イギリス海岸


 夏休みの十五日の農場実習のうじょうじっしゅうの間に、私わたくしどもがイギリス海岸かいがんとあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事しごとが一きりつくたびに、よく遊あそびに行った処ところがありました。
 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸きしです。北上きたかみ川の西岸でした。東の仙人峠せんにんとうげから、遠野とおのを通り土沢つちざわを過すぎ、北上山地を横截よこぎって来る冷つめたい猿ヶ石さるがいし川の、北上川への落合おちあいから、少し下流かりゅうの西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質ぎょうかいしつの泥岩でいがんが、川に沿そってずいぶん広く露出ろしゅつし、その南のはじに立ちますと、北のはずれに居いる人は、小指こゆびの先よりもっと小さく見えました。
 殊ことにその泥岩層そうは、川の水の増ますたんび、奇麗きれいに洗あらわれるものですから、何とも云いえず青白くさっぱりしていました。
 所々ところどころには、水増しの時できた小さな壺穴つぼあなの痕あとや、またそれがいくつも続つづいた浅あさい溝みぞ、それから亜炭あたんのかけらだの、枯かれた蘆あしきれだのが、一列れつにならんでいて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照てるときは岩は乾かわいてまっ白に見え、たて横よこに走ったひび割われもあり、大きな帽子ぼうしを冠かむってその上をうつむいて歩くなら、影法師かげぼうしは黒く落おちましたし、全まったくもうイギリスあたりの白堊はくあの海岸かいがんを歩いているような気がするのでした。
 町の小学校でも石いしの巻まきの近くの海岸に十五日も生徒せいとを連つれて行きましたし、隣となりの女学校でも臨海りんかい学校をはじめていました。
 けれども私わたくしたちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上きたかみの河谷かこくの上流じょうりゅうの方にばかり居いた私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層でいがんそうをイギリス海岸と呼よびたかったのです。
 それに実際じっさいそこを海岸と呼ぶことは、無法むほうなことではなかったのです。なぜならそこは第だい三紀きと呼ばれる地質時代ちしつじだいの終おわり頃ごろ、たしかにたびたび海の渚なぎさだったからでした。その証拠しょうこには、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺ちゅうおうぶんすいれいの麓ふもとまで、一枚まいの板いたのようになってずうっとひろがっていました。ただその大部分だいぶぶんがその上に積つもった洪積こうせきの赤砂利あかじゃりや壚※ローム、それから沖積ちゅうせきの砂すなや粘土ねんどや何かに被おおわれて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川の岸きしや崖がけの脚あしには、きっとこの泥岩が顔を出しているのでもわかりましたし、また所々ところどころで掘ほり抜ぬき井戸いどを穿うがったりしますと、じきこの泥岩層そうにぶっつかるのでもしれました。 第二に、この泥岩は、粘土ねんどと火山灰かざんばいとまじったもので、しかもその大部分だいぶぶんは静しずかな水の中で沈しずんだものなことは明らかでした。たとえばその岩には沈んでできた縞しまのあること、木の枝えだや茎くきのかけらの埋うずもれていること、ところどころにいろいろな沼地ぬまちに生はえる植物しょくぶつが、もうよほど炭化たんかしてはさまっていること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊ことに北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘さきゅうの痕あとらしいものがはさまっていることなどでした。そうしてみると、いま北上の平原へいげんになっている所は、一度いちどは細長い幅はば三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
 ところが、第三に、そのたまり水が塩しおからかった証拠しょうこもあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣かきや何か、半鹹はんかんのところにでなければ住すまない介殻かいがらの化石かせきが出ました。
