に耳を驚かして眼を開けば、梶棒かじぼうをがたりと下おろして、「夫人おくさま提灯ちょうちんを点つけますからちょいとどうぞ。」と車夫の吉造、婦人おんなを一人輪の下に轢ひかんとせし、ようよう車を踏留ふみとどめ、胆きもを潰つぶせしむかばらたち、燐寸マッチにあたりて二三本折っぺしょり、ますます苛いらち、「命知らずの馬鹿者め、何だって往来に坐ってるんだ。我おれが腕に覚えがあって旨うまく立停たちどまったればこそ、さもなけりゃ、頭を破わるか、脛すねを折るか、どうせ娑婆しゃばの者じゃねえ、そりゃ我おれだって暮合に無燈火あかりなしも悪かったけれど、大道中なかに坐ってる法はねえ。」 と擦こすっては消し擦っては消し、ようよう点つけたる提灯の燈明あかりに照てらせば、煉瓦れんがの塀と土蔵の壁との間なる細き小路に、窶やつれたる婦人俯伏うつぶしになりて脾腹ひばらを押おさえ、鞠まりのごとくに身を縮すくめて呼吸いきも絶ゆげに苦くるしめり。肩の辺あたりに負おわれかかりて、茶褐色の犬一頭、飼主の病苦を憂慮きづかいてそを看護みとらんと勤むるごとし。
 車夫は別に気にも留めず、「へい、お待遠様。」
 と夫人に謝して再び梶棒を上げんとせり。
 綾子夫人は、待てしばし、過日いつかも狸穴まみあなの辺ほとりにて在原夫人にかかりし事あり。その時渠かれは病者を見棄てて大きに面目を失いぬ。殷鑑いんかん遠からず、一歩を過あやまたば我はた無情の人にならんと、泥除どろよけを叩きて口早に、
「ちょいとお待ち。」
 押留めて、「吉造、見受けた処病気のようだよ。容体を診てやるが可いい。」「およしなさいまし。この頃は乞食が憐あわれっぽく見せようために、ああやっちゃあ誑だましますよ。」「そういうことをいうものではない。可いから聞いてご覧。」
 とたしなめられて不承々々、「こうこう夫人おくさまのお声がかりだ。空あだおろそかには思うめえぜ、どうしたのだな。え、おい、どこか悪いか。」
 悩める婦人は顔も得え上げず、病苦に声も切れ切れにて、「あ痛いつ、あ痛々々、冷えましたせいか差込みまして……」「ふむ、持病の癪しゃくか。よくあるやつだ、家うちはどこだい。」「はい、家と申しては、……別にどこも。」と呼吸いきの下にて答えたり。
「そりゃ、ござったわ。いやにしんみりと持懸けたな。夫人おくさま油断なさいますな。慈悲を垂れると附上ってなりません。」夫人は頭こうべを振らせたまい、「またそんなことを。可哀相に土の上では冷えて堪たまったものではない、行って腕車くるまを雇っておいで、家うちへ連れて行って介抱しよう。」蓋けだし思わくのあればなり。
「滅相なことをおっしゃる、飛んでもない、こんな者をお邸へ入れますのは、疫病神を背負込しょいこむと同おんなじです。ままよ、癪の虫を揉殺もみころして立処たちどころに癒なおしてやる、まんざら嘘でもないようだ。全体癪の介抱は、色男の儲役もうけやくだが、対手あいてがこの状ざまではおさまらねえ。手を入れたら虱しらみを揉もみ潰つぶすくらいが取柄だ。弱ったな。」
 と呟つぶやきつつ、提灯差附け凝視みつむれば、身装みなりこそ窶々やつやつしけれ、頸筋えりすじの真白きに、後毛おくれげの匂においこぼるる風情、これはと吉造首を捻ひねって、「しっかりせい。」襟よりずっと手を差入れ、「それ、こたえたか。」ぐっと圧おす。
 婦人は苦あっと身悶みもだえして、仰向あおむけに踏反返ふんぞりかえり、苦痛の中にも人の深切を喜びて、莞爾にっこりと笑める顔に、吉造魂飛び、身体溶解とろけ、団栗眼どんぐりまなこを糸より細めて、「夫人おくさま、こりゃ是非お助け遊ばせ、きっといい人の落魄おちぶれたんです。」
 綾子は頷うなずき、「早く腕車くるまを見て来ておくれ。」「いえ、今が大事な処、ここで手を放すと反そってしまいます。」「だって、お前、いつまで道端でそんなことを。これ。」「へい、もう少々。どうも放し悪にくい。」「早くおしよ。」ときめつけられて詮方せんかたなく一散に駈かけ出いだし、口の裡うちで、「御自分が独身ひとりみだと思って、ちとお焼芋の方だ。どうもならねえ。」 室数まかず多けれども至って人ひと寡少すくななる深川の館やかたは、その夜より賑にぎわしくなれり。綾子が厚き情なさけにて、ただにかの婦人のみならず、なお彼に附随せる犬をも加あわせて養いぬ。
 新らしき食客は、暖かき褥しとねに臥ふし、良薬を賜わりて、疾病直ちに癒いえたり。渠かれは旧もと旗本の嬢むすめなりき、幼にして両親を失い、嫁して良人おっとを失い、人に計られて財たからを失い、餬口ここうのために家を失い、軒下に眠ること実に旬余、辛酸を喫して癪しゃくに閉じられてすでに絶せんとせるとき、綾子のために救われしなり、と渠は語りぬ。
 翌日早朝、犬はいずくにか出行いでゆきて、半日見えず、午後に到りて帰り来きたりぬ。
「夫人おくさん、好事門を出でずと申しましたけれども、ああ、善きことは致したいもの、これ御覧ごろうじまし。」と三太夫が書斎に齎もたらしたる毎晩新聞。
