妾の半生涯


はしがき

 昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の戒いましめとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、真まことに尊き亀鑑きかんを後世に遺のこせしものとこそ言うべけれ。妾しょうの如き、如何いかに心の驕おごれることありとも、いかで得て企くわだつべしと言わんや。
 世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚鈍おろかなる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢よわい人生の六分ろくぶに達し、今にして過ぎ来こし方かたを顧かえりみれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀慮おもんばかりし事として誤謬ごびゅうならぬはなきぞかし。羞悪しゅうお懺悔ざんげ、次ぐに苦悶くもん懊悩おうのうを以もってす、妾しょうが、回顧を充みたすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ也なり。
 懺悔の苦悶、これを愈いやすの道はただ己おのれを改むるより他たにはあらじ。されど如何いかにしてかその己れを改むべきか、これ将はた一いつの苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎あやにくに他の苦悶来り、妾しょうや今実に苦悶の合囲ごういの内にあるなり。されば、この書を著あらわすは、素もとよりこの苦悶を忘れんとての業わざには非あらず、否いな筆を執とるその事もなかなか苦悶の種たねたるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は弥〻いよいよ勝まさるのみ。
 苦悶くもんはいよいよ勝るのみ、されど、妾しょう強あながちにこれを忘れんことを願わず、否いな昔懐なつかしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥増いやますなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
 顧おもえば女性の身の自みずから揣はからず、年少わかくして民権自由の声に狂きょうし、行途こうとの蹉跌さてつ再三再四、漸ようやく後のちの半生はんせいを家庭に托たくするを得たりしかど、一家の計はかりごといまだ成らざるに、身は早く寡かとなりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも透とおるばかりなり。もし妾のために同情の一掬いっきくを注そそがるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
 妾しょうが過ぎ来こし方かたは蹉跌さてつの上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦たたかえり、蹉跌のためにかつて一度ひとたびも怯ひるみし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐なつかしくは思うなれ。
 妾の懺悔ざんげ、懺悔の苦悶これを愈いやすの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と己おのれとの罪悪と戦うにあり。
 先に政権の独占を憤いきどおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心せきしん資本の独占に抗して、不幸なる貧者ひんしゃの救済に傾かたむけるなり。妾が烏滸おこの譏そしりを忘れて、敢あえて半生の経歴を極きわめて率直に少しく隠す所なく叙じょせんとするは、強あながちに罪滅ぼしの懺悔ざんげに代かえんとには非あらずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。

第一 家庭


一 贋まがいもの

 妾しょうは八、九歳の時、屋敷内やしきうちにて怜悧れいりなる娘と誉ほめそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の臨のぞめる試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心私ひそかに郷党きょうとうに誇りたりき。
 十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の傍かたわら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌しのがんばかりの隆盛を致せり。
 学校に通う途中、妾は常に蛮貊わんぱく小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると罵ののしられき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時妾しょうは実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪ばづを鼈甲べっこうに似たらしめたるにて、現今の護謨ゴムを象牙ぞうげに擬ぎせると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何いかばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居ききょ振舞ふるまいのお転婆てんばなりしは言うまでもなく、修業中は髪を結ゆう暇いとまだに惜おしき心地ここちせられて、一向ひたぶるに書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪きりて前部を左右に分け、衣服まで悉ことごとく男生だんせいの如くに装よそおい、加しかも学校へは女生と伴とものうて通いにき。近所の小供こどもらのこれを観みて異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを懐おもうごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心よごころの付き初そめて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪そくはつの仲間入りはしたりける。

二 自由民権

 十七歳の時は妾しょうに取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客ろんかく多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄はいしくめお氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯たわむれに物せし大津絵おおつえぶしあり。

すめらみの、おためとて、備前びぜん岡山を始めとし、数多あまたの国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣たびごろも、親や妻子つまこを振り捨てて。(詩入しいり)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞かすみもほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」

 尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂きょうせる時なりければ、妾しょうの月琴げっきんに和してこれを唄うたうを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花いけばな、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動ふるまいし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和やわらぐるに若しかずとて、八雲琴やくもごと、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜よに入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。

三 縁談えんだん

 十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適かなわずとて、謝絶しければ、父母も困こうじ果てて、ある日妾しょうに向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂うき目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身おんみとて何時いつまでか父母の家に留とどまり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切せめたる御言葉おんことばなり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵おんめぐみによりてもはや自活の道を得たれば、仮令たとい今よりこの家を逐おわるるとも、糊口ここうに事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永ながく膝下しっかに侍じせしめ給え、学校より得る収入は悉ことごとく食費として捧ささげ参まいらせ聊いささか困厄こんやくの万一を補わんと、心より申し出いでけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止さたやみとなりにき。 ああ世にはかくの如く、父兄に威圧いあつせられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何いかでこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻きざみ付けられたる願いなりける。
 結婚沙汰ざたの止やみてより、妾は一層学芸に心を籠こめ、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切懇到こんとうに教授しければ、さらぬだに祖先より代々よよ教導を以て任とし来きたれるわが家いえの名は、忽たちまち近郷きんごうにまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼点しょうてんとなりぬ。依よりてある寺を借り受けて教場を開き、夜よは更に昼間就学の暇いとまなき婦女、貧家ひんかの子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を謀はかり、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。


四 岸田女史来きたる

 その歳とし有名なる岸田俊子きしだとしこ女史(故中島信行氏夫人)漫遊し来きたりて、三日間わが郷きょうに演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場立錐りっすいの地だも余あまさざりき。実げにや女史がその流暢りゅうちょうの弁舌もて、滔々とうとう女権拡張の大義を唱道せられし時の如き妾しょうも奮慨おく能あたわず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議はかりて、女子懇親会を組織し、諸国に率先そっせんして、婦人の団結を謀はかり、しばしば志士論客ろんかくを請しょうじては天賦てんぷ人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習ろうしゅうを破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に赴おもむきぬ。

五 納涼会

 同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し来きたりければ、元老女史竹内、津下つげの両女史と謀はかりてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に泛うかぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の音おん水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一人いちにん、甲板かんぱんの上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気凜烈りんれつ人をして慄然りつぜんたらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる際きわならんに、水上これ無政府の心易やすさは何人なんびとの妨害もなくて、興きょうに乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。図はからざりきこの船遊びを胡乱うろんに思い、恐るべき警官が、水に潜ひそみてその挙動を伺うかがい居たらんとは。船中の人々は今を興闌たけなわの時なりければ、河童かっぱを殺せ、なぐり殺せと犇ひしめき合い、荒立ちしが、長者ちょうじゃの言げんに従いて、皆々穏おだやかに解散し、大事だいじに至らざりしこそ幸いなれ。されど妾しょうの学校はその翌日、時の県令高崎たかさき某より、「詮議せんぎの次第しだい有之これあり停止ていし候事そうろうこと」、との命を蒙こうむりたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何故なにゆえか答えなければ、妾の姉婿しせい某が県会議員常置委員たりしに頼よりてその故を尋たずねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴責けんせきを加えられ、暫しばらく謹慎きんしんを表する身の上とはなりぬ。

第二 上京

一 故郷を捨つ

 政府が人権を蹂躙じゅうりんし、抑圧を逞たくましうして憚はばからざるはこれにても明あきらけし。さては、平常先輩の説く処、洵まことにその所以ゆえありけるよ。かかる私政に服従するの義務何処いずくにかあらん、この身は女子なれども、如何いかでこの弊制へいせい悪法を除かずして止やむべきやと、妾しょうは怒りに怒り、遄はやりに遄りて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出いでて有志の士に謀はからばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距さる三里ばかりなる親友山田小竹女やまだこたけじょの許もとより、明日みょうにち村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切せつなる招待の状来きたれり。そのまま東都に奔はしらんにいと序ついでよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘いざないて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣もうで、暫しばらく黙祷もくとうして妾が志こころざしを祖先に告げぬ。初秋はつあきのいと爽さわやかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背そむき、恩愛厚き父母の膝下しっかを離れんとする苦しさは、偲しのぶとすれど胸に余りて、外貌おもてにや表われけん、帰るさの途上みちみちも、母上は妾の挙動を怪あやしみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許おんゆるしこそなけれ母は御身おんみを片田舎の埋木うもれぎとなすを惜しむ者、如何で折角せっかくの志を沮はばむべき、安やすんじて仔細しさいを語れよと、さりとは慈愛深き御仰おんおおせかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御許容おんゆるしなきを知ればなり。かくて先まず志士しし仁人じんじんに謀りて学資の輔助ほじょを乞い、しかる上にて遊学の途とに上のぼらばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和やまとの豪農土倉庄三郎どくらしょうざぶろう氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃ひそかに出立しゅったつの用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯いたがきはくを始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪げはんし、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機逸いっすべからずとて、遂ついに母上までも欺あざむき参らせ、親友の招きに応ずと言い繕つくろいて、一週間ばかりの暇いとまを乞い、翌日家の軒端のきばを立ち出いでぬ。実に明治十七年の初秋はつあきなりき。

二 板垣伯に謁えっす

 友人の家に著つくより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼かねての決心なり、明くれば友人の懇ねんごろに引き止むるをも聴かず、暇乞いとまごいして大阪に向かいぬ。しかるに妾しょうと室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻しきりに妾の生地を尋ねつつ此方こなたの顔のみ注視する体ていなるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非あらざる乎かと、一旦いったんは少なからず危あやぶめるものから、もと妾の郷きょうを出づるは不束ふつつかながら日頃の志望を遂とげんとてなり、かの墻かきを越えて奔はしるなどの猥みだりがましき類ならねば、将はた何をか包み秘かくさんとて、頓やがて東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩もらしけるに、さらばその親戚は誰たれ町名番地は如何いかになど、執拗しゅうねく問わるることの蒼蝿うるさくて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎か、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇そうこう起たって事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾しょうの何人なんびとなるかを問い究きわむる暇もなく、その人に牽ひかれて来り見れば、何ぞ図はからん従妹じゅうまいの妾なりけるに、更に思い寄らぬ体ていにて、何故なにゆえの東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳たたみかけて問い出でぬ。固もとより承諾を得たりとは、その場合われと心を欺あざむける答えなりしが、果ては質問の箭やの堪えがたなく、最いとど苦しき胸を押さえ額ひたいを擦さすりて、眩暈めまいに托言ことよせ、委くわしくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時漸ようよう大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓よろこび迎え、しかも妾の新来を訝いぶかしうも思えるなるべし。その夕ゆうべ妾は遂ついに藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻さいは深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力じんりょくせんと誓いぬ。 その翌日直ちに土倉氏を銀水楼ぎんすいろうに訪れけるに、氏はいまだ出阪しゅっぱんしおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様せんようもなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所ぐうしょに訪れしに、葉石氏は妾しょうが出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇ねんごろなる教訓を垂たれ給いき。されど妾の一念翻ひるがえすべくもあらずと見てか、強しいても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳のべよとあるに、妾は諾うべないて遂に伯に謁えっし、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身おんみが東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家ほうかのため、人道のために勉つとめよとの御言葉おんことばなり。世にも有難ありがたくて感涙かんるいに咽むせべるその日、図はからざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖ふしょうながら学資を供せんとの意味を含みし書翰しょかんにてありしかば、天にも昇る心地して従弟いとこにもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇そうこう土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳のべ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向ひたぶるに東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依よりて学資をさえ給きゅうせらるるの幸福を無視するは勿体もったいなしとて、終ついに公然東上の希望を容いれたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。

三 書窓しょそうの警報

 それより数日すじつを経て、板伯はんはくよりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身おんみと同伴の事を頼み置きたり、直すぐに来こよ紹介せんとの事に、取り敢あえず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹さとうていかん氏にてありければ、妾しょうはいよいよ安心して、翌日神戸出帆しゅっぱんの船に同乗し、船の初旅も恙つつがなく将はた横浜よりの汽車の初旅も障さわりなく東京に着ちゃくして、兼かねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈じゆうのともしび新聞』記者坂崎斌さかざきさかん氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地つきじなる新栄しんさかえ女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍かたわら坂崎氏に就つきて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日あるひ朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端はしなくも妾の書窓しょそうを驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外ほかに対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱ちじょくを賭として、偏ひとえに一時の栄華を衒てらい、百年の患うれいを遺のこして、ただ一身の苟安こうあんを冀こいねがうに汲々きゅうきゅうたる有様を見ては、いとど感情にのみ奔はしるの癖くせある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂ついに巾幗きんこくの身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民だみんの眠りを覚さましくれでは已やむまじの心となりしこそ端はしたなき限りなりしか。
四 当時の所感

 ああかくの如くにして妾しょうは断然書を擲なげうつの不幸を来きたせるなりけり。当時妾の感情を洩もらせる一片いっぺんの文ぶんあり、素もとより狂者きょうしゃの言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左さに抜萃ばっすいすることを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲きょうごうを憂うると共に、また昔時せきじ死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭いとえり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵いたるまでも已やまざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻しきりに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸ようやくかの私欲私利に汲々きゅうきゅうたる帝国主義者の云為うんいを厭わしめぬ。
 ああ学識なくして、徒いたずらに感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世ゆうせい愛国の女志士じょししとして、人も容ゆるされき、妾も許しき。姑しばらく女志士として語らしめよ。


