消えた美しい不思議なにじ


 それは、ここからは見みえないところです。
 そこには黒くろい、黒くろい河かわが流ながれています。どうしたことか、その河かわの水みずは真まっ黒くろでありました。河かわが真まっ黒くろであったばかりでなく、河原かわらの砂すなもまた真まっ黒くろでありました。そして、その河かわは音おともたてずに、また真まっ黒くろな大おおきな森もりの中なかをくぐって、いずこともなく流ながれているのでありました。
 空そらの色いろは、夜よるともつかず、また昼ひるともつかずに、うす暗ぐらくぼんやりとしていました。ただ、ため息いきのように、風かぜが吹ふいて、忍しのび足あしにどこへかいくのでありました。そして、そのところには、生いき物ものというものは、なにひとつ動うごいている姿すがたを見みることができませんでした。ただ河原かわらを怪あやしげな女おんなが歩あるいているばかりでありました。
 いったい、この怪あやしげな女おんなはなにものでありましょうか。年としをとっているのか、また、そんなに年としをとっていないのか、見みただけではわかりませんでした。顔かおも肩かたさきも、その長ながい真まっ黒くろな髪かみの毛けに隠かくれていてよく見みることができませんでした。
 たまたま髪かみの毛けの間あいだから血ちの気きのない顔かおが現あらわれたかと思おもうと、ガラス球だまのように光ひかった目めが、氷こおりのように冷つめたくあたりを見みまわしていたのであります。
 この怪あやしげな女おんなは、灰色はいいろの着物きものを着きていました。そして、めったに笑わらうこともありませんでした。女おんなは、やせて骨ほねばかりになった手てをのばして足あしもとの真まっ黒くろな砂すなをすくいました。そして、なにか口くちの中なかで唱となえながら、それを空そらに向むかって投なげていました。また、あるときは、その河かわの真まっ黒くろな水みずを柄えの長ながい杓子しゃくしですくっては、やはりなにやら口くちの中なかで唱となえながら、それを空そらに向むかってまいていました。そして、その後あとでさも心地ここちよさそうに、げらげらと笑わらっていたのです。 この怪あやしげな女おんなは姉あねのほうでありました。
「こうして、わたしは、わざわいの砂すなや、水みずをまいてやる。これはみんな下界げかいに落おちていって人間にんげんどもの頭あたまにふりかかる。この砂すなのかかったものには不平ふへいがつづき、この水みずのかかったものは死しんでしまうだろう。わたしは、みんなが不平ふへいに苦くるしみ、そして死しんでしまうことを望のぞんでいる。わたしはこんな醜みにくい姿すがたに生うまれてきた。この宇宙うちゅうの、ありとあらゆる生いき物ものの命いのちをのろってやる。そうだ、みんな滅ほろぼしてしまうまでは、こうして、わざわいの砂すなと死しの水みずをふりまくことをやめはしない。」と、灰色はいいろの着物きものを着きた姉あねのほうがいいました。そして、彼女かのじょは砂すなをまき、水みずをまいていました。
 ここは、また別べつのところであります。
 そこには水晶すいしょうのように清きよらかな流ながれがありました。そして、その河原かわらの砂すなは黄金こがねのごとく光ひかっていました。大空おおぞらはいつもうららかに晴はれて、いい香においのする紫むらさきや、赤あかや、青あおや、白しろの花はなが一面めんに咲さいていました。太陽たいようの光ひかりは、その河水かわみずの上うえにも、花はなの上うえにも、また砂すなの上うえにもいつもあふれていました。
 東雲しののめの空色そらいろのような、また平和へいわな入いり日ひの空色そらいろのような、うす紅あかい色いろの着物きものをきた少女しょうじょが、この楽園らくえんを歩あるいていたのです。その少女しょうじょは妹いもうとのほうでありましたけれど、ようすも心こころも、まったく姉あねとは反対はんたいでありました。妹いもうとはこのうえなく美うつくしく、また快活かいかつでありましたから、すべての命いのちあるものにはかわいがられていたのです。