 綾子手に採り披ひらき見れば、深川夫人乞食を救う、と標題みだしに圏点けんてんを附してその美徳を称讃し、気味悪きまで賞立ほめたてたり。
 綾子は莞爾にっこり、「こんなに謂われてはかえって迷惑、あの女はどうしているね。」「何か頻しきりに働いておりまする。」「幸さいわい、人手もなし、眼を懸けて使うが可いよ。」「はッ、はッ。」
 綾子は急に思出して、独言ひとりごとのように、「あ、御隣家おとなりへ御見舞に上らねばなるまい。」三太夫は呑込顔、「ありゃ、御沙汰止ごさたやめに遊ばされい。大木戸の御前の御病気には、何かその、婦人が一切禁物だと申すことで、小間使が二人、先日宿許やどもとへ下げられました。御台様みだいさまも一間なる処に御籠おこもりの様子。御枕許御用人の衆が羽織袴はかまで詰めおるげにござりまする。たとえ御見舞にお越し下されましても、なかなか通すことではござりませぬ。宜よろしく拙者めにおおせ附けられまし。」と真顔でいう。
 綾子は顔を赧あかめて、「そんなら私は見合せよう、何ぞを見計らっての、其方そのほうがお伺いに参るように。」
 とあれば、「はッ、――はッ。」とお受申して、次の間へ辷出すべりいでぬ。
 深川夫人の廃物利用はすこぶる好果を奏したり。女乞食の掘出しもの、恩に感じて老実まめ々々しく、陰陽かげひなたなく立働き、水も汲くめば、米も磨とぎ、御膳ごぜんも炊けば、お針の手も利き、仲働なかばたらきから勝手の事、拭掃除まで一人で背負しょって、いささかも骨を惜おしまず。上下をすべて切って廻せば、水仕みずしのお松は部屋に引込ひっこみ、無事に倦飽あぐみて、欠伸あくびを噛かむと雑巾を刺すとが一日仕事、春昼寂せきたりという状さまなり。
 渠がこの家に来きたりし以来、吉造垢あか附きたる褌ふどしを〆《し》めず、三太夫どのもむさくるしき髭ひげを生はやさず、綾子の頸えりも撫なずるように剃そりて参らせ、「あれ、御髪おぐしが乱れております。お気味が悪くも撫附けましょう。」とは、さてもさても気の着いた、しかも無類の容色好きりょうよし、ただ眼中に凄味すごみを帯びて、いうべからざる陰険の気あり。「ああッ凄い。」と吉造無暗むやみに嬉しがり、三太夫は人相早学はやまなびを眼鏡で覗のぞき、「なる程、ただものでない相じゃ。」
 日数ひかず経ふれども旧もとを忘れず、身を謙へりくだりてよく事つかうるまたなき心を綾子は見て取り、一夜あるよお傍そば近く召したまいて、「妙なことを訊きくようだが。……」と言淀いいよどみし声を密ひそめ「お前、子を持ったことがあるのかい。」 婦人おんなは冷ひややかなる眼をぱっちり、綾子は射られて慄然ぞっとせり。微笑を含みて、「はい、お薬も存じております。」
「嫌なことをいう人だ。」綾子はその無礼を怒りて顔を背けつ、机に凭よりぬ。
 一家声なし、雨蕭々しょうしょう。
 翌朝あくるひになると三太夫、婦人おんなを呼附け、言葉も容子ようすも改あらたまりて、「暇ひまを遣る。」と藪やぶから棒。
 婦人おんなは愕おどろきたる状さまにて、「何ぞ不調法でもいたしましたか、誠に行届きません不束者ふつつかもの、お気に入りませぬ事がございましたら、そうおっしゃって、どうぞ御勘弁下さいまし。」「何かは存ぜぬが夫人おくさまの御意じゃ、柔順すなおにお受け申して退散せい。」と御家老真四角なり。
 婦人おんなは悄然しょんぼり、「もう一度夫人おくさまに御執成おとりなし遊ばして、お許されまするよう、恐入りますが、貴老あなたから。」「罷まかり成らぬ。別に何を毀損こわしたというではなし、ただ御家風に合あわぬじゃで、御詫おわびの仕様も無いさ。」「でもございましょうが、そこをどうぞ。」「うんや。」
 と頑として肯がえんぜず。
 婦人おんなは気色を変えて、「老爺様じいさん。」
「なにいッ。」と引込ひっこんだ眼を刮出むきだす。
「私わっしあ行ゆく処が無ねえんだよ。宿無しだッてことはお綾様さん承知の上だ。こう、お店たなの嫁じゃアあるまいし、家風に合わぬもよく出来た。お国猿め、江戸へ来たらちとものいいに気を着けねえ。」と満腔の毒を一瀉いっしゃして浴あびせかくる。
「何と申す!」三太夫は驚きながらも居丈高いたけだか。
「行く処が無えというんだよ。」「や、此奴こいつ太々ふてぶてしい、乞食こつじき非人の分際で、今の言草は何だ。夫人おくさまの御恩を忘れおったか、外道げどうめ。」と声を震わし、畳を叩きていきまけば、ニタニタと北叟笑ほくそえみ、「フフン、御恩ゴオンと、ニコライの鐘みたいにいけすかない音ねをお出しでない。御恩だけのことはこっちでもしてある。お前さん、言訳ばかりの小さな眼でも盲目めくらでないから見ていたろう。私わっしあね、御飯おまんまを食べるだけはきちんと働いておいたつもり。昔はちょいとした恩義に感じて田舎の御家来が、生命いのちまでも棄てたものさ。ありゃ、主人が狡猾こうかつで、旨うまく正直なものを操ったのさ、考えてみたがいい。たかがぽんぽち米まい少々で命と取換えてたまるものか。私はもとより忠義でないが恩知らずとはいいなさんな。するだけのことをすれば可いのさ。何と老爺様おじいさん一言も無かろうね。」とまくし立てて、怯ひるむところへ単刀直入、「しばらく足を洗ったために、乞食夥間なかまを省はぶかれた。面桶めんつう持って稼がれねえ。今この家を出るが最後、人間の干物になります。皆これも夫人おくさんの御庇おかげだから、何も彼もそっちが懸合かかりあいだ、飼殺かいごろしにしておくんなさい。」と足を出したる高ゆすり。