   獄中ごくちゅう述懐じゅっかい(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳)
元来儂のうは我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習ろうしゅうに慣れ、卑々屈々ひひくつくつ男子の奴隷どれいたるを甘あまんじ、天賦てんぷ自由の権利あるを知らず己おのれがために如何いかなる弊制悪法あるも恬てんとして意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣きんい玉食ぎょくしょくするを以て、人生最大の幸福名誉となす而已のみ、豈あに事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家ほうかの休戚きゅうせきをや。いまだかつて念頭に懸かけざるは、滔々とうとうたる日本婦女皆これにして、あたかも度外物どがいぶつの如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一いつも顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏ひとえに女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂のうは同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固もとより儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競きそいて国政に参し、決して国の危急を余所よそに見るなく、己おのれのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘いざない、能よく事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切せつなるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌えんきし、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告ちゅうこくし、早く立憲の政体を立て、人民をして政まつりごとに参せしめざる時は、憂国の余情溢あふれて、如何いかなる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風はじとうふうたる而已のみならず憂国の志士しし仁人じんじんが、誤って法網ほうもうに触ふれしを、無情にも長く獄窓に坤吟しんぎんせしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙まいきょに遑いとまあらず。就中なかんずく儂の、最も感情を惹起じゃっきせしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦てんぷの三大自由権を剥奪はくだつし、剰あまつさえ儂のうらの生来せいらいかつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅ほうちょく云々うんぬんの語を付し、畏おそれ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩おうのうの余り、暫しばし数行すこうの血涙けつるい滾々こんこんたるを覚え、寒からざるに、肌はだえに粟粒ぞくりゅうを覚ゆる事数〻しばしばなり。須臾《しゅゆ》にして、惟《おもえ》らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛しゅうれんの酷《こく》なるを怨《うら》み、如何《いかん》の感を惹起せん、恐るべくも、積怨《せきえん》の余情溢れて終《つい》に惨酷《ざんこく》比類なき仏国《ふっこく》革命の際の如く、あるいは露国虚無党きょむとうの謀図《ぼうと》する如き、惨憺悲愴《さんたんひそう》の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌《みほう》に削除《さくじょ》せざるを得ずと、即《すなわ》ち曩日《さき》に政府に向かって忠告したる所以《ゆえん》なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固《もと》より現当路者の旧蹟《きゅうせき》あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖《もと》り、剰《あまつさ》え日清談判の如く、国辱《こくじょく》を受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧《かえり》みるの遑《いとま》なし、我が国の危急を如何《いかん》せんと、益〻政府の改良に熱心したる所以《ゆえん》なり。儂《のう》熟〻つらつら考うるに、今や外交日に開け、表おもてに相親睦あいしんぼくするの状態なりといえども、腹中ふくちゅう各〻おのおの針を蓄たくわえ、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強しきょうの欲を逞たくましうし、頻しきりに東洋を蚕食さんしょくするの兆ちょうあり、しかして、内うち我が国外交の状態につき、近く儂のうの感ずる処を拳あぐれば、曩日さきに朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之しかのみならず、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明あきらけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私ひそかに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙けつるい淋漓りんり、鉄腸てっちょう寸断すんだん、石心せきしん分裂ぶんれつの思い、愛国の情、転うたた切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎か、ああこの国辱を雪そそがんと欲するの烈士、三千七百万中一人いちにんも非ざる乎、条約改正なき、また宜むべなる哉かなと、内を思い、外ほかを想うて、悲哀転輾てんてん、懊悩おうのうに堪たえず。ああ如何いかんして可ならん、仮令たとい女子たりといえども、固もとより日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独ひとり愁然しゅうぜん、苦悶に沈みたりき。何なんとなれば、他に謀はかるの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫しばらく一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂のうは修業中なるを以て、小林の寓所ぐうしょを訪とう事も甚はなはだ稀まれなりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲なげうちたり。また小林は予かねての持論に、仮令たとい如何いかに親密なる間柄あいだがらたるも、決して、人の意を枉まげしめて、己おのれの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔まんこうの思想を、陳述する者なりと、何事においても、総すべてかくの如くなりし。しかるに、忽たちまち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂のうは曩日さきに述べし如く、我が国の安危あんき旦夕たんせきに迫れり、豈あに読書の時ならんやと、奮然書を擲なげうち、先ず小林の処に至り、この際如何いかんの計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言げんを尽して、数〻しばしばその心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸ようやく、今回事件の計画中、その端緒たんちょを聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志そしを果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已のみとの言に儂のうは大いに感奮する所あり、如何いかにもして、幾分の金きんを調ととのえ、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯ふじゅつい会社を設立するを名とし、相模さがみ地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充あつる能あたわず、ただ有志士ゆうししの奔走費ほんそうひ位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨さいしんふんこつすといえども、悲しい哉かな、処女の身、如何いかんぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂のうの如きは、金員きんいんを以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難かたしと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀はかれり。しかる処、偶〻たまたま日清も平和に談判調ととのいたりとの報あり。この報たる実に儂のうらのために頗すこぶる凶報なるを以て、やや失望すといえども、何なんぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来きたすも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨きかなるなからん乎か、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択えらび、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如しかずと、ここにおいて檄文げきぶんを造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力ごうりょくして、辮髪奴べんぱつどを国外に放逐ほうちくし、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日さきに政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱はずかしめを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已のみならず、一いつは以て内うち政府せいふを改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速すみやかにこの挙あらん事を渇望かつぼうし、かつ種々心胆を砕くだくといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能あたわず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫しばらくして、大井は中途にして帰京し、小林独ひとり止とどまりしが、漸ようやくその尽力により、金額成就じょうじゅせしを以て、いよいよ磯山いそやまらは渡行の事に決定し、その発足前ほつそくぜんに当り、磯山儂のうに告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間ひしかんの通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾だくす。もっとも儂は、曩日さきに東京を出立しゅったつするの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図きとしたりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥〻いよいよ出立というその前日逃奔とうほんし、更にその潜所せんしょを知る能あたわず。故ゆえを以て已やむなく新井あらい代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂のうに同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂ぶんべいし、新井と共に渡航の途とに就き、崎陽きように至り、仁川行じんせんこうの出帆しゅっぱんを待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜ふんぬんを生じ、渡航を拒こばむの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮おもんばかりなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂のうは新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺うかがうに、堂々たる男子にして、私情を挟さしはさみ、公事を抛なげうたんとするの意あり、しかして君きみの代任だいにんを忌いむの風ふうあり、誠に邦家ほうかのために歎たんずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止とどまる方かた好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎か、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数たにんずを要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟ひっきょう一身を抛擲ほうてきして、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂のうこの言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事ないじは総すべて大井、小林の任ずる所なれば、敢あえて関せず、我は啻ただその義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全まっとうする者と、暫しばし讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行こう決死せざれば、到底充分平常へいぜい希望する処の目的を達する能あたわず。かつ儂今回の同行、偏ひとえに通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂のう今仮令たとい異国の鬼となるも、事こと幸いに成就じょうじゅせば、儂のう平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如しかずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身み腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令たとい身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲ゆずらんや。かつ惟おもえらく、儂のうは固もとより無智無識なり、しかるに今回の行こうは、実に大任にして、内は政府の改良を図はかるの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲ほうてきするの栄を受く、ああ何ぞ万死ばんしを惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽きようにおいて、小林に贈るの書中にも、仮令たとい国土を異ことにするも、共に国のため、道のために尽し、輓近ばんきん東洋に、自由の新境域を勃興ぼっこうせんと、暗あんに永別の書を贈りし所以ゆえんなり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子しんしを棄すてて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈あに公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他たなし、啻ただ愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能あたわず。空むなしく獄裏ごくりに呻吟しんぎんするの不幸に遭遇し、国の安危を余所よそに見る悲しさを、儂固もとより愛国の丹心たんしん万死を軽かろんず、永く牢獄にあるも、敢えて怨うらむの意なしといえども、啻ただ国恩に報酬ほうしゅうする能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転うたた潸然さんぜんたるのみ。ああいずれの日か儂のうが素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
大阪府警部補 広沢鉄郎ひろさわてつろう 印

 かく冗長じょうちょうなる述懐書を獄吏ごくりに呈して、廻らぬ筆に仕したり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔はしる青春の人々は、くれぐれも妾しょうに観みて、警いましむる所あれかし、と願うもまた端はしたなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪なみに弄あそばれて、深く深く不遇の淵底えんていに沈み、果ては運命の測はかるべからざる恨うらみに泣きて、煩悶はんもん遂ついに死の安慰を得べく覚悟したりしその後のちの妾に比して、人格の上の差異如何いかばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙なんだの禁とどめがたきを奈何いかにせん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲なげうたんとしたりしは、一いつは名誉の念に駆かられたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙作せっさくあり、

愛国あいこくの丹心たんしん万死ばんし軽かろし   剣華けんか弾雨だんう亦また何なんぞ驚おどろかん
誰たれか言いう巾幗きんこく不成事ことをなさずと   曾かつて記きす神功じんごう赫々かくかくの名な


五 不恤緯ふじゅっい会社

 これより先妾しょうは坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍かたわら、何なにとかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟とみいおと女史と謀はかりて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途みちつきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬そごして、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇あえり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。

六 於菟おと女史

 富井於菟女史は播州ばんしゅう竜野たつのの人、醤油しょうゆ屋に生れ、一人いちにんの兄と一人いちにんの妹とあり。幼おさなきより学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精たんせいして同所の中学校に入れ、やがて業を卒おえて後のち、その地の碩儒せきじゅに就きて漢学を修め、また岸田俊子きしだとしこ女史の名を聞きて、一度ひとたびその家の学婢がくひたりしかど、同女史より漢学の益を受くる能あたわざるを知ると共に、女史が中島信行なかじまのぶゆき氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時ざんじにしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入えいり自由燈じゆうのともしび新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟おと女史を以て嚆矢こうしとすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉つとめしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂ついに姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万よろず秘密を厭いとい善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲益ますます急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何いかで空むなしく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨なげき、心私ひそかに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興おこさんとて、坂崎氏には一片いっぺんの謝状を遺のこして、妾と共に神奈川地方に奔はしりぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻野おぎの町に着ちゃくし、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵金きょきんして重井おもい(変名)、葉石はいし等志士の運動を助けんと企くわだてしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干じゃっかんを出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途とに就きぬ、旅費は両人の衣類を典てんして調ととのえしなりけり。
七 髪結洗濯

 女史と相別れし後のち、妾しょうは土倉どくら氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤きせんなし、均ひとしく皆神聖なり、身には襤褸らんるを纏まとうとも心に錦にしきの美を飾りつつ、姑しばらく自活の道を立て、やがて霹靂へきれき一声いっせい、世を轟とどろかす事業を遂とげて見せばやと、ある時は髪結かみゆいとなり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都みやこに知る人なき心易やすさは、なかなかに自活の業わざの苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩わずらいつつ、居いて待たんよりは、むしろ行きて見るに若しかずと、これを葉石氏に議はかりしに、心変りならば行くも詮せんなし、さなくばおるも消息のなからんやという。実げにさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認したためたる一封の書は来きたりぬ。見れば怨うらめしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶とりもちおけに陥おちいりたり今日こんにちはもはや曩日さきの富井とみいにあらず妹まいは一死以て君きみに謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能よく尽す処にあらずただただ二階の一隅に推おしこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺ながめ悲哀に胸を焦こがすのみ余は記する能あたわず幸いに諒りょうせよ」とあり。言ことは簡なれども、事情の大方は推すいせられつ。さて何とか救済の道もがなと千々ちぢに心を砕くだきけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕したい来りける門弟のありしを対手あいてとして日々髪結洗濯の業わざをいそしみ、僅わずかに糊口ここうを凌しのぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。

八 暁夢を破る

 しかるにその年の九月初旬妾しょうが一室を借り受けたる家の主人は、朝未明あさまだきに二階下より妾を呼びて、景山かげやまさん景山さんといと慌あわただし。暁あかつきの夢のいまだ覚さめやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現うつつの中に問い反かえせしに、女のお客さんがありますという。何なんという方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有おっしゃいますと答う。なに富井さん! 妾は床とこを蹶けりて飛び起きたるなり。階段を奔はしり下おりるも夢心地ゆめごこちなりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱いだきつき、暫しばしは無言の涙なりき。懐なつかしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦あつくるしき空を、汗臭あせくさく無下むげに汚よごれたる浴衣ゆかたを着して、妙齢の処女のさすがに人目羞はずかしげなる風情ふぜいにて、茫然ぼうぜんと庭に佇たたずめるなりけり。さてあるべきに非あらざれば、二階に扶たすけ上あげて先ず無事を祝し、別れし後のちの事ども何くれと尋たずねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身おんみに別れてより、無事郷里に着き、母上兄妹けいまいの恙つつがなきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最いと感じ入りたる体ていにて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂ついに調金の事を申し出でしに、図はからざりき感嘆の体と見えしは妾しょうの胆太きもふとさを呆あきれたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐しずかに沈みたる底そこ気味わるき調子もて、かかる大だいそれたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌みほうに防ふせがずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣やる瀬せなく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯ひきょうにも警察に告訴して有志の士を傷きずつけんとは、何たる怖ろしき人非人にんぴにんぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已のみと覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与くみせしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭おんさとしによりて悔悟かいごしたれ、以後は仰おおせのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉とじ籠こめの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優まさりて、御身おんみのさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸ようよう妹を賺すかして、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委くわしき有様を書き記しるすべき暇ひまもなかりき。定めて心変りよと爪弾つまはじきせらるるならんと口惜くちおしさ悲しさに胸は張り裂さくる思いにて、夜よもおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐おもむろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔しゅっぽんの期を得たるなり。そは両三日前妹が中元ちゅうげんの祝いにと、他たより四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費ろひとして、夜半やはん寝巻のままに家を脱ぬけ出いで、これより耶蘇ヤソ教に身を委ゆだね神に事つかえて妾しょうが志を貫つらぬかんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背そむくの不義を咎とがむることなく長く交誼こうぎを許してよという。その情義の篤あつき志を知りては、妾も如何いかで感泣かんきゅうの涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬てんとして顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地ここちぞや。妾が敬慕けいぼの念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女梁山泊おんなりょうざんぱくを以て任ずる妾の寓所にて種々いろいろと話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨のぞみてお互いに尽す道は異ことなれども、必ず初志を貫つらぬきて早晩自由の新天地に握手せんと言い交かわし、またの会合を約してさらばとばかり袂たもとを分わかちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由よしなかりき。

第三 渡韓の計画


一 妾の任務

 ある日同志なる石塚重平いしづかじゅうへい氏来きたり、渡韓の準備整ととのいたれば、御身おんみをも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。固もとより信ずる所に捧ささげたる身の如何いかでかは躊躇ためらうべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中田光子なかだみつこは、妾しょうの常ならぬ挙動を察してその仔細しさいを知りたげなる模様なりき。されど彼女に禍わざわいを及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に托たくして彼に勉学を勧すすめさせ、また於菟おと女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後事こうじを托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の途とに上のぼりけるは、明治十八年の十月なり。

二 鞄かばんの爆発物

 同伴者は新井章吾あらいしょうご、稲垣示いながきしめすの両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々赤毛布あかげっとにくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ風ふうを装よそおえるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、乃すなわち妾しょうをして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品悉皆しっかいを磯山の手より受け取り、支那鞄しなかばんに入れて普通の手荷物の如くに装い、始終傍かたわらに置きて、ある時はこれを枕に、仮寝うたたねの夢を貪むさぼりたりしが、やがて大阪に着しければ、安藤久次郎あんどうきゅうじろう氏の宅にて同志の人を呼び窃ひそかに包み替えんとするほどに、金硫黄きんいおうという薬の少し湿しめりたるを発見せしかば、鑵かんより取り出して、暫しばし乾ほさんとせしに、空気に触ふるるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、遉さすがは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時薬舗やくほを営み居たる甲斐かいありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如何いかに盲目めくら蛇へび物に怖おじずとはいいながら、かかる危険極きわまれる薬品を枕にして能よくも安々と睡ねむり得しことよと、身の毛を逆竪さかだつばかりなり。殊ことに神戸こうべ停車場ステーションにて、この鞄かばんを秤はかりにかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如何いかなる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ体ていにて、田舎への土産みやげにとて、小供の玩具おもちゃを入れ置きたるに、車の揺れの余りに烈はげしかりしため、かく壊こわされしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首肯うなずきて、強しいては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷汗ひやあせの背を湿うるおすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代々よよ薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省検疫官けんえきかんとして頗すこぶる精励せいれいの聞えあるよし。先年板垣伯いたがきはくの内務大臣たりし時、多年国事に奔走ほんそうせし功を愛めでられてか内務省の高等官となり、爾来じらい内閣の幾変遷いくへんせんを経へつつも、専門技術の素養ある甲斐かいには、他の無能の豪傑ごうけつ連とその撰せんを異ことにし、当局者のために頗すこぶる調法がられおるとなん。
三 八軒屋