 そうしてみますと、第三紀の終り頃、それは或あるいは今から五、六十万年或あるいは百万年を数えるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処ところは、細長い入海か鹹湖かんこで、その水は割合わりあい浅あさく、何万年の永ながい間には処々ところどころ水面すいめんから顔を出したりまた引っ込こんだり、火山灰や粘土が上に積つもったりまたそれが削けずられたりしていたのです。その粘土は西と東の山地から、川が運はこんで流ながし込こんだのでした。その火山灰かざんばいは西の二列れつか三列の石英粗面岩せきえいそめんがんの火山が、やっとしずまった処ところではありましたが、やっぱり時々噴火ふんかをやったり爆発ばくはつをしたりしていましたので、そこから降ふって来たのでした。
 その頃ころ世界せかいには人はまだ居いなかったのです。殊ことに日本はごくごくこの間、三、四千年前までは、全まったく人が居なかったと云いいますから、もちろん誰だれもそれを見てはいなかったでしょう。その誰も見ていない昔むかしの空がやっぱり繰くり返かえし繰り返し曇くもったりまた晴れたり、海の一とこがだんだん浅あさくなってとうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂しげり、ことにも胡桃くるみの木が葉はをひらひらさせ、ひのきやいちいがまっ黒にしげり、しげったかと思うと忽たちまち西の方の火山が赤黒い舌したを吐はき、軽石かるいしの火山礫かざんれきは空もまっくらになるほど降って来て、木は圧おし潰つぶされ、埋うめられ、まもなくまた水が被かぶさって粘土ねんどがその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでしょう。考えても変へんな気がします。そんなことはほんとうだろうかとしか思われません。ところがどうも仕方しかたないことは、私わたくしたちのイギリス海岸かいがんでは、川の水からよほどはなれた処に、半分石炭せきたんに変かわった大きな木の根株ねかぶが、その根を泥岩でいがんの中に張はり、そのみきと枝えだを軽石の火山礫層かざんれきそうに圧し潰されて、ぞろっとならんでいました。尤もっともそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに裂さけ、度々たびたびの出水に次つぎから次と削けずられて行きましたが、新らしいものもまた出て来ました。そしてその根株のまわりから、ある時私たちは四十近くの半分炭化たんかしたくるみの実みを拾ひろいました。それは長さが二寸すんぐらい、幅はばが一寸ぐらい、非常ひじょうに細長く尖とがった形でしたので、はじめは私どもは上の重おもい地層ちそうに押おし潰されたのだろうとも思いましたが、縦たてに埋まっているのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思われませんでした。 それからはんの木の実も見附みつかりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。
 この百万年昔むかしの海の渚なぎさに、今日は北上川が流れています。昔、巨おおきな波なみをあげたり、じっと寂しずまったり、誰だれも誰も見ていない所ところでいろいろに変ったその巨きな鹹水かんすいの継承者けいしょうしゃは、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔むかしの渚なぎさをうちながら夜昼南へ流ながれるのです。
 ここを海岸かいがんと名をつけたってどうしていけないといわれましょうか。
 それにも一つここを海岸と考えていいわけは、ごくわずかですけれども、川の水が丁度ちょうど大きな湖みずうみの岸きしのように、寄よせたり退ひいたりしたのです。それは向むこう側がわから入って来る猿ヶ石さるがいし川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流じょうりゅうがかなりけわしい瀬せになってそれがこの泥岩層でいがんそうの岸にぶっつかって戻もどるためにできるのか、それとも全まったくほかの原因げんいんによるのでしょうか、とにかく日によって水が潮しおのように差さし退ひきするときがあるのです。
 そうです。丁度一学期がっきの試験しけんが済すんでその採点さいてんも終おわりあとは三十一日に成績せいせきを発表はっぴょうして通信簿つうしんぼを渡わたすだけ、私わたくしのほうから云いえばまあそうです、農場のうじょうの仕事しごとだってその日の午前で麦むぎの運搬うんぱんも終り、まあ一段落いちだんらくというそのひるすぎでした。私たちは今年三度目どめ、イギリス海岸へ行きました。瀬川せがわの鉄橋てっきょうを渡り牛蒡ごぼうや甘藍かんらんが青白い葉はの裏うらをひるがえす畑はたけの間の細い道を通りました。