 三太夫は胸へ込上げ、老人としよりのあせるほど、気ばかり苛いらちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、芥あくたに酔うたる鮒ふなのごとし。
「老爺じじいを対手あいてじゃ先行さきゆきがしない。可よし、直接じかづけに懸合かけあおう。」とふいと立って奥へずかずか。「ま、ま、待ちおれ汝うぬ。」と摺下ずりさがりたる袴の裾すそ踏ふみしだき、どさくさと追来る間に、婦人おんなは綾子の書斎へ推込おしこみ、火桶の前に突立つったてば、振返る夫人の顔と、眼を見合せて佶きっとなりぬ。「姉様ねえさん、談話はなしがある、座蒲団ざぶとんを敷いておくれ。」「汝おのれはな汝はな。」と武者振附く三太夫を突飛ばして、座蒲団を引張出ひっぱりだし、棒ずわりの膝をくずして、
「狆ちんや猫でも蒲団に坐るよ。柔かい足を畳にじかでは痛いやだね。御免なさいよ。」と帯の間より煙草入たばこいれを抜出して、「ちょいと憚はばかりですが、そこいらに、煙管きせるは無いかね。」
「やい、不貞腐ふてくされ。」と車夫の吉造、不意に飛込んで、婦人おんなの髻たぶさ鷲掴わしづかみにしてぐいと引けば、顔をしかめて、「あ痛いつ、つつつつつ」と拳こぶしに手を懸け、「無体な、何をするんだねえ。」
「何も彼もあるものか、様子は残らずあっちで聞いた。夫人おくさまの御居室おいまへ踏込みやがって、勿体ない。人も無げなことをしやあがる。愛想の尽きた阿魔ッ女ちょだ。汝うぬを贔屓ひいきに目が眩くらんで、今までは知らなかったが、海に千年、川に千年、劫こうを経た古狸、攫出つかみだしてお汁つけの実にする、さあ失うせろ。」と力一杯。
「ああ豪えらい、お前様まえさんは男だから力があるよ。負けました負けました。おほほほほほ、強い人だね。」と平気で笑えば、吉造少しく拍子抜ひょうしぬけ、「一体汝うぬあ何者だい、尋常ただの鼠ねずみじゃなさそうだ。」「あい、私わっちあ、鮫ヶ橋で丹という、金箔きんぱく附の乞食だよ。」
 言いもあえず膝立直して、「じゃむこうじゃむこう。」と口笛鏘鏘しょうしょう。
 綾子夫人は蒼あおくなりぬ。
(じゃむこう)は召しに応じて、大おおいなる顔を、縁側に擡もたげて座敷を窺うかがい、飜然ひらりと飛上りて駈来かけきたり、お丹の膝に摺すり寄れば、髻もとどりを絡巻からまける車夫の手を、お丹右手めてにて支えながら、左手ゆんでを働かして、(じゃむこう)の首環くびわを探り、紙片かみきれを引出して、悠々と皺しわを伸のしつ、「そんなにしなさんな、頭痛がすらあね。今出て行くよ、まあ、お待ち、引かれ者の小唄とやらを、ここでちょいと吟じよう。」

深川綾子の先達て、女乞食を救いたるは、廃物を買いて虚名を売り、給金無しの下婢かひを得て奇利を占めんず政略なりし、今また経費を節減せんとて、行ゆく処なく帰る家なき女乞食を追出おいいだせり。

「なんとどうでございます。声が悪くって節は附かぬが、新聞種には面白いよ。大方こんな事だろうと、昨夜ゆうべの中うちに拵こせえておいた。」
 綾子、「それは何です。」
 お丹、「毎晩新聞の材料で、探訪員の原稿です。」
 綾子は太き呼吸いきを吐つき、「ああ是非がない。吉造、その手を放しておやり、三太夫、その婦人おんなは私を殺すよ、しかし大切なお客様だ。」

 お丹は勝手次第に綾子の箪笥たんすより曠着はれぎを取出とりいだし、上下うえしたすっかり脱替えて、帯は窮屈と下〆《したじめ》ばかり、裳もすそを曳摺ひきずり、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき押立膝おったてひざ、烟草たばこと茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢の縁へりに肱ひじつき、小楊枝こようじにて皓歯しらはをせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、鰻丼うなどんだえ、相も変らずだの、五ツ六ツ誂あつらえて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松の方かたの召上る物はぐい極きまりとなったが、私は何にしよう。鰻の匂においも鼻に附いて食いたくなし、鯛たいは脂肪あぶら濃し、天麩羅てんぷらはしつッこいし、口取も甘あまったるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好かっこうな種が無かろう。鮪まぐろの刺身は噯おくびに出るによ。こうだに因ってと、あるよあるよ。