老婆


 老婆は眠っているようだ。茫然ぼんやりとした顔付かおつきをして人が好よさそうに見みえる。一日中古ぼけた長火鉢の傍に坐って身動きもしない。古い煤すすけた家うちで夜になると鼠が天井張てんじょうばりを駆け廻る音が騒々しい。障子の目は暗く紙は赤ちゃけているが、道具というものはこの長火鉢の外に何もなかった。私は終日外に出て家にいることが稀だから、何様どんなものを食べているか食事するのを見たことがない。私はただ二階の六畳を借りているばかりで、食事はすべて外で済すまして帰る。私が遅く帰る時分には、暗いランプの下に老婆は茫然と坐っている。それが朝出る時に見たと同じ方面に対して同じ様子で少しも変りがない。
 私が借りた二階の六畳の壁は青い紙で貼はってあった。高窓が表向おもてむきになって付いているばかりで、日も当らない、斯様こう汚らしい処を借かりるつもりでなかったが、値段が安くて、困っている当時のものだからつい入ることにしてしまった。私が間まを見に来た時も、やはり婆さんはこうやって坐っていた。婆さん一人で住んでいるのかと聞いたら、やはりそうだと答えた。子も孫もないようだ。何どうして食って行くのか分らない。何もせずに坐っているばかりだ。私はただ間を借りたばかりで家では飯も食わないのだから話す機会もない。夜遅く帰かえって朝早く務めに出てしまうばかりだ。それでも気味悪く思ったものだから、工場から帰える時に二尺ばかりの鉄棒かなぼうを一本持って帰って戸棚の隅すみに隠して置いた。けれど婆さんは決して二階などへ上って来たことはない。私も別に下りて行いって話しかけたこともない。偶々たまたま便所に行く時など下へ降ると婆さんは暗いランプの下で眤じっと彼方あちらを向いて黙って坐っている。私も声をかけなければ婆さんも声をかけたことがない。その時ちらと横顔を覗くと茫然とした顔付で、何処どこか優しみのある、決して悪相あくそうを備えている人柄の悪い婆さんでないと思うので、日頃婆さんを気味悪く思ったり、悪く思っているのが気の毒になって、つい、
「お静しずかな晩ですね。」と声をかけてしまう。すると婆さんは、きっと小さな咳をつづけさまに三つばかりやって、
「そうな……静かな晩だな。」と答える。その声がなんでも何処か、誰かに似ているなと思うが、未いまだにその人のことが考え出されない。私は、その儘まま頭を傾げて便所に行き又二階へ上ってしまう。二階へ上ってしまってから、婆さんの声が誰かに似ている――何なんでもその似ている人というのが自分と曾かつて直接に物を言ったことのある人らしく思われた――誰だったろうと考える。遂に思い出せなく、何なに気のせいだといって寝てしまう。下では何時いつ頃婆さんが眠るものか、……それとも夜中よじゅうああやって、やはり坐り通して明あかすのかも知れないが、明あくる朝起きて下へ降りて見る頃には、きっといつもの様子で、同じ方角に向いて坐っているのである。しかし私は決して真夜中には下へ降りなかった――たとえ、人の好よさそうな婆さんでも何だか空怖しい気がして下おりる気になれない。婆さんの頭は白髪しらがである。それに平常へいぜいは汚れた手拭てぬぐいを被って、紺ぽい手織縞の綿入わたいれを二枚重ねていた。
 私が、間を借りたのは秋の末で冬に近かった。もう霙みぞれが降る季節であった。けれど婆さんの坐っている傍の古ぼけた火鉢にはたえず火種のあったことがない。絶対的に火を起おこさないものと思われた。私は夜帰って来て火を起すのも大儀だから直ぐ毛布ケットにくるまって寝てしまう。朝は早く飛び出して、工場へ行き石炭の火の赤く燃え上ったので温あたたまる――だから、此家ここに限って火の気というものが一年たったってありやしない。とても此様こんな家には長くいられない。早く逃げ出そう逃げ出そうと思っていて、間代まだいの安いのと、婆さんが決して悪者ではないと思ったので急がずに、もはや来てから二週間ばかりも過ぎた。或日私は、それでも家を探たずねようと思ってぶらぶら寂しい町を歩いていた。