 大阪なる安藤氏の宅に寓居ぐうきょすること数日すじつにして、妾しょうは八軒屋という船付ふなつきの宿屋に居きょを移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一日あるひ磯山いそやまより葉石はいしの来阪らいはんを報じ来きたり急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと訝いぶかりつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴しゅえんの半なかばにて、酌しゃくに侍じせる妓ひとのいと艶なまめかしうそうどき立ちたり。かかる会合まどいに加わりし事なき身みの如何いかにしてよからんかとただ恐縮の外ほかはなかりき。さるにても、同志は如何様いかようの余裕ありて、かくは豪奢ごうしゃを尽すにかあらん、ここぞ詰問きつもんの試みどころと、葉石氏に向かい今日こんにちの宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い測ほかれるには似もやらず、痴呆たわけの振舞、目にするだに汚けがらわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊廓通ゆうかくがよいの外ほかに余念なきこそ道理なれ、さりとては歎なげかわしさの極きわみなるかな。かかる席に列つらなりては、口利くちきくだに慚はずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い罵ののしり、やおら畳たたみを蹶立けたてて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感如何いかがあらんとて、磯山が好奇ものずきにも特ことに妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの外ほかなりしかば、同志はいうも更さらなり、絃妓げんぎらまでも、衷心ちゅうしん大いに愧はずる所あり、一座白しらけ渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。

四 磯山の失踪しっそう

 それより数日すじつにして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその甥おいなる田崎某たざきぼう妾に向かいて、ある遊廓に潜ひそめるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合まちあいの女将おかみ出いで来りて、あらずと弁ず。好よし他たの人にはさも答えよ、妾は磯山が股肱ここうの者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず匿かくれざるべしと重かさねて述べしに、女将首肯うなずきて、「それは誠にすみまへんが、何誰どなたがおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女おなごはんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛妓あいぎ八重やえと差し向かえる魔室に導みちびきぬ。彼は素もとより女将おかみに厳命せし事のかくも容易たやすく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、図はからずも妾の顔の顕あらわれしを見ては、如何いかで慌あわてふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ賺すかして新井、葉石に面会せしむるには如しかずとて、種々いろいろと言辞ことばを設け、ようよう魔室より誘さそい出して腕車くるまに載のせ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を尋たずね、その人をも伴ともなわんという。詐いつわりとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑怯ひきょうの男もあるものかな、彼はそのまま奔竄ほんざんして、遂ついに行衛ゆくえを晦くらましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大功たいこうは細瑾さいきんを顧みずちょう豪語を楯たてとなせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠かすめんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を欺あざむきつつ、強しいて工面くめんせる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費しひして淫楽いんらくに耽ふけり、公道正義を無視なみして、一遊妓の甘心かんしんを買う、何たる烏滸おこの白徒しれものぞ。宜むべなる哉かな、縲絏るいせつの辱はずかしめを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯斥ひんせきせられ、牢獄の役員にも嗤笑ししょうせられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。
五 隠かくれ家が

 かくて磯山は奔竄ほんざんしぬ、同志の軍用金は攫さらわれたり。差し当りて其処此処そこここに宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如何いかにせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具陳ぐちんせしめ、ひたすらに重井おもいの来阪らいはんを促うながしけるに、頓やがて来りて善後策を整ととのえ、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段して埋うめ合せ、辛かろうじて無銭宿泊の難を免まぬがれたれども、さて今後幾日を経へば調金の見込み立つべきや否や、将はた如何いかにしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、妾しょうの発意ほついにて山本憲やまもとけん氏に議はかり、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅清処塾ばいせいしょじゅくの分室と称しぬ。それより妾は俄にわかに世話女房気取りとなり、一人いちにんの同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自炊じすいに慣れし壮士をして、代る代る炊事を執とらしめ、表面は読書に余念なきが如くに装よそおわせつつ、同志窃ひそかに此処ここに集つどいては第二の計画を建て、磯山逃奔とうほんすとも争いかで志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調ととのえて出立の準備をなすに如しかずと、日夜肝胆かんたんを砕くだくこと十数日、血気の壮士らのやや倦厭けんえんの状あるを察しければ、ある時は珍しき肴さかなを携たずさえて、彼らを訪とい、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を味あじわい、あるいは味噌漉みそこしを提さげて豆腐とうふ屋に通かよい、またある時は米屋の借金のいい訳わけは婦人に限るなど、唆そそのかされて詫わびに行き、存外口籠くちごもりて赤面したる事もあり。凡およそ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅清処塾ばいせいしょじゅくの書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力与あずかりて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の能よくその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮苦きゅうくの何物たるを知らざらしめば、十九つづや二十歳はたちの身の、如何いかでかかる細事さいじに心留むべきぞ、幸いにして貧窶ひんるの中うちに成長ひととなり、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄嗟とっさの間かんには出でたるなれ。己れ炊事を親みずからするの覚悟なくば彼かの豪壮なる壮士の輩はいのいかで賤業せんぎょうを諾うべなわん、私利私欲を棄すててこそ、鬼神きしんをも服従せしむべきなりけれ。妾しょうをして常にこの心を失わざらしめば、不束ふつつかながらも大きなる過失は、なかりしならんに、志こころざし薄く行い弱くして、竜頭蛇尾りゅうとうだびに終りたること、わが身ながら腑甲斐ふがいなくて、口惜くちおしさの限り知られず。

六 遣やる瀬せなき思い
 右の如き、窮厄きゅうやくにおりながら、いわゆる喉元のどもと過ぎて、熱さを忘るるの慣ならい、憂うたてや血気の壮士は言うも更さらなり、重井おもい、葉石はいし、新井あらい、稲垣いながきの諸氏までも、この艱難かんなんを余所よそにして金が調ととのえりといいては青楼せいろうに登り絃妓げんぎを擁ようしぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に端座たんざし、過去を思い、現在を慮おもんばかりて、深き憂いに沈み、婦女の身の最いとど果敢はかなきを感じて、つまらぬ愚痴ぐちに同志を恨うらむの念も起りたりしが、復また思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとには非あらず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして挫折ざせつすべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしても遣やる瀬せなき思いに悶もだえて、ある時詠よみ出でし腰折こしおれ一首いっしゅ

かくまでに濁にごるもうしや飛鳥川あすかがわ
     そも源みなもとをただせ汲くむ人


七 女乞食

 愁うれいの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の障子しょうじを打ち開き、階下に集つどえる塵取船ちりとりぶねを眺ながめたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、頻しきりに塵ちりの中より紙屑かみくずを拾い出し、これをば籠かごに入れ居たり。背なる小供は母の背に屈かがまりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも窒息ちっそくせんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬ体ていにて、なお余念なく漁あさり尽し、果ては魚うおの腹腸はらわた、鳥の臓腑様ぞうふようの物など拾い取りてこれを洗い、また料理する様さまのいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食には優まさるべし、思えば気の毒の母よ子よと惻隠そくいんの心禁とどめがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に重錘おもりをつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天より降ふり来りしとように驚きつつ、拾いとりてまた暫しばし躊躇ためらいたり。妾は重かさねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて安堵あんどしたるらしく、幾度いくたびか押し戴いただくさまの見るに堪えず、障子をしめて中うちに入り、暫しばらくして外出せんとしたるに、宿の主婦は訝いぶかりつつ、「あんたはんじゃおまへんか先刻さっき女の乞食にお金をやりはったのは」という。さなりと妾は首肯うなずきたるに、「いんまさき小供を負おぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ御散財ごさんざいでおました」という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の清々すかすがしさを感ぜしものから、譬たとえば眼まなこを過ぐる雲煙うんえんの、再び思いも浮べざりしに、図はからずも他日たじつこの女乞食と、思い儲もうけぬ処に邂逅であいて、小説らしき一場いちじょうの物語とは成りたるよ。ついでなれば記しるし付くべし。
八 一場いちじょうの悲劇

 その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄に幽ゆうせらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、伝告者でんこくしゃ即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する監倉かんそうを司つかさどることとなりぬ。依よりて初犯者をば改化遷善せんぜんの道に赴おもむかしむるよう誘導の労を執とり、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生と敬うやまわれつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、その間あいだ随分種々の罪人に遇あいしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる看板かんばんを附けおらざりせば、誰たれかはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更に大だいなる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、大道だいどうを濶歩かっぽする者も多かるに、大だいを遺わすれて小しょうを拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も数〻しばしばなりき。穴賢あなかしこ、この感情は、一度ひとたび入獄の苦を嘗なめし人ならでは語るに足らず、語るも耳を掩おおわんのみ。かくて妾しょうは世の人より大罪人大悪人と呼ばるる無頼ぶらいの婦女子と室を同じうし、起臥きが飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いに睦むつみ合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる娑婆しゃばにおける学校教師と子弟との情は物かは、倶ともにこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、能よく相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常に自おのずからの春ありて、靄然あいぜんたる和気わきの立ち籠こめし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く監倉かんそうの鍵かぎを鳴らして来り、それ新入しんにゅうがあるぞといいつつ、一人の垢染あかじみたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。何故なにゆえとは知るよしもなけれど、ただこの監獄の様さまの厳いかめしう、怖おそろしきに心怯おびえて、かつはこれよりの苦を偲しのび出でしにやあらんなど、大方おおかたに推おし測はかりて、心私ひそかに同情の涙を湛たたえしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には御覚おんおぼえなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。御顔おんかおも能よく覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の因縁いんねんにてか、再びかかる処にて御目おんめにはかかりたるぞ、これも良人おっとや小供の引き合せにて私の罪を悔くいさせ、あなた様に先年の御礼おんれいを申し上げよとの事ならん。あなた様が憐あわれみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱瘡ほうそうにかかり、一週間前に世を去りぬ、今日こんにちはその一七日ひとなのかなれば線香なりと手向たむけやらんと、その病やまいの伝染して顔もまだこの通りの様さまながら紙屑かみくず拾いに出いでたるに、病後の身の遠くへは得えも行かれず、籠かごの物も殖ふえざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚束おぼつかなしと、悶もだえ苦しみつつふと見れば、人気ひとけなき処に着物乾ほしたる家あり。背に腹は換かえられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、忽たちまち覿面てきめんの天罰てんばつ受けて、かくも見苦しき有様となり、御目おんめにかかりしことの恥かしさよと、生体しょうたいなきまで泣き沈み、御恵おんめぐみに与あずかりし時は、病床びょうしょうにありし良人おっとへも委細を語りて、これも天の御加護おかごならんと、薬も買いぬ、小供に菓子も買こうて遣やりぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人の病やまいはなお重おもり行きて、敢あえなき最期さいご、弱る心を励はげまして、私は小供対手あいてにやはり紙屑拾いをばその日の業わざとなしたりしに、天道てんどうさまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、露つゆいささか悪あしき道には踏み込まざりし私わたくし母子おやこに病を降くだして、遂ついに最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされ方かたぞなど、果はてしもなき涙に掻かき暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、他たの囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良人おっとや子供の菩提ぼだいを弔とむらい給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、娑婆しゃばに出でて再び餓うえに泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のお側そばにてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ち歎かこつなりき。 実げにや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者は能よく罪を罰するを知れり、乞い問う、罪を贖あがない得たる者を救助するの法ありや、再び饑餓きがの前に晒さらして、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきを保ほし得るや。

九 爆発物の検査

 これより先、重井おもいらは、東京にての金策成就じょうじゅし、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に下阪げはんしてそが準備を調ととのえ、梅清処塾ばいせいしょじゅくにありし壮士は早や三々五々渡韓の途とに上のぼりぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる越中えっちゅう富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾も図はからずその席に招かれぬ。志士しし仁人じんじんもまたかかる醜態を演じて、しかも交誼こうぎを厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つる能あたわず、前途近からざるの事業を控えて、嚢底のうてい多からざるの資金を濫費らんぴす、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望の淵ふちに立たしめんとはしたり。出立の日重井おもいの発言によりて大鯰おおなまずの料理を命じ、私ひそかに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船に搭とうぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに馬関ばかんに着きしに、当時大阪に流行病あり、漸ようやく蔓延まんえんの兆ちょうありしかば、ここにも検疫けんえきの事行われ、一行の着物は愚おろか荷物も所持の品々も悉ことごとく消毒所に送られぬ。消毒の方法は硫黄いおうにて燻くすべるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くに装よそおいたれば、他たの雑沓ざっとうに紛まぎれて咄嗟とっさの間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、否いな拙者せっしゃの所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、潔いさぎよく縛ばくに就つかんのみ、構かまえて同伴者たることを看破かんぱせらるる勿なかれと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾も否いなみ兼ねて終ついに同氏の手荷物となし、それより港に上あがりて、消毒の間唯とある料理店に登り、三人それぞれに晩餐ばんさんを命じけれども、心ここにあらざれば如何いかなる美味も喉のんどを下くだらず、今や捕吏ほりの来らんか、今や爆発の響ひびき聞えん乎かと、三十分がほどを千日せんにちとも待ち詫わびつ、やがて一時間ばかりを経へて宿屋の若僕わかもの三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き玄海灘げんかいなだの波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。

十 絶縁の書

 ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より「荷物濡ぬれた東に帰れ」との電報あり。もし渡韓の際政府の注目甚はなはだしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら卑怯ひきょうにも逃奔とうほんせし恥辱ちじょくを糊塗ことせんために、かくは姑息こそくの籌はかりごとを運めぐらして我らの行を妨さまたげ、あわよくば縛ばくに就かしめんと謀はかりしには非あらざる乎かと種々評議を凝こらせしかど、終ついに要領を得ず、東京に打電して重井おもいに質たださんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべき方かたに進まんのみと、古井より他たの壮士にこの旨むねを伝えしに、彼らの中うちには古井が磯山に代りしを忌いむの風ふうありて議諧かなわず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々は潔いさぎよく帰東せしむべし、何ぞ多人数たにんずを要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名を率ひきいて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途勧工場かんこうばに入りて筆紙墨ひっしぼくを買い調ととのえ、薄暮はくぼ旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井独ひとり何か憂悶ゆうもんの体ていなりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐を喫きっしつつ、午刻ひるのほどより丸山に赴おもむける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら一歩ひとあしも他たに移す能あたわず、特ことに差し当りて佐賀に至り、江藤新作えとうしんさく氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや詮方せんかたなしとて、それぞれ臥床ふしどに入りしが、妾は渡韓の期も、既に今明日こんみょうにちに迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を葉石はいしに申し送り、遺憾いかんの念なき旨を表し置かんと、独り燈下に細書さいしょを認したため、ようよう十二時頃書き終りて、今や寝しんに就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。
十一 発覚拘引こういん