白魚しらおをからりッと煎いり上げて、鷹たかの爪つめでお茶漬が、あっさりとして異おつう食わせる。可いかい。この辺に無かったら、吉造を河岸かしへ見にやんな。ついでにお茶請の御註文が、――栄太楼の金鍔きんつばか、羊羹ようかんも真平まっぴらだ。芝の太々餅だいだいもち芳かんばしくって歯につかず、ちょいといいけれど、路みちが遠いから気の毒だ。岡野のもなかにて御不承なさるか。そうそう藤村の鹿かの子が可い。風月堂のかすてらも悪あしからず、引包ひっくるめて二両ばかり買うが可い。それから家うちの漬物はさっぱり気が無いの、土用越ごしの沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとは圧おしが強い。早速当座漬を拵こせえて醤油おしたじも亀甲万きっこうまんに改良することさ。」と朝から晩まで食好ごのみ、食くい草臥くたびれれば、緞子どんすの夜具に大の字形なりの高枕、ふて寝の天井の圧おしに打たれて、潰つぶれて死なぬが不思議なり。 綾子はこれを見て見ぬふり、黙許して咎とがめざれば、召使のものは為せん術すべなく、お丹の命令に唯々諾々いいだくだく。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと仔細しさいありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、太いたくもの思おもいに沈ませたまい、軽快濶達かったつなりし昨日きのうに似ず、憂鬱ゆううつ沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。
 誰たれも天窓あたまのおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、我儘わがまま日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。
 一日珍しく、在原夫人、深川の館やかたに訪れぬ。
 外出好そとでずきの綾子夫人が一室ひとまにのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け勿な。」といわるるばかり庭の面おもさえ歩行ひろわせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、気鬱きうつの疾病やまいや引出ひきいだしたまわむ、何か心遣こころやりの術すべは無きかと頭こうべを悩ます三太夫、飛んで出いで、歓迎よろこびむかえ、綾子の居間に案内せり。
 夫人も大きに喜びたまい、睦むつまじやかなる談話はなしの花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に広袖どてらを引懸ひっかけ、不作法に入来いりきたりて、御両方おふたかたの身近に寄り、突然いきなり匍匐はらばいになりて頬杖ほおづえつき、貞子の顔を上眼にじろじろ。
「綾様さん、こりゃどこのお婆様ばあさん。」
 綾子は堪たまらず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、衝つと座を立ちて駈出かけいだし、一室ひとまの戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。
 貞子の方かたはいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出で来きたらず、膳を進まいらせんと入行いりゆきたる下婢かひのお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。
 その後のち室内沈静にして、些々ささたる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立てて噪さわがしき響ひびきの起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣く音ねも聞ゆ。
「ああ、申訳のない事だ、御主人は女性にょしょうなり、我わしが一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるを諫いさめなんだが不念ぶねん至極、何よりもまずこの月の入用いりようをまだ御手許おてもとから頂かぬに、かの悪魔めが食くい道楽、通帳かよいで取込んで借かりが山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけには行ゆかぬ。十重二十重とえはたえに囲まれては、老功な武者でも籠城ろうじょうがしにくいぞ。ええ情なさけない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、先殿せんとのへの申訳、まッこの通り。」