 彼女かのじょがその星ほしのような瞳ひとみをじっと落おとすと、花はなは生いき生いきとして香かおりました。河水かわみずは声こえをたてて笑わらいました。そして光ひかる砂すなは、いっそうきらきらと輝かがやいて見みえたのでありました。少女しょうじょは、白しろい柔やわらかな手てで金色こんじきの砂すなをすくいました。そして、それを清きよらかな水みずの中なかに投なげています。「どうかこの幸福こうふくがめぐりめぐって、すべての命いのちあるものの上うえに宿やどるように。みんなが幸福こうふくで、平和へいわで仲なかよく暮くらすように。」といっては、その黄金色こがねいろに光ひかる砂すなを河かわの流ながれに投なげていました。清きよらかな水みずの中なかが、たちまち炎ほのおの燃もえたつように明あかるく輝かがやいて見みえました。そして幸福こうふくのにじは、遠とおく河かわの中なかからわきあがって、下界げかいにまで、長ながい橋はしを懸かけていたのでありました。
 このにじが空そらにかかると、下界げかいに幸福こうふくが降ふったのであります。
 ある日ひ、暗くらい空そらのかなたに、美うつくしいにじのたつのを怪あやしげなふうをした姉あねが見みました。そしてガラス球だまのような、冷ひややかに光ひかる目めでじっとそれを見みていましたが、やがて舌打したうちをして、いまいましそうにいいました。
「ほんとうに憎にくい妹いもうとめだ。わたしが、こうして下界げかいのものを苦くるしめ困こまらしてやろうといっしょうけんめいに、黒くろい砂すなをまいたり、河水かわみずをまいたりしているのに、あちらではその邪魔じゃまをしている。あんなに幸福こうふくのにじがかかった。またそれだけ下界げかいの滅ほろびるのが長引ながびくわけだ。よし、妹いもうとがそういうようにみんなを守まもる気きなら、わたしはいっそう根気こんきよくみんなをのろってやろう。」と、姉あねはいいました。そして、夜よるも、昼ひるも、小止おやみなく砂すなをまき、水みずをまいていました。
「もう、ずいぶんわたしは、こうしてわざわいの砂すなをまいたり、水みずをまいたりした。たいてい下界げかいのものどもは滅ほろびる時分じぶんであろうと思おもうが、どうであろうか。あのりこうなからすは、どうしたかやってこない。また、あの智慧ちえのあるふくろうはどうしたか、とんと姿すがたを見みせない。あの二人ふたりがやってきたなら、そのようすは知しれるだろう。」と、姉あねは独ひとり言ごとをしていました。
 するとある日ひのこと、黒くろい森もりのかなたで、からすのなき声ごえがしました。
「あのからすめがやってきたな。」と、姉あねは耳みみをそばだて、口くちもとに気味きみの悪わるい笑わらいを見みせました。すると翼つばさの音おとがして、大おおきな一羽わのからすが降おりてきました。「よくやってきた。おまえのくるのを待まっていた。下界げかいのようすはどうだ。」と、姉あねはからすに向むかってたずねました。
「私わたしはちょうど三百歳さいになります。だいぶん年としをとりました。前まえは百五十日にちめでここまできましたのが、二百十日とおかもかかります。下界げかいは、戦争せんそうがあったり、地震じしんがあったり、海嘯つなみがあったり、また饑饉ききんがありまして、人間にんげんは幾いく百万人まんにんとなく死しんでいます。けれど、まだなかなか滅ほろびるようなことはありません。」と、からすは答こたえました。
 髪かみの毛けの長ながい、灰色はいいろの着物きものを着きた姉あねは黙だまって聞きいていましたが、
「おまえは下界げかいを立たったのは、二百十日とおか前まえだ。それまでにわたしは、どれほど砂すなや水みずをまいたかしれない。いまごろはもっとたくさんな人間にんげんや生いき物ものが死しんでいるだろう。その後ごのようすが知しりたいものだ。」と、姉あねはいいました。
 年としとったからすは、長ながい旅たびに疲つかれて、杭くいに止とまって居眠いねむりをしていました。姉あねは、黒くろい河かわからへびのような長ながい魚さかなをとって、からすに食くわせました。からすはまた下界げかいに向むかって旅立たびだちをしたのであります。
 からすが去さってから、約やく十日とおかめにふくろうが帰かえってきました。
「その後ごの下界げかいのようすはどんなであるか。」と、姉あねはききました。