 みちにはすずめのかたびらが穂ほを出していっぱいにかぶさっていました。私たちはそこから製板所せいばんしょの構内こうないに入りました。製板所の構内だということはもくもくした新らしい鋸屑おがくずが敷しかれ、鋸のこぎりの音が気まぐれにそこを飛とんでいたのでわかりました。鋸屑には日が照てって恰度ちょうど砂すなのようでした。砂の向うの、青い水と救助区域きゅうじょくいきの赤い旗はたと、向うのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスウェーデンの峡湾きょうわんにでも来たような気がしてどきっとしました。たしかにみんなそう云う気もちらしかったのです。製板の小屋こやの中は藍あいいろの影かげになり、白く光る円鋸まるのこが四、五梃ちょう壁かべにならべられ、その一梃は軸じくにとりつけられて幽霊ゆうれいのようにまわっていました。
 私たちはその横よこを通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣いしがきの下、さっきの救助区域の赤い旗の下には筏いかだもちょうど来ていました。花城かじょうや花巻はなまきの生徒せいとがたくさん泳およいでおりました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行こうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸かいがんの南のはじなのでした。私わたくしたちでなくたって、折角せっかく川の岸までやって来ながらその気持きもちのいい所ところに行かない人はありません。町の雑貨商店ざっかしょうてんや金物店かなものてんの息子むすこたち、夏やすみで帰ったあちこちの中等ちゅうとう学校の生徒せいと、それからひるやすみの製板せいばんの人たちなどが、あるいは裸はだかになって二人、三人ずつそのまっ白な岩に座すわったり、また網あみシャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈帽むぎわらぼうをかぶったりして歩いているのを見ていくのは、ほんとうにいい気持きもちでした。 そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらっているのです。殊ことに一番いいことは、最上等さいじょうとうの外国犬が、向むこうから黒い影法師かげぼうしと一緒いっしょに、一目散いちもくさんに走って来たことでした。実じつにそれはロバートとでも名の附つきそうなもじゃもじゃした大きな犬でした。
「ああ、いいな。」私どもは一度いちどに叫さけびました。誰だれだって夏海岸へ遊あそびに行きたいと思わない人があるでしょうか。殊ことにも行けたら、そしてさらわれて紡績工場ぼうせきこうじょうなどへ売られてあんまりひどい目にあわないなら、フランスかイギリスか、そう云う遠い所ところへ行きたいと誰も思うのです。
 私たちは忙いそがしく靴くつやずぼんを脱ぬぎ、その冷つめたい少し濁にごった水へ次つぎから次と飛とび込こみました。全まったくその水の濁りようときたら素敵すてきに高尚こうしょうなもんでした。その水へ半分顔を浸ひたして泳およぎながら横目よこめで海岸の方を見ますと、泥岩でいがんの向うのはずれは高い草の崖がけになって木もゆれ雲もまっ白に光りました。
 それから私たちは泥岩の出張でばった処ところに取とりついてだんだん上りました。一人の生徒はスイミングワルツの口笛くちぶえを吹ふきました。私たちのなかでは、ほんとうのオーケストラを、見たものも聴きいたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋ようひんやの蓄音器ちくおんきから来たのですけれども、恰度ちょうどそのように冷い水は流ながれたのです。
 私たちは泥岩層そうの上をあちこちあるきました。所々に壺穴つぼあなの痕あとがあって、その中には小さな円い砂利じゃりが入っていました。
「この砂利がこの壺穴を穿ほるのです。水がこの上を流れるでしょう、石が水の底そこでザラザラ動うごくでしょう。まわったりもするでしょう、だんだん岩が穿れていくのです。」
 また、赤い酸化鉄さんかてつの沈しずんだ岩の裂さけ目に沿そって、層そうがずうっと溝みぞになって窪くぼんだところもありました。それは沢山たくさんの壺穴つぼあなを連結れんけつしてちょうどひょうたんをつないだように見えました。
「こう云いう溝は水の出るたんびにだんだん深ふかくなるばかりです。なぜなら流ながされて行く砂利じゃりはあまりこの高い所ところを通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でしょう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦たての棒ぼうのようになっています。みんなこれです。」