 と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を選出えりだし、座を構え、諸肌脱ぎ、皺腹しわばらに唾つばをなすり、白刃しらはを逆手さかてに大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は冥土めいどの道連みちづれ、差違えるぞ、さよう心得ろ。」
 と繰返して呼ばわれど、留とどめんとするものなし。「なに止められて堪たまるものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と切尖きっさきをちょいと中あてて震上ふるえあがり、「武士が、武士が、」と歯切はぎしりして、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、死しんだあ。」と疵きずを押おさえ、血眼ちまなこになりて、皺枯声しわがれごえを振絞り、「もう一抉ひとえぐりで死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で呼吸いき。 障子の外には人気勢ひとけはいして、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様が祟たたる日だ。やれ六根清浄ろっこんしょうじょう、切腹をする日でない。」と御見合おみあわせ。
 もとより親仁おやじが一生の智慧ちえを出したる茶番にて、お丹の心を挫ひしがんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる目算つもりのあてはずれ、発奮はずみで活歴を遣って退のけ、手痍てきず少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の膏薬こうやくを飯粒にて糊附はりつけしが、歩行あるくたびに腹筋はらすじよれて、跛びっこ曳ひき曳き、「あ痛いつ、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)
 綾子が一室に籠こもりてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、面つら出す男、「姉御あねご、姉御。」と二人連づれ。
 来きたれる二個ふたりの眷属けんぞくは三界無宿の非人にて、魔道に籍ある屠犬児いぬころし、鳩槃荼くはんだ、毗舎闍びしゃじゃを引従え、五尺に足らざる婦人おんなながら、殺気勃々ぼつぼつ天を衝つきて、右の悪鬼に襖ふすまを開けさせ、左の夜叉やしゃに燭しょくを持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の苦患くげんを嘗なめつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落の態てい引替えて悪魔の風采ふうさい凜々りんりんたり。
 綾子は照射入さしいれる燈火に射られて、呀あと叫びて跳上りぬ。
 屠犬児は衝つと寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。
 綾子は頤おとがいを襟に埋うずめぬ。磨みがかぬ玉に垢あか着きて、清き襟脚曇くもりを帯び、憂悶ゆうもんせる心の風雨に、艶えんなる姿の花萎しぼみて、鬢びんの毛頬に乱懸みだれかかり、俤おもかげ太いたくく窶やつれたり。
「綾子様さん、今私が改めて貴方あなたに御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」
綾子は震えぬ。
 お丹は屹きっと居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と貴女あなたとが一つ閨ねやに居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、⦅お言いでないよ⦆を繰返して小間使を警いましめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あの女こは幽霊の真似をして人を威おどして慰むような剽軽者ひょうきんものではございません。必ず誰かが教唆きょうさして殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子様さん、大木戸伯と貴女あなたの他ほかには、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやを謂いわれぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あの娘こが活いきている中うちは、二人の寝覚ねざめが悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ不品行ふしだらをなさるんです。