 古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるより快こころよく睡ねむりけるが、妾は一度ひとたび渡韓とかんせば、生きて再び故国ここくの土を踏むべきに非あらず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの余資よしあらば、これをば借りて、途みちすがら郷里に立ち寄り、切せめては父母兄弟けいていに余所よそながらの暇乞いとまごいもなすべかりしになど、様々の思いに耽ふけりて、睡るとにはあらぬ現心うつつごころに、何か騒がしき物音を感じぬ。何気なにげなく閉とじたる目を見開けば、こはそも如何いかに警部巡査ら十数名手に手に警察の提燈ちょうちん振り照らしつつ、われらが城壁と恃たのめる室内に闖入ちんにゅうしたるなりけり。アナヤと驚き起たたんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客検しらべなりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾一人いちにんの身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざる様さまを装い、ただ稲垣と同伴せる旨むねをいいしに、警部は首肯うなずきて、稲垣には縄なわをかけ、妾をば別に咎とがめざるべき模様なりしに、宵よいのほど認したため置きし葉石への手書てがみの、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の温顔おんがん俄にわかに厳いかめしうなりて、この者をも拘引こういんせよと犇ひしめくに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支度したくせよなどなお情けらしう注意するなりき。抗あらがうべき術すべもなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと芋虫いもむしの如くになりて、頓やがて巡査に伴ともなわれ行く途上みちの歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事探偵たんていより種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途勧工場かんこうばに立ち寄りて筆紙墨ひっしぼくを買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことを覚さとりぬ。


第四 未決監


一 ほとんど窒息ちっそく

 訊問じんもん卒おえて後のち、拘留所に留置せられしが、その監倉かんそうこそは、実に演劇にて見たりし牢屋ろうやの体ていにて、妾しょうの入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なる閂かんぬきの取り外はずさるる響ひびきいとど怪あやしう凄すさまじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の逆竪よだつまでに怖れしめ、生来せいらい心臓の力弱き妾は忽たちまち心悸しんきの昂進こうしんを支え得ず、鼓動乱れて、今にも窒息ちっそくせんず思いなるを、警官は容赦ようしゃなく窃盗せっとう同様に待遇あしらいつつ、この内に這入はいれとばかり妾を真暗闇まっくらやみの室内に突き入れて、また閂かんぬきを鎖さし固めたり。何たる無情ぞ、好よしこのままに死なば死ね、争いかでかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、素もとより女ながら一死を賭として、暴虐ぼうぎゃくなる政府に抗せんと志したる妾わらわ、勝てば官軍敗まくれば賊ぞくと昔より相場の極きまれるを、虐待の、無情のと、今更の如く愚痴ぐちをこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、生いきながら死せる気になり、万感まんかんを排除する事に勉つとめしかば宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝目覚めざめしは他の監房にて既に食事の済すみし頃なりき。
二 同志の顔

 先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば天井てんじょう高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの光線取あかりとりにして、鉄の棒を廻めぐらし如何いかなる剛力ごうりきの者来ればとて、破牢はろうなど思いも寄らぬ体てい、いと堅牢なり。水を乞うて、手水ちょうずをつかえば、やがて小ちさき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底喉のんどを下くだるまじと思いしに、案外にも味あじわい旨よくて瞬間に喫たべ尽しつ、われながら胆太きもふときに呆あきれたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間の隙すきより、床下ゆかしたの見ゆるに心付き、試みに眸ひとみを凝こらせば、アア其処そこに我が同志の赤毛布あかげっとを纏まといつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、内藤六四郎ないとうろくしろう氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄の裡うちに堕おちながら、慣るるにつれて、身の苦艱くげんの薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙の迸ほとばしるを覚ゆるなりき。
 翌朝食事終りて後のち、訊問所に引き出いだされて、住所、職業、身分、年齢、出生しゅっしょうの地の事ども訊問せられ、遂ついにこの度たび当地に来りし理由を質ただされて、ただ漫遊なりと答えけるに、かく汝なんじらを拘引こういんするは、確乎かっこたる見込みこみありての事なり、未練らしう包み隠さずして、有休ありていに申し立ててこそ汝らが平生へいぜいの振舞にも似合わしけれとありければ、尤もっともの事と思い、終ついに述懐書にあるが如き意見にて大事に与くみせる事を申し立てぬ。

三 大阪護送

 警察署にての訊問じんもん果てし後のち、大阪に護送せらるることとなり、夜よの八、九時頃にやありけん、珠数繋ずずつなぎにて警察の門を出でたり。迅はやきようにても女の足の後おくれがちにて、途中は左右の腰縄こしなわに引き摺ずられつつ、辛かろうじて波止場はとばに到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客は胆きもをつぶしたらんが如く、眼まなこを円つぶらにして、殊ことに女の身の妾しょうを視みる。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、面伏おもぶせにて同志とすら言葉を交かわすべき勇気も失うせ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、漸ようやく神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、「ヘイ蓬莱屋ほうらいやで御座ござい、ヘイ西村で御座い」と呼びつつ、手に手に屋号の提燈ちょうちんをひらめかし、われらに向かいて頻しきりに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに一驚いっきょうを喫きっして、あきれ顔に口を噤つぐめるも可笑おかしく、かつは世の人の心の様さまも見え透すきて、言うばかりなく浅まし。
 その夜は大阪府警察署の拘留場こうりゅうばに入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて心地悪ここちあしく、最いとど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとて特ことに拘留所を設け、其処そこに入れて懇ねんごろに介抱かいほうしくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いと凄すさまじかりしに引き換え、総すべてわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾に侑すすめる抔など、万よろずに親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られし後のちも国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の厳酷げんこくなりし比に非ず。長崎警察署の不仁ふじんなる、人を視みる事宛然さながら犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしも昔むかし徳川幕府が維新の鴻業こうぎょうに与あずかりて力ある志士を虐待ぎゃくたいせし例を思い浮べ、深く思い諦あきらめたりしが、今大阪にては、有繋さすがに通常罪人を以て遇せず言葉も丁寧ていねいに監守長の如きも時々見廻りて、特ことに談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。
四 眉目みめよき一婦人

 ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目麗うるわしき一婦人いっぷじんあり、天性賤いやしからずして、頻しきりに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志に愛めでて何角なにかと教え導きけるに、彼はいよいよ妾を敬うやまい、妾はまた彼を愛して、果はては互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りて垢あかを流しくれ、また夜に入いれば床とこを同じうして寒天さむぞらに凍こおるばかりの蒲団ふとんをば体温にて暖め、なお妾と互い違いに臥ふして妾の両足りょうそくをば自分の両腋下えきかに夾はさみ、如何いかなる寒気かんきもこの隙すきに入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親の代よに至りて家道かどう俄にわかに衰おとろえ、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の兇漢きょうかんなりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余の永ながき日をば徒いたずらに未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために寃枉えんおうを訴えけるに、その効しるしなりしや否いなやは知らねど、妾が三重県に移りける後のち、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの吉報きっぽうを耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪千万せんばんなる寃罪えんざいの因となりて、一時妾と彼女と引き離されし滑稽談こっけいだんあり、当時の監獄の真相を審つまびらかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、大方たいほうの参考に供せん。

五 不思議の濡衣ぬれぎぬ

 妾しょうが彼女を愛し、彼女が妾を敬慕けいぼせるは上かみに述べたるが如き事情なり。世には淫猥いんわい無頼ぶらいの婦人多かるに、独ひとり彼女の境遇のいと悲惨なるを憐あわれむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、宛然さながら親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは勿論もちろん、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、他所目よそめには如何いかに見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、「ジャンダーク」を理想の人とし露西亜ロシアの虚無党をば無二むにの味方と心得たる頃なれば、両人ふたりの交情あいだの如何に他所目よそめには見ゆるとも、妾の与あずかり知らざる所、将はた、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切に報むくいんことを勉つとめけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外に出いでよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに暗涙あんるいに咽むせびけるに、さはなくて彼女は妾らの室を隔へだつる、二間けんばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ず呆あきれられて、更に何故なにゆえとも解ときかねたる折から、他たの看守来りて妾に向かい、「景山かげやまさん今夜からさぞ淋さびしかろう」と冷笑あざわらう。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、只今ただいまより淋しくて悲しくて心細さの遣やる瀬せなき旨むねを答え、何故なればかく無情の処置をなし改化遷善せんぜんの道を遮さえぎり給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、徐おもむろに質問すべき事こそあれと、予あらかじめその願意を通じ置きしに、看守は莞然にこにこ笑いながら、細君さいくんを離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても揶揄からかうなりき。その語気ごきの人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず怫然ふつぜんとして憤いきどおりしが、なお彼らが想像せる寃罪えんざいには心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりと罵ののしりしに、彼は僅わずかに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益〻気昂けあがりて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、平生へいぜい悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、一図いちずに何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だも仮かさず、いよいよ嘲あざけり気味ぎみに打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って、具つぶさにこの状を語り妾の罪を確かめんと思いおりしに、彼女も他たの監房に転じたる悲しさに、慎つつしみ深き日頃のたしなみをも忘れて、看守の影の遠ざかれるごとに、先生先生何故なにゆえにかく離隔りかくせられしにや、何とぞ早くその故を質ただして始めの如く同室に入らしめよと、打ち喞かこつに、素もとより署長の巡廻だにあらば、直ちに愁訴しゅうそして、互いの志を達すべし、暫しばらく忍びがたきを忍べかしなど慰めたることの幾度いくたびなりしか。
六 直訴

 囚人より署長に直訴するは、ほとんど破格の事として許しがたき無礼の振舞に算かぞえらるる由よしなるも、妾しょうは少しもその事を知らず、ある日巡廻し来れる署長を呼び止めしに、署長も意外の感ありしものの如くなりしが、他たの罪人と同一ならぬ理由を以て妾の直訴を聞き取り、更に意外の感ありし様子にて、彼女をも訊問の上、黙して帰署したりと思うやがての事、彼女は願いの如く、妾の室に帰り来りぬ。あとにて聞けばこの事の真相こそ実げに筆にするだに汚けがらわしき限りなれ。今日こんにちは知らずその当時は長き年月の無聊むりょうの余りにやあらん、男囚だんしゅうの間には男色だんしょく盛んに行われ、女囚もまた互いに同気どうきを求めて夫婦の如き関係を生じ、両女の中の割合に心雄々おおしきは夫おっとの如き気風となり、優やさしき方は妻らしく、かくて不倫ふりんの愛に楽しみ耽ふけりて、永年えいねんの束縛を忘れ、一朝変心する者あれば、男女間における嫉妬しっとの心を生じて、人を傷そこない自ら殺すなどの椿事ちんじを惹ひき起すを常としたりき。現に厠かわやに入りて、職業用の鋏刀はさみもて自殺を企くわだてし女囚をば妾も目まの当りに見て親しく知れりき。されば無智蒙昧むちもうまいの監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なる慈いつくしみの振舞を以て、直ちに破倫はりん非道の罪悪と速断しけるもまた強あながちに無理ならねど、さりとては余りに可笑おかしく、腹立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。


第五 既決監


一 監房清潔

 中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上客分きゃくぶんとしてかくは取り斗はからわれしなりけり。退のっ引ぴきならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、切せめてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、妾しょうを待てり。中の島未決監よりは、監房また更さらに清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑婆しゃばに近づきたらん心地ここちもしつ。此処ここにても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足を撫なでさすり、また肩など揉もみて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の膝下しっかにありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなお懐なつかしとの念を禁ぜざるなりき。

二 お政まさ

 ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。容姿ようし優すぐれて美しく才気あり万事に敏さとき性せいなりければ、誘工ゆうこうの事総すべてお政ならでは目が開あかぬとまでに称たたえられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より敬うやまい冊かしずかれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、読書とくしょに疲れたる頃を見斗みはからいては、己おのが買い入れたる菓子その他の食物しょくもつを持ち来り、算術を教え給え、算用数字は如何いかに書くにやなど、暇ひまさえあればその事の外ほかに余念もなく、ある時は運動がてら、水撒みずまきなども気散きさんじなるべしとて、自ら水を荷にない来りて、切せつに運動を勧めしこともありき。彼女は西京さいきょうの生れにて、相当の家に成長せしかど、如何いかなる因縁いんねんにや、女性にして数〻しばしば芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、数万すまんの金を盗みし酬むくいは忽たちまちここに憂うき年月を送る身となりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の窃盗せっとうにしてしかも終身刑を受けけるなり。その才物さいぶつなるは一目いちもく瞭然りょうぜんたることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しい哉かな、人道以外に堕落だらくして、同じく人倫じんりん破壊者の一人いちにんなりしよし聞きし時は、妾も覚えず慄然りつぜんたりしが、さりながら、素もと鋭敏の性なりければ、能よく獄則を遵守じゅんしゅして勤勉怠おこたらざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに悔悟かいごする処あり、遂ついに円頂黒衣えんちょうこくいに赤心せきしんを表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも「島津政懺悔録しまずまさざんげろく」と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、その後のちは如何いかになりけん、消息を聞かず。
三 空想に耽ふける

 かく妾しょうは入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は『論語』『大学』位その他は『原人論げんじんろん』とか、『聖書』とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるを基もととして、日々勉励べんれいしたりしかど、やはり堂に昇のぼらずして止やみたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば如何いかにせん志こころざしを達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄間まもなくその空想は全く仇あだとなり、失望の極きょくわれとはなしに堕落だらくして、半生はんせいを夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく懺悔ざんげの隙ひまもいと切せつなり。

四 獄吏の真相

 妾が在獄中別に悲しと思いし事もなく浮うかと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書を認したたむる時などには、若き看守の好奇ものずきにも監督を名として監房に来りては、楽書らくがきなどして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の沙汰さたとも覚えぬ振舞に渡りて、妾を弄もてあそばんとするものもあり、中には真実籠こめし艶書えんしょを贈りて好よき返事をと促すもあり、また「君徐世賓じょせいひんたらばわれ奈翁ナポレオンたらん」などと遠廻しに諷ふうするもありて、諸役人皆妾しょうの一顰一笑いっぴんいっしょうを窺うかがえるの観ありしも可笑おかしからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の眷顧けんこを得んとて、私ひそかに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの娑婆しゃばに優まさる事数等にて、裁判の事など少しも心に懸かからず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと風邪ふうじゃに冒おかされ、漸次ぜんじ熱発はつねつ甚はなはだしく、さては腸窒扶斯チブス病との診断にて、病監に移され、治療怠おこたりなかりしかど、熱気いよいよ強く頗すこぶる危篤きとくに陥おちいりしかば、典獄署長らの心配一方ひとかたならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤の旨むねを打電したりければ、岡山にてはもはや妾を亡なきものと覚悟し、電報到着の夜よより、親戚しんせき故旧こきゅう打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、遺屍いし引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、数十日すじゅうにちを経て漸ようやく本監に帰りたる嬉うれしさは、今に得えも忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、宛然さながら父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患に罹かかりし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にて斃たおるることもやと心配せしに、これすら漸ようやく回復して、遂ついには病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚を喫きっするほどなり。