「ああ、騎兵きへいだ、騎兵だ。」誰だれかが南を向むいて叫さけびました。
 下流かりゅうのまっ青さおな水の上に、朝日橋あさひばしがくっきり黒く一列れつ浮うかび、そのらんかんの間を白い上着うわぎを着た騎兵たちがぞろっと並ならんで行きました。馬の足なみがかげろうのようにちらちらちらちら光りました。それは一中隊ちゅうたいぐらいで、鉄橋てっきょうの上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭にだんだん橋を渡わたって行きました。「どごさ行ぐのだべ。」
「水馬演習すいばえんしゅうでしょう。白い上着を着ているし、きっと裸馬はだかうまだろう。」
「こっちさ来るどいいな。」
「来るよ、きっと。大てい向むこう岸ぎしのあの草の中から出て来ます。兵隊だって誰だれだって気持きもちのいい所へは来たいんだ。」
 騎兵はだんだん橋を渡り、最后さいごの一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思うと、またこっちの袂たもとから一人がだくでかけて行きました。私わたくしたちはだまってそれを見送みおくりました。
 けれども、全まったく見えなくなると、そのこともだんだん忘わすれるものです。私わたくしたちはまた冷つめたい水に飛とび込こんで、小さな湾わんになった所を泳およぎまわったり、岩の上を走ったりしました。
 誰かが岩の中に埋うもれた小さな植物しょくぶつの根ねのまわりに、水酸化鉄の茶いろな環わが、何重なんじゅうもめぐっているのを見附みつけました。それははじめからあちこち沢山たくさんあったのです。
「どうしてこの環わ、出来だのす。」
「この出来かたはむずかしいのです。膠質体こうしつたいのことをも少し詳くわしくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環はリーゼガングの環と云いいます。実験室じっけんしつでもこさえられます。あとで土壌どじょうのほうでも説明せつめいします。腐植質磐層ふしょくしつばんそうというものも似にたようなわけでできるのですから。」私は毎日の実習じっしゅうで疲つかれていましたので、長い説明が面倒めんどうくさくてこう答えました。
 それからしばらくたって、ふと私は川の向むこう岸ぎしを見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、互たがいによりかかるようにして一本の腕木うでぎでつらねられてありました。そのすぐ下の青い草の崖がけの上に、まさしく一人のカアキイ色の将校しょうこうと大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。
「来た、来た、とうとうやって来た。」みんなは高く叫さけびました。
「水馬演習すいばえんしゅうだ。向むこう側がわへ行こう。」こう云いながら、そのまっ白なイギリス海岸かいがんを上流じょうりゅうにのぼり、そこから向う側へ泳およいで行く人もたくさんありました。
 兵隊へいたいは一列れつになって、崖をななめに下り、中にはさきに黒い鉤かぎのついた長い竿さおを持もった人もありました。
 間もなく、みんなは向う側の草の生えた河原かわらに下り、六列れつばかりに横よこにならんで馬から下り、将校の訓示くんじを聞いていました。それが中々永ながかったのでこっち側に居いる私たちは実際じっさいあきてしまいました。いつになったら兵隊たちがみな馬のたてがみに取とりついて、泳いでこっちへ来るのやらすっかり待まちあぐねてしまいました。さっき川を越こえて見に行った人たちも、浅瀬あさせに立って将校の訓示を聞いていましたが、それもどうも面白おもしろくて聞いているようにも見え、またつまらなそうにも見えるのでした。うるんだ夏の雲の下です。
 そのうちとうとう二隻せきの舟ふねが川下からやって来て、川のまん中にとまりました。兵隊たちはいちばんはじの列から馬をひいてだんだん川へ入りました。馬の蹄ひづめの底そこの砂利じゃりをふむ音と水のばちゃばちゃはねる音とが遠くの遠くの夢ゆめの中からでも来るように、こっち岸ぎしの水の音を越こえてやって来ました。私わたくしたちはいまにだんだん深ふかい処ところへさえ来れば、兵隊へいたいたちはたてがみにとりついて泳およぎ出すだろうと思って待まっていました。ところが先頭の兵隊さんは舟ふねのところまでやって来ると、ぐるっとまわって、また向むこうへ戻もどりました。みんなもそれに続つづきましたので列れつは一つの環わになりました。「なんだ、今日はただ馬を水にならすためだ。」私たちはなんだかつまらないようにも思いましたが、また、あんな浅あさい処までしか馬を入れさせずそれに舟を二隻せきも用意よういしたのを見てどこか大へん力強い感じもしました。それから私たちは養蚕ようさんの用もありましたので急いそいで学校に帰りました。