年紀としは若し、容色きりょうは佳よし、なるほど操は守られますまい、可よし情夫いろおとこが千人あろうと、姦夫まおとこをなさろうと、それは貴女の御勝手だが、人殺ひとごろしをしても仁者と謂われ、盗人どろぼうをしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体法網ほうもうを潜くぐるものは、お天道様が罰する筈はずだけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩唯今ただいま、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を教唆そそのかして死地に陥おとしたは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って冤罪えんざいはお被きせ申しません。どれ、そんなら、雲を掴つかんで、裁判しようか。」 綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。
「それ手を貸しな。」と号令一発。
 かねてより命じけむ、夜叉羅刹やしゃらせつは猶予ためらわず、両個ふたり一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より禁扼とりしばり、三重みえ襲かさねたる御襟おんえりを二個ふたりして押開き、他目ひとめに触ふらば消えぬべき、雪なす胸の乳ちの下まで、あらけなく掻かきあくれば、綾子は顔を赧あかめつつ、悪汗おかん津々しんしん腋下えきかに湧わきて、あれよあれよと悶もだえたまう。両の乳房を右顧左眄とみこうみて、お丹はなぶり且つ嘲あざけり、「ふむ、大分だいぶん大きくなった乳嘴ちくびにぼっと色が着いて、肩で呼吸いきして、……見た処が四月よつきの末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」
 両個ふたりはただちに手を引きぬ。
 綾子は呼吸いきある人形なりき。
「綾子様さん、このごろの習慣ならわしで、寡婦やもめの妊娠はらむのは大変な不名誉です。それに貴女あなたのその腹おなかは誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、この件ことを通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」
 綾子は聞くより慌あわただしく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」
 お丹は綾子を瞻みまもりて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる貴女あなた、今醜聞を新聞に出されては、とても日本にお出いでなさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これを進あげますから、外国へお遁にげなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中は破われるばかり風説うわさをしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い手廻てまわし。
 綾子は肯きかず、「いいえ、人が私を罵ののしる声は苔こけの下まで定かに聞える。私の身体からだをお前に遣るから、生爪を剥はいで火で焚やくとも、逆さかさに釣って干殺ほしころすとも、ずたずたに斬きって肉を啖くらうとも、血を絞って啜すするとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」と清すずしき御眼おんめに暗涙あり。
 お丹は冷然として、「不可いけません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な価値ねうちがあるので、今度の新聞材料だねは人の生命いのちが要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら露西亜ロシアへでもお出いでなさいな。」
 綾子は呟つぶやくごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へ行ゆく気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。身体からだは死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」
 と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心を和やわらぐべく鉄腸を溶解とかすべし。