五 女史の訃音ふおん

 それより数日すじつを経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪悉ことごとく抜け落ち、薬罐頭やかんあたまの醜みにくさは人に見らるるも恥かしき思いなりしが、後あとにて聞けば妾しょうの親愛なる富井於菟とみいおと女史は、この時娑婆しゃばにありて妾と同病に罹かかり、薬石効やくせきこうなく遂ついに冥府めいふの人となりけるなり。さても頼みがたきは人の生命いのちかな、女史は妾らの入獄せしより、ひたすら謹慎きんしんの意を表し、耶蘇ヤソ教に入りて、伝道師たるべく、大いに聖書を研究し居たりしなるに、迷心執着の妾は活いきて、信念堅固の女史は逝ゆきぬ。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける妾を幸こうというべきか、この報を聞きたる時、妾は実に無限の感に打たれにき。
六 生理上の一変象

 ここにまた一つ記しるし付くべき事あり。かかる事は仮令たとえ真実なりとも、忌いむべく憚はばかるべきこととして、大方の人の黙して止やむべき所なるべけれど、一つは生理学および生理と心理との関係を究きわむる人々のために、一つは当時の妾が、女とよりはむしろ男らしかりしことの証あかしにもならんかとて、敢あえて身の羞恥はじをば打ち明くるなり。読む者強あながちに、はしたなき業わざとのみ落しめ給うことなくば幸いなり。さて記きすべき事とは何なにぞ、そは妾の身体の普通ならずして、牢獄にありし二十二歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らざりし事なり。普通の女子は、大抵十五歳前後より、その物のあるものぞと聞くに、妾は常に母上の心配し給える如く、生れ付き男子の如く、殺風景にて、婦人のしおらしき風情ふぜいとては露ほどもなく、男子と漢籍の講莚こうえんに列してなお少しも羞はずかしと思いし事なし。さるからに、母上は妾の将来を気遣う余り、時々「恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る」という古歌を読み聞かせては、妾の所為しょいを誡いましめ給いしほどなれば、幼友達おさなともだちの皆人ひとに嫁かして、子を挙あぐる頃となりても、妾のみは、いまだあるべきものをだに見ざるを知りて、母上はいよいよ安からず、もしくば世にいう石女いしめの類たぐいにやなど思い悩み給いにき。しかるに今獄中にありて或る日突然その事あり、その時の驚きは今更に言うの要なかるべし。妾の容子ようすの常になく包つつましげなるに、顔色さえ悪あしかりしを、親したしめる女囚に怪あやしまれて、しばしば問われて、秘めおくによしなく、遂ついに事云々しかじかと告げけるに、彼女の驚きはなかなか妾にも勝まさりたりき。

七 理想の夫

 かくの如く男らしき妾しょうの発達は早かりしかど、女としての妾は、極めて晩おそき方かたなりき。但ただし女としては早晩そうばん夫おっとを持つべきはずの者なれば、もし妾にして、夫を撰えらぶの時機来らば、威名赫々かくかくの英傑えいけつに配すべしとは、これより先、既に妾の胸に抱いだかれし理想なりしかど、素もとより世間見ずの小天地に棲息せいそくしては、鳥なき里の蝙蝠かわほりとは知らんようなく、これこそ天下の豪傑なれと信じ込みて、最初は師としてその人より自由民権の説を聴き、敬慕の念漸ようやく長じて、卒然夫婦の契約をなしたりしは葉石はいしなり。されどいまだ「ホーム」を形造かたちづくるべき境遇ならねば、父母兄弟けいていにその意志を語りて、他日の参考に供し、自分らはひたすら国家のために尽瘁じんすいせん事を誓いおりしに、図はからずも妾が自活の途みちたる学舎は停止せられて、東上するの不幸に陥おちいり、なお右の如き種々の計画に与あずかりて、ほとんど一身いっしんを犠牲となし、果はては身の置き所なき有様とさえなりてよりは、朝夕ちょうせきの糊口ここうの途みちに苦しみつつ、他の壮士らが重井おもい、葉石らの助力を仰ぎしにも似ず、妾は髪結かみゆい洗濯を業として、とにもかくにも露の生命いのちを繋つなぐほどに、朝鮮の事件始まりて、長崎に至る途みちすがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石は、いうまでもなく、妻子さいし眷属けんぞくを国許くにもとに遺のこし置きたる人々さえ、様々の口実を設けては賤妓せんぎを弄もてあそぶを恥はじとせず、終ついには磯山の如き、破廉恥はれんちの所為しょいを敢あえてするに至りしを思い、かかる私欲の充みちたる人にして、如何いかで大事を成し得んと大いに反省する所あり、さてこそ長崎において永別の書をば葉石に贈りしなれ。しかるに今公判開廷の報に接しては、さきに一旦いったんの感情に駆られて、葉石に宛あてたりし永別の書が、端はしなくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率を憤いきどおりもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が皎潔こうけつの愛を汚けがし、神聖なる恋を蹂躙じゅうりんせしをば、如何いかにしても黙止もくししがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、遺憾いかんなく言い遺のこし置かんとの覚悟にて、かの書翰しょかんは認したためしなれば、義気ぎきある人、涙なんだある人もしこれを読まば、必ず一掬いっきく同情の涙に咽むせぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をも傷そこなうなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志に逢あわざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、今日こんにちの境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、強しいて旧事を発表し、相互の不利益を醸かもすが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、特ことに葉石の無情を怨うらみしなり、生きて再び恋愛の奴やっことなり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじ順したがうよりは、むしろ潔いさぎよく、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも面伏おもぶせなる業わざなりけり。いでや公判開廷の日には、病やまいと称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲斐かい遂ついにあらざりき。

第六 公判


一 護送の途上

 いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、娑婆しゃばの空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚知己ちきの来り会して懐なつかしき両親の消息を齎もたらすこともやと、これを楽しみに看守に護まもられ、腕車わんしゃに乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、江戸堀えどぼり公判廷に至るの間はあたかも人をもて塀へいを築きたらんが如く、その雑沓ざっとう名状めいじょうすべくもあらず。聞く大阪市民は由来ゆらい政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、漸ようやく政治思想を開発するに至れりとか、また以て妾しょうらの公判が如何いかに市民の耳目じもくを動かしたるかを知るに足るべし。

二 公廷の椿事ちんじ

 明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の笊ざるの目に漉こし去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来未曾有みぞうの大獄たいごくにて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九組ここのくみに分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、磯山清兵衛いそやませいべえは(中略)重井おもい、葉石はいしらの冷淡なる、共に事をなすに足る者に非あらず」云々うんねんの所に至るや第三列に控えたる被告人氏家直国うじいえなおくに氏は、憤然として怒気満面に潮ちょうし、肩を聳そびやかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決の旨むねを長崎滞在の先発者田代季吉たしろすえきち云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝いっかつして首筋を掴つかみたる様子にて、場じょうの内外一方ひとかたならず騒擾そうじょうし、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣ばっけんにて非常を戒いましめしほどなりき。とかくする内看守かんしゅ、押丁おうていら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一先ひとまず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾来じらい公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち揃そろいたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。

三 重井の情書

 かかる中にも葉石は、時々看守の目を偸ぬすみて、紙盤しばんにその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを詰なじるを例とせり。(紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり)さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御身おんみは愛を二、三にも四、五にもする偽君子ぎくんしなり、ここに如何いかんぞ純潔の愛を玩もてあそばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を籠こめし書状を送り来りし事なり。東京在住中、妾しょうは数〻しばしばその邸ていに行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを厭いとい将はた妾らが国事に奔走するを忌いむの風ふうありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと切せつなるよしを言い越されんとは。妾は更に合点がてん行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、終ついには挙動にまで、その思いの表われて、如何いかにも怪あやしう思わるるに、かくまでの心入れを、如何いかでこのままにやはあるべきと、聊いささか慰藉いしゃの文を草して答えけるに、爾来じらい両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に懲こりし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ実げに妾が半生を不幸不運の淵ふちに沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は素もとよりかかる成行なりゆきを予知すべくもあらず、一向ひたぶるに名声赫々かくかくの豪傑を良人おっとに持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に出いづるを楽しみ、かの人を待ち焦こがれしぞかつは怪しき。かくて妾は宛然さながら甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には氤氳いんうんたる口気こうきに接して自おのずから野鄙やひの情も失うせ、心ざま俄にわかに高く品性も勝すぐれたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の間まに閉じられ、妾は一年有余の軽禁錮けいきんこを申し渡されたり。重井、葉石らの重おもだちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる猿ましらのそれにも似たらんかし。

第七 就役


一 典獄の訓誨くんかい

 伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三駅つき詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒袖つつそでに腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄句だくだに出いでず、剰あまつさえ大阪より附き添い来りし巡査は皆草津くさつにて交代となりければ、切せめてもの顔馴染なじみもなくなりて、憂うきが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄昏こうこんの頃なりしが、典獄は兼かねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄平松宜棟ひらまつぎとうである、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓でんていに相成りたる被告人らである、当典獄の配下の許もとに来りし上は申すまでもなく能よく獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方ほうらの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さて妾しょうの番になりし時、「お前はいわんでも分る、景山英かげやまひでであろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今拙者せっしゃの前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何処どこにどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一朝いっちょう国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙を籠こめての訓誨くんかいに、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで堪こらえに堪え来りたる望郷の涙は、宛然さながらに堰せきを破りたらんが如く、われながら暫しばしは顔も得上げざりき。典獄は沈思ちんししてそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお無頼ぶらいの女囚を改化遷善の道に赴おもむかしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、御身おんみが素志そしたる忠君愛国の実を挙げ給え、仮令たとい刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝下しっかにありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々に劬いたわりくれられたれば、遂ついには身の軽禁錮たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。

二 女監の工役

 朝も五時に起きて仕度したくをなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで井戸端いどばたに至りて順次顔を洗い、終りて役場えきじょうにて食事をなし、それよりいよいよその日の役えきにつきて、あるいは赤き着物を縫ぬい、あるいは機はたを織り糸を紡つむぐ。先ず着物の定役ていえきを記しるさんに赤き筒袖の着物は単衣ひとえものならば三枚、袷あわせならば二枚、綿入れならば一枚半、また股引ももひきは四足しそく縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりて予あらかじめ定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。妾しょうは固もとより定役なき身の仮令たとい終日書しょを伴ともとすればとて、敢あえて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の誤謬ごびゅうを解とかん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は罷役ひえきより前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上に上のぼりぬ。これは重禁錮じゅうきんこの者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分の有ゆうとなしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。

三 藤堂とうどう家の老女
 妾の幸福さいわいは、何処どこの獄にありても必ず両三人の同情者を得て陰いんに陽ように庇護ひごせられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の倦労けんろうを気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾の独ひとり読書に耽ふけるをいと羨うらやましげに見惚みとれ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事隔へだてなく交わりければ、出獄の後のちも忘るる能あたわず、同女が藤堂とうどう伯爵邸はくしゃくていの老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、千々ちぢに心を砕くだきし後のち、同女の次女を養い取りて聊いささか学芸を授さずけやりぬ。

四 少女

 妾しょうの在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお菊きくと呼べり。この二人ににんを特ことに典獄より預けられて、読み書き算盤そろばんの技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、頓やがて両女がここに来れる仔細しさいを知りぬ。お花は心の様さまさして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、一年ひととせ村の祭礼の折とかや、兄弟多くして晴衣はれぎの用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わが纏まとえる襤褸つづれの恨うらめしく、少女心おとめごころの浅墓あさはかにも、近所の家に掛かけありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時孤児みなしごとなり叔父おじの家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしば邪よこしまの径みちに走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天の下もとに暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人並なみの容貌を具えたるにいとど可憫ふびんの加わりて、如何いかで無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、一身いっしんの方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、露些つゆいささかも偏頗へんぱなく扱いやりしに、両女もいつか妾に懐なつきて、互いに競うて妾を劬いたわり、あるいは肩を揉もみ脚を按さすり、あるいは妾の嗜たしなむ物をば、己おのれの欲を節して妾に侑すすむるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、何故なにゆえ盗みの罪は犯したりしぞと、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は終ついに来らざりき。妾出獄の後のち監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ娼妓しょうぎに売られたり、またお菊きくは叔父おじの家にも来らず、その所在を知るに由よしなしとの事なりき。ともかくも妾の到る処何処いずこの監獄にてもかかる事の起りしは、知らず如何いかなる因縁いんねんにや。あるいはこの不自由なる小天地に長く跼蹐きょくせきせる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、好よしこの身自由となりし時、所有あらゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷いちるの光明を授けんこと、強あながちに難かたからざるべしとは、当時の妾が感想なりき。

五 看守の無学無識

 当市の監獄には、大阪のそれと異ことなりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡婦かふなどが糊口ここうの勤めとなせるなりき。されば何事も自己の愛憎あいぞうに走りて囚徒しゅうとを取り扱うの道を知らず。偏ひとえに定役ていえきの多寡たかを以て賞罰の目安めやすとなせし風ふうなれば、囚徒は何日いつまで入獄せしとて改化遷善せんぜんの道に赴おもむかんこと思いもよらず、悪しき者は益〻悪に陥りて、専心取締りの甘心かんしんを迎え、漸ようやく狡獪こうかい陰険の風を助長するのみ。故ゆえに監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすに勉つとむべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、表おもてに謹慎を表して陰いんに舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。独ひとり青木氏の如きは、天性慈善の心に富とみたるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を退しりぞきたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、藤堂とうどう氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。
六 憲法発布と大赦たいしゃ

 それはさて置き妾しょうは苦役一年にして賞標しょうひょう四個しこを与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小塚義太郎こづかぎたろう氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動悸ときめきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久々ひさびさの疎音そいんを謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔勅しょうちょく下り、かつ辱かたじけなくも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は遮さえぎりてその筋よりいまだ何らの達たっしなし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴女あなたは何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明日みょうにちにも面会に出頭せん、衣類等は如何いかになりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今明日こんみょうにちに喜ばしき御沙汰ごさたあるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を梳くしけずり置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に出いで来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心地ここちにて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居並いならびて、謹つつしんで大赦文たいしゃぶんを読み聞かされたり。なお典獄は威儀厳おごそかに、御身おんみの罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益〻国家のために励はげまれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使役しえきせられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生幻まぼろしの如しとは、そもや誰たがいいそめけんと一時いちじはただ茫然ぼうぜんたりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。


第八 出獄


一 令嬢の手前

 旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。夜よはまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は釜かまをかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其処そこに至りしに、令嬢の手前にて、薄茶うすちゃのもてなしあり。更に自分にも一服との所望しょもうありしかば、妾しょうは覚束おぼつかなき平手ひらてまえを立ておわりぬ。貧家ひんかにこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、聊いささかながらかかる業わざをも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾来じらいかかる事に思わぬ日を経て、遂ついに同地の有志者長井氏克ながいうじかつ氏らに送られつつ、鈴鹿峠すずかとうげに至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に出いづるの途中、植木枝盛うえきえもり氏の出迎えあり、妾に美しき薔薇花ばらの花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。