 その次つぎには私たちはただ五人で行きました。
 はじめはこの前の湾わんのところだけ泳およいでいましたがそのうちだんだん川にもなれてきて、ずうっと上流じょうりゅうの波なみの荒あらい瀬せのところから海岸かいがんのいちばん南のいかだのあるあたりへまでも行きました。そして、疲つかれて、おまけに少し寒さむくなりましたので、海岸の西の堺さかいのあの古い根株ねかぶやその上につもった軽石かるいしの火山礫層かざんれきそうの処に行きました。
 その日私たちは完全かんぜんなくるみの実みも二つ見附みつけたのです。火山礫の層の上には前の水増みずましの時の水が、沼ぬまのようになって処々溜たまっていました。私たちはその溜り水から堰せきをこしらえて滝たきにしたり発電処はつでんしょのまねをこしらえたり、ここはオーバアフロウだの何の永ながいこと遊あそびました。
 その時、あの下流かりゅうの赤い旗はたの立っているところに、いつも腕うでに赤いきれを巻まきつけて、はだかに半天はんてんだけ一枚まい着きてみんなの泳ぐのを見ている三十ばかりの男が、一梃ちょうの鉄梃かなてこをもって下流の方から溯のぼって来るのを見ました。その人は、町から、水泳すいえいで子供こどもらの溺おぼれるのを助たすけるために雇やとわれて来ているのでしたが、何ぶんひまに見えたのです。今日だって実際じっさいひまなもんだから、ああやって用もない鉄梃なんかかついで、動うごかさなくてもいい途方とほうもない大きな石を動かそうとしてみたり、丁度ちょうど私どもが遊びにしている発電所のまねなどを、鉄梃まで使つかって本統ほんとうにごつごつ岩を掘ほって、浮岩うきいわの層のたまり水を干ほそうとしたりしているのだと思うと、私どもは実じつは少しおかしくなったのでした。
 ですからわざと真面目まじめな顔をして、
「ここの水少し干ほしたほういいな、鉄梃を貸かしませんか。」と云いうものもありました。
 するとその男は鉄梃でとんとんあちこち突ついてみてから、
「ここら、岩も柔やわらかいようだな。」と云いながらすなおに私たちに貸し、自分はまた上流じょうりゅうの波なみの荒あらいところに集あつまっている子供こどもらの方へ行きました。すると子供らは、その荒いブリキ色の波のこっち側がわで、手をあげたり脚あしを俥屋くるまやさんのようにしたり、みんなちりぢりに遁にげるのでした。私わたくしどもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らが鬼おにのようにこわがっているのだと思って遠くから笑わらって見ていました。
 さてその次つぎの日も私たちはイギリス海岸かいがんに行きました。
 その日は、もう私たちはすっかり川の心持こころもちになれたつもりで、どんどん上流の瀬せの荒い処ところから飛とび込こみ、すっかり疲つかれるまで下流かりゅうの方へ泳およぎました。下流であがってはまた野蛮人やばんじんのようにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまうと、また昨日の軽石層かるいしそうのたまり水の処に行きました。救助係きゅうじょがかりはその日はもうちゃんとそこに来ていたのです。腕うでには赤い巾きれを巻き鉄梃も持もっていました。「お暑あつうござ※す。」私が挨拶あいさつしましたらその人は少しきまり悪わるそうに笑って、
「なあに、おうちの生徒せいとさんぐらい大きな方ならあぶないこともないのですが一寸ちょっと来てみたところです。」と云うのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんとうに少かったのです。もちろん何かの張合はりあいで誰だれかが溺おぼれそうになったとき間違まちがいなくそれを救すくえるというくらいのものは一人もありませんでした。だんだん談はなしてみると、この人はずいぶんよく私たちを考えていてくれたのです。救助区域くいきはずうっと下流の筏いかだのところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにもいかず、時々別べつの用のあるふりをして来て見ていてくれたのです。もっと談はなしているうちに私はすっかりきまり悪くなってしまいました。なぜなら誰でも自分だけは賢かしこく、人のしていることは馬鹿ばかげて見えるものですが、その日そのイギリス海岸かいがんで、私わたくしはつくづくそんな考かんがえのいけないことを感かんじました。からだを刺さされるようにさえ思いました。はだかになって、生徒せいとといっしょに白い岩の上に立っていましたが、まるで太陽たいようの白い光に責せめられるように思いました。全まったくこの人は、救助区域きゅうじょくいきがあんまり下流かりゅうの方で、とてもこのイギリス海岸まで手が及およばず、それにもかかわらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、殊ことに小さな子供こどもらまでが、何べん叱しかられてもあのあぶない瀬せの処ところに行っていて、この人の形を遠くから見ると、遁にげてどての蔭かげや沢さわのはんのきのうしろにかくれるものですから、この人は町へ行って、もう一人、人を雇やとうかそうでなかったら救助の浮標ブイを浮うかべてもらいたいと話しているというのです。