「悪病あくびょうが流行りゅうこうしています。その伝染でんせんの速はやさといったら風かぜのようであります。この分ぶんなら人間にんげんがみんな死しに絶たえてしまうであろうと思おもいます。」と、ふくろうはいいました。
 姉あねはこれをきくと、たいそう喜よろこびました。
「きっと、そのことは、あのおいぼれたからすめの立たった後のちのできごとであろう。」といって、姉あねは河かわの中なかから、長ながいへびのような黒くろい魚さかなをいくつもとって、ふくろうにやっていたわりました。
 ふくろうは、黒くろい森もりの王おうさまにされました。
 幸福こうふくを下界げかいに贈おくろうと思おもって、いっしょうけんめいに黄金色こがねいろに輝かがやく砂すなを河かわの中なかに投なげていました妹いもうとは、もうこれほどまでに幸福こうふくを送おくったことだから、きっと下界げかいはどんなにか幸福こうふくがゆきわたっていることだろうと思おもいました。「あの元気げんきのいいはとはまだ帰かえってこないだろうか。あれがきたら、すべてのようすがわかるのだが。」と、妹いもうとはよく晴はれわたった空そらをながめていいました。
 ある日ひのこと、まだ太陽たいようが出でない前まえでありました。頭あたまの上うえに翼つばさの音おとが聞きこえたかと思おもうと、美うつくしい白しろばとが大空おおぞらをまわりながら地ちの上うえに降おりてきました。
「お早はよう。おまえの元気げんきのいい顔かおを見みると、わたしの心こころまでせいせいします。なにかいい報知しらせを持もってきたことと思おもうが、きかせておくれ。」と、妹いもうとは、はとに向むかっていいました。
 白しろばとは、円まるい目めをみはりながら、若わかい女神めがみの顔かおを見みていましたが、
「それは下界げかいはにぎやかなものでございます。毎日毎日まいにちまいにち、たくさんな婚礼こんれいがあって、祝いわいの鐘かねが鳴なり響ひびいています。また、なにかのお祭まつりがあって、そのたびに花火はなびの音おとが、あちらでも、こちらでもしています。また、後あとから後あとからと人間にんげんの家うちでは子供こどもが産うまれています。この分ぶんでゆきましたら、下界げかいはやがて幸福こうふくでいっぱいになって、人間にんげんはみんな命いのちの短みじかいのを恨うらむばかりであります。」と申もうしました。
 妹いもうとは笑わらって、はとのいうことを聞きいていましたが、
「それでは、わたしの思おもいがついにかなったというものだ。ああ、こんなうれしいことはない。あのいじ悪わるの姉あねがいくら、みんなを不幸ふこうに陥おとしいれようとしても、ついに愛あいの力ちからには勝かてなかった。それでこの宇宙うちゅうは正ただしい目的もくてきを果はたしたというものです。」と、妹いもうとは、喜よろこんでいいました。
 そのうちに、また、ある日ひのこと、かわいらしいひばりが帰かえってきました。妹いもうとは、ひばりの長ながい旅たびをいたわりました。そして、ひばりに下界げかいの有あり様さまをたずねました。
「ご安心あんしん遊あそばしてください、下界げかいは穀物こくもつがすきまもなく、野のに、山やまに、圃はたにしげっています。また樹々きぎには果物くだものが重かさなり合あって実みのっています。みんなは自分じぶんたちが食くいきれぬほど収穫しゅうかくのあるのを喜よろこんでいます。その有あり様さまは、とてもこの天国てんごくの楽園らくえんの有あり様さまどころではありません。」と、ひばりは、驚おどろいたふうをしていいました。「なに、この楽園らくえんよりも、もっと下界げかいは美うつくしいというのか?」と、妹いもうとは、美うつくしい目めを大おおきくしてたずねられました。
「人間にんげんは、このごろいろいろの花はなを、自分じぶんたちで変化へんかをさせる術じゅつを覚おぼえたので、みごとに咲さかしています。あんな美うつくしい花はなは、この天国てんごくにきましても容易よういに見みることはできません。」と、ひばりは申もうしました。
 妹いもうとの女神めがみは、黙だまってひばりのいうことを聞きいていました。そのうちに、自分じぶんも一度ど下界げかいへいって、その有あり様さまを一目ひとめ見みてきたいものだと思おもわれたのであります。