二 大阪の大歓迎

 大阪梅田停車場ステーションに着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も震ふるうばかりなり。停車場ステーションに着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも厭いとわせられず、親類の者に扶たすけられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に濡しめる声を振り絞しぼりしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に咽むせばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を別わかちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大旗たいきに護られ、大阪市中を腕車わんしゃに乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款待かんたいせられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故中江兆民なかえちょうみん先生、栗原亮一くりはらりょういち氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一息ひといき入れんとせしに、来訪者引きも切らず、拠よんどころなく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重井おもい、葉石はいし、古井ふるいらの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着阪ちゃくはんせる同志と共に停車場ステーションまで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東雲しののめ新聞社に至らんとせるに、数万すまんの見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田停車場ステーションもほとんど立錐りっすいの地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に擁ようせられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、辛かろうじて東雲しののめ新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満緑まんりょく叢中そうちゅう紅一点こういってんともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子テーブルの上に座せしめ、其処そこにて種々の饗応きょうおうあり。終りて各〻おのおの旅宿に帰りしは早や黄昏たそがれの頃なりけり。

第九 重井との関係


一 結婚を諾だくす

 それより重井、葉石、古井の諸氏は松卯まつう、妾しょうは原平はらへいに宿泊し、その他の諸氏も各〻おのおの旅宿を定め、数日間は此処ここの招待、彼処かしこの宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ好よきほどにて引き別るることとなり、妾も弥〻いよいよ明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮方せんかたなく帰宿せんとする折しも、重井独ひとり帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は得えも忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を履ふまんという。こは予かねてよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来中江なかえ先生、栗原亮一くりはらりょういち氏ら頻しきりにわれに説きて、汝おんみと葉石はいしと結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青天せいてんの霹靂へきれきにも喩たとうべくや、所詮しょせんは中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図いちずに妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆水ふくすい争いかでか盆に復かえるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、妾しょうにその意なきことを謝ことわりしかば、両氏も始めて己おのれらの誤解なることを覚さとり、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼馴染おさななじみの葉石の、今は昔互いに睦むつみ親しみつつ旦暮あけくれ訪といつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを懐おもい、また今の葉石とて妾に対して露つゆ悪意のあるに非あらざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情緒じょうちょ乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、素もとより葉石との関係を知れる彼は、容易に諾うべなわず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡旋あっせんに余儀なくせられて、強しいて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を催うながして止やまず、遂ついに軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。

二 一家の出迎い

 それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の途とにつきしが、頓やがて三番港さんばんみなとに到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑沓ざっとう言わん方かたもなく、上陸して船宿ふなやどに抵いたれば、其処そこにはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を悩わずらいしというに、かく健すこやかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り縋すがられ、アア今日は芽出めでたき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟甥姪おいめいを呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨拶あいさつ終りて、ふと傍かたわらに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種々いろいろ親切に世話しくれたり、彼はそも何人なんぴとなりやと尋たずねしに、そは何なにをいう、弟淳造じゅんぞうを忘れしかといわれて一驚いっきょうを喫きっし、さても変れば変る者かな、妾しょうの郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮貊盛わんぱくざかりなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。実げに人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも宜むべならずやなど笑い興じて、共に腕車わんしゃに打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に臨のぞまんため、岡山公園なる観楓閣かんぷうかく指して出立いでたつ。 この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後園こうえんにして、四時の眺ながめ尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発企ほっき者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる慷慨こうがい悲壮の新体詩をば、二面の洋琴ようきんに和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を扼やくして、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に撃うたれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、各〻おのおの歓を尽して帰路につきたるは、頓やがて点燈頃ひともしごろなりき。

三 久し振りの帰郷

 かくて妾しょうは母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の淋さびしく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き纏まとわれ、賑々にぎにぎしくも帰れることよ。今昔こんじゃくの感坐そぞろに湧わきて、幼児の時や、友達の事など夢の如く幻まぼろしの如く、はては走馬燈まわりあんどんの如くにぞ胸に往ゆき来こう。我が家に近き町はずれよりは、軒のきごとに紅燈こうとうの影美しく飾られて宛然さながら敷地祭礼の如くなり。これはた誰たれがための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる款待かんたいを受けながら、妾が将来は如何いかに、重井おもいと私ひそかに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れず悶もだえ苦しみしぞかし。

四 大評判

 我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。絃妓げんぎも来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りて後のち、種々しめやかなる話しも出で、暁あかつきに至りて興はなお尽きざりき。七年の来こし方かたを、一夜に語り一夜に聴かんと遄はやれるなるべし。
 明あくれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の発起ほっきにかかる慰労会あり、魚久うおきゅうという料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件に因ちなめるなりとかや。かくて数日すじつの間は此処ここの宴会彼処かしこの招待に日も足らず、平生へいぜい疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちに集つどい寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお景山英かげやまひでの名を口にせざるはなかりしぞ憂き。

五 内縁

 それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため阪地はんちを経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の親戚しんせき某方ぼうかたに来りくるるようとの特信ありければ、今は躊躇ちゅうちょの場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の批露ひろうは、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事を弁わきまえず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、仮初かりそめならぬ人のために終身の謀はかりごとだになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて数万すまんの金きんを得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、姑しばらく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見如何いかがあるべきやと尋たずねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも御身おんみの意見に任すべしと諾うべなわれなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも余所よそながらの杯さかずきさせん抔など、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人を訪とうを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び一方ひとかたならず、この上は直ちに御両親に見まみえんとて、相挈あいたずさえて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたる後のち、貴重なる指環ゆびわをば親しく妾の指に嵌はめて立ち帰りしこそ、残る方かたなき扱いなれとて、妾は素もとより両親も頗すこぶる満足の体ていに見受けられき。爾来じらい東京に大阪に将はた神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよ重かさなり行きぬ。

第十 閑話三則


一 一女生

 その頃妾しょうの召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を断きりて男の姿を学び、白金巾しろかなきんの兵児帯へこおび太く巻きつけて、一見いっけん田舎の百姓息子の如く扮装いでたちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景山かげやまの弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み辞いなみがたく、先ずその旨むねを承諾して、さて何故にかかる変性男子へんしょうだんしの真似をなすにやと詰なじりたるに、貴女あなたは男の如き気性きしょうなりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に換かえたりという。さては世間の妾を視みること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を凌しのがんとする驕慢きょうまん疎野そやの女よと指弾つまはじきせらるることの面目なさよ。有体ありていにいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて些いささかなりとも世に尽さん考えなりしに、図はからずも殺風景の事件に与くみしたればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも関かかずらいしは事こと国家の休戚きゅうせきに関し、女子たりとも袖手しゅうしゅ傍観すべきに非あらず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を奨すすめ励はげまし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに外ほかならず、かの男子と共に力を争い、将はた功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何処どこまでも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相輔あいたすけ相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、図はからずもかかる錯誤さくごを招きたるは、妾の甚はなはだ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄々じゅんじゅんその非を諭さとし、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉目びもく艶麗えんれいの一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に嫁かして美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら坐そぞろに微笑の浮ぶを覚えつ。

二 大奇談

 その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家を卜ぼくせしある日の事、福岡県人菊池某とて当時耶蘇ヤソ教伝道師となり、普教に勉つとめつつありたるが、時の衆議院議員、嘉悦氏房かえつうじふさ氏の紹介状を携たずさえ来りて、妾に面会せん事を求めぬ。固もとより如何いかなる人にても、かつて面会を拒こばみし事のなき妾は、直ちに書生をして客室かくしつに請しょうぜしめ、頓やがて出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を凝視ぎょうししつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、頗すこぶる狼狽ろうばいの体ていにて妾の挨拶あいさつに答礼だも施ほどこさず、茫然ぼうぜんとしていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初め怪あやしみ、遂ついには恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分の憤いきどおりを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客は忽たちまち慚愧ざんきの体にて容かたちを改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、何心なにごころなく披ひらき見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文に曰いわく(中略)貴嬢の朝鮮事件に与くみして一死を擲なげうたんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容貌ようぼう醜矮しゅうわい突額とつがく短鼻たんび一目いちもく鬼女きじょ怪物かいぶつと異ことならねば、この際身を棄すつる方優まさるらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可憐かれんの嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦夫かんぷと奔はしり、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭も睦むつまじく神に仕えらるるならんと云々うんぬん。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アア誤あやまてり疎忽そこつ千万せんばんなりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像の仇あだとなれるを思うに、凡およそ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢を娶めとらんと希ねがう者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわが志こころざしを酌くみ給わずば、われは遂ついに悲哀の淵ふちに沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、忽たちまち小刀ナイフをポッケットに探さぐりて、妾に投げつけ、また卓子テーブルに突き立てて妾を脅迫し、強しいて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、好よきほどに待遇あしらわしめつつ、座を退しりぞきてその後の成行きを窺うかがう中うち、書生は客を賺すかし宥なだめて屋外に誘いざない、自みずから築地つきじなる某教会に送り届けたりき。
三 川上音二郎かわかみおとじろう

 これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、重井おもいと同行する事に決し、畝下熊野はたしたゆや(現代議士山口熊野)、小池平一郎こいけへいいちろう、前川虎造まえかわとらぞうの諸氏と共に同地に至り同所有志の発起ほっきに係かかる懇親会に臨のぞみて、重井その他の演説あり。妾にも一場いちじょうの演説をとの勧め否いなみがたく、ともかくもして責せめを塞ふさぎ、更に婦人の設立にかかる婦人矯風会きょうふうかいに臨みて再び拙つたなき談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の誘引ゆういんにより和歌わかの浦うらを見物し、翌日は田辺たなべという所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目を施ほどこしたりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも数〻しばしば招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身の特ことに葉石との同行を辞いなまんようなく、かつは旧誼上きゅうぎじょう何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も一旦いったん帰郷し、暫しばし当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中川上音二郎かわかみおとじろうの一行いっこう、岡山市柳川座やながわざに乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、厚意こうい黙止もだしがたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸素もとより今日こんにちの如く発達しおらぬ時の事とて、科しぐさといい、白せりふといい、ほとんど滑稽に近く、全然一見いっけんの価あたいなきものなりき。しかも当時大阪事件が如何いかに世の耳目じもくを惹ひきたりしかは、市しの子女をしてこの芝居を見ざれば、人に非あらずとまでに思わしめ、場内毎日立錐りっすいの余地なき盛況を現げんぜしにても知らるべし、不思議というも愚おろかならずや。その興業中川上は数〻しばしばわが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど頗すこぶる親切叮嚀ていねいなりしが、ある日特ことに小介こものをして大きなる新調の引幕ひきまくを持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する尊姉そんしの名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、聊いささか自分の面目を施ほどこしたしという。妾は当時の川上が性行せいこうを諒知りょうちし居たるを以て、まさかに新駒しんこまや家橘かきつの輩はいに引幕を贈ると同一には視みらるることもあるまじとて、その事を諾うべないしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、身み自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、忽たちまち妾に反対して頗すこぶる穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上に洩もらして署名を謝絶しけるに、彼は激昂げっこうして穏やかならぬ書翰しょかんを残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して本郷ほんごう切きり通どおしを通行の際、ふと川上一座と襟えりに染そめぬきたる印半天しるしばんてんを着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞ外ほかならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、一別いちべつ以来の挨拶振あいさつぶりも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度浅草鳥越あさくさとりごえにおいて興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に奔走ほんそうせるなり、前年と違いよほど苦辛くしんを重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、江藤新平えとうしんぺいを演ずるはずなれば、是非御家族を伴ともない御来観ありたしという。数日すじつを経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人を誘いざないて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼は終ついに爾しかく純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえ叶かなわざりし宮様方の、勿体もったいなくも御観劇ありし際特ことに優旨ゆうしを以て御膝下おんひざもと近くまで御招おんまねきに預かり、御言葉おんことばを賜たまわるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は随喜ずいきの涙なんだに咽むせび、これも俳優となりたるお蔭かげなりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義を棄すて、意気を失いしより得たる賜たまものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは実げに翻覆手ほんぷくしゅにも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の幇間ほうかんとなり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むる外ほかにまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なる漢おとこと見えたり。この流の軟腸者豈あに独ひとり川上のみならんや。

第十一 母となる


一 妊娠

 これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、葉石はいしとの関係につき他たより正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたき旨むね申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる重井おもいに柬かんしてその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途とに就つきしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の容体ようだい尋常ただならず、日を経るに従い胸悪く頻しきりに嘔吐おうどを催しければ、さてはと心に悟さとる所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親に謀はからんとせしに彼は許さず、暫しばらく秘して人に知らしむる勿なかれとの事に、妾は不快の念に堪たえざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に詮方せんかたもなく、彼の言うがままに従うに如しかずと閑静なる処に寓居ぐうきょを構かまえ、下婢かひと書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの心構こころがまえなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、将はた両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだも忌いまわしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。如何いかなる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、殊ことに胎児にまで世の謗そしりを受けしむるを慮おもんばからずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の都度つど切せつに言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮の体ていにて、今暫く発表を見合みあわしくれよ、今郷里の両親に御身おんみ懐胎かいたいの事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくては叶かなわず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、如何いかんともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にて頗すこぶる有望の事件を担当しおり、この事件にして成就じょうじゅせば、数万すまんの報酬ほうしゅうを得んこと容易なれば、その上にて総すべて花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと他事たじもなき頼みなり。素もとより彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時遁のがれの間まに合あわせならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親の憤いきどおりを受くるとも、言い解とく術すべのなからんやと、事に托たくして叔母おばなる人の上京を乞い、事情を打ち明けて一身いっしんの始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を戒いましめしほどに、景山かげやまは今何処いずくにいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえ謳うたわるるに至りぬ。

二 分娩ぶんべん、奇夢

 その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子を挙あぐ。名はいわざるべし、悔くいある堕落の化身けしんを母として、明あからさまに世の耳目じもくを惹ひかせんは、子の行末ゆくすえのため、決して好よき事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて一場いちじょうの奇談あり、迷信の謗そしり免まぬかれずとも、事実なれば記しるしおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は深山しんざんに迷い込みて数千すせんの狼おおかみに囲かこまれ、一生懸命の勇を鼓ならして、その首領なる老狼ろうろうを引き倒し、上顎うわあごと下顎したあごに手をかけて、口より身体までを両断せしに、他たの狼児は狼狽ろうばいして悉ことごとく遁失にげうせ、またある時は幼時かつて講読したりし、『十八史略』中の事実、即ち「禹う江こうを渡る時、蛟竜こうりょう船を追う、舟中しゅうちゅうの人皆慴おそる、禹う天を仰いで、嘆じて曰いわく、我命めいを天に享うく、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、竜りょうを見る事、蜿蜓えんていの如く、眼色がんしょく変ぜず、竜首こうべを俯ふし尾を垂たれて、遁のがる。」といえる有様の歴々ありありと目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に誦しょうし、竜をして遂ついに辟易へきえきせしめぬ。しかるに分娩ぶんべんの際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩覚束おぼつかなしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大雨たいう篠しのを乱しかけ、鳴神なるかみおどろおどろしく、はためき渡りたるその刹那せつなに、児じの初声うぶこえは挙あがりて、さしも盆ぼんを覆くつがえさんばかりの大雨も忽たちまちにして霽はれ上あがりぬ。後あとにて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう竜たつまきなるものありて、その蛇へびの如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の重かさね重がさね竜に縁あるを奇として、それに因ちなめる名をば命つけつ、生おい先の幸さち多かれと祷いのれるなりき。
三 児じの入籍