 そうしてみると、昨日きのうあの大きな石を用もないのに動うごかそうとしたのもその浮標の重おもりに使つかう心組こころぐみからだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにも溺おぼれた人もあり、下流の救助区域でさえ、今年になってから二人も救すくったというのです。いくら昨日までよく泳およげる人でも、今日のからだ加減かげんでは、いつ水の中で動けないようになるかわからないというのです。何気なく笑わらって、その人と談してはいましたが、私はひとりで烈はげしく烈しく私わたくしの軽率けいそつを責せめました。実じつは私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛とび込こんでいって一緒いっしょに溺れてやろう、死ぬことの向むこう側がわまで一緒についていってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻いっこくがそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪わるいことだとは決けっして思いませんでした。
 さてその人と私らは別わかれましたけれども、今度こんどはもう要心ようじんして、あの十間けんばかりの湾わんの中でしか泳ぎませんでした。
 その時、海岸のいちばん北のはじまで溯のぼって行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻もどって来ました。
「先生、岩に何かの足痕あしあとあらんす。」
 私はすぐ壺穴つぼあなの小さいのだろうと思いました。第だい三紀きの泥岩でいがんで、どうせ昔むかしの沼ぬまの岸きしですから、何か哺乳類ほにゅうるいの足痕あしあとのあることもいかにもありそうなことだけれども、教室でだって手獣しゅじゅうの足痕あしあとの図まで黒板こくばんに書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合ぐあいに見えたんだと思いながら、あんまり気乗きのりもせずにそっちへ行ってみました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまいました。みんなも顔色を変えて叫さけんだのです。 白い火山灰層かざんばいそうのひとところが、平たいらに水で剥はがされて、浅あさい幅はばの広い谷のようになっていましたが、その底そこに二つずつ蹄ひづめの痕あとのある大おおきさ五寸すんばかりの足あとが、幾いくつか続つづいたりぐるっとまわったり、大きいのや小さいのや、実じつにめちゃくちゃについているではありませんか。その中には薄うすく酸化鉄さんかてつが沈澱ちんでんしてあたりの岩から実にはっきりしていました。たしかに足痕が泥どろにつくや否いなや、火山灰がやって来てそれをそのまま保存ほぞんしたのです。私ははじめは粘土ねんどでその型かたをとろうと思いました。一人がその青い粘土も持もって来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ふかすぎるので、どうもうまくいきませんでした。私は「あした石膏せっこうを用意よういして来よう」とも云いいました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切り取とって、そのまま学校へ持って行って標本ひょうほんにすることでした。どうせまた水が出れば火山灰の層そうが剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構かまわないでおいてもすぐ壊こわれることが明らかでしたから。
 次つぎの朝早く私わたくしは実習じっしゅうを掲示けいじする黒板にこう書いておきました。

     八月八日
農場のうじょう実習 午前八時半より正午まで
  除草じょそう、追肥ついひ   第だい一、七組
  蕪菁かぶら播種はしゅ    第三、四組
  甘藍かんらん中耕ちゅうこう    第五、六組
  養蚕ようさん実習    第二組
(午后ごごイギリス海岸かいがんに於おいて第だい三紀き偶蹄類ぐうているいの足跡標本そくせきひょうほんを採収さいしゅうすべきにより希望者きぼうしゃは参加さんかすべし。)