 この日は空は灰色に曇って、風が寒かった。道行く人の姿は悄然しょんぼりとして、折々おりおり落葉を巻いて北風が氷雨ひさめを落した。私は、貸間の張札を探ねて、遂に探ねあぐんで疲れた足を引摺ひきずって町端まちはずれの大きな病院の石垣の下に来ると彼方に歩いて行く後姿はまさしく我家の婆さんである。 ハテ不思議な、今迄あの婆さんの家出をしたのを見たことがないが、今日に限って何処へ行ったのだろう。もう帰る途みちなのか、それともこれから用をたしに行くのか、それとも自分がいない留守には毎日このように出歩くのかも知れない……などといろいろに考えて見た。けれどあの婆さんが出るようなことは決してない筈だと思った。ただ固くそう信じたのである。正しく人違いであろうと彼方に杖を突きながら、とぼとぼと行く婆さんの後を追って見た。漸ようやく近づいて見るとやはり婆さんだ。白髪頭に手拭を被って、見慣れたままの様子である。其処そこは病院の横手で長い石垣がつづいている。このあたりは風が寒いので此様日には人通ひとどおりの稀まれな処である。私は声をかけようかとしたが思い止とまった。で反対の方向に走った。私は遽にわかに好奇心が湧いた――早く家に帰って留守の間に、総すべての秘密を探ってやろう、大股に歩いて家に帰るといつの間にやら婆さんは私よりも先に帰って、やはり彼方むこう向きになって黙って坐っていた。私はどっきりと胸に応えて、何も口に出す勇気がなく二階に上あがるとどっかと其処に疲れた足を投げ出して、両手を組んで考えざるを得なかった。
 いったい下の婆ばばあは何者だろう――却かえって茫然とした、あの罪がないような顔が、獰悪どうあくの面構つらがまえよりも意味ありげに思われて、一刻も居堪いたたまらない。それから私は思う所あって、今自分が現にいる室へやの裡うちを隅から隅まで一々いちいち検しらべて見た。けれど青い壁紙と、いつ張り換えたか分らない黒く煤すすけた障子が目に映るばかりで、戸棚の隅などには埃ほこりが溜っている。鼠の喰い破った穴が明いていて蜘蛛の巣が天井張にかかって吊下ぶらさがっているのを見たばかり……次に私は畳の上を検べて見たが、これとて、湿気臭いばかりで隅の足跡の触らぬ方が白く黴かびている。しかし私が心配したような血痕などは目に入らなかった。もうこの畳は幾十年たったか分らぬ程古かった。又青紙の貼はってない黄色な壁の上には優曇華うどんげが咲いていた。この花が咲くというと常と変ったことがあるという。……
 晩方ばんがた、私は便所に行く時二階を下りて、婆さんに「大変寒くなりましたね。」と問いかけると、婆さんは又例の小さな咳を三つばかりやって、枯れた手で眼肉めじしの落ち窪んだ両眼りょうめを擦こすって、
「ア、大分寒くなったな。」といったばかり。
 この時、私はやはり普通の婆さんでしかないというより他は思われなかった。何んで悪魔なもんか……普通の人の好い婆さんだと思った。明る日、私は鉄工場へ行った時仲間の者に向って、
「何処か安い間があったら移りたいと思うから探してくれませんか……何なあに今日や明日でなくってもいそがなくてもよいのだから。」といった。
 晩方家へ帰ると、その晩から私は発熱がして頭が重くなった。風をひいたのだ。明る日は工場を休んで臥ねていた。また便所に行く時下りて、婆さんに今日は風をひいたから休んだといったら、それは罪のない笑い方をやって、
「へへへへへ。」と笑って、やはり枯れた指頭ゆびさきで窪んだ両眼を擦って、決して気の毒だとも何ともいわなかった。
 昼頃再び二階を下りた時に、私は、
「昨夜ゆうべ雨戸を閉めるのを忘れて眠ねむったので風をひいたのだ。今日は咽喉のどが腫れましたよ。」と語ると婆さんはさも嬉しそうに、喜よろこばしそうに以前よりも、もっと罪がなさそうに、
「へへへへへへへへへ。」と笑って、枯れた指頭で両眼を擦っている。私は、
「この婆は冷酷な婆だな。」と白眼はくがんで睨んでやった!
 腹立しく思って、私は二階へ上ると青い室の裡で臥ていて、ばたばたやって熱のために苦しんだ。青い室が一時は黄色く見えて、熱のため眼の心しんが痛んだ。薄暗い室の中が熱臭くなって、むうむうとする。私は毛布を頭から被って耳朶みみたぶの熱するのを我慢して早く風を癒なおそうと思って枕や、寝衣ねまきがびっしょり湿ぬれる程汗を取った。これで明日は癒りそうだ。ドラ腐敗した空気を新鮮な空気に入れ換ようと高窓を開けにかかると足がふらふらして床の上に倒れた。まだ日暮前であった。その儘私は、腐った空気の中で、五体が疲れたためすやすやと二三時間程眠ったのである。眼が醒めた時には、もう暗くなっていた。
 高窓には、青い月の光りが射している。戸外そとは霜が降って寒いと見みえて往来を通る人の下駄の音が冴えて聞える。まだ宵の口には相違ない。私はランプを点ともそうと思って、手探りに四辺あたりを探したが分らなかった。で、二階を降りて下を見ると、暗い飴色のランプの下に白髪頭の老婆は、やはりいつもと同じ方向に対むかって茫然ぼんやりとして坐っている。勿論もちろん長火鉢に相変らず火の気がなかった。身を切るように寒さが膚はだえに浸みた。老婆は、痩せ細った手をきちんと膝の上に重ねている――この時私は老婆の向いている方向には、何なんかあるのでないかと思ったから、その方を見たが何もない。ただその方角は鬼門で歳破金神さいはこんじんに当っていると思ったことと、暗いランプの光りに照されて隅の煤けた柱に頭の磨り切れた古箒ふるほうきが下っていた。私は婆さんが、あの箒を見ているのかと思った。「どうも苦しくて死にそうでしたよ。」と唐突だしぬけにいって、私は出来るだけ婆さんを驚かして、今少し複雑な情味ある話を聞きたいと思った。婆さんは、また罪のない(私にはそう見える)笑いをやって、