 児を分娩すると同時に、またも一いつの苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如何いかにせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交誼こうぎを結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀はかる所ありしに、義侠ぎきょうに富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一子いっしだになきを幸い、嫡男ちゃくなんとして役所に届け出でられぬ。かくて両人とも辛かろうじて世の耳目じもくを免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上危篤きとくの電報は来りぬ。

四 愛着

 分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は切せつに忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、殊ことには母上の病気とあるに、争いかで余所よそにやは見過ごすべき、仮よし途中にて死なば死ね、思い止とまるべくもあらずとて、人々の諌いさむるを聞かず、叔母おばと乳母うばとに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何いかになしおるやらんと、心は千々ちぢに砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。実げに人生の悲しみは頑是がんぜなき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強しいて堪えねばならぬとは、これも偏ひとえに秘密を契ちぎりし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に上のぼりけるに、車中片岡直温かたおかなおはる氏が嫂あによめ某女と同行せられしに逢い、同女が嬰児えいじを懐ふところに抱きて愛撫あいぶ一方ひとかたならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫ふびんさ、探りなれたる母の乳房に離れて、俄にわかに牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の哺ふくみがたくて、今頃は如何いかに泣き悲しみてやあらん、汝なれが恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々おおしき心は失うせて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層ひとしお女々めめしうなりしぞかし。さしも気遣きづかいたりし身体には障さわりもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停車場ステーション近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意わざと偽名を書しょしたれば、片岡氏も妾をば景山英かげやまひでとは気付かざりしならん。

五 一大事

 翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危篤きとくなりし病気の、ようよう怠おこたりたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親戚しんせきども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何様なにさま尋常じんじょうにてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折角せっかく怠りたる母上の病気の、またはそれがために募つのり行きて、悔くゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々薄紙はくしを剥はぐが如くに癒いえ行きて、はては、床とこの上に起き上られ、妾の月琴げっきんと兄上の八雲琴やくもごとに和して、健すこやかに今様いまようを歌い出で給う。

春のなかばに病み臥ふして、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老おいの身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐かいありて、病やまいはいつか怠りぬ、実げに子宝の尊きは、医薬の効にも優まさるらん、
 滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の矢竹やたけにはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、能よきほどの口実を設けて帰京の旨むねを告げ、かつ妾も思う仔細しさいあれば、遠からず父上母上を迎え取り、膝下しっかに奉仕ほうじすることとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、先まず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来の憂うさを霽はらしぬ。


第十二 重井の変心


一 再び約束履行りこうを迫る

 妾しょうの留守中、重井おもいは数〻しばしば来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、如何いかで楽しくも思わざらん、ただ世間を憚はばかればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行を促うながさばやと、ある日面会せしを幸いかく何日いつまでも世間を欺あざむき小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にも見まみえがたかるべしなど、涙と共に掻口説かきくどき、その後のちまた文ふみして訴えけるに、彼も内心穏やかならず頗すこぶる苦慮の体ていなりしが、ある時は何思いけん児じを抱いだき上げて、その容貌を熟視しつつハラハラと熱あつき涙を濺そそぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もやや疎うとくなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日説とくに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟に柬かんして挙家きょか上京の事に決せしめぬ。

二 挙家上京

 アア妾しょうはただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退のかしめ住すみも慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなか贖あがなうべき術すべのあるべきに非あらず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心に謝わびぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び一方ひとかたならず、東京にて日を暮し得るとは何たる果報かほうの身の上ぞや、これも全く英子ひでこが朝鮮事件に与あずかりたる余光なりとて、進まぬ兄上を因循いんじゅんなりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人を尋たずね、西京さいきょう見物に日を費ついやし、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の乳母うばと都合八人いずれも打ち興じつつ、長き海路うみじも恙つつがなく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、神田かんだ錦町にしきちょうの寓居ぐうきょに入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同を労いたわり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。

三 変心の理由

 家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満の体ていにて訪とい来る事も稀々まれまれなりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を履行りこうせざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なお言ことばを左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、果はてはその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼は妾しょうの帰国中妾の親友たりし泉富子いずみとみこと情を通じ、妾を疎隔そかくせんと謀はかりしなり。

四 泉富子(変名)

 ここに泉富子(目下農学博士某の妻なり)の来歴を述べんに、彼女は素もと備前の産うまれなり。父なる人ある府庁に勤務中看守盗かんしゅとうの罪を犯して入獄せしかば、弁護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と相挈あいたずさえ、特ことに妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計不如意ふにょいとなるに及びて、彼女はこれを厭いとい、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に恋々れんれんして、遂ついに良人りょうじんたり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京に奔はしりて重井と交際し、果はその愛を偸ぬすみ得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ相睦あいむつみ合いしに、ある日重井よりの書翰しょかんあり、読みもて行くに更に何事なにごととも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は何日いつか懐胎かいたいしてある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取り違ちがえたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここに記しるすまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰責きっせきせしに、重井は益〻その不徳の本性ほんしょうを現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに後悔こうかいせしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の幻術げんじゅつをもて首尾しゅびよく農学博士の令室れいしつとなりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭を整ととのえおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井を尋たずねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾お柳りゅうのために一言いちごんにして跳付はねつけられ、已やむなく博士某の邸ていに生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、爾来じらい行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも辛苦しんくの内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人に優すぐれし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば無残々々むざむざ浮世の風に晒さらし、なお一片可憐かれんなりとの情こころも浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる邪慳じゃけん非道ひどうの鬼ぞやと、妾は同情の念已やみがたく、如何いかにもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ遺憾いかんなれ。
五 驚くべき相談対手あいて

 ここにおいて妾しょうは全く重井のために弄もてあそばれ、果はては全く欺あざむかれしを知りて、わが憤怨ふんえんの情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を如何いかにすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれを励はげまし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、特ことに徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その斡旋あっせんを求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼曰いわく既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、責せむればとて、詮せんもなからん。むしろ早く思い棄てて更さらに良縁を求むるこそ良よけれ、世間自おのずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために齷齪あくせくする事の愚おろかしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職を荷にないたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の権門家けんもんかに屈従するにこそ、世間自おのずから栄達の道に乏しからざるを、大義たいぎのために齷齪することの愚かしさよとや悟さとり給うらん。アア堂々たる男子も一旦いったん志こころざしを得れば、その難有味ありがたみの忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとては褻けがらわしの人の心やと、当面まのあたりに言い罵ののしり、その醜悪を極めけれども、彼重井おもいの変心を機として妾を誑惑たぶらかさんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この熱罵ねつばをば微笑もて受け流しつつ、その後のちも数〻しばしば訪とい寄りては、かにかくと甘き辞ことばを弄ろうし、また家人にも取り入りてそが歓心を得んと勉つとめたる心の内、よく見え透すきて、憫あわれにもまた可笑おかしかりし。否いな彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口惜くちおしく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より数年すねんの辛苦を徳とせられ、大抵たいてい代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。復また当年の苦艱くかんを顧かえりみる者なく、そが細君すらも悉ことごとく虚名虚位に恋々れんれんして、昔年せきねん唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の栄耀えいように汲々きゅうきゅうとして借金賄賂わいろこれ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にも謡うたわるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、妾しょうが重井のために無上の恥辱を蒙こうむりたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、厭いやになったら、また善よいのを求むべし、これが当世なりとは、さても横に裂さけたる口かな。何たる教訓ぞや。

六 重井と絶たつ

 見よ彼らが家庭の紊乱びんらんせる有様を、数年間すねんかん苦節を守りし最愛の妻をして、良人りょうじんの出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦悶くもんを覚えしめ、淫酒いんしゅに耽ふけり公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色に溺おぼれ、果はてはその子にまで無限の苦痛を嘗なめしむるもの比々ひひとして皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそ過あやまちなりけれ。この上は自みずから重井との関係を断ち翻然ほんぜん悔悟かいごしてこの一身をば愛児のために捧ささぐべし。妾不肖ふしょうなりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って一文いちもんたりとも彼が保護をば仰がじと発心ほっしんし、その旨むね言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調を執とり、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に激昂げっこうせられて、人を以て厳しく談判せんなど言い罵ののしられけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更如何いかに責せめたりともその効かいあらんようなく、かえって恥をひけらかすに止とどまるべしと、かつ諌いさめかつ宥なだめけるに、ようように得心とくしんし給う。
七 災厄頻しきりに至る

 それより妾しょうは女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計を嫂あによめは刺繍ししゅう科裁縫さいほう科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論近郷きんきょうよりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世の憂うたてさよ、明治二十五年の冬父上風邪ふうじゃの心地ここちにて仮りの床とこに臥ふし給えるに、心臓の病やまいさえ併発して医薬の効なく遂ついに遠逝えんせいせられ、涙ながらに野辺送のべおくりを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもその跡あとを追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるの間ひまもなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾遣やる方かたもなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、僅わずかの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来貧窮ひんきゅうの家計は、ほとほと詮せん術すべもなき悲惨の淵ふちに沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、辛からくも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、杖柱つえはしらとも頼みたる父上兄上には別れ、嫂あによめは子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産の憐あわれを告げければ、妾は身の不幸不運を悔くやむより外ほかの涙もなく、この上は海外にも赴おもむきてこの志こころざしを貫つらぬかんと思い立ち、徐おもむろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけん端はしなくも後日こじつ妾の敬愛せる福田友作ふくだともさくと邂逅かいこうの機を与え給えり。


第十三 良人


一 同情相憐れむ

 これより先、明治二十三年の春、新井章吾あらいしょうご氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時妾しょうは重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、一度ひとたび交誼こうぎを結ばんとの念はありしなるべし。ある日関東倶楽部かんとうくらぶに一友人を尋たずねし時、一紳士いつしんしの微笑しつつ、好処よいところにてお目にかかれり、是非お宅へ御尋ね申したき事ありというを冒頭に、妾の方ほうに近づき来りて、慇懃いんぎんに挨拶せるは福田なり。そは如何いかなる御用にやと問い反かえせしに、彼は妾の学校の当時なお存しおる者と思い居たるが如く、今回郷里なる親戚の小供の出京するにつきては、是非とも御依頼せんと思うなりという。依って妾は目下都合ありて閉校せることを告げ、尤もっとも表面学校生活はなしおらざるも、両三人自宅に同居して読書習字の手ほどきをなしおれり、それにて差し支えなくば御越おんこしなさるるも宜よろしけれど、実の処、一方ひとかたならぬ困窮に陥おちいりて学校らしき体面をすら装う能あたわずと話しけるに、彼は何事にか大いに感じたる体ていなりしも道理、その際彼も米国より帰朝以来、小石川こいしかわ竹早町たけはやちょうなる同人社どうにんしゃの講師として頗すこぶる尽瘁じんすいする所ありしに、不幸にして校主敬宇けいう先生の遠逝えんせいに遭あい閉校の止やむなき有様となりたるなり。その境遇あたかも妾と同じかりければ、彼は同情の念に堪えざるが如く、頻しきりに妾の不運を慰めしが、その後のち両親との意見相和あいわせずして、益〻不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむの念いよいよ深く、果《はて》は妾に向かい再び海外に渡航して、かの国にて世を終らんかなどの事をさえ打ち明くるに至りければ、妾もまたその情に撃たれつつ、御身《おんみ》は妾と異なりて、財産家の嫡男《ちゃくなん》に生れ給い、一度《ひとたび》洋行してミシガン大学の業を卒《お》え、今は法学士の免状を得て、芽出《めで》たく帰朝せられし身ならずや、何故《なにゆえ》なればかかる悲痛の言をなし給うぞ。妾の如く貧家に生れ今日《こんにち》重ねてこの不運に遇《あ》いて、あわや活路を失わんずるものとは、同日《どうじつ》の談にあらざるべしと詰《なじ》りしに、実に彼は貧《ひん》よりもなおなおつらき境遇に彷徨《さまよ》えるにてありき。彼は忽《たちま》ち眼中に涙を浮べて、財産家に生るるが幸福なりとか、御身《おんみ》の言葉違たがえり、仮令《たとえ》ばその日暮《ひぐら》しのいと便《びん》なきものなりとも、一家団欒だんらんの楽しみあらば、人の世に取りて如何《いか》ばかりか幸福ならん。素《も》と自分の洋行せしは、親より強《し》いて従妹なる者と結婚せしめられ、初めより一毫《いちごう》の愛とてもなきものを、さりとは押し付けの至りなるが腹立たしく、自暴《やけ》より思い付ける遊学なりき。されば両親も自ら覚《さと》る所ありてか遊学中も学資を送り来りて、七年の修業を積むことを得《え》、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施す事を得んと楽しみたりしに、志《こころざし》はまた事と違いて、昔に優《まさ》る両親の処置の情《なさ》けなさ、かかる家庭にあるも心苦しくて他出《たしゅつ》することの数〻しばしばなりしにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりて遂ついに父上の怒りに触れ、かかる放蕩ほうとう者の行末ゆくすえぞ覚束おぼつかなき、勘当せんと敦圉いきまき給えるよし聞きたれば、心ならずも再びかの国に渡航して身を終らんと覚悟せるなりと物語る。アア妾もまた不幸落魄らくはくの身なり、不徳不義なる日本紳士の中うちに立ち交らんよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれといいけるに、彼は忽たちまち活々いきいきしく、さらば自分と同行するの意はなきや、幸い十年足らずかの地に遊学せし身なれば、かの地の事情に精通せりなど、真心まごころより打ち出いだされて、遠き沙漠さばくの旅路に清き泉を得たらんが如く、嬉しさ慕したわしさの余りより、その後数〻しばしば相会しては、身にしみじみと世の果敢はかなさを語り語らるる交情なからいとなりぬ。ある日彼は改めて御身おんみにさえ異存なくば、この際結婚してさて渡航の準備に着手せんといい出でぬ。妾も心中この人ならばと思い定めたる折柄おりからとて、直ちに承諾の旨むねを答え、いよいよ結婚の約を結びて、母上にも事情を告げ、彼も公然その友人らに披露ひろうして、それより同棲どうせいすることとなり、一時睦むつまじき家庭を造りぬ。
二 貧書生ひんしょせい