 ついに妹いもうとは、下界げかいへゆく決心けっしんをしました。けれど、そのようすでは途中とちゅう、風かぜや、雲くもや、雨あめや、また多おおくの星ほしなどに、どこへゆくかと目めについてたずねられることをうるさく思おもいましたから、はとに姿すがたを変かえてゆくことにしました。
 ある日ひのこと、彼女かのじょはまっすぐに下界げかいを目めがけて飛とんできました。
 高たかい山やまが目めに入はいり、ついで、いろいろの建物たてものが目めに入はいるように近ちかづきました。すると、円まるい屋根やねもあれば、またとがったのもありました。赤あかい色いろで塗ぬった建物たてものもあれば、白しろい色いろで塗ぬった建物たてものもあれば、青あおい色いろで塗ぬられた建物たてものもあります。五階かいも十階かいもある大おおきな家いえもあれば、またこぢんまりとしたきれいな家いえもありました。はとのいったように、いい音楽おんがくの音色ねいろが街まちの中なかから流ながれていました。そして夜よるになると、街まちは一面めんに美うつくしい燈火ともしびの海うみとなったのであります。
「こんなに美うつくしいとは思おもわなかった。」と、妹いもうとは驚おどろきました。
 夜よが明あけると、人々ひとびとは、きれいなふうをして自動車じどうしゃに乗のったり、馬車ばしゃに乗のったり、また電車でんしゃに乗のったりして往来おうらいしていました。「なるほど、みんなはしあわせであるらしい。」と、妹いもうとは喜よろこびました。
 そのとき、ふとしたきたないふうをした人間にんげんが、はだしでみんなの通とおる間あいだを、とぼとぼと歩あるいていました。
「あの人間にんげんは、どうしたのだろう。」と、妹いもうとは思おもいました。自分じぶんの投なげた幸福こうふくの砂すなが独ひとりこの人間にんげんにだけかからないはずはない。それにしても、この貧まずしげな有あり様さまはどうしたのだろうと不思議ふしぎに思おもわれて、なおもその人間にんげんのゆく先さきを見みつづけていました。
 そのきたならしいふうをした人間にんげんは、にぎやかな街まちの中なかを通とおって、さびしい町まちはずれの方ほうにやってきました。するとそこには、いままでと反対はんたいに、みすぼらしい破やぶれた小舎こやが幾棟いくむねもつづいていました。そして、その中なかには、みんなこの人間にんげんのようなきたないふうをした、青あおい顔かおの人間にんげんがうようよとして住すんでいるのでありました。そこでは、子供こどもが泣ないています。病人びょうにんが苦くるしんでいます。けれどそれをいたわることも、また救すくうこともできないほどに、みんながなにか仕事しごとをしたり、働はたらいています。そして貧乏びんぼうをしています。
「これは、いったいどうしたことだ?」と、妹いもうとの顔かおは、驚おどろきと怪あやしみのために血ちの気けがだんだん失うせてゆくのでした。自分じぶんの投なげた幸福こうふくが、この人ひとたちだけゆきわたらないはずがないのに、これはいったいどうしたことだろうと判断はんだんに苦くるしんだのであります。彼女かのじょは、はとや、ひばりのいうことを聞きいて、もしそれだけを信しんじていれば、なにも知しらずにしまったのだと思おもいました。
 それから妹いもうとは、もっと道みちを歩あるいていきますと、ある大おおきな木きの下したに、十とおばかりと七つ八つになった、兄弟きょうだい二人ふたりの子供こどもがうずくまっているのを見みつけました。
「どうしておまえたちはこんなところに、こうしているのか。」といって、彼女かのじょはききました。
 二人ふたりの子供こどもは、美うつくしい妹いもうとの女神めがみをながめました。
「私わたしたちには家いえというものがありません。毎晩まいばんこの木きの下したで寝ねるのです。お父とうさんは死しんでおりません。お母かあさんは、ほうぼうを歩あるいて、ものをもらって帰かえってきます。私わたしたちはここにお母かあさんの帰かえるのを待まっているのです。」と答こたえました。 これをきくと、やさしい妹いもうとはびっくりしました。そして、
「もうこんな惨みじめな下界げかいには一刻こくもいたくない。」といって、妹いもうとはふたたびはとの姿すがたとなって、天上てんじょうの楽園らくえんに帰かえってしまったのです。