 されど悪魔サタンは冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの? 咽喉のどを突くの? 笛を掻斬かききる時後うしろへ反そると、もう、手が利かなくなって死損います。背後うしろから私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私の掌てから飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。 綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあの件ことを新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ顔色かおつきにて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に愉快おもしろい。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その理由わけを書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた好よい材料たねのある時は、嬉しそうに尾を掉ふって勢いきおいよく駈かけるんですもの。」その心の冷ひややかなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。
 綾子は再び独言ひとりごち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも不可いけないのか。」と最後の運命に問い試む。
 お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、甘うまい御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあの件ことを見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して咽候のどを切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、人殺ひとごろしをして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それ其それがごく宜よろしくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、活いかさず殺さず、万劫ばんごう苦しめるのが一番良い。」
 綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」
 綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、俄然がぜん跳起はねおきて、「ああ、懊悩うるさい。」
 身悶みもだえして帯を解棄て、毛を掻挘かきむしり髷まげを毀こわせば、鼈甲べっこうの櫛くし、黄金笄きんこうがい、畳に散りて乱るる態すがた、蹴出す白脛しろはぎ裳もすそに絡からみ、横に僵たおれて、「ええ、悔しい!」柳眉りゅうびを逆立て、星眼血走り、我と我わが手に喰附けば、右の無名指に二個ふたつ嵌はめたる宝石入の指環ゆびわを噛かみて、あっと口を蓋おおえるとたん、指より洩もれて鮮血なまちたらたら、舌を切りぬ。歯を折くじきぬ。されども苦痛を感ずる体ていなく、玉の腕かいなを投出なげいだして、空くうを抱いだきて胸に緊しめ附け、ニタリと笑いて、「時様さん、おお、可愛いねえ。」
 果はては衣服を脱棄てて、媚なまめかしき乳も唇より流るる血汐ちしおに塗まみらしつつ、
「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お位牌いはいの前だって、貴方あなたもねえ、死んだ夫は近視ちかめでした。」
 魔属もさすがに面おもてを背けぬ。
 お丹は視ながめて平然たり。
 綾子はまた膝を折りて端坐しつ、潸然さんぜんと泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつ苦くるしみ掙もがき、
「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。堪たまらない、あれッ、あれッ。」と跳おどり上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子を掴つかみて投げたるごとく、仰様のけざまに打倒れぬ。それより裸美人寂せきとして、大理石の像に肖にたり。
 ただその心臓は音するばかり、波立つごとく顫動せんどうせるに、溢敷こぼれしきたる黒髪揺ゆらぎて、千条ちすじの蛇くちなわ蠢うごめきぬ。 お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った婦人おんなと見える。可よし。」と呟つぶやきて、「さあ、帰ろう。」
 門を出づる時、屠犬児いぬころしが、「姉御あんまりだ。」「酷ひどいじゃねえか。」とその気色を物色うかがえば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」
明治二十八(一八九五)年七月



青空文庫より引用