 その頃の新聞紙上には、豪農の息子景山英かげやまひでと結婚すなどの記事も見えけるが、その実福田友作ふくだともさくは着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる偽豪傑連にせごうけつれんよりは、酒色しゅしょくを以て誘いざなわれ、その高利の借金に対する証人または連借人れんしゃくにんたる事を承諾せしめられ、果はては数万すまんの借財を負おいて両親に譴責けんせきせられ、今は家に帰るを厭いといおる時なりき。彼は亜米利加アメリカより法学士の免状を持ち帰りし名誉を顧かえりみるの遑いとまだになく、貴重の免状も反古ほご同様となりて、戸棚の隅に鼠ねずみの巣とはなれるなりき。可哀かわいさの余りにか将はた憎にくさにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになって貰もらわんとて、学問はさせしに非あらずと、実げに親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子に嘗なめさせ、なお帰らねば廃嫡はいちゃくせんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が抱負ほうふ理想を枉まぐべきに非あらずとて、彼は諾うべなう気色けしきだになければ、さしもの両親も倦あぐみ果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立の計はかりごとをなさん者と友人にも謀はかりて英語教師となり、自宅にて教鞭きょうべんを執とりしに、肩書きのある甲斐かいには、生徒の数かずようように殖ふえまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、国許くにもとより父の病気に托して帰国を促うながし来ることいと頻しきりなり。已やむなく帰省して見れば、両親は交々こもごも身の老衰を打ち喞かこち、家事を監督する気力も失うせたれば何とぞ家居かきょして万事を処理しくれよという。素もとより情には脆もろき彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、事ことを分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家に累わずらいを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔細しさいあれば、多年の苦学を空むなしうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機嫌きげん見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱責しっせきしたり。已やむなく前言を取り消して、永く膝下しっかにあるべき旨むねを答えしものから、七年の苦学を無にして田夫野人でんぷやじんと共に耒鋤らいじょを執とり、貴重の光陰こういんを徒費とひせんこと、如何いかにしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて馴なれぬ養蚕機織はたおりの業わざを執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、各〻おのおの長ずる道により、世に立つこそよけれと悟さとりければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少許しょうきょの資本の分与ぶんよを乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと罵ののしられ、忽たちまち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、遂ついに再び流浪るろうの客かくとなりて東京に来り、友人の斡旋あっせんによりて万朝報社よろずちょうほうしゃの社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。
三 夫婦相愛

 これより漸ようやく米塩べいえんの資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切屑屋くずやに売り払い、遂ついには火鉢の五徳ごとくまでに手を附けて、僅わずかに餓死がしを免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆紙ひっしの尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、妾しょうをして、坐そぞろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、素もとより貧窶ひんるに馴なれたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権門けんもんの令夫人よ、御身おんみが偽善的儀式の愛に欺あざむかれて、終生浮ぶ瀬せのなき凌辱りょうじょくを蒙こうむりながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、窃ひそかに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸如何いかなりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に貴賤きせんの別なきを知る、智愚ちぐの分別ふんべつなきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦婦かんぷに対するの処置を以てまた姦夫かんぷに臨まんことを望むものなり。東洋の女子特ことに独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨酷ざんこくなる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは独ひとり男子の罪のみに非あらず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も与あずかりて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、忽たちまち路頭に迷わんとの鬼胎おそれを懐いだき、何でも噛かじり付きて離れまじとは勉つとむるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑渇きかつを恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼藉ろうぜきに遭あいて、黙従の外ほかなきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は妾しょうの首肯しゅこうする能あたわざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の途みちなきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の顧かえりみるに足らざることもまた知れり、常識なき痴情ちじょうに溺おぼれたりという莫なかれ、妾が良人の深厚しんこうなる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数万すまんの財を棄つること、あたかも敝履へいりの如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋常ただならぬ身となり、事皆志こころざしと差ちがいて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲郎てつろうとは命じぬ。

四 神頼み

 しかるに生れて二月ふたつきとはたたざる内に、小児は毛細気管支炎もうさいきかんしえんという難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も厭いとうことなく、住居を離さる十町ばかりの築土八幡宮つくどはちまんぐうに参詣さんけいして、愛児の病気を救わせ給えと祷いのり、平生へいぜい嗜たしなめる食物娯楽をさえに断たちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸次ぜんじ快方に赴おもむきければ、単ひとえに神の賜物たまものなりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その後のち久しく参詣を怠らざりき。
五 有形無形

 妾幼ようより芝居寄席よせに至るを好このみ、また最も浄瑠璃じょうるりを嗜たしなめり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、機おりに触れては勧め誘いざないたれど、既に無形の娯楽を得たり、復また形骸けいがいを要せずと辞いなみて応ぜず。ただわが家庭を如何いかにして安穏あんおんに経過せしめんかと心はそれのみに奔はしりて、苦悶の中うちに日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を協あわせ、僅わずかに職を得たりと喜べば、忽たちまち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労一方ひとかたならず、彼やこれやの間に、可借あたら壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心許もとなさ。

六 渡韓の計画

 かくては前途のため善よからじと思案して、ある日将来ゆくすえの事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、機おりよくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便びんを得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は半なかば友人より、その他は非常の手だてにて調ととのえ、渡韓の準備全く整ととのいぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の客かくたりし朴泳孝ぼくえいこう氏らも大政たいせいに参与し、威権赫々かくかくたる時なりければ、日本よりも星亨ほしとおる、岡本柳之助おかもとりゅうのすけ氏ら、その聘へいに応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西園寺さいおんじ侯爵こうしゃくもまた勅ちょくを帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重立おもだちたる人々に交わりを求むるも難かたからず、またかの国法務大臣徐洪範じょこうはんは、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出立しゅったつの日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を妨さまたげられ、万事に失敗して御身おんみにまで非常の心痛をかけたりしが、今回の行こうによりて、聊いささかそを償つぐない得べし。御身に病児を托す、願わくは珍重ちんちょうにせよかしとて、決然袂たもとを分わかちしに、その後のち二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、実げにも悲しき運命なるかな。

七 妨害運動

 これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ難かたきを憂うれい、その極高利貸こうりかしをして、福田が家資分産かしぶんさんの訴えを起さしめ、かくして彼の一身いっしんを縛しばり、また公権をさえ褫奪ちだつして彼をして官途に就つく能あたわざらしめ、結局落魄らくはくして郷里に帰るの外ほかに途みちなからしめんと企てたり。されば彼の仁川じんせん港に着するや、右の宣告書は忽たちまち領事館より彼が頭上に投げ出いだされぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき金かねをも調達して最愛の妻や病児をも跡あとに残して、あかぬ別れを敢あえてしたるなるに、慈愛はなかなか仇あだとなりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を担にないつつ、折角せっかく新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調ととのえ、漸ようやく帰京の途とにはつき得たるなりき。
八 血を吐く思い

 横浜に着すると同時に、妾しょうにちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔色がんしょく常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本意ほいなき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断腸だんちょうの思いなりしならんに、日頃耐忍たいにん強き人なりければ、この上はもはや詮方せんかたなし、自分は死せる心算しんさんにて郷里に帰り、田夫野人でんぷやじんと伍ごして一生を終うるの覚悟をなさん。かく志こころざしを貫つらぬく能あたわずして、再び帰郷するの止やむなきに至れるは、卿おんみに対しまた朋友ほうゆうに対して面目なき次第なるも、如何いかんせん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂ついに膝下しっかに仕つかえしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児じのために犠牲とならん、何とぞこの切せつなる心を察して、姑しばらく時機を待ちくれよという。今は妾も否いなみがたくて、終ついに別居の策を講ぜしに、かの子煩悩こぼんのうなる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子いっしを分ちて、家庭の冷ひややかさを忘れしめよとあるに、これ将はた辞いなみがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和やわらげんよすがにもと、遂ついに哲郎をば彼の手に委ゆだねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐そぞろに熱涙ねつるいの湧わくを覚ゆるぞかし。

九 新生活

 かくて彼は再び鉄面を被かぶり愛児までを伴ともないて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極帰家きかせしを喜び、何なにとかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫ごうも慈母の撫育ぶいくに異ことなることなく、終日その傍かたわらに絆ほだされて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体ていにて親みずから愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾しょうに対してさえ、毎月若干じゃっかんの手当てを送るに至りけるが、夫婦相思そうしの情は日一日に弥いや増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男侠太きょうたの誕生たんじょう間もなく、親族の者より、妾に来郷らいきょうの事を促うながし来りぬ、されば彼はこれに反して、私ひそかに来らぬこそ好よけれと言い送れり。そは妾にして仮よし彼の家の如き冷酷の家庭に入いるとも到底長く留とどまる能あたわざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、遥はるかに身体からだ一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、徒いたずらに彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く辞いなみて行かざりしに、親族は躍気やっきになりて来郷を促し、子供のために、枉まげて来り給えなどいと切せめて勧めけるに、良人りょうじんと児じとの愛に引かれて、覚束おぼつかなくも、舅姑きゅうこの機嫌きげんを取り、裁縫やら子供の世話やらに齷齪あくせくすることとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。

十 ああ死別

 されど妾の如き異分子の、争いかでか長くかかる家庭に留まり得べき。特ことに舅姑きゅうこの福田に対する挙動の、如何いかに冷ひややかにかつ無残むざんなるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを覚さとりては、針の筵むしろのそれよりも心苦しく、仮たとい一旦いったんの憤いきどおりを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、窃ひそかに帰京せんと謀はかりけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する能あたわざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然廃嫡はいちゃくの事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾先まず帰京して彼の決行果して成就じょうじゅするや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝下しっかに留め、彼は出京して夫婦始めて、愁眉しゅうびを開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履行りこうせん下心なりしに、悲しい哉かな、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病やまいを惹ひき起し、最後に出京せし頃には病既に膏肓こうこうに入りて、ほとんど治じすべからざるに至り、時々じじ狂気じみたる挙動さえ著いちじるしかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平塚ひらつか辺に静養せしむべしと、その用意おさおさ怠おこたりなかりしに、積年の病終ついに医する能あたわず、末子ばっし千秋ちあきの出生しゅっしょうと同時に、人事不省に陥おちいりて終に起たたず、三十六歳を一期いちごとして、そのまま永ながの別れとなりぬ。

第十四 大覚悟


 アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚はなはだしきはなかるべし。妾しょうも一旦いったんは悲痛の余り墨染すみぞめの衣ころもをも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を調ととのうるを名として、別家べっけの際、分与ぶんよしたる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したる体ていに持て做なして、その実は再び本家ほんけの有ゆうとなしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は殊更ことさら遺族の饑餓きがをも顧かえりみず、一列いっさい投げやりの有様なれば、今は子らに対して独ひとり重任を負える身の、自ら世を捨て、呑気のんきの生涯を送るべきに非あらずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の糊口ここうに苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅姑きゅうこを訪といて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、漸ようやく若干の小遣い銭せんを送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は嬰児えいじを哺育ほいくするの外ほか、なお二児の教育の忽ゆるがせになしがたきさえありて、苦悶くもん懊悩おうのうの裡うちに日を送る中うち、神経衰弱にかかりて、臥褥がじょくの日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、妾しょうもしあらずば、如何いかになり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛に酬むくゆるの道も立てと、自ら大いに悔悟かいごして、女々めめしかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決して溺おばれざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫が一週年の忌明きあけを以て、自他相輔あいたすくるの策を講じ、ここに再び活動を開始せり。そは婦女子に実業的の修養をなすの要用ありと確信し、その所思しょしを有志に謀はかりしに、大いに賛同せられければ、即ち亡夫の命日を以て、角筈つのはず女子工芸学校なるものを起し、またこの校の維持を助くべく、日本女子恒産会にほんじょしこうさんかいを起して、特志家の賛助を乞い、貸費生たいひせいの製作品を買い上げもらうことに定めたるなり。恒産会の趣旨は左の如し。


   日本女子恒産会設立趣旨書

恒つねの産さんなければ恒の心なく、貧ひんすれば乱らんすちょう事は人の常情じょうじょうにして、勢いきおい已やむを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれに恒つねの産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本生ほんせいを全まっとうせしめんとするは譬たとえば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達する能あたわざるなり。
今や我が国都鄙とひ到いたる処として庠序しょうじょの設けあらざるはなく、寒村かんそん僻地へきちといえどもなお咿唔いごの声を聴くことを得う、特ことに女子教育の如きも近来長足ちょうそくの進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いに欣よろこぶ所なり。されど現時げんじ一般女学校の有様を見るに、その学科は徒いたずらに高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を旨むねとし以て奢侈しゃし贅沢ぜいたくの用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て権門勢家けんもんせいかの令閨れいけいとなる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を出いだすに足らず。これ実に昭代しょうだいの一欠事いつけつじにして、しかして妾らの窃ひそかに憂慮措おく能あたわざる所以ゆえんなり。それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、能よくその所天おっとを援たすけて後顧こうこの憂うれいなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その所天おっとに訣わかるることあるも、独立の生計を営みて、毅然きぜんその操節を清きようするもの、その平生へいぜい涵養かんよう停蓄ていちくする所の智識と精神とに因よるべきは勿論もちろんなれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ飢寒きかん困窮こんきゅうのその身を襲おそうなく、艱難辛苦かんなんしんくのその心を痛むるなく、泰然たいぜんとしてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みを嘱しょくすべきものは絹手巾きぬはんけちの刺繍ししゅうこれなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万打ダースその原価ほとんど三百余万円に上のぼり我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにその後のちの趨勢すうせいは頓とみに一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高益〻ますます減退するの悲況を呈するに至れり。これ固もと種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の不斉一ふせいいつなると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというも可かなり、鑑かんがみざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的大仕掛おおじかけの製造盛んに行われ、低廉ていれんなる価格を以て、能よく人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千篇一律せんぺんいちりつ風致ふうちなく神韻しんいんを欠くを以て、単ひとえに実用に供するに止とどまり、美術品として愛翫あいがん措おく能あたわざらしむる事なし。しかるに経済社会の進捗しんちょくし富財ふざいの饒多じょうたとなるに従って、昨日の贅沢品ぜいたくひんも今日こんにちは実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い手工しゅこうの妙技を逞たくましうせる天真爛漫てんしんらんまんたるものに外ほかならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工細技さいぎに天稟てんりんの妙を有する我が国女工を以てす、あたかも竜りょうに翼つばさを添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下如何いかんぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の斉一せいいつを計り、かつ姑息こそくの利を貪むさぼらずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり曩日さきに女子工芸学校を創立して妙齢の女子を貧窶ひんるの中うちに救い、これに授さずくるに生計の方法を以てし、恒つねの産さんを得て恒の心あらしめ、小にしては一身いっしんの謀はかりごとをなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややその緒ちょに就つけり。
乃すなわちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才拙せつなり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の衷情ちゅうじょう禁ぜんとして禁ずる能あたわざるものあればなり。希こいねがわくは世の兄弟姉妹よ、血あり涙なんだあらば、来りてこれを賛助せられん事を。  明治三十四年十一月三日

設立者謹述きんじゅつ

 この事業はいまだ半途はんとにして如何いかになり行くべきや、常なき人の世のことは予あらかじめいいがたし、ただこの趣意を貫つらぬかんこそ、妾わらわが将来の務めなれ。

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 三十余年の半生涯、顧みればただ夢の如きかな。アア妾は今覚さめたるか、覚めてまた新しき夢に入るか、妾はこの世を棄てん乎か、この世妾を棄つる乎。進まん乎、妾に資と才とあらず。退しりぞかん乎、襲おそうて寒かんと饑きとは来らん。生死しょうしの岸頭がんとうに立って人の執とるべき道はただ一いつ、誠を尽して天命を待つのみ。



青空文庫より引用