「へへへへへへへへ。」といって皺の寄った顔と凹んだ眼のあたりを枯れた血の気のない手で撫廻なでまわした。
「ひどい熱でした。死ぬかと思いました。」と極めて誇張して言って、何どういうか婆さんの返事が聞きたかった。けれど婆さんは少しも騒いだ様子も見せずにへへへへと笑って、たえず顔を撫で廻している。若もしこの婆さんの笑いが毒々しい笑いで、面付つらつきが獰悪どうあくであったら私はこの時、憤怒ふんどして擲なぐり飛とばしたかも知れない。いくら怖しいといったって、たかが老耄おいぼれた婆ばばあでないか。けれどその笑いがいかにも罪がなく、無邪気であった。で、何処か私の死んだ婆さんに似た処があって恍然おっとりした処がある。私は、この老婆は果して罪のない老婆であろうか。それとも斯様こんなに罪なげに見えるがその実腹の怖しい婆であるのか分らなかった。
 兎とに角かくこの笑いは謎だ! と思った。
「医者にかかれば金が入るし困ったものだ。この分ではまだ明日も癒りそうもない。」といった。けれど斯様ことを言ったって、老婆はちっとも感じなかった。へへへへへへと無気味に笑って、ひからび切きった手で顔を撫で廻している。
 私はまた死んだ祖母に向って話しているような気がして、罪のない仏様のような婆さんだとも思った。
 けれども決してそうでない! 先日病院の石垣の下で遇あったことや家に道具一つないことや、いつもこうやって坐っていて、食物たべものを食った様子も見ないことや、長火鉢に火の気のないことや――而そしてこの老婆は子も孫もなく一人で生きているということを考えた時、私はもはやこの老婆に捕われてしまって、到底この家やから逃出すことが出来ない運命に陥っているように感ぜられた。
 何、自分はただこの家うちの二階を借りているばかりだ。明日にも直ぐ逃げ出すことが出来るのだ。と思い直しても見たが何どうやら不安で、とてもこの老婆との関係が切れないようにも思われる。否いな決して関係でない。――其処に何なにも親しく語ったこともなけれや、世話になったこともない。少しばかりでも関係のあろう筈がない。ただ私はこの老婆を忘れることが出来ないのだ。
 然しかり、とてもこの老婆を忘れることが出来ない。きっとこの老婆の姿が私の目先に附き纏っているばかりでなく、常に気にかかって私の心が支配せられるだろうと考えた。
 私は、火の気のない火鉢の側に坐って、老婆と向い合って、つらつら其様そんなことを思うとこの老婆が憎くなった。
 一つ困らしてやろうという念が萌きざした。
「お婆さん、何か薬がありませんか、苦しくてこうやって居おられません。何か一つ薬を下さいな。」
といって、とても薬なんか持もっていないということを知りぬいているから、どういう返事をするか聞きたかった。婆さんは、少しも顔の相そうを変えなかった。へへへへと笑いながら、枯れた手を延ばすかと思うと膝頭の火鉢の抽出ひきだしを引き出した。私は慄ぞっとして身に寒気を感じた。尚なお延び上って、暗いランプの光りで抽出しを見詰みつめた。婆さんは中から薄青い紙に包んだものを取出して、冷つめたな調子でいった。
「私は持病が起るとこれを飲むと骨節の痛むのが止とまる。これは病院にいる人がくれた毒薬じゃ。これを飲めば一思ひとおもいに楽になるからそうなさい。」と私の手に渡した。
 よく見みると、アヘンだ。私は頭から冷水を浴びせられたよりも戦ふるい上ったが、此処ここだと思って、度胸を据えて、戦える指頭で皺になった薄青い袋から小さな紙包を摘つまみ出して、包を開いて見ると中に白い粉薬が小指の頭程入っていた。私はその白い粉薬を見詰めて、何といってよいか。この時こそ婆さんは落窪んだ眼を箒から放して、私の顔の上に落していた。
 何? 戸棚の隅には鉄棒かなぼうが隠してあるんだ! と心に幾たびか叫んで見たが、この粉薬から眼を放してきっと老婆の顔を見返す勇気が出なかった。私は白い粉薬を見詰みつめていると、漸々だんだん気が変になって、意識が茫然として来て、この儘この粉薬を自分の口に入れはしまいかと疑った。――この時私は敢て顔を上げては見なかったが――。
 老婆は私が何どうするかと思って、冷かに睨んでいるのが瞭々ありありと分った。
 もう大分夜が更けたらしい。



青空文庫より引用