 妹いもうとは、楽園らくえんに帰かえると、さっそく、風かぜと雨あめとを自分じぶんの前まえへ呼よび寄よせました。そして、風かぜや、雨あめに向むかって、
「おまえたちは、毎晩まいばんのように、あの不幸ふこうな子供こどもたちを吹ふいたり、ぬらしたりして、かわいそうだとは思おもわなかったか。」と、やさしい妹いもうとはたずねました。
 すると、風かぜも、雨あめも、声こえをそろえて、
「私わたしどもは、かわいそうに思おもっていました。それであの二人ふたりの子こたちを吹ふいたり、またぬらしたりしたときも、強つよくなれ、強つよくなれ、そして、大おおきくなれ! といって、なるだけひどく苦くるしめないようにしました。しかし、不幸ふこうな子供こどもは、けっしてあの二人ふたりだけではありません。まだたくさんな、たくさんな、子供こどもがあります。」と答こたえました。
 妹いもうとは、風かぜや、雨あめに、もう帰かえってもいいといいました。そして、独ひとりとなったとき、妹いもうとは考かんがえました。
「わたしは、これまで、幸福こうふくの砂すなを河かわの中なかに投なげていろいろの喜よろこびを下界げかいに送おくったのも、けっしてある人々ひとびとだけを楽たのしませるためではなかった。みんなのものを喜よろこばせるためであった。それが、ある人々ひとびとだけをあんなに幸福こうふくにさせ、ある人々ひとびとをあんなに不ふしあわせにしようとは、思おもいもよらないことであった。もうこのうえ幸福こうふくの砂すなを骨おねをおって、河かわに投なげることもあるまい。こうして見みると、やはり姉ねえさんが、わたしよりもりこうであるかもしれない。冷酷れいこくな姉ねえさんは、よくわたしをわらったものだ。」と、妹いもうとは思おもいました。それから妹いもうとは、もう黄金こがねの砂すなを河かわの中なかに投なげることを止やめてしまいました。下界げかいから遠とおく空そらを仰あおぐと、天あまの河がわの色いろがだんだんと白しろくなって、そのときから黄金こがねに輝かがやいて見みえなくなったのであります。 一方ぽう、灰色はいいろの着物きものを着きた姉あねは、ふくろうや、からすのいうことを信しんじて、自分じぶんも下界げかいへいって、その困こまったり、苦くるしんだりしている人間にんげんのようすを、つくづくと見みてきたいものだと思おもいました。
 灰色はいいろの着物きものを着きた姉あねは、べつに姿すがたを変かえる必要ひつようもなかったので、ある星ほしの光ひかりももれない真まっ暗くらな真夜中まよなかに下界げかいへ降おりてきたのです。
 そこは広ひろい野原のはらの中なかでありました。けれどわざわいを下界げかいにまいた姉あねは、どんなさびしいところを歩あるいても平気へいきでありました。野原のはらの中なかには林はやしがありました。林はやしをぬけると大おおきな墓地ぼちがあります。そこにはたくさんの墓はかがありました。古ふるいのや、まだ新あたらしいのや、丈たけの高たかいのや、低ひくいのがありました。それをば、闇やみをすかして見みまわしながら、姉あねはさも心地ここちよさそうに笑わらいました。そして墓地ぼちを過すぎて、丘おかにさしかかりますと、そこには大おおきな病院びょういんがあります。髪かみの毛けを長ながくうしろに垂たらした姉あねは、病院びょういんの内部ないぶに忍しのび込こんで、病人びょうにんのいるへやを、一つ一つのぞいて歩あるきました。中なかには青あおい顔かおをして、うめいて、眠ねむられずにいるのもあります。また、中なかには苦痛くつうにたえられないで、泣ないているのもあります。中なかには片腕かたうでを切きられ、また両脚りょうあしを切断せつだんされて不具者ふぐしゃになっているのもあります。そして今夜こんやにも死しにそうな重おもい病人びょうにんもありました。
 姉あねは、これらの人々ひとびとを見みると、さも心こころからうれしそうにほほえみました。
「わたしの顔かおがいくら醜みにくいといったとて、よもやこれほどではあるまい。」といって、なおあたりをさまよっていました。すると、すぐ隣となりには狂人きょうじんを容いれた病院びょういんがあったのです。