 そこで正直を申もうしますと、この小さな「イギリス海岸かいがん」の原稿げんこうは八月六日あの足あとを見つける前の日の晩ばん宿直室しゅくちょくしつで半分書いたのです。私わたくしはあの救助係きゅうじょがかりの大きな石を鉄梃かなてこで動うごかすあたりから、あとは勝手かってに私の空想くうそうを書いていこうと思っていたのです。ところが次つぎの日救助係がまるでちがった人になってしまい、泥岩でいがんの中からは空想よりももっと変へんなあしあとなどが出てきたのです。その半分書いた分だけを実習じっしゅうがすんでから教室でみんなに読みました。
 それを読んでしまうかしまわないうち、私たちは一ぺんに飛とび出してイギリス海岸へ出かけたのです。
 丁度ちょうどこの日は校長も出張しゅっちょうから帰って来て、学校に出ていました。黒板こくばんを見てわらっていました、それから繭まゆを売るのが済すんだら自分も行こうと云いうのでした。私たちは新らしい鋼鉄こうてつの三本鍬ぐわ一本と、ものさしや新聞紙などを持もって出て行きました。海岸の入口に来てみますと水はひどく濁にごっていましたし、雨も少し降ふりそうでした。雲が大へんけわしかったのです。救助係に私は今日は少しのお礼れいをしようと思ってその支度したくもして来たのでしたがその人はいつもの処ところに見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日きのうの処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石かせきを掘ほりはじめました。気がついてみると、みんな大抵たいていポケットに除草鎌じょそうがまを持ってきているのでした。岩が大へん柔やわらかでしたから大丈夫だいじょうぶそれで削けずれる見当がついていたのでした。もうあちこちで掘り出されました。私はせわしくそれをとめて、二つの足あとの間隔かんかくをはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて取とろうとしている人もありましたし、も少しのところでこわした人もありました。 まだ上流じょうりゅうの方にまた別べつのがあると、一人の生徒せいとが云って走って来ました。私は暑あついので、すっかりはだかになって泳およぐ時のようなかたちをしていましたが、すぐその白い岩を走って行ってみました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがい、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと退ひいたらまだまだ沢山たくさん出るだろうと思われました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命掘ほり取とっているのを見ますと、こんどはそこは英国えいこくでなく、イタリヤのポンペイの火山灰かざんばいの中のように思われるのでした。殊ことに四、五人の女たちが、けばけばしい色の着物きものを着て、向むこうを歩いていましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白に照てってきたからでした。
 いつか校長も黄いろの実習服じっしゅうふくを着て来ていました。そして足あとはもう四つまで完全かんぜんにとられたのです。
 私わたくしたちはそれを汀みぎわまで持もって行って洗あらいそれからそっと新聞紙に包つつみました。大きなのは三貫目がんめもあったでしょう。掘り取るのが済すんであの荒あらい瀬せの処ところから飛とび込こんで行くものもありました。けれども私はその溺おぼれることを心配しんぱいしませんでした。なぜなら生徒せいとより前に、もう校長が飛び込んでいてごくゆっくり泳およいで行くのでしたから。
 しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきも申もうしましたようにこれは昨日きのうのことです。今日は実習じっしゅうの九日目です。朝から雨が降ふっていますので外の仕事しごとはできません。うちの中で図を引いたりして遊あそぼうと思うのです。これから私たちにはまだ麦むぎこなしの仕事が残のこっています。天気が悪わるくてよく乾かわかないで困こまります。麦こなしは芒のぎがえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。百姓ひゃくしょうの仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云いいます。この辺へんではこの仕事を夏の病気びょうきとさえ云います。けれども全まったくそんな風に考えてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ面白おもしろくそれをやろうと思うのです。(一九二三、八、九、)



青空文庫より引用