 その精神病院せいしんびょういんには、女おんなや、男おとこの白痴はくちがうようよしていました。昼ひるも夜よるも見分みわけがつかずに、彼かれらは泣ないたり、わめいたり、悲かなしんだり、また声こえをたてて笑わらったりしていました。そしてじっとしているものもあれば、また、たえず歩あるきまわっているものもありました。 これを見みると、残忍ざんにんな姉あねは、あまりのうれしさに身震みぶるいがしたのです。
「ああ、これでいい。下界げかいの破滅はめつも近ちかづいた。」といいながら、歩あるいていますうちに、いつしか街まちへ出でてしまいました。
 そこには、大おおきな建物たてものが、ひっそりとして死しんだもののように横よこたわっていました。姉あねは、右みぎを見み、左ひだりを見みていますうちに、一軒けん燈火ともしびのついた明あかるい店みせを見みつけました。彼女かのじょは、忍しのび足あしをして、その家いえに近ちかづいてのぞいてみますと、中なかでは美うつくしい女おんなや、男おとこがたくさんに集あつまっていて楽器がっきを鳴ならし、唄うたをうたい、酒さけを飲のんだり、また、たがいに手てをとりあって、踊おどったりして遊あそんでいたのであります。
「これは、また、なんということだ。」と、姉あねはいまいましそうに、ガラス球だまのような冷つめたい目めを光ひからして闇やみの中なかから、それらのおもしろそうに遊あそんでいる人ひとたちをにらみました。ここばかりは、自分じぶんのまいたわざわいの砂すなや河かわの水みずがかからなかったのかと疑うたがいながら、その家いえの前まえをおそろしい顔かおをして通とおりました。
 すると、また一軒けん燈火ともしびのついた家いえがありました。のぞいてみますと、そこにもまた、たくさんの人々ひとびとが集あつまっておもしろそうに笑わらったり、唄うたをうたったりして酒さけを飲のんでいました。
「いよいよ不思議ふしぎなことだ。どうしてこれらの人ひとたちには、わたしのまいた砂すなや、水みずはかからなかったろう。」と、疑うたがいながら、姉あねはその家いえの前まえを怒いかりながら通とおりすぎました。
 この分ぶんなら、まだ世間せけんには、どんな幸福こうふくな人ひとたちが住すんでいまいものでもないと、彼女かのじょは不安ふあんに感かんじてきました。そしてもう一軒けん、念ねんのために、かすかに燈火ともしびのもれる大おおきな家いえの窓まどさきに近寄ちかよって、戸とのすきまからのぞいてみますと、へやのうちでは、美うつくしい姉あねと妹いもうとが、真珠しんじゅや、ルビーのはいった指輪ゆびわや、腕輪うでわを、いくつも取とり出だして見みくらべているのでした。そしてまたそのへやの中なかには、ピアノがあったり、ぜいたくな飾かざりのついた鏡かがみが置おいてあったり、ほかにも大おおきな額がくなどがかかっていました。「わたしは、みんなの幸福こうふくをのろったけれど、こういうように、ある一部ぶの人々ひとびとが不ふしあわせで、ある一部ぶの人々ひとびとがしあわせであることを望のぞまなかった。わたしは、なにもある一部ぶの人ひとたちにかぎって憎にくしみがあるのではない。平等びょうどうにみんなをのろったのであった。それだのに、この有あり様さまはどうしたことであろう。」と、灰色はいいろの着物きものを着きた姉あねは思おもいました。
 彼女かのじょは、その夜よの中うちに、黒くろい流ながれのほとりに帰かえってきました。そして、黒くろい森もりの王おうさまにしたふくろうを呼よび出だして、なぜうそをいったかとしかって、森もりの中なかから追おい出だしてしまいました。
 うす紅色あかいろの着物きものを着きた妹いもうとは、このうえ黄金こがねの砂すなを河かわに投なげることは、かえって不幸ふこうの人々ひとびとを増ますばかりだといって、ついに幸福こうふくを下界げかいに送おくることを見合みあわせてしまいました。独ひとり灰色はいいろの着物きものを着きた姉あねは、どうかしてみんなを、一度どはわざわいの砂すなと水みずに浴あびさせて、苦くるしめてやらなければならないといって、執念深しゅうねんぶかく、いまだに夜よるも昼ひるも黒くろい砂すなをまき、黒くろい河水かわみずをすくって下界げかいに向むかってまいているということであります。



青空文